つれづれに:若い力(2024年8月12日)
つれづれに:若い力
第2次大戦でヨーロッパを舞台に殺し合いをしたために、戦後世界の構図が大きく変わっていった。アフリカやアジアについて言えば、それまで武力によって植民地支配を受け続けていたが、宗主国の総体的な力の低下で、それまでもの言わなかった人たちが声を出し始めたのである。宗主国側は全体を相手にするよりは、アフリカ人の支配者層を抱き込める方が植民地経営の上では都合がいいので、南アフリカの場合も、金持ち層の子弟は優遇して、イギリス式の高等教育機関フォートヘア大学を設置してそこに通わせたり、欧米に留学させたりしていた。声をあげたのはその子弟や取り巻きの若者たちだった。欧米の大学で学びながら、自分たちの置かれて来た位置を確かめる機会を与えられていたわけである。
ライトがパリにいる時に書いたバンドン会議報告記
戦争後10年目にアジア・アフリカ諸国がインドネシアのバンドンに集まって会議を開いた。この頃から変革の嵐(The Wind of Change)が世界に吹き始めた。1957年にはゴールドコーストが独立した。イギリスの模範的な植民地だった。アメリカから逃げるようにパリに移り住んでいた作家リチャード・ライトはいち早く独立の胎動を嗅ぎつけてゴールドコーストを訪れ訪問記『ブラック・パワー』(1954)を書いた。そのあと、バンドン会議の報告記『カラー・カーテン』(1956)を出した。
ガーナの初代首相クワメ・エンクルマ(小島けい挿画)
1960年には多くのアフリカ諸国が独立した。戦争後15年が経っていた。第2次大戦で一人勝ちしたアメリカでは、1954年に実質的な奴隷解放宣言とも言える公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決が出た。その後、アーカンソー州のセントラル高校(↓)では州が最高裁の判決に抵抗して、最後は大統領命令まで出して事態の収拾に乗り出した。大学が黒人学生を受け入れるのに最後まで抵抗したのはミシシッピ大学、アラバマ大学だった。アラバマ州のフォーバス知事は最後まで抵抗して反動の象徴として悪名を轟(とどろ)かした。
映画化された「アーカンソー物語」
南アフリカでは、アパルトヘイト政権への抵抗運動が激化して、1955年には4人種による国民会議が開かれた。1960年には抗議する市民に白人警官が無差別に発砲をして、世界中に大きな衝撃を与えた。国連は非難決議を出して経済制裁を始めた。抵抗組織を非合法化して弾圧を強める白人政府に、アフリカ人側は武力闘争を開始して、情勢は緊迫の度を増した。
シャープヴィルの虐殺
1950~60年代は国内外で大きく動いた時期だったが、時代を突き動かしたのは若い力である。南アフリカでも、具体的な行動に出たのは40年代の初め頃である。1910年に南アフリカ連邦が出来るのを察知したアフリカ人側は、抵抗運動の準備を始め、2年後にアフリカ民族会議(Afircan National Congress)を設立している。今の与党である。しかし、ANCがやったことと言えば、壇上から大衆に反対の演説をし、ロンドンに陳情の代表団を派遣しただけだった。非暴力の闘いは聞こえはいいが、わざわざロンドンに陳情に行く神経がわからん、陳情を聞き入れるくらいなら最初から国など創らんやろ、といいたくなる。傍目でもそう思うんだから、ANCの若ものたちが年寄りの戯言(ざれごと)にしびれを切らしたのも頷(うなづ)ける。1943年にANC内に青年同盟(Youth League、↓)を創って、旧態然とした年寄り連中を、お前らどいとけやと蹴散らして、積極行動に出た。
青年同盟のメンバー(『抵抗の世代』から)
アメリカが第2次大戦で一人勝ちしたのは、アメリカ本土が戦場にはならずヨーロッパに軍需物資や生活必需品を送っていたからである。戦争景気にわいて、産業は大きく伸びた。もちろん武器を製造する重工業は飛躍的な伸びを示し、規模も格段に飛躍した。南アフリカの白人政権もいい思いをしている。ヨーロッパに物資を送ったので、国内産業は伸び続け、アフリカ人労働者の需要も高まった。青年同盟が積極行動に出られたのも、アフリカ人労働者の需要が高いという状況を把握していたからである。壇上から演説するのではなく、労働者を結束して職場を放棄してゼネラルストライキ(↓)を打った。それだけ勢いがあったということだろう。
ゼネストを起こした鉱山(『抵抗の世代』から)
闘争でストライキなどの積極行動を率いたのはネルソン・マンデラやオリバー・タンボやゴバン・ムベキ(↓)などのフォートヘア組である。白人側が優秀なアフリカ人を味方につけるべくフォートヘアに入れて教育して来たアフリカ人たちである。オリバー・タンボは非合法化されてルサカに本部を置かざるを得なかったANCの議長を長年担った人である。1987年に日本にも来ている。ゴバン・ムベキはリボニアの裁判でマンデラとともに被告席に立った人で、理路整然とした答弁に一介の農民がどうしてと話題になった。一介の農民は欧米によくある偏見で、超大物で、超優秀なインテリだったのである。のちの大統領、ゴバン・ムベキの父親である。
そういった大物が先導して、大多数のアフリカ人労働者をまとめて闘ったが、アメリカ、イギリス、日本などの同盟国にまもられた白人政権の砦は頑健だった。抵抗組織は非合法化され、指導者は殺されるか、投獄されるか、亡命を余儀なくされた。非暴力を捨てて、武力闘争を開始したが、マンデラ(↓)などは白人政府の法律で合法的に終身刑を言い渡されて、ロベン島に送られた。1964年のことである。1990年2月11日に、同じ法律で無条件で釈放されるまで、アパルトヘイト政権はマンデラを獄中に閉じ込めた。時代が少しずれていたら、事態も変わっていたかも知れない。1955年には第2次大戦から10年が経過し、64年には20年近くが経とうとしていた。大戦で疲弊したヨーロッパや日本が復興を果たし、巻き返しを始めていたのである。南アフリカは指導者を失い暗黒時代に、日本はオリンピックも誘致し、新幹線も走り、高度経済成長の時代に入って行く。