つれづれに:オーバーワーク(2024年6月18日)

2024年6月19日つれづれに

つれづれに:オーバーワーク

 今回腸腰筋を痛めてひと月ほど動けなくなったが、過信する私に対して警告してくれた体のSOSである。体の衰えとオーバーワークが主な原因である。今年75歳になるので、70代半ばのオーバーワークと言うところか?20代半ばと50代半ばにも同じような経験をしているので、それぞれ大きな節目だった気がする。この先どこまで続くのかはわからないが、3回の体のSOSを精査してみるのも悪くない、いい加減に観念せえよなと、書いているとそんな気になってきた。

65歳で定年退職したあと、まだ宮崎にいた。退職前に同僚から千葉に新設予定の看護大の専任の話があったからである。ただ、文科省の認可が下りるのが一年先ということだった。医学英語と教養科目を生かせるところがどこかにあれば一番よかったが、行く行くは吉祥寺の娘の近くに住むつもりだったし、看護の英語も継続できるというところで折り合いをつけていた。

医学用語テキスト

 1年は宮崎にいると聞いた学部長から、裁量経費を200万出すので手伝って欲しいと言われた。総務が経費から担当する授業のコマ数を計算したら、かなり多かった。名誉教授の非常勤の単価が通常の3分の2程度だったからである。同じ時期に異動した仲の良かった同僚は親しい同僚から非常勤の単価が安いと教えてもらって名誉教授の申請をしなかったらしい。10年いれば申請可能らしかった。私の場合は、親しかった総務の人が気を回して先に書類を持ってきてくれたので、断れずに申請書に記入した。非常勤の講師料のことは知らなかった。終身、メールアドレスと図書館を利用できますということだった。本学の図書館(↓)に聞いて見ると、私費でなら資料は取り寄せられますと言われた。見せると疑われそうなぞんざいな身分証明書をもらったが、使ったことはない。医学科の人事は前の人が退職してから決めるので、一年はブランクがある。医学用語にすぐに対処して担当できる人を探すのも難しいし、ちょうどよかったのだろう。結局、医学科と看護学科の授業はそのままで、3年生の海外での研究室配属の面接と、病院看護部と事務職員向けの実践講座を持った。医学科の海外実習に向けての英語講座を学部から頼まれたとき、看護学科と病院看護師と事務職員用の講座も同時に進める必要性を感じて、事務長に直接談判して予算をつけていた。その講座をまた持つことになるとは思ってもいなかったが。後期からは、その年から始まったカリキュラムの改悪の症状が出て、前期で学士力発展科目を履修出来ない1年生のために退職前にやっていた教養科目を非常勤で持つようにたのまれた。300人ほどの学生があぶれていた。教養科目は大切だといつも思っているので、2クラスを担当することにした。両方とも200人以上の応募があったが、農学部の大きな部屋が170人ほどだったので、その定員で勘弁してもらった。溢れた学生は、学士力難民と言われていたが、カリキュラムを改変した担当者が教養科目を大切に思っていないための副産物だった。2年次に科目を増やす学部の要請をそのまま受け入れたら、開講科目では捌(さば)き切れないのは目に見えていた。教員の自主性を重んじる全学無責任体制で元から担当希望者が少ないのに、専門以外の教養科目を新たに誰が志願して持つというのか?混乱する事態は予測できるのに、事前に誰も気づかないのは、見ようとしない無関心さが形になって現れただけのことである。

 学士力発展科目は本学のキャンパスで開講されるので、火曜日と木曜日に出かけるようになったとき、農学部(↓)の事務室で顔見知りの教授から「非常勤があって、呆(ぼ)けなくていいですね」と言われた。退職してすることがなくなって呆けるひとが周りに多いので心配してくれたのかも知れないが、定期的に職場に行かなくなっても、結構することは多い。することの内容が変わるだけである。食べることは生きることに直結するので、今までならトーストに珈琲で済ましていた食事が、野菜をたっぷり、胃癖にやさしい粘り気のあるもの、飲む点滴と言われる甘酒、具のたっぷりと入った味噌汁などに変わった。毎回時間をかけて用意している。野菜は専(もっぱ)ら私の担当で、今ならまだ残っているレタス、たくさん生り始めた胡瓜(きゅうり)は庭の畑で賄(まかな)えるし、時々トマトも穫れる。甘酒は米麹(こうじ)を買って、ほぐして炊(た)いた糯(もち)米と混ぜてあとは麹菌にまかせるだけ。しかし、どれも手間と暇がかかる。

 去年植えた苗の株から延びたランナーを植え替えた苺が、口に入る。露地物は味が違うが、虫と競争である。虫も甘くておいしいものは、よく知っている。希釈した酢と焼酎(しょうちゅう)を丹念にかけて虫を追い遣(や)らないと、口には入らない。今年は西瓜(すいか)の苗を8本かって、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↓)の柵(さく)の下に植えた。肥料を丹念に入れる作業は、なかなか手間がかかる。大根の下の方に入れた肥料を掘り起こして、新しく植える胡瓜や茄子(なす)の根元に運ぶのも重労働である。畑が整備された分だけ、身体に跳(は)ね返ってきた。中腰や屈(かが)んでする植え替えの作業などは、腰に来て当然である。

 それに、机に座る時間も長くなった。パソコンを使って書いているので、じっとしている時間も長く、やはり腰には禁物である。「つれづれに」も4月と5月の20日までは毎日更新している。机に座る時間も長く、少し書き溜(た)めたものがあったので、腰が痛くなったあともしばらく更新している。少しばかり筆が走っていたということだろう。1860年を他の国と日本を比較して考えてみたことはあるが、コンゴとエボラの連載を書きながら、自分が生きた1949年から今までと比較して書いて見るのもおもしろいかも、エボラとコンゴ以外に、南アフリカ、エイズの一塊(かたまり)を精査して、自分の生きた時代と比較してみるのもおもしろいかも、と枠組みが頭の中で広がっていった。自然と書く筆も滑らかだった。筆といっても実際はパソコンの画面上だが。気がついてみると、腰に違和感を感じていたというわけである。30分したら、立って歩いてよ、合間にラジオ体操してよと何度も妻が言ってくれていたのに、本当に懲(こ)りないというか、愚かしいというか?ええ加減に観念せえよ、ほんまに。

1995年のCNNニュース