つれづれに:旧暦のこと(2023年4月23日)
つれづれに:旧暦のこと
この前、「薊」(↓)を摘んで来て壺に投げ入れた。茎が空洞になっているので、水の減り方が早い。採る時もそうだが、生けるときも、あちこち棘(とげ)にやられて大変である。野に咲いているのに、摘んで持って帰る方がよくない。それでも、毎回持って帰ってくる。この浅ましさ、である。
去年の10月に体調を崩し、年明けに生体組織検査もやって以来、どうも普段の調子に戻れないでいる。3月も終わり、4月に入って‥‥と思っているうちに、もう半ばを過ぎている。
その間も何とか小説だけは細々と書き続けていたが、4作目もやっと3分の2が終わったくらいである。最近の募集は30×40をA4に印刷して提出するのが多い。ウェブでの投稿が増えているようだ。A4に1200字だから昔風に言えば、1枚で400字詰め原稿用紙に3枚である。今回は130~140枚、原稿用紙400枚前後になりそうである。
一つの山を越えても、また次の山で、その都度滞っては時が熟すのを待って進む糸口が見つかり、また少しだけ進み始める、その繰り返しである。果てしなく続く。しかし、本来そういうものかも知れない。ただ、ラ・グーマのように、一つの作品が頭の中に出来上がると、あとはタイプライターに打つだけという人もいるようだから、人まちまちなんだろうと思う。しかし、その人たちのことを考えると、いつも「凡才やなあ」とは思うが、「そうなんやからしゃーない」と諦めることにしている。
少し前は、一つの山の最後に旧暦の話を挟もうとしてぐずぐずしていた。
「畑作業をしていると、旧暦が身近になった。24節気に使われる漢字に魅かれているからかも知れない」
絹鞘豌豆(きぬさやえんどう)
そんな話を挟むのに言葉を探していたのである。そのために旧暦について調べることになった。もちろん、ブログにもよく書いていたので少しは調べてはいたが、今回はそれよりは詳しく、という感じだった。
今まで何気なく旧暦という言葉を使っていたが、その旧暦が終わって新暦に変わったのが明治6年、黒船に脅されて渋々開国したころの話である。改暦まで使われていた天保歴(てんぽうれき)が一般に言われている旧暦だそうである。それまでは、中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦が作られて、その暦法が平安時代から800年以上も使われていたと言う。江戸時代には天文学の知識が高まって4回も改暦が行われたらしい。その最後が天保歴というわけである。
月の満ち欠けを基にしていた暦が太陽の動きを基に作られた暦に変わったわけだから、国内は当然混乱したらしい。しかし、黒船(↓)に脅されて渋々開国した明治維新政府の西洋に追い付け、追い越せの政策の一環で、改暦も激変の一つとして人々も受け入れざるを得なかっただろう。名前も太陽暦(グレゴリオ暦)と呼ばれる。
旧暦では1年を4つの季節に分け、それぞれを6つに分けて名前をつけた。それが24節気である。1節気は15日~16日で、春の最初の節気立春が1年の始まりだった。旧暦のひと月は29日半くらいで、1年では今より11日ほど短かく、ずれが大きくなると、閏(うるう)月というのを入れて修正していたらしい。実際には季節とのずれに不満を持つ人も多かったらしいし、旧暦よりも合理的で、欧米と足並みを揃えられるしという理由もあって、次第に定着して行ったようである。
旧暦は元々農業が基本の社会の暦である。開国後は国をあげて産業社会に走り出したので、社会との相性もよかったのかも知れない。畑作業をしているときに旧暦を身近に感じるのは、産業化が進み農業が基本の社会を忘れかけている自分の感覚をほんの少し取り戻すからかもしれない。
そんなことを書いた。
カレンダーはすでに4月(↓)。
散歩をしていると、あちこちにみかんの花(↓)の甘酸っぱい香りが漂って来る。今年もそんな季節になった。