アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①
概要
1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord) の作品論の前編です。
1962年から1963年にかけて書かれた本書は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていた作品です。
本稿では、作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸にして当時の社会的状況とラ・グーマの身辺についてを論じています。
本文
鉄格子の中から
ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord) は、1964年、東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。
「何か」を提供して欲しいという同社の要請に応えたもので、出版できるかどうかさえわからなかった第1作とは異なり、ラ・グーマは今回、はっきりと出版を念頭に置いて本書を書いたことになる。
ラ・グーマが本書を書いたのは1962年から1963年にかけてである。執筆の一部や出版の折衝、契約などもローランドストリートのケープタウン刑務所内で行なわれているので、『三根の縄』は文字通り鉄格子の中から世に送り出された作品と言えるだろう。
1963年7月にラ・グーマは逮捕された。5年間の自宅拘禁を言い渡されて12月に釈放されるまでの5か月間、ケープタウン刑務所内の独房と雑居房に監禁され続けている。
伝記的な部分 (本誌9号) で既に触れたところもあるが、ここではリボニアの裁判と「ニュー・エイジ」を軸にして当時の社会的状況とラ・グーマの身辺をもう少し詳しく見ておきたいと思う。
リボニアの裁判・・・・・・1963年のラ・グーマの逮捕は、他155名と共に反逆罪に問われた1956年、フルウールト首相暗殺未遂事件後の1960年、共和国宣言反対のゼネストを指揮した1961年に次いで4度目であるが、今回は抗議のビラ作りをしてANC (アフリカ民族会議) の地下活動を助けた、というのが逮捕の理由だった。
1960年のシャープヴィルやランガの虐殺事件を境に、ANCは非暴力から武力による闘争へ政策の転換を余儀なくされていた。
1961年11月、ネルソン・マンデラなどのANC指導者によって地下武力抵抗組織ウムコント・ウェ・シズウェ (ズールー、コサ、スワジィから成る南西部バンツー人の言葉ングニ語で “民族の槍" の意) が創設され、12月には既に破壊活動が開始されていた。
1961年5月の共和国宣君に反対する在宅ストの指揮以来地下に潜入していたマンデラは、1962年1月に密出国を果たし、エチオピアでの会議に出席するほか、これからのゲリラ活動の準備や資金調達などのためにアフリカ各地を回ったのち、7月に密かに帰国した。
“民族の槍" が破壊活動を開始するや政府は直ちに一般法修正令を立案し、翌1962年6月に同法案を成立させて弾圧に乗り出した。
一般法修正令は俗に、破壊活動法 (サボタージュ・アクト) と呼ばれ、実質的にはそれまでの原住民法、共産主義弾圧法、非合法団体法などの諸法律をまとめて改悪したものである。その「破壊活動」の規定は、一般市民さえ容易に巻き込むほど広汎なうえ、起訴されて無罪が確定した後も同罪で繰り返し起訴できたり、18歳未満でも処刑し得るなど、通常では考えられないほど厳しいもので、それはまさに地下抵抗組織に対する白人側からの高圧的な挑戦状であった。
裏を返せば、破壊活動がそれほど白人政権に脅威を与えていた、ということになろう。
ラ・グーマが一切の言論、出版活動を禁じられて「ニュー・エイジ」の記者活動を断念せざるを得なかったのもこの法律による。
1962年6月の半ば、同法案が成立した直後のことである。
1962年8月5日、マンデラは逮捕された。マンデラ釈放委員会が組織され、抗議運動が展開されるなか、10月から11月にかけてプレトリアで裁判が実施された。
1952年以来、同僚のオリバー・タンボと弁議士事務所を開設していたマンデラは、弁護士の資格を利用して自らの弁護席に立った。
マンデラは、アフリカ人の基本的人権を否定する白人による裁判そのものが法の基本的精神に反して不当であり、白人だけの議会で決定された法律に従うべき義務は自分にないことを述べ、どのような判決が下されても、刑期が終了すれば再び、不正がなくなるまで闘い抜く決意を表明した。そして、自分はあくまで無罪であり、フルウールト政府のメンバーこそがこの被告席に立つべきだった、と述べて自らの弁護を終えた、
白人政府は、マンデラと “民族の槍" の関係を裁判で立証し得ず、結局、非合法の在宅ストを扇動した罪で禁固3年、密出国の罪で禁固2年、計禁固5年の判決を言い渡して、ケープタウン沖のロベン島にマンデラを送りこんだ。
破壊活動法を強行しても、マンデラを逮捕・拘禁しても、政府は解放運動の火を鎮めることができなかった。それどころか、マンデラヘの判決に抗議するかのように、11月以降破壊活動は激化の一途を辿った。
不穏な状況の続くなか、政府は一般法修正令を更に改悪した一般法再修正令を議会に提出し、1963年5月初めにはその新案を成立させた。新法では、受刑中の政治犯を刑期終了後も無期限に拘禁できるばかりか、共産主義弾圧法、破壊活動法などに触れる容疑者だけでなくその情報に少しでも係わりがあると思える個人なら誰でも逮捕状も裁判もなしに逮捕・拘禁できるという途方もない絶対権力を警察幹部に与えている。
名目上一応、1期を90日と規定しているところから「90日間無裁判拘禁法」と呼ばれ、被拘禁者は非道な独房拘禁で精神的に苦しめられたうえ、しばしば拷問にかけられて肉体的苦痛をも強いられた。
史上最悪の法律と激しく非難されても、少数派白人の体制を死守するために政府が敢えてその法律を発効させたのは、それほどまでに事態がさし迫っていたということである。
一般法再修正令が施行された2か月後の7月12日に、ヨハネスブルグ近郊のリボニアで “民族の槍" の最高司令部が急襲され、ウォルター・シィスルをはじめとする指導者たちが一斉に逮捕された。
逮捕の日から88日後の10月9日、追訴されたマンデラを含む11名の裁判、リボニアの裁判が開始された。
裁判は11か月余りに及んだが、被告全員が独房拘禁と訊問により憔悴しきっているという理由で、裁判が初日から延期されるという波瀾含みの幕開けとなった。被告側の陳述が開始されたのは翌年の4月20日からで、先ずマンデラが被告席に立った。証人席に立つのを拒み、不利を承知で被告席に立ったマンデラは、少年時代に故郷のトランスカイで長老たちから聞かされた古きよき時代の話を懐古したり、ANCの前身南アフリカ原住民民族会議以来の歴史を振り返りながら、ANCがこれまで如何に闘ってきたかを語った。更に、南アフリカの人々が強いられている惨状を冷静に分析しながら、なぜ武力による闘争を選ばなければならなかったのかを、とうとうと述べた。そして、5時間に渡る感動的な陳述を次の一節で締め括った。
今まで述べてきたように、私はこれまでの人生すべてをアフリカの人々の闘いに捧げてきました。私は白人支配とずっと闘ってきました。そして黒人支配とも闘ってきました。すべての人々が協調して、平等に機会を与えられて共存する民主的で自由な社会を私は理想としてきました。それは私がそのために生き、成し遂げたいと願う理想です。しかしながら、もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています。
続いて証人席に立ったシィスル、アーメド・カトラダ、ゴバン・ムベキなども堂々とした陳述を行ない、「死ぬ覚悟ができています」というマンデラの決意が被告たちの心情をも代弁していることを裏づけた。
6月11日、被告のうちマンデラを含む8人に有罪宣告が出された。その夜被告たちと弁護団の協議が行なわれた時、マンデラは、死刑が宣告されても控訴せず、自分の死が闘っている人々を励ますことを願う、という声明を発表したい、と言った。そして、シィスルもムベキもマンデラのその主張に同意した。
6月12日、8名に終身刑が言い渡され、7人が直ちにロベン島に送られた。
それから4半世紀、昨年の11月にムベキは釈放されたが、マンデラは依然獄中にいる。この7月18日、マンデラは獄中で70歳の誕生日を迎えた。 8月に入って肺の具合が悪化、ケープタウンの病院に収容された、と日本でも報じられている。また、11月に英国の某新聞が、マンデラ紛争の包括和平のジュネーブ合意には、マンデラの5か月以内の釈放という条件もついていると伝えた、と報じられた。
ブライアン・バンティングは『三根の縄』のまえがきで、南アフリカの独房拘禁が1日23時間半に及ぶ空恐ろしいものであることを紹介している。その精神的苦痛は常人の想像を越える。南アフリカ共産党とANCの要員だったルス・ファースト女史 (日本でも公開されたイギリス映画「ワールド・アパート」のモデルで、1982年8月に手紙爆弾で殺されている) でさえ、1962年に拘禁され2回目の90日拘禁に入った時、ハンスト抗議のあと睡眠薬自殺を図った。その上、拘禁者には厳しい訊問と拷問の肉体的苦痛がある。
既に触れたように、リボニアの法廷に現われたマンデラは、88日間の独房拘禁と訊問で憔悴しきっていた。法廷で、同じ被告としてマンデラと再会したジェイムズ・カントーが、その変わり様にショックを受けた、と記しているほどである。
にもかかわらず、11か月余りの裁判の間じゅう、マンデラは終始朗らかに振舞い、他の被告たちを励まし続けただけでなく、最終判決の出る直前に、ロンドン大学に提出する学位論文を仕上げている。
1985年1月末、ボタ大統領が、武力闘争を放棄するなら釈放に応じる、と国会で声明を出したとき、マンデラはその条件つきの提案を拒んだ。そのメッセージは、10日後のソウェト大集会で次女ジンジーの口から5000人の聴衆に直接伝えられた。
マンデラのそのような孤高な足跡を辿りながら、私は「遠い夜明け」のドナルド・ウッズ役ケビン・クラインの短い眩きを思い出していた.
“・・・But・・・・Steve・・・Steve died for nothing・・・・・・"
亡命を決意したウッズが、砂浜に座りながら、しんみりと妻に語りかける言葉である。亡命に猛反対する妻は、あなたは自分を神様だと思ってるのッと詰ったが、結局は夫の思いに抗しきれなかった。
一生を棒に振っても、理想のために孤高に生きた若き友の死を犬死に終らせてはならない、そんなウッズの魂の叫びが、その短い言葉に集約されている。
もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています、というマンデラの言葉も又、まさしくマンデラの人間としての魂の叫びに他ならなかった。
それにしても、と思うのである。
こんな気高い人たちを劣等視し、人間として扱わない白人政権とは一体何か。そして、その白人政権を陰で支え、豊かな富をよってたかって食いものにしながら繁栄する “先進国" の近代文明とは一体何か。
私たちは、ネルソン・マンデラのように、或いはスティーヴ・ビコのように、理想のために、何の報いも求めず、一生を棒に振ることができるか。
「ニュー・エイジ」・・・・・・8月上旬のラ・グーマ/ヘッド記念大会の前に、私はニューヨーク公立図書館ハーレム分館のションバーグセンターを訪れた。「ニュー・エイジ」のマイクロフィルムを見るためである。イギリスに現物があるのは知っていたが、マイクロフィルムがションバーグにあるのがわかって、今回もアメリカ回りでカナダ入りすることにした。
回り道はしてみるものである。途中立ち寄ったUCLA (カリフォルニア大学ロサンゼルス校) で、1959年から1962年の現物を見ることができた。アフリカ関係のこの種の資料を日本で手に入れるのは難しいので、私にはうれしかった。しかも、その現物の包みを、パスポートの提示だけで部屋の外に持ち出し、3年分余りのゼロックスコピーと写真を撮ることが出来たのだから尚更だった。日本ならとてもこうはいかない。
一部ずつ丁寧に見ながらコピーをしていると、新聞と新聞の間からポロリと落ちるものがあった。宛名書きの黄ばんだ紙の帯である。南アフリカの切手が貼られ、ケープタウンの消印が見える。当時、南アフリカから直接郵送されたものだ。
1959年から1962年と言えば、シャープヴィルの虐殺や共和国宣言などで、国内外とも大幅に揺れていた頃だ。白人政権への世界の非難の声が高まり、各国の経済制裁が始まりかけていた。日本政府は、火事場泥棒のように、南アフリカとの貿易を再開し、再び名誉白人の称号を受ける恥を晒していた。
そのころ、南半球南端のケープタウンの小さな新聞社から、北半球カリフォルニアの大学図書館に、毎週「ニュー・エイジ」が送り届けられていた・・・・・・しかも、その紙面には、ラ・グーマの写真入りのコラム欄が掲載されていた。そんな歴史のひと齣を、人知れず垣間見た気がして、妙にうれしかった。
「ニュー・エイジ」は、反政府の路線を貰いた「ガーディアン」「アドヴァンス」の流れをくむケープタウン発行の週刊新聞である。「ガーディアン」は37年2月19日に創刊されている。「ニュー・エイジ」は1954年10月に創刊されたが、1962年11月には廃刊と、その命は短かった。
「ニュー・エイジ」にラ・グーマが書いた記事やコラム欄は、質量ともにラ・グーマを理解する上で欠かせないものなので、詳しくは稿を改めることにして、ここでは本書『三根の縄』と他の創作活動や政治活動との係わりの中で少し紹介できたらと思う。
1955年、ラ・グーマは白人以外の購読者層の開拓を望んでいた「ニュー・エイジ」に記者として採用された。SACPO (南アフリカカラード人民会議) 議長としての人望と「ガーディアン」での文才が評価されたからである。
「『ニュー・エイジ』が仕事をしないかと言って来たとき、あれが本当に私が真剣になって書き始めた時です。たぶん必然的に、私は座り込んで、短篇を書いたんだと思います」 とラ・グーマが回想したように、結果的には「ニュー・エイジ」がラ・グーマの作家としての事実上の出発点となった。
1956年12月、反逆罪の名目で逮捕されて以来1960年の初めまでラ・グーマは一切の政治参加を禁じられた。実際には1957年4月にCPC(カラード人民会議、もとSACPO) の全国委員に選出されるなど、陰で活動を続けてはいたが、一応「ニュー・エイジ」が唯一の公の活動の場であった。
ラ・グーマが「わが街の奥で」を担当したのは、1957年から19622年にかけての5年間余りである。一部抜けているところもあるが、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校)とションバーグセンターで調べた範囲では、コラム欄が200以上に及ぶ。(一覧参照)
コラム担当者がコラムを書くのは当り前だが、当時のラ・グーマの状況を考えれば、5年間殆んど休まずに書き続ける努力が如何に大変であったかがわかる。
1956年末に逮捕された時はすぐに釈放されたものの、実質的に1960年初めまで続いた裁判の期間中、ラ・グーマはヨハネスブルグに何度も足を運び、法廷の情報をケープタウンに持ち帰っている。
裁判なしに7か月間拘禁された1960年から、10日間の拘禁を受けた1961年の間でさえ、休んだのは僅か10数回で、70に近いコラムを寄せている。
逮捕、拘禁、政治参加の禁止ばかりではない、その間、ラ・グーマは経済面でも相当苦しい状態にあった。
裁判の期間中、投稿回数も自ずと減少し、その分給料も減っている。1956年には長男、1959年には次男も生まれており、経済的にはいつもぎりぎりで「家に食べ物が何もない日が何日もありました」と述懐するブランシ夫人が幼い子供を母親に預けて病院に働きに出ざるを得なかった。
精神的重圧もあった。1958年5月には、書斎で仕事中に銃で命を狙われている。幸い九死に一生を得たが、不安は終始つきまとった。
1961年には父を亡くしている。よき理解者であっただけにその精神的痛手も大きかった。
そのような中でのコラムの執筆である。又、1960年までに「練習曲」など5つの短篇と『夜の彷徨』を書き上げた。
1962年6月21日の「わが街の奥で」がラ・グーマの最終コラムとなった。翌週28日の第6面のコラム欄にはPROHIBITED (禁止さる) の斜めの太字が印刷された。「アレックス・ラ・グーマは集会参加を禁じられているので、残念だが一般法修正令により、本紙がラ・グーマのいかなる著作をも掲載するのはもはや許されなくなった」との説明書きが添えられている。
『我が街の奥で』の記事の数
[1957年5月7日(木)から1962年6月21日(木)まで]
年度 掲載 未確認 未掲載 合計
1957 31 2 - 33
1958 52 - - 52
1959 39 7 6 52
1960 29 - 2 31
1961 39 2 11 52
1962 25 - - 25
合計 215 11 19 245
政府が “民族の槍" の破壊活動鎮圧のために一般法修正令を急遽成立させた直後のことで、ラ・グーマにも直ちに魔の手が伸びてきたわけである。
8月9日の「ニュー・エイジ」には「ラ・グーマの処女作『夜の彷徨』破壊活動法により発禁」の大見出しと大きなラ・グーマの若き日の写真が見える。
1963年、今度は一般法再修正令、いわゆる90日間無裁判拘禁法の餌食となった。破壊活動法、マンデラの逮捕でも破壊活動の火を消せなかった政府は、ラ・グーマにも、ANC地下活動幣助の罪を着せて5か月間の拘禁を強行したのである。今回は妻ブランシも捕えられた。
破壊活動の激化へ募る政府の苛立ちが、拘禁者に容赦なく向けられた。ラ・グーマの刑務所での様子をバンティングは本書のまえがきの中で次のように描く。
刑務所でラ・グーマは独房拘禁の状態におかれた。1日23時間半独房に入れられ、残りの半時間だけを運動と自分自身のために使うことが許された。
他の拘禁者の場合と同じように、ラ・グーマは訪問者も読み書きも禁止され、弁護士に相談することも拒まれるという最も忌まわしい形の精神的拷問を受けなければならなかった。また、警察が満足するまで訊問され続ける可能性があった。
ラ・グーマは5か月間拘禁されたのち、マンデラが終身刑を言い渡される前年の1963年中に、24時間の自宅拘禁を命じられて、人々から全く隔離された状態におかれた。
『三根の縄』が書かれたのはこの頃である。
死を覚悟してマンデラが法廷で一国を相手に人間としての孤高な闘いを展開しているとき、一切の政治活動を禁じられたラ・グーマも又、拘禁、拷問を受けながら、全く違った局面で、マンデラに勝るとも劣らない孤高な、人間としての闘いを繰り広げていたのである。
そして、『三根の縄』が生まれた。 <続>
(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)
執筆年
1990年
収録・公開
(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20ペイジ