つれづれに:トランプ1(2026年1月29日)

つれづれに

つれづれに:トランプ1

遊ぶトランプの話である。リモートで毎月集まっている時のテーマがアフリカ系アメリカの歴史だし、その関連で前の4回は(→「ソウル」「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)を書いた。その流れで大統領トランプについて書こうと思ったが、その前に、遊ぶトランプについて書いてみるかと考えただけである。ただ、小説の修作で「つれづれに」を書き始めてみると、どうしても過去の検証とやらも必要になって、同じようなことを何度も書いているので、二番煎じになるとは思うが。

前世紀の終わり頃に宮崎医科大学(↑)の職にありついて、医学生に英語の授業を始めた。自分自身は授業にも出ないで単位をもらった口なので、そのお返しにという気持ちもあって、落とさないことに決めていた。しかし、1年だけ落としたことがある。その時に女子学生が出した課題の一つのタイトルが「トランプの遊び方」だった。

最初に赴任した年は、同僚の次年度の在外研究の期間にその人の分の授業をする関連もあって、普段の1年生に加えて2年生の授業も担当した。留年する学生も多かったが、英語で落とす人はいなかったので、毎年新入生の100人を4つに割って1クラス25人で授業をやっていた。1コマが100分で、通年30回の授業だった。その時の2年生2人がよく研究室に来た。授業が終わってからも卒業まで、定期的に研究室に顔を出し、家にも来るようになっていた。その2人とは、その後も遣り取りが続いている。片方は家族の写真入りの年賀状や自筆の手紙をくれる。ものも送られてくる。もう片方は印刷した年賀状を送ってくるだけだったが、今年は珍しく、手紙が来た。その人は研究室に来ると必ず「たまさん、落とさないと駄目ですよ。奴ら、わかっててやってるんですから。舐められますよ」と言っていた。

所属は医学科一般教育英語科、担当は英語学科目で、それが正式名称だった。ずっと、中高での試験のための英語が嫌だったから、一般教養の英語は僕には都合がよかった。自分で何をするかを決められたからである。英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては他の人の教科書を使い、一時間ほどで成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽だが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の研究者や医者が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていた。

 映像を使う人があまりいなかったからだろう。プロジェクターの画質が今ほどよくなかったので、分厚い暗幕が必要だった。きっちり黒いカーテンを引いて、真っ暗な中で映像を観てもらった。普段は長い映画などを見る時以外は、大きな画面のテレビを台車に載せて、毎回教室に運んだ。25人授業だったので、学生との距離も近くて学生の顔も見やすかった。テレビを録画したテープやビデオショップで借りて来たテープを編集した。当時は台数が多くなかったので、編集用のビデオデッキは20万円以上もした。まだベータ(↑)があった時代で、私はVHS(↓)と半々で使っていたので、どちらのビデオデッキも必要だった。大学の豊かな時間の中で教養科目の英語の時間が、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観を再認識するための機会になればと願っていた。2年間非常勤で行った大阪の私大では授業そのものが成り立たなかったので「授業が出来る!」だけで十分あった。もちろん、授業を始めた時は、である。しかし、やり始めてみると実際は、1年目からいろいろあった。

 ある日、1年生の授業に行ってみると、やけに来ている人が少なかった。「どうしたんやろ?」と来ている人に聞いてみたが「どうなんでしょうね?」と言われた。そんなことが続いて「大丈夫やろか?」と思ったとき、何だか既卒組の2人に学年全体が顔色をうかがっている気配がした。2人は自己紹介に京大卒と東大院卒と書いてあった気がする。僕は短気なので、推論で京大院卒の人を部屋に呼んで「奨学金停めたろか?」と一言だけ言った。関西弁、特に播州弁は充分にきつい。そのあと落とせと説き続けてくれた人に事情を話したら「2人で仕切ってるみたいですね。既卒者が仕切りたがる学年はうまく行ってないです。東大院卒の方は学部からではないそうですから、劣等感の裏返しじゃないですか?」と涼しそうな顔をして言っていた。何年かして「医学生嫌やな」と感じ始めた思いは、この時の既卒組の幼稚さとは別物のようだった。

落とすように説いてくれたとき、僕は「まあな。授業に出ずに単位を取った方やし、自分が出来んかったことを学生に強要すんのも気が引けるし。それで出席も取らへんし、誰もよう落とせんのやけど。それに今の周りの教員も酷いのが多いやろ?何人かの箍の外れた馬鹿教師の噂もしょっちゅう聞かされるし。この前部屋で面接したら、10人が10人とも『入る前にこんな酷いと知ってたら受験しなかったのに‥‥』と言ってたで。異常やろ?そんな状況で、僕まで落とせるか?」と答えていた。

しかし、相手が落とさないと見ると、医学生は相手に容赦しなかった。「この頃、顔見ぃひんなあ」、「そんなに顔見せんで、大丈夫か?」とやんわり言っても、言うことそのものに意味がなかったらしい。提出物も出さないで単位が出るとわかると、出さないのである。「出さんでええんか?」と聞いても、大丈夫と踏むんだろう。何年かそんな状態が続いたが、落とせずに、最後の日に目をつぶって60を記入した。

1度落としたのは、「医学生、嫌やなあ」という思いがだんだん強くなったころである。

「これはなんぼなんでもあかんやろ」

そう感じて、基準を決めて落としたら、5人になった。そのうち4人は他の教科でも4つか5つ落としていたから、僕の教科が1つ加わっただけだったが、あと一人は僕の教科だけだった。しかし、3教科までは大丈夫だったので進級し、その次の年に何もなかったかのように平気な顔で課題を出した。僕も何も言わずに単位を出した。授業中ずっと、前の学生を壁にして隠れたつもりで毎時間漫画を読んでいたことを注意すべきだったのか?「トランプの遊び方」などの人を馬鹿にした内容の課題が「評価の対象外」だったことをその女子学生に言うべきだったのか?

しかし、現実にはその前の年まで歯止めのなかった勢いが急変した。課題は期日に全員が出すし、きっちりと計算して欠席はするし。しかし、互いの信頼は微塵もないので、1年でやめた。医師になるためには教養は要らない、英語は必要なら自分で出来ると考える水平方向と、素養を培う大切な空間で自分について考える機会に欲しいと願う鉛直方向が、永遠に交わることはなかったのである。

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