つれづれに:山頭火の世界③ー防府①(2021年7月29日)
つれづれに:山頭火の世界③ー防府①
山頭火ブームに便乗して、あちこちで地域起こし政策の一環として山頭火を利用しているようである。防府市もその一つ、前回紹介した生家跡も今はきれいに整備されて観光の名所になっているらしい。
去年の春に、大分に住む卒業生が研究室に寄ってくれたとき、『アフリカの蹄』の作者帚木蓬生(ははきぎほうせい)にインタビューした地元の新聞記事5回シリーズと山頭火のパンフレット類を置いていってくれた。その中の一枚に「山頭火ミュージアム時雨館」の案内ちらしがあった。昭和五年(1930年)に熊本から宮崎まわりで大分に行ったときに、湯布院の湯平(ゆのひら)温泉に立ち寄っている。その温泉地に造ったらしく、入館料は100円とある。その卒業生は東京の大学になじめずに地元の大分に戻り、仮面浪人のつもりで大学に在学していて、単位とは関係なく3年次に取ってくれた僕の教養の科目で遭った。四年の後期に開講した「種田山頭火の世界」にも一度遊びに来てくれた。
移転後の山頭火ミュージアム
最近会ったときに、今度は防府市の「山頭火ふるさと館」の案内や企画のちらしを持って来てくれた。大分からは、山口は近いらしい。山頭火が生まれて育った山口県防府市が放っておくわけがない。
山頭火ふるさと館の案内ちらし
本名種田正一、明治十五年(1882年)、山口県佐波郡西佐波令村(現在の防府市)生まれである。大地主の家に生まれたようで、資料を整理して世に伝えた大山澄太が以下のように、当時の家の様子を語ってくれた老人の話を『俳人山頭火の生涯』(彌生書房)の中で紹介している。
「この塀が*七八間ばかりと、あの西側の二階建の一棟とが、昔の大種田の頃の残りで、その外は皆、あとで建てたものばかりであります。さあ屋敷はどの位ありましょう。八百坪あまりでしょうな。今はその跡にこうして十四五軒も住んでおり、私もその一人なのですが。へえ、何しろ大きい庄屋さんでして、母屋は高い草葺の屋根で、その裾に瓦の*おだれが四方に出ておりました。大きな樹がたくさん植えてありましてのんた、わしらは正一さんと一緒によく蝉をとって歩いたものでした。わしの方が三つ歳上で、わしはもう七十六になりますが、あの頃の盛んであった大種田の屋敷の様子はまだはっきり覚えておりますのんた。それは大したものでした。ここから三田尻駅まで*十町ばかりありましょうか、そこをのんた、大種田の人々は他人の土地をふまずに駅へ歩いて出るというようなことでしてのんた。ちょいとこちらへお出ませ、へえ、あんたは伊予の松山の方からやって来られたのでしたか。そうです。お母さんは、とても美しい人でしたが、正一さんが十一歳の時に、井戸に飛びこんで自殺せられました。その井戸は、たしかこの辺であったと思います。すぐに土を入れてつぶされましたが。あの時、わしや正一さんは、納屋のような所で、芝居ごっこをして五六人で遊んでおったのです。「わあ」と皆が井戸の方へ走って行ったので、わしらもついて行きましたが、猫が落ちたのじゃ、子供はあっちへ行け。と言うてよせつけてくれませんでした。
正一さんかな、とても善い人で、あれが悪いと言う者は一人もなかった。学校では、はじめはあまりよう出来ざったと思うが、中学へ上った頃からとてもよく出来るようになって、いつも一番だったということですが、わしらはその頃から、別々の道を歩くようなことになり、それからのことは少しも知りません。俳句をやることも、山頭火という名も一向知らずにいましたようなわけです。」
*七八間 一間(いっけん)は尺貫法の長さの単位。約一・八一八メートル。/ *おだれ 尾垂れ、屋根の庇 (ひさし)。/ *十町 一町(いっちょう)は、町を単位として一単位の土地面積。一〇段。三〇〇〇坪。
裕福な家に生まれたものの、家庭環境には恵まれなかったようである。のちに、行乞の旅の途中に妹を訪ねた時、「兄さんすまんことですが、のんた。近所の家が起きぬ間に、早く去んでおくれ、ほいと、ほいとと言われると困るからのんた。御飯はもうちゃんと出来ちょる。」と妹に言われたようである。(NHKドラマスペシャル「山頭火 何でこんなに淋しい風ふく」では、山頭火をフランキー堺が、妹を林美智子が演じた。)
その時に詠んだ句↓
うまれた家はあとかたもないほうたる
ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる
雨ふるふるさとははだしであるく 山頭火
山口県現防府市の生家跡地
「防府②」に続く。