アングロ・サクソン侵略の系譜27:A Walk in the Night

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信30(2021/5/20)

 

アングロ・サクソン侵略の系譜27:A Walk in the Night

概要

A Walk in the Nightは前回書いた『夜の彷徨』の註釈書です。→「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)

門土社の關功さんから薦められて大学のテキスト用に出版してもらったものです。実際の出版は予想以上に大変で、アフリカ関係で利益が出ることはほぼないようです。印刷して下さった本は旧宮崎医科大学医学科の一年生と旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして学生に買ってもらい、何とか在庫はなくなりましたが。その後も本を出してもらいましたが、同じように学生に買ってもらいました。ほんとうに、なかなか厳しかったです。

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。

本文

A Walk in the Night はラ・グーマの最初の作品でナイジェリアで出版されましたが、アメリカやイギリスでも簡単に手に入りました。すでに門土社から大学用のテキスト 版は出ていましたので、改訂版をということらしかったです。本文はイギリスのHeinemann Educational Books版のA Walk in the Night and Other Storiesから取ったようでした。イギリス英語で註をつけるのは結構大変でした。南アフリカの現役作家ミリアム・トラーディさんを宮崎にお招きしたときに知り合ったコンスタンス日高さんにいろいろ聞きました。ケープタウンにも住んだことがあるらしく、辞書ではわからないニュアンスも聞けました。

ナイジェリア版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫 )

ラ・グーマは最初の物語A Walk in the Nightの舞台に自分が生まれ育ったケープタウンの第6区を取り上げました。1966年に強制的に立ち退きを迫られて、住んでいたおよそ5万人の人たちとともに消えてしまいました。(1988年11月28日の「タイム」誌の記事に、当時空き地のままに放置されていた第6区の様子が写真入りで紹介されています。)

「タイム」誌の記事から;第6区の今と昔

同じ年、ラ・グーマは家族を連れて南アフリカを離れ、ロンドンに亡命しました。

2回の世界大戦で西洋社会の総体的な力が低下したとき、1955年のバンドン会議を皮切りにそれまで虐げられ続けて来た人たち立ち上がり、本来の権利を求めて闘い始めました。アフリカ大陸には変革の嵐(The wind of change)が吹き荒れ、南アフリカでもアパルトヘイト体制に全人種が力を合わせて敢然と挑みかかりました。ラ・グーマも200万人のカラード人民機構の指導者として、同時に作家として戦っていました。

『夜の彷徨』はそんな闘いの中で生まれた作品です。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中で執筆されたもので、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、1962年にナイジェリアで出版されました。作家のデニス・ブルータスは『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975年)の中で「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。」と紹介しています。作品は奇跡的に世の中に出たわけです。

A Walk in the Nightには、職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが第6区で過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれています。『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に日本語訳が収められています。

今回はその日本語訳の一部について書こうと思います。アドニスが同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える次の場面です。

His flesh suddenly crawling as if he had been doused with cold water, Michael Adonis thought, Who the hell is that? Why the hell don’t they go away. I’m not moving out of this place, It’s got nothing to do with me. I didn’t mean to kill that old bastard, did I? It can’t be the law. They’d kick up hell and maybe break the door down. Why the hell don’t go away? Why don’t they leave me alone? I mos want to be alone. To hell with all of them and the old man, too. What for did he want to go on living for, anyway. To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you. They don’t have any shit from us brown people. They’ll hang you, as true as God. Christ, we all got hanged long ago.

「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間のことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。やつらはおまえの首をつるしちまう、これは確かだ。ああ、おれたちは大昔から首つりにあっている。」が下線部の日本語訳です。問題はいろいろありそうですが、今回はBedonerd.→「べドナード。」の日本語訳に限って、です。

日本語をつけた人はおそらくBedonerdがわからなくてカタカナ表記にしたと思いますが、根はもう少し深いように思えます。

その人はBedonerdがアフリカーンス語だと知らなかったのではないでしょうか。ん?場所がケープタウンの第6区やと、主人公がカラードやと知ってたんやろか、と思ってしまいます。知っていれば、アフリカーンス語の辞書を引けば済むわけですし、たとえ知らなくても文脈から、くそっとか、そりゃだめだ、くらいのあまり品のいい言葉ではないと想像がつくはずです。(A Walk in the Nightの註釈書では、Bedonerdに「バカな。(Afr.)=crazy; mixed up」の註をつけました。)

野間寛二郎さんはこの本が出された頃にガーナの元首相クワメ・エンクルマのものをたくさん翻訳されていますが、わからなことが多いからとガーナの大使館に日参して疑問を解消したそうです。わからないなら知っている人に聞く、それは普通のことです。brown peopleを茶色い人間とほんやくしていますが、混血の人たち(coloured)のことで、自分たちのことを茶色い人間とは呼ばないでしょう。ひょっとしたらアパルトヘイト政権が人種別にWHITE, ASIAN, COLOURED, BLACKと分類し、EnglishとAfrikaansを公用語にしていたという史実も知らなかったのでしょうか。ほんやくを依頼された人も依頼した出版社も、お粗末です。

1987年にカナダに亡命中のセスル・エイブラハムズさんをお訪ねしたご縁で翌年ラ・グーマ記念大会に招待されてゲストスピーカーだったブランシ夫人とお会いしました。1992年にジンバブエに行く前にロンドンに亡命中の夫人を家族で訪ねました。そのご縁で、ある日ブランシ夫人の友人リンダ・フォーチュンさんから『子供時代の第6区の思い出』(1996年)が届きました。ラ・グーマやブランシさんや著者のリンダ・フォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていました。

その人たちの残した尊い作品を見るにつけ、ほんやくをする人の気持ちの大切さが思われてなりません。

第6区ハノーバー通り

 本の巻末にラ・グーマの略年譜・著訳一覧・南アフリカ小史・ケープタウン地図をつけました。

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

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A Walk in the Night by Alex La Guma