続モンド通信・モンド通信

続モンド通信29(2021年4月20日) 

アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』

 アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』を再評価してみようと思います。

①出版の経緯、②ラ・グーマの思い、③『夜の彷徨』、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行きます。

①出版の経緯

アレックス・ラ・グーマ肖像画1(小島けい画)

 『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は1961年にナイジェリアで出版されています。国内ではラ・グーマは共産主義弾圧法(Communism Act)を改悪した一般法修正令(General Law Amendment Act)により、抗議運動も作家活動も禁じられていました。

アパルトヘイト廃止に向けての解放運動の有力な指導者でもあり、作家でもあったラ・グーマは何度か逮捕され、拘禁もされましたが、自宅拘禁中でも物語を書き続けていました。ブランシ夫人によれば、「原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠していましたので、警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されませんでした。」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年)ということです。

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき、『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されており、ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくようにブランシ夫人に指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡って国外に持ち出され、ナイジェリアで出版されています。

緊急時のラ・グーマの機転とブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、『夜の彷徨』は世に出ていなかったでしょう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました。」(セスゥル・エイブラハムズ『アレックス・ラ・グーマ』(Boston Twyne Publishers, 1985) )と言うラ・グーマの感想は本音だと思います。

歴史の偶然と、それを越える必然がなかったら、この作品は決してこの世に出なかったということでしょう。

ナイジェリアムバリ出版社1962年版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫)

②ラ・グーマの思い

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれています。インドネシア、オランダ、スコットランド系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」に分類され、「カラード」居住地区「第六区」で育ちました。

労働運動の指導者と優しくて心の寛い母親の影響で、労働運動を始め、アパルトヘイト政権が出来たあとは解放闘争に加わってストライキやデモなどに積極的に参加するようになり、1955年には南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の議長になりました。同年のクリップタウンでの国民会議には「カラード」の代表として参加しています。

約200万人のケープカラードの社会でかなりの影響力を持っていたこと、進歩的左翼系の週間新聞「ガーディアン」で文才を示していたことがきっかけで、廃刊に追いやられたあとを引き継いだ同系の「ニュー・エイジ」から記者の誘いを受けました。「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」を目標に、非白人社会での購読者を増やすために黒人社会で活躍できるスタッフを探していた新聞社の眼鏡に適ったわけです。その頃からラ・グーマは本格的に創作活動を始めました。「ニュー・エイジ」では「わが街の奥で」というコラム欄を持ち、国民会議でも反逆罪を問われて獄中にいた仲間を取材して紹介しています。

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」

 ラ・グーマの友人でもあり、よき理解者でもあった伝記家セスゥル・エイブラハムズさんによれば、ラ・グーマは二つの思いで作品を書いています。南アフリカで起こっていることを世界に知らせたい、南アフリカの歴史を記録したいという思いです。その二つの思いは、理不尽なアパルトヘイト政権と闘う中で生まれました。ラ・グーマは、南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いただけではなく、南アフリカの歴史を記録するということを強く意識していました。

1987年にエイブラハムズさんの『アレックス・ラ・グーマ』を読んだあと、カナダに亡命中のエイブラハムズさん訪ねて、いろいろ話を聞きました。本の中で、特に強調したかった点について次のように話をしてくれました。

「・・・私はアレックスが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのために南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということ、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかではなく、ひとりの人間としてみなされることこそ大切なのです・・・アレックスは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・すべての人間が人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがアレックスの一生の目標だったのです。」

そして、無視され、ないがしろにされ続けて来た「カラード」社会の人々の物語を書きました。最初の物語が『夜の彷徨』でした。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」1987年10号10-23頁)

③『夜の彷徨』

『夜の彷徨』を書くきっかけは「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」というケープタウンの短い記事聞でした。「ニュー・エイジ」の記者として報道規制がある中で白人記者が充分に調査もしないで黒人社会の実態を報道する現状をラ・グーマはよく知っていました。ラ・グーマは充分その記事について調べたわけではありませんが、事情は理解出来ました。その辺りの経緯をラ・グーマは「この男がどのようにして撃たれ、パトカーの中で死んでいったのか、その男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。」と述懐しています。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心に展開されています。スリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもなく。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の生活の一断章、といった趣きが強く、アパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りです。

それらの特徴は歴史の記録家、真実を伝える作家を認じたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、「形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。ただ書き出しから始めて、おしまいで終わっただけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形は必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短くても長くても、頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。」と後にラ・グーマは語っています。また、「マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。」とも語っています。

そこには、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されています。

門土社大学用テキスト1989年版(表紙絵:小島けい)

④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

元々リチャード・ライトの小説を理解するために歴史を辿り始めて南アフリカやラ・グーマについて考えるようになったのですが、今回科学研究費(平成30~34年度)の交付を受けた「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロ・アメリカとアフリカ」では、アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、そして巧妙に支配を続けていて、アフロ・アメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられてきたかを、文学作品とエイズやエボラ出血熱など、文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと考えました。

エイブラハムズさんはラ・グーマについて次のように話をしてくれました。

「アレックス は、事実『カラード』社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・。』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・。」

エイブラハムズさん(1987年カナダの自宅にて)

 奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配というアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。『夜の彷徨』もその一つで、ラ・グーマが時代に抗い精一杯生きながら書き残した魂の記録だったわけです。

アレックス・ラ・グーマ肖像画2(小島けい画)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信29(2021/4/20)

私の絵画館:桜舞う(馬と桜)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑧:桜舞う(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』(玉田吉行)

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1 私の絵画館:桜舞う(馬と桜)(小島けい)

この絵は、今まで描いてきた馬の絵のなかでも大好きな一枚です。

桜舞う:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」4月

 モデルの馬は<スカイ>と<マックス>。どちらも私が牧場に通い始めた頃、そこで産まれました。

当時は夕方頃になると、他の馬たちと一緒に広馬場に放たれて、楽しそうに走っていました。ずいぶん以前の風景です。

数年後二馬とも、それぞれの経緯で、次の場所に移って行きました。

「桜舞う」と題した絵そのものも、九州芸術の杜で個展をしていた時、四国から来られたお二人(お母さんと娘さん)の、お母さんが気に入って下さり、ご購入されました。

桜の季節が巡ってくると、もう手元にはありませんがいつもこの絵を思い出します。そしてスカイとマックスは元気でいるかなあ?と、祈るような思いになります。

 

花のなかでも、私にとって描くのが一番難しいのが桜です。(桜①②③④)

(桜①)

(桜②)

(桜③)

(桜④)

それでも、動物たちと一緒に何枚も描いてきました。(桜と猫①②③)

(桜と猫①)ノアと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月

(桜と猫②)サクラちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2013~犬・猫ときどき馬~」4月

(桜と猫③)シロちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2014~犬・猫ときどき馬~」4月

犬と桜①②

カレンちゃんと桜:カレンダー「私の散歩道2012~犬・猫ときどき馬~」4月

ナナくんと桜:カレンダー「私の散歩道2015~犬・猫ときどき馬~」4月

犬と猫と桜

犬(ゴースケくん)と猫(さくらちゃん)と桜:カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」表紙

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑧:桜舞う(小島けい)

のあと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月原画

春は桜、ですが。

今年の3月は慌ただしく、一瞬住宅地横にある小高い公園を訪れただけでした。

私が絵を仕事として描き始めたきっかけは、横浜の小さな出版社<門土社>の社長さんから“装画を書きませんか”と声をかけていただいたことでした。

その社長さんは、東大の医学部を卒業した時、お父様から病院を建てるようにと送られたお金で、かわりに出版社を立ち上げたという変わった方です。

いわば、独断と偏見の固まりのような人でしたが。そのおかげで、何故か相方を弟のように気に入って下さり、私まで気にかけていただきました。

装画を描き始めた頃は、花のシリーズを二つ担当していましたので、ずいぶんと長い間花ばかりを描いていた時期があります。

その頃のことを→「のあと桜」(私の絵画館4 モンド通信 No. 20:2010年3月21日)という題で、次のように書きました。

 

「花を描く時は、できる限り本物の花を目の前にして描きたい、と思います。色も形も香りも、自然に勝るものはないと思うからです。

そのためモデルとなる花を手に入れるのは、ひと苦労です。花屋さんで買うことのできる場合はまだ楽ですが、桜となるとそうはいきません。★ 続きは題をクリック ↑

桜はたいてい街路樹として植えられていたり、公園のなかにあります。大きな声ではいえませんが、絵を描くためとはいえ、公共のものを幾枝かいただくわけですので、非常に気を遣います。

避けられればよいのですが、たとえばずっと以前に描いた装画の場合、本の題名が「桜殺人事件」となっていましたので、桜以外の花は考えられませんでした。

『桜殺人事件』(門土社総合出版、1994/8/4)表紙絵

「本紹介16 『桜殺人事件』」

 その時は、雨の夜を選び、いよいよ決行という時。あさはかな私は、目立たないためには黒しかない、と思いました。黒の上着、黒のズボン、黒の長靴、黒の帽子。手には大きな黒の旅行バッグと黒の傘。

いざ出発、とでかけましたが、目的地の公園までには、車の通る道路を歩かねばなりません。夜遅めの時間を選んだつもりでしたが、車は思いのほか通っていました。でも、花泥棒をするわけですから、ライトに照らされて顔を見られてはいけません。対向車のライトが近付くと、黒装束で、散歩には不似合いな大きな旅行バッグをさげた相方と私は、パッと傘を下にさげ、顔を隠して通りすぎます。

その夜、そんな苦労をして、ほんの幾枝かをいただきました。

後日、お友だちのご夫婦に、その雨の夜の出来事を話したら、そんな不自然な格好をしていたらそれだけで目立ちすぎでしょう、と大笑いされてしまいました。なるほどなあ、と納得してからは、さりげない格好をして、さりげない大きめの袋をもって、桜の木に近付くようになりました。

今回、桜を見上げているのは、猫の“のあ”。7年前、渋谷中央郵便局の前で、生まれて間もない状態で泣き叫んでいたのを、娘が保護しました。

今では、この家で、新しい猫ファミリーと少し距離を保ちながら、犬のように人懐っこくすごしています。」

 

何年か前、私の絵の数少ない理解者であり、お友だちでもあった編集者の方が旅立たれました。明日手術で入院、という時電話があり、「退院したら、またお電話しますね」と約束して下さいましたが。電話の無いまま、長すぎる闘病生活となりました。

彼女を見送った数年後、30年以上家族のように接して下さった社長さんも、あちらの世界に逝ってしまわれました。

やはり桜は、美しすぎて、儚すぎます。

のあと桜:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」4月

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3 「アングロ・サクソン侵略の系譜25:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』

 アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』を再評価してみようと思います。

①出版の経緯、②ラ・グーマの思い、③『夜の彷徨』、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行きます。

①出版の経緯

アレックス・ラ・グーマ肖像画1(小島けい画)

 『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は1961年にナイジェリアで出版されています。国内ではラ・グーマは共産主義弾圧法(Communism Act)を改悪した一般法修正令(General Law Amendment Act)により、抗議運動も作家活動も禁じられていました。

アパルトヘイト廃止に向けての解放運動の有力な指導者でもあり、作家でもあったラ・グーマは何度か逮捕され、拘禁もされましたが、自宅拘禁中でも物語を書き続けていました。ブランシ夫人によれば、「原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠していましたので、警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されませんでした。」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年)ということです。

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき、『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されており、ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくようにブランシ夫人に指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡って国外に持ち出され、ナイジェリアで出版されています。

緊急時のラ・グーマの機転とブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、『夜の彷徨』は世に出ていなかったでしょう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました。」(セスゥル・エイブラハムズ『アレックス・ラ・グーマ』(Boston Twyne Publishers, 1985) )と言うラ・グーマの感想は本音だと思います。

歴史の偶然と、それを越える必然がなかったら、この作品は決してこの世に出なかったということでしょう。

ナイジェリアムバリ出版社1962年版(神戸市外国語大学図書館黒人文庫)

②ラ・グーマの思い

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれています。インドネシア、オランダ、スコットランド系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」に分類され、「カラード」居住地区「第六区」で育ちました。

労働運動の指導者と優しくて心の寛い母親の影響で、労働運動を始め、アパルトヘイト政権が出来たあとは解放闘争に加わってストライキやデモなどに積極的に参加するようになり、1955年には南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の議長になりました。同年のクリップタウンでの国民会議には「カラード」の代表として参加しています。

約200万人のケープカラードの社会でかなりの影響力を持っていたこと、進歩的左翼系の週間新聞「ガーディアン」で文才を示していたことがきっかけで、廃刊に追いやられたあとを引き継いだ同系の「ニュー・エイジ」から記者の誘いを受けました。「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」を目標に、非白人社会での購読者を増やすために黒人社会で活躍できるスタッフを探していた新聞社の眼鏡に適ったわけです。その頃からラ・グーマは本格的に創作活動を始めました。「ニュー・エイジ」では「わが街の奥で」というコラム欄を持ち、国民会議でも反逆罪を問われて獄中にいた仲間を取材して紹介しています。

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」

 ラ・グーマの友人でもあり、よき理解者でもあった伝記家セスゥル・エイブラハムズさんによれば、ラ・グーマは二つの思いで作品を書いています。南アフリカで起こっていることを世界に知らせたい、南アフリカの歴史を記録したいという思いです。その二つの思いは、理不尽なアパルトヘイト政権と闘う中で生まれました。ラ・グーマは、南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いただけではなく、南アフリカの歴史を記録するということを強く意識していました。

1987年にエイブラハムズさんの『アレックス・ラ・グーマ』を読んだあと、カナダに亡命中のエイブラハムズさん訪ねて、いろいろ話を聞きました。本の中で、特に強調したかった点について次のように話をしてくれました。

「・・・私はアレックスが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのために南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということ、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかではなく、ひとりの人間としてみなされることこそ大切なのです・・・アレックスは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・すべての人間が人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがアレックスの一生の目標だったのです。」

そして、無視され、ないがしろにされ続けて来た「カラード」社会の人々の物語を書きました。最初の物語が『夜の彷徨』でした。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」1987年10号10-23頁)

③『夜の彷徨』

『夜の彷徨』を書くきっかけは「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」というケープタウンの短い記事聞でした。「ニュー・エイジ」の記者として報道規制がある中で白人記者が充分に調査もしないで黒人社会の実態を報道する現状をラ・グーマはよく知っていました。ラ・グーマは充分その記事について調べたわけではありませんが、事情は理解出来ました。その辺りの経緯をラ・グーマは「この男がどのようにして撃たれ、パトカーの中で死んでいったのか、その男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。」と述懐しています。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心に展開されています。スリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもなく。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の生活の一断章、といった趣きが強く、アパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りです。

それらの特徴は歴史の記録家、真実を伝える作家を認じたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、「形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。ただ書き出しから始めて、おしまいで終わっただけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形は必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短くても長くても、頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。」と後にラ・グーマは語っています。また、「マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。」とも語っています。

そこには、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されています。

門土社大学用テキスト1989年版(表紙絵:小島けい)

④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

元々リチャード・ライトの小説を理解するために歴史を辿り始めて南アフリカやラ・グーマについて考えるようになったのですが、今回交付を受けた科学研究費(平成30~34年度)「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロ・アメリカとアフリカ」では、アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、そして巧妙に支配を続けていて、アフロ・アメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられてきたかを、文学作品とエイズやエボラ出血熱など、文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと考えました。

エイブラハムズさんはラ・グーマについて次のように話をしてくれました。

「アレックス は、事実『カラード』社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・。』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・。」

エイブラハムズさん(1987年カナダの自宅にて)

 奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配というアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。『夜の彷徨』もその一つで、ラ・グーマが時代に抗い精一杯生きながら書き残した魂の記録だったわけです。

アレックス・ラ・グーマ肖像画2(小島けい画)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信28(2021/3/20)

私の絵画館:早春の馬(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑦:(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:第二次世界大戦直後の体制の再構築の第一歩―コンゴとガーナの独立 (玉田吉行)

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1 私の絵画館:早春の馬(小島けい)

ぼんちゃん

まだ雪の残る草原を走るのは<ぼんちゃん>です。

元馬主の獣医さんは、毎月、札幌と宮崎2軒のお家を行き来しておられるお元気な方ですが。還暦を期に、長年一緒に競技に出ていたぼんちゃんを、宮崎のお友達の牧場に譲られました。ぼんちゃんの目には、暖かい気候がよいとのご配慮もあったそうです。

その牧場が私が乗馬で通う<カウボーイアップランチ>です。

ぼんちゃんは、一時足を痛めたり、左目が見えなくなったりはしていますが、いつも広馬場に一番近い厩舎にいて、私が牧場に行くと<早くニンジンちょうだい!>と、今もまだまだ元気です。

絵はぼんちゃんが以前すごしていた十勝の早春の風景のなかで、楽しそうに走っている姿を描きました。

ぼんちゃん:カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」3月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑦:「猫の時代」(小島けい)

毎年3月になると、今年で何年目?と数える日があります。それが3月31日です。

この日が、のら猫<よんちゃん>が家猫<アリス>となった日で、さらには私たちの<猫の時代>の始まりでした。。

それまで私は、小さい頃から母に言われた<猫はよそ様に迷惑をかけるから、家では飼えないのよ>という言葉が頭から離れず、ずっと見ないように努めてきました。まだ<家猫>という概念も、なかった時代でした。

けれど、19年前の春、突然、帰ってきた娘のジャンバーの中から子猫が顔を出しました。渋谷で保護したノアという子でした。以来、何年間かは、犬(ラブラドール)の三太と猫のノアの共同生活が続きました。いわば、私たちの<犬の時代>から<猫の時代>への移行期でした。

のあ:カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」1月

私の<相棒>だった三太が、2008年1月7日に旅立った後。茫然自失の状態だった私たちと、急に一人ぽっちになって眠る時間が多くなったノアでしたが。3月31日を境に、とても寝てなどいられない事態となりました。

三太:カレンダー「私の散歩道2020~犬・猫ときどき馬~」7月

その頃のことを、私は2009年11月の絵画館で、次のように書きました。

この絵画館の連載を始めて間もない2010年1月に、次のような文章を書きました。→私の絵画館1「母親になった猫」(モンド通信 No. 16:2009年11月29日)

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母親になった猫

二年前の夏の終わり。犬の三太と近くのキャンパスを散歩していた時、グランドの近くに、小さな黒いものがちょこんと座っていました。夕闇のなかよく見ると耳の大きな子猫で、一瞬の後、ピャーと走り去りました。★ 続きは題をクリック ↑

その二ヶ月後。同じ場所に黒いものが座っていました。その時も一瞬見つめあった後、大きくジャンプして消えました。闇に浮かんだシルエットは、ガリガリすぎる子猫でした。
寒さは日々厳しさをましており、その子は1週間ももたないだろうと思われました。わたしたちはその夜から朝晩エサを運び始めました。
これが、後の「アリス」との出会いでした。
しばらくの間、エサはいつもなくなっていましたが、姿は全く見えませんでした。二ヶ月をすぎた頃、ようやく離れた校舎の片隅に小さな姿を見るようになりました。
三ヶ月を過ぎると、物陰で待っていて、姿を見ると飛び出してくるようになりました。なかなか触われませんが、エサを食べ始めた時だけ抱くことができるようになりました。
私たちが遅くなった日には、ずいぶん手前の植え込みまで迎えにきたり、食べ終わった後に、近くを散歩している私たちをみつけると、ついて来ようとし始めました。
簡単に身体に触れることはまだできなくても、「車が危ないからお帰り」と追い返すのが、だんだんつらくなってきました。
そうして、昨年の三月三十一日、私たちは一大決心をして、キャンパスに向かいました。
いつものように食べ始めた時をねらって、相方が抱きあげ、間髪を入れず私が洗濯網をかぶせ、大暴れする子を家に連れて帰りました。
そして、仮に「よんちゃん」と呼んでいたのら猫は、新しい名前、不思議の国からきた「アリス」となりました。
全く気付かなかったのですが、その時アリスのお腹には、すでに赤ちゃんがいました。
四月二十四日、アリスは五匹の子猫のお母さんになりました。

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五匹生まれた子猫のなかで、元気な男の子<きちゃん>と、二匹の美人猫<さやちゃん><Mちゃん>は、それぞれ優しいご家族と出逢うことができ、今も楽しく暮らしています。

結局、お母さんのアリスの元には、誰よりも気が弱くて寂しがりやの男の子、黒猫の<ジョバンニ>と、獣医さんから生まれつき胃腸が弱いと言われた三毛の<ぴのこ>が残りました。

「梅と猫(ぴのこ)」

梅とぴのこ:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」表紙・2月

「水仙とぴのこ」

水仙とぴのこ:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」2月

向日葵とジョバンニ:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」8月

三匹とも、見た目はあまり変わりませんが、今年で13年目。それなりの<お年>ですので、この子たちと一緒に、穏やかに一日でも長く元気にすごしたい!と、毎日祈るような思いです。

のあと三太とねむの花:カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」8月

三太と海:カレンダー「私の散歩道2017~犬・猫ときどき馬~」8月

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:体制再構築時の狡猾な戦略―ガーナとコンゴの場合

第二次世界大戦直後に、それまでの植民地体制から新たな搾取構造を構築した際に取った「先進国」側の狡猾な戦略について絞って書きたいと思います。第1回Zoomシンポジウム↓で大雑把に紹介した内容の詳細です。→「Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築」

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

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第1回Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―第二次世界大戦直後の体制の再構築

日時:(2021年2月20日(土)10:00~12:00発表:

発表者:

玉田吉行(多文化多言語教育研究センター特別教授):「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史(同センター准教授):「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦(同センター講師):「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

司会:中原愛(地域資源創成学部2年)

参加者:キム・ミル(地域資源創成学部2年)、得能万里奈(地域資源創成学部1年)、SILUMIN SENANAYAKE(工学部3年)、山田大雅(工学部1年)、國本怜奈(農学部1年)、金子瑠菜(防衛大医学部1年、杉井秀彰(工学部2年)、ルトフィア・ファジリン(宮大研究生)、ユ・ハンビッ(元宮大留学生)

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① はじめに

この五百年ほど、アングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国は、奴隷貿易による資本蓄積によって農業中心の社会から産業社会への「近代化」をはかり、奴隷制や植民地支配体制で暴利を貪り続けてきました。植民地争奪戦が余りにも苛烈で世界大戦の危機を感じて、宗主国はベルリンで会議を開きましたが、結局二度の世界大戦で殺し合いました。その結果、欧米諸国と日本の総体的な力は低下して、それまでの植民地支配による搾取構造を続けられなくなり、新しい形の搾取体制を再構築せざるを得なくなりました。自称「先進国」は自国の復興に追われますが、それまで抑えられていた「発展途上国」は欧米諸国に留学していた若き指導者を中心にそれまで無視され続けて来た権利を奪い返すために独立運動を展開し始めました。「発展途上国」の総体的な力が上がったわけではありませんでしたが、時の勢いとは恐ろしいもので、いわゆる祖国解放に向けての変革の嵐(The Wind of Change)が吹き荒れました。今回はガーナとコンゴでその時に取った「先進国」の狡猾な戦略に絞って書いて行きます。②ガーナの場合、③コンゴの場合、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行こうと思います。

取り上げるのはガーナとコンゴ、資料はクワメ・エンクルマとトーマス・カンザの著書とバズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」です。ガーナの初代首相エンクルマは自伝『アフリカは統一する』(Kwame Nkurumah, Africa Must Unite, 1963)を、トーマス・カンザは『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)を書き残しています。

「アフリカシリーズ」はアフリカを誰よりも総体的に眺められた英国人バズル・デヴィドスンの映像です。そこにはもちろん、二人の生き証人も登場しています。1983年にNHKで放送された45分8回シリーズの番組で、英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いたデヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。アーカイブにもなく、今となってはとても貴重な映像です。1980年代半ばに、先輩の小林さんの世話で大阪工業大学で非常勤講師をしている時に、英語の授業で使っていたLL教室でコピーさせてもらい、その後映像ファイルにして英語や教養の授業でも継続的に使ってきました。「アフリカシリーズ」については「続モンド通信」の連載の一つに書きました。「アングロ・サクソン侵略の系譜17:『 アフリカの歴史』」「続モンド通信20」2020年7月20日)

「アフリカシリーズ」

② ガーナの場合

それまで押さえつけられていたアジアやアフリカで独立に向けての胎動が始まったとき、宗主国はそれまでのようにその動きを押さえにかかりました。しかし得策ではないと見るや、押さえるのをやめ、独立過程を妨害して国を混乱させ、政敵を担いで軍事政権を樹立する戦略に切り変えました。予想以上に変革の嵐が激しかったのと、第二次世界大戦で疲弊した自国の復興に追われて植民地支配どころではなかったからです。混乱を引き起こし、これ見たことかと誹謗中傷し、アフリカ人に自治の能力はないと嘲りました。

ガーナは当時イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれ「模範的な」植民地でしたから、欧米に留学経験のあるエンクルマなどの若き指導者に率いられる運動を押さえるために指導者を投獄して抑えにかかりましたが、時の勢いは抑えきれませんでした。そこで、戦略変えました。抑えきれないなら、独立の過程を可能な限り妨害したのち、「民主主義的な」選挙を経て独立を承認→独立後国内を混乱に陥らせたのち別の指導者を立ててクーデターを画策して軍事政権を樹立、傀儡を操作して国外から支配を継続する、という流れでした。のちに他の植民地でもほぼ同じような経過を辿っています。

1947年に故国に戻り、統一ゴールドコースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、大衆に促されてその職を辞して会議人民党 (Convention People’s Party) を指導して行くことを決意した時のことを次のように書き残しています。

「私を支持してくれる人びとのまえに立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。

これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義のしいた間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと ? 。このときから闘いは、反動的な知識人と首長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスロ一ガンをかかげた目ざめた大衆の三つどもえでおこなわれることになったのだった。」(エンクルマ著、野間寛二郎訳『わが祖国への自伝』筑摩書房、1967年(Kwame Nkrumah, The Autobiography of Kwame Nkrumah, 1957))

「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」

会議人民党を率いるエンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て、即時の自治を要求しました。当時エンクルマの右腕だったコモロ・べデマは当時の様子を次のように話しています。

「私たちは若く行動的で、演説も力強かった。もちろん、エンクルマの人柄も若い人をひきつけました。急進的で、確かに先輩たちより多くのものを求めました。即時自治も求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。」(「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」)

エンクルマは当選し、1957年に初代首相になりました。しかし、政権に就き、首相官邸に入った初日からイギリスの悪意を思い知らされることになりました。当日のことを伝記に次のように記しています。

「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。」(野間寛二郎訳『アフリカは統一する』(理論社、1971年、Kwame Nkrumah, Africa Must Unite, 1963)

『アフリカは統一する』

イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談するために中国を訪れている時にクーデターが起き、結局エンクルマは生涯祖国に戻れませんでした。1972年にルーマニアで寂しく死んだと言われています。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号、1985年)

③ コンゴの場合

パトリス・ルムンバ

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、もっと極端であからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどいませんでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。当時ルムンバ内閣で国連大使に任命されていたトーマス・カンザは当時の模様を次のように話をしています。(のちに『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)でも詳しく書いています。)

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学を卒業した者は私を入れて僅かに3人でした。

大国がコンゴに経済的な利権を確立するためにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予め肌で感じました。国連軍は主にアメリカやヨーロッパ諸国から資金を得ていますから国連軍介入も遅れ、コンゴはたちまち国際植民地と化してしまったのです。」バズル・デヴィドスン作「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」(NHK、1983年)

危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しましたが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ・セセ・セコ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

『パトリス・ルムンバの盛衰』

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(1984年に「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(「ESPの研究と実践」第5号、2006年)

④ アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

2019年の後半からコロナ騒動の渦中にいる今、その騒動の実態を把握し、今後を予測するにはあまりにも大きすぎて途方にくれるばかりですが、歴史とはそういうもので、いつか全体像を把握できるときが来るのかも知れません。

今回科研費のテーマに選んだこの五百年ほどのアングロ・サクソン侵略の系譜も、元々あまりにも大き過ぎてまとめられるものではありませんが、それでも侵略された側が残した記録の中にその形跡を見つけ出すことは可能です。

人々の幸せな暮らしを夢見て大衆から圧倒的な支持を受けて初代首相になったエンクルマもルムンバも無残に排除されてしまいましたが、その人たちが、あるいはその人たちの周りの人たちが残した痕跡を、後の世の人たちが辿り、その中から何かを掘り起こすことは可能かもしれません。そういった意味では、エンクルマの『アフリカは統一する』も、トーマス・カンザの『パトリス・ルムンバの盛衰』も、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」も後の世の人たちに伝えたかった魂の記録で、今回の作業はその中から何かを取り出す作業だったんだと思います。(宮崎大学教員)

バズル・デヴィドスン

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信27(2021/2/20)

私の絵画館:「梅と猫(うめちゃんとさくらちゃん)」(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑥:「梅見月に」(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜24:「 Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:梅と猫(うめちゃんとさくらちゃん)(小島けい)

うめちゃんとさくらちゃん

うめちゃんとさくらちゃん:カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」2月

梅の木の枝で見事なしっぽを見せているのは、うめちゃんです。

何年か前の梅雨の頃、飼い主さんは雨に濡れた子猫と出逢ってしまいました。お家にはすでに、さくらちゃんという猫とゴースケくんという犬(パピヨン)がいましたが。心優しい彼は子猫を抱きあげずにはいられませんでした。

そうして、前の猫が<さくらちゃん>ですので、今度は男でも女でもうめちゃんで決まり!となりました。

ゴースケくんとさくらちゃん

ちなみに、りっぱなしっぽの<うめちゃん>は、男の子です。

うめちゃんとさくらちゃん:カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」表紙絵

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑥:「梅見月に」(小島けい)

 今年はあやうく、梅の香りを楽しむことなく<梅の季節>がすぎてしまうところでした。

ただ先日、思いがけず、雑木の中でひっそりと咲く一本の梅を見つけました。小さい枝を2本だけいただいて帰り、その枝に咲く数えるほどの梅の花で、奥ゆかしくてほんのりと甘い梅の香りを、一年ぶりに味わうことができました。

①「梅1」

②「梅2」

③「梅3」

④「梅4」

梅と前後して、あちらこちらの野原や庭で涼やかな香りを放つのは水仙です。

⑤「水仙」

水仙には特別の思いがあり、この絵画館の連載を始めて間もない2010年1月に、次のような文章を書きました。→「水仙」(モンド通信No. 18:2010年1月)

画像

花はどれもいとおしいと思いますが、なかでも一つだけ、と言われれば、水仙かも知れません。
三十年前の二月十一日、産前休暇に入ったばかりの私は、朝の新聞記事のなかに「淡路の水仙峡」という文字をみつけました。★ 続きは題をクリック ↑

かなり大きなお腹でしたが、とりあえずはまだ子供のいない身軽さで、何の計画性もなく、昼前にでかけました。
明石海峡を船で渡り、岩屋というところからバスで洲本へ。そこから水仙峡までまたバスで30~40分。
ところが、最後に乗ったバスが、途中で止まってしまいました。詳しくは忘れてしまいましたが、一本道が通れるようになるまで2時間以上も待ったでしょうか。

冬の日暮れは早く、ようやく水仙峡にたどりついた時は、もう夕闇がせまっていました。
けれどそのおかげで、観光客はみなひきあげ、茶店の歌謡曲も終了。最終のバスに乗ってきた数人だけが広い畑にちらばり、海へと続く水仙の花々を満喫することができました。

いつのまにかすっかり暮れてしまった静寂のなか、色で描くならレモン色の涼やかな、それでいてどこか優しい水仙の香りにつつまれ、そうっと畑に身をしずめたままひとときをすごしました。

それ以来、水仙は私にとって特別の花になりました。

子供が産まれた後に引っこしたマンションは、ドアから北風が吹きこむ、というので、急きょ内側にもう一枚ドアを作ってもらいました。

殺風景な木のドアの一面に、私はあの日の水仙峡を描きました。

次の転居でその絵は散逸してしまいましたが、今度はたくさんの方たちにみていただけるよう大きなスケッチブックに描きたい、と思っています。

梅も水仙も大好きな花ですので、動物たちと一緒に、何枚も描いてきました。

⑥「梅と猫(ぴのこ)」

⑦「梅と猫(眠るぴのこ)」

⑧「梅と猫(梅ちゃんとさくらちゃん)」

⑨「梅と犬(ぺぺ)と猫(リリ)」

⑩「梅と馬(シンディ)」

⑪「水仙と犬(コロちゃん)」

⑫「水仙と犬(バーニー)」

⑬「水仙と猫(ぴのこ)」

⑭「水仙と馬(ベティ)」

⑮『ティアラを掘り出せ』表紙絵→『ティアラを掘り出せ』(門土社総合出版、1994/3/1)

梅と水仙の後を追うように、かわいいマリのような花をたくさん咲かせるのが沈丁花です。

⑬「沈丁花」

この花の甘いしっとりとした香りが漂い始めると、春はもう、すぐそこです。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜24:Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築

2021年Zoomシンポジウムの報告です。参加して下さった方々に深くお礼申し上げます。

(こじまけい画)

去年の春先から突然遠隔授業の準備が始まり大慌てでした。研究室のデスクトップには音声やカメラの機能がなく、授業で使っているノートパソコンにもカメラの機能をつけていませんでした。必要なかったからです。その場凌ぎで始めたZoomが結局は一年間続きました。南アフリカ概論では100人を超えるクラスもありました。そんなこともあり、地域資源創成学部の英語のクラスで時間外にZoomでトーイック対策をやってみたら、参加者も多く、そんな手もあったんやと思いました。医学科では医学用語、その流れで、シンポジウムもZoomでということになりました。

実施したのは2021年2月20日(土)10:00~12:00でしたが、報告は今になってしまいました。もうみかんの花が一斉に咲き始め、甘酸っぱい匂いがあちこちから漂って来ます。庭ではイリス↑が咲きました。植え替えて二年ほど花を咲かせてくれなかったのですが、今年は5本咲いてくれました。イリスには申し訳ないのですが、玄関と洗面所に移動してもらっています。

科研(玉田)のタイトル「『アングロ・サクソン侵略の系譜』の流れで、『第二次世界大戦直後の体制の再構築』で、またつき合ってもらえませんか、今回はZoomで、出来れば、一方的な発表ではなく、色々な意見や質問などを通して双方向のシンポジウムをやりたいんですが」、と、杉村さんと寺尾さんにお願いして応じてもらいました。2年前のシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」(→2018シンポジウム報告書)に続いて2度目です。3人は研究室も隣同士、所属は多言語多文化教育研究センターです。

3人の発表

玉田吉行:「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史:「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦:「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

 

司会を地域資源創成学部2年生(現3年生)の中原愛さんにお願いしました。中原さんには科学研究費の謝金の有効活用に協力してもらっています。活動的で司会もばっちり、ほんと助かりました。4人で打ち合わせをしたときは、ころっと時間を忘れて3人にはご迷惑をおかけしました。すいません。参加して下さった人も含め、いろいろ助けてもらえましたので、昨年度の活動報告も辛うじて書けそうです。ありがとうございました。

シンポジウムには地域資源創成学部、農学部、工学部、医学部の学生と防衛医科大学医学部の学生も参加して下さいました。発表者を三人にし、ある程度時間を制限したこともあり、いろいろな質問も出て、お互いに意見の交換できたように思います。参加して下さった方々に改めて深くお礼申し上げます。

シンポジウム後のメールの遣り取りで、次回もシンポジウムがあれば参加すると言って下さる人もいて、秋に、今度は現在の話をしたいと考え、寺尾さん、杉村さんにも賛成してもらっています。(一回目は植民地化の時代、今回が第二次世界大戦後についてでしたので。)

詳細が決まれば、参加して下さった方々には案内を差し上げます。他に参加希望者がいましたら、誘って参加して下さると嬉しいです。あまり多くなると2時間のなかでの発言の機会が少なくなりますが・・・・。

三人の発表概要、②科研費の詳細、③Zoomの詳細の順に報告しています。三人の発表概要にはシンポジウム後に詳しく書いたPDFファイルをつけています。(寺尾さんの分は届き次第掲載します。)写真は前回のシンポジウムのものを使いました。

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三人の発表概要

「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」 玉田吉行

西洋社会はポルトガルの1505年のキルワの虐殺を皮切りに聖書と銃で侵略を開始→奴隷貿易→蓄積した資本で産業革命→大量消費社会へ→の歩みを始めました。市場と原材料、安価な労働者を求めてアフリカ争奪戦→世界大戦回避のためにベルリンで会議を開催→結局は二度の世界大戦→西洋の総体的力が低下→虐げられていた人たちの解放闘争(変革の嵐)→独立→新しい形態の支配体制を構築。開発や援助を名目に、多国籍企業による貿易・資本投資の経済支配体制を構築しました。

今回は、新体制を構築する際のガーナとコンゴで取った戦略に絞ります。

どちらの場合も、独立の過程を出来るだけ邪魔をして国内を混乱させたあと選挙で選ばれた首相と敵対するアフリカ人にクーデターを起こさせ、後に傀儡の軍事政権を設立するという形を取りました。

ガーナの場合、エンクルマが積極行動を唱える会議人民党を結成し、ストライキやボイコットを展開して支持者を得、「即時自治」を求めました。エンクルマを投獄して抑えにかかりますが、自国の復興で精一杯、抑えられないとみるや独立の過程を邪魔して後に軍事介入の路線に変更。その結果、獄中から出たエンクルマが首相に。独立時の英国の悪意を伝記の中に「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとの英総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。」と回想しています。その後、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談中にクーデーターが起きて失脚、72年に寂しくルーマニアで亡くなっています。

コンゴの場合、旧宗主国ベルギーの独立の過程の妨害は極めて悪意に満ちて、あからさまでした。政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置かず、ベルギー人官吏8千人を総引き上げしました。コンゴ人には行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入してコンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。

ルムンバは米国の援助でクーデターを起こした政府軍のモブツに捕えられ、国連軍の見守るなか、外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。モブツはその後、三十年以上独裁政権の座に居続けました。

→体制再構築(作業中)

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「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」 寺尾 智史

赤道ギニア共和国は、サブサハラのアフリカ諸国が英仏からこぞって独立し、「アフリカの年」と呼ばれた1960年から遅れること8年、1968年に当時フランコが独裁体制を敷いていたスペインから、アンゴラは、さらにそれから7年後、1975年にサラザール独裁体制が崩壊したポルトガルから独立した。

こうした「後発」の独立国は、果たして、先発の独立国が直面したナショナル・ビルディングへの苦難を教訓とし、その国家の立ち上げを順調に進めていけたであろうか。

結果から言えば、最初から大きく躓いてしまったと評価せざるを得ない。どちらの新国家でも、植民地時代から顕在化しつつあった問題群が暴発し、それが、虐殺や内戦といった、人道上最悪の事態に陥ったからである。そのことにとりわけ直面し、危機が噴出したのが、列強による分断の果てに、自然地理的に、もしくは現場の住民が紡いできた時間の流れとは関係なく断片化されてしまった国土の「小さな破片の側」に生きてきた、「マイノリティにさせられた人々」のまわりだったのである。

その中で、今回は「ビオコ島」、「カビンダ」という断片に焦点を当て、両国の現代史を投影してみたい。

ビオコ島は、ギニア湾奥の火山列島のうち最大の島で、面積は2017平方キロ。沖縄本島が1200平方キロ、佐渡島が855平方キロなので、ちょうどこの2つを合わせたぐらいの、火山島としては大きな島である。1968年スペインから独立した際、島の住民は同島ともう一つの属島アノボン島の2島独立を強く主張したが、スペインは曖昧な態度を続けた挙句、彼らにとって最悪の選択、スペインがサブサハラのアフリカ大陸で領有していた唯一の植民地で列強のナイフで直線的に切り取られたアフリカ植民地の切れ端のような形をしている、リオムニと抱き合わせのセットで独立させてしまった。こちらの面積は26万平方キロ、アフリカ大陸の規模から考えれば芥子粒のようだが、ビオコ島から考えると13倍、人口規模でも約3倍の人々が住んでいる。そして、海に隔たれ、緯度もずれている2つの地域に住む人々のことばは、そして、主にそこから生まれる民族意識は、全く別個のものだったのである。結局、島に住むブビ語母語話者は、大陸側に住む住民のうち多数派であるファン語母語話者に対して、いくら選挙をやろうにも勝ち目はない。そのうち、海洋性気候ですごしやすいビオコ島に多くのファン人エリートが移り住むと、島の元々の住民は迫害され、少なからずの人々が虐殺されることになってしまった。

カビンダは、125万平方キロの広大な国土を持つアンゴラからすれば、たった7270平方キロのちっぽけな飛び地である(ちなみに宮崎県の面積は7735平方キロ)。しかし、この地を囲むコンゴ共和国領、コンゴ民主共和国(旧ザイール)領の近隣地域と元々は同質性の高い区域であった。しかし、切り取られ、そしてそこに天然資源が発見されることで、住民は重い現代史を背負わされることになった。住民の中には、言語などを核として「カビンダ人」としてのリージョナル・アイデンティティを希求する者が現れているが、「アンゴラ人」の自画像とは何か、という大きな枠組みの中でハレーションを起こし、独立紛争も含め問題化している。

本発表では、ビオコ島、カビンダの両者を比較しながら分断の不条理を見る。

→列強による分断の果てに(届き次第掲載)

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「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」 杉村佳彦

太平洋諸国を経由し、13世ごろにニュージーランドへ到着した先住民族のマオリ族は、約100に及ぶ部族毎に分かれ伝統的な狩猟農耕生活を営んでいた。18世紀になると西洋人との接触により様々なものを得たマオリは、次第に土地や産物を売り始め、金銭を得ることをイギリスに学んだ。その結果、戦争品の貿易などにも手を染め、国内戦争へも発展していった。そした、立場的にも弱小化した1840年のワイタンギ条約により、実質的にマオリはイギリスの植民地と化し、ニュージーランド内でのマオリの立場はより一層苦しくなった。そして、第一次、第二次大戦へと巻き込まれたニュージーランドも、当時の政府にその存在意義をアピールすべく、また、マオリ組織らの圧力により「マオリ大隊」なる隊を編成し、戦争に参加していくこととなった。やがて部族別だったマオリが「マオリ」という一つの大きなマイノリティーという認識へと変容した時期でもある。

戦後は労働者として大都市部へ移住を開始し、労働により金銭を得ることで生活を営む西洋化社会となり、否応なしに都市部への人口流出が開始された。結果、従来の部族伝統は失われ、マオリという認識のもとに生活はするものの低社会層に属し、自らの言語文化アイデンティティすら薄れてしまった。しかし、そこに危機感を抱いた80年代にマオリルネッサンス(マオリ復興)が起こり、失われた言語・文化・アイデンティティの復活へとつながるのである。本発表では、教育を背景にした自文化への目覚め、失われたマオリ語学習、伝統文化継承等の活動を紹介し、都市化から得たものを分析する。

マオリの都市化

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科研費の詳細(申請時)

所属機関名称:宮崎大学 研究代表者・部局:語学教育センター 職:特別教授 氏名:玉田吉行 研究種目名:科学研究費基盤研究(C) 交付決定額(4030千円) 補助事業期間:平成30年4月~令和4年3月 研究課題名:「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」

<申請時の概要>

広範で多岐にわたるテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、アフリカの歴史と奴隷貿易、と今までそれぞれ10年くらいずつ個別に辿ってきましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思っています。

ライトの作品を理解したいという思いからアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でアフリカ系アメリカ人がアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に、神戸にあった黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして、最初の著書『箱舟、21世紀に向けて』(共著、1987年)にガーナへの訪問記Black Powerを軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズとテーマも範囲もだんだんと広がって行きました。辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

バズゥル・デヴィドスン

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ500年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(アメリカ国防総省)で開発された武器を援用して個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んでほぼ350年にわたって行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えてきて、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants 1(1995年)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(1998年)にまとめました。奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残してきました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

Africa and Its Descendants 2

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Zoomの詳細

*Zoom招待状の招待状です↓

トピック: 玉田吉行 の Zoom ミーティング

https://us04web.zoom.us/j/79189996934?pwd=SzRJWERGalR4VmVGRmpSZmwzTkZYdz09

ミーティングID: 791 8999 6934

パスコード: 5F77Wk

(宮崎大学教員)