南アフリカ概論(後期用)

日程の確認

来週11月15日(木)は金曜日振替で授業なしです。

11月8日

6回目の授業、グレートトレックとマレーシアの発表でした。

最初にテキストの年表を見ながら、

1652年オランダ人の到来

→1795年イギリスがケープに大軍(フランスに取られないように先手)・1806年ケープ植民地政府樹立

→奴隷解放・グレートトレック

→ブラッドリバーの戦い

→1854年イギリス系がケープ州、ナタール州を占有、イギリスがオランダ系のオレンジ自由州、トランスバール州の占有を許可

→1867年に金・1886年にダイヤモンドを発見

→1899-1902年第二次アングローボーア戦争

→1910年南アフリカ連邦成立

の流れを見て行きました。この500年で一番厚かましかったイギリス人の侵略の仕方、そのごの経緯をみれば、今の世の中の構図がわかる、というような話もしました。

一握りの集団(ほぼ3%)が大多数から搾り取っていい思いをする、その構図は制度や主義が違っても、大体同じようで、支配者側は自分の都合のいいように法律を作り、給与体系も決める、そのために一番都合のいいような教育体制も取るし、と言うような話もしました。

結構時間を取って、結局山口くんのグレーとトレックとイルファンくんのマレーシアの発表で時間切れになりました。今回も山口くんの発表は極めてわかりやすかったし、地図や画像をぴったりやってねえ。

イルファンくんのファイルモわかりやすくて、見やすかったし、日本語もほぼ完璧、二人ともほんとに感心しました。

次回は金とダイヤモンドの発見の発表を原くんにやってもらったあと、何曲か聴いてもらいら、英文の続きを牧浦さんにやってもらってから、時間があれば「ガンジ-」やね。

ガンジーとアングロボーア戦争と南アフリカ連邦の成立の発表、だれかやらへんやろか。

その辺りが済んでから、ハラレでの話をしたいと思います。

ハラレで住んだ500坪の借家

ハラレで知り合ったジンバブエ大学の学生アレックス・ムチャデイ・ニョタ

アレックスの住んでた男子寮

配ったプリント:The Struggle for South Africa B4表裏1、ジンバブエ日本語B4表裏1、英語B4表裏1

今日話をしたジンバブエでのことを書いた本については、出版社のメールマガジンに発表したのを奥さんの絵のブログにまとめてリンクしてあります。つまり出版してないけど、一冊をブログで読めるようにしたというわけです。→ジンバブエ滞在記

近いうちにこのブログの書いたものの中に移行するつもりです。

再来週に、また。

感想文、たまたまその日来てなかったから出せなかったと何人か言いに来てましたが、心残りなら、何かに書いて提出してや。それに関して↓

最後に出してもらう授業の感想を毎年読んでるけど、「普段来てないのに課題だけ出してる人には腹が立つ」、とか「普段来てない人と同じ評価だと納得がいかない」とか、結構そんな意見もあって、それなりに妥当性はあると思うんで、ま、いろいろ気を遣うんやろね。

実際203人の登録で、先週は94人。

「出席に縛られないと授業に出られないのも情けないやろ、折角大学に来て豊かな空間を享受出来るのに、出席を取らないと授業に来ない、そんな意識を変えんとあかんのちゃうか」というようなことを言ったと思うけど、実際は毎回減って来て、今や半分以下、そんなもんみたいやね。

そんなに授業に魅力ないか。

今日は100印刷して持って行ったら、全部なくなっていたんで100人ちょっと来てたんやろな。
203人いるのに、100しか印刷して持って行かなくなる現実も、ちょっと哀しいけど、全員分持って行って半分以上持って帰らなあかんのも、それはそれで哀しいもんがあるよ。542人を引き受けてやった時は、もっと規模が大きかったけどね。

来てる人にはきちんとした成績がつけられるように、ま、それに気を遣ってるんやろな。

でも複数の出されたもの(課題や感想文など)を見たら、そら、その人の取り組み姿勢はわかるで。全部読むんやし。

 

 

南アフリカ概論(後期用)

11月1日

5回目の授業でした。書き込みが前日になりました。申しわけないです。

機械は何が起こるかわからんので苦手やなあ。突然音声の調子が悪くなって、「遠い夜明け」の最後まで観て何曲か聴いてもらってから、まだ時間があれば英文をと思ってたけど、映画を最後までで精一杯やったね。

次回は何曲か聴いてもらってから、英文の続きを牧浦さんにやってもらってからグレートトレック(山口くん)→マレーシア(イルファンくん)→金とダイヤモンドの発見(原くん)の発表の予定。最後まで行くとええなあ。

そのガンジー(1894)、アングロボーア戦争(1899-1902)、南アフリカ連邦の成立(1910)と、話を進めたいと思います。

そのあと、アパルトヘイト政権の誕生の話の前に、1992年に家族で暮らしたジンバブエの首都ハラレでの話をしたいと思っています。

アパルトヘイト政権の誕生とアフリカ人の抵抗運動に関する英文とジンバブエの資料を用意しときます。

前回紹介したセスゥル・エイブラハムズ(→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」)さんにあてて僕の「遠い夜明け」の感想文を書いたことがあります。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」

配ったプリント:「遠い夜明け」の感想文B5(次回提出してや、120部用意したけど26余ってたので、半分は来なくなったということやろな。)

また、来週に。

 

南アフリカ概論(後期用)

10月25日

4回目の授業でした。今日中に書いとかなくっちゃねえ。毎回その日に書くのは難しいもんね。今日も昼休みと4コマ目に人が来て、放課後は工学部の入試問題の校正。行くとそれなりにいろいろすることあるなあ。

「遠い夜明け」の続きを見てもらい、映画についてや監督、俳優、原作者のウッズについてなどと、配ったプリントの解説などをしてから、英文の一部を牧浦さんが読んでくれて時間切れでした。その部分の日本語訳は最後に貼っておきます。やった人は細かいところ、比べてみてや。参考になれば嬉しいdえす。

ウッズのように亡命を強いられた人とアパルトヘイトが会った時代に出会ったりしたので、それを書いたものとして残しています。前のホームページにはPDFの形で載せてるけどまだこっちのブログにはタイトルしか移してないので、この機会にこのブログで読めるようにしてリンクを貼るつもりです。出来次第リンクします。

亡命した人で知り合ったのは、ラ・グーマの奥さんとセスゥル・エイブラハムズさん。セスゥルとは1987年に2回(自宅とサンフランシスコでの会議とで)、ラ・グーマの奥さんとはその翌年(会議で)と1992年に(亡命中のロンドンの自宅で)会いました。ラ・グーマはケープのカラード(200万人)の指導者です。

1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事がありました。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANCへの寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。

幸いそのあとに宮崎医科大学に辿り着き、出版社の關さん(テキストを出してくれた門土社の社長さん、東大の医学部を出て医者にならなかったそうです)の薦めと支援があって、ラ・グーマのテキストを2冊と『縄』の翻訳本を出しました。
その後南アフリカの歴史を見渡せるようになり、ビコやソブクエのような気高い人たちを知るにつれ、その人たちを知らないばかりか、一般にアフリカをさげすんでながめ、加害者でありながら「かわいそうなアフリカを援助してやっている」と考える医学生とのあまりの格差に、これは国際交流やグローバル化もくそもないなと思えて、学生と向かうしかなかったような気もします。
ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。いつも言うように、若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、今日もそんなことを言ったと思うけど、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」

課題図書にも入れている『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。


この本の前に 『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラー」ド社会の一面が生き生きと描かれています。(今日配ったプリントで少し紹介しました。)
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。

映画について少し補足を。

ビコの葬式で司会者が最後に何かかけ声をかけてたけどあれはアマンドラ!(Power is!)で、それに対して聴衆が応じていたのはガウェツ(Ours)やそうです。日本と違ってアフリカではリーダー役が大抵は声もよくて呼びかけて(コール)それにみんなが踊ったりしながら呼応する(リスポンズ)形式を取っていたようです。(一般にCall and Responseと言われているようで、西アフリカから無理やり奴隷としてアメリカに連れて行かれた人たちは、キリスト教を押しつけられ、白人の教会で歌われてた歌を聴かされるようになったとき、歌詞は聴いているふりをして白人のものを遣いながら自分たちのリズムやビートを加えて自分たちの文化を歌に込めたようです。それがゴスペルやスプリチャルと言われる所謂ブラックミュージック、それを基本にブルースやジャズ、ソウルなどが歌われるようになって行ったようです。

次回はプリントでも紹介した葬式で歌われていたコシシケレリアフリカを2曲(Soweto Gospel Choirのとグレースランドのフィナーレでの曲)を時間があれば紹介しようと思っています。

次回は映画を最後までと英文の続き、時間があれば歌を紹介、です。

次々回にイルファンくんに①マレーシアの発表をしてもらうけど、②南アフリカ全般について、③グレートトレック、④金・⑤ダイヤモンドの発見、⑥ガンジー、⑦第二次アングロ・ボーア戦争についてを誰か発表せえへんやろか。

配ったプリント:『まして束ねし縄なれば』B4、用語解説B4、コシシケレリアフリカ楽譜B4、コシシケレリの解説B4、グレースランドB表裏

また、来週に。

今日牧浦さんがやってくれた箇所の日本語訳

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS 英国人とボーア人の対立

The Boers had every reason to be suspicious of British capital. They viewed the railway with apprehension; it wound northwards from the Cape, and charged heavy freight fees and duties in the harbour. The Boers wanted to keep the gold-rich areas for themselves, and they looked for allies. The rivalry between the European imperialist powers in `the scramble for Africa’ gave the Boers a new chance to get rid of their dependence on the British harbours. With German and Dutch capital a railway line was built from Transvaal to the Mozambican coast.

ボーア人がイギリス資本を信用しないのには充分な理由がありました。ボーア人は、不安な思いで鉄道を見ていました。それはケープから北の方へ延び、通行料金と港での税金を課しました。ボーア人は自分のために金の埋蔵量が豊かな地域を維持したかったので、同盟国を探しました。アフリカ争奪戦でのヨーロッパの帝国主義列強間の競争は、ボーア人にイギリスの港の依存を取り除く新しい機会を与えました。ドイツとオランダの資本で鉄道がトランスヴァールからモザンピークの海岸間に建設されました。

The ruling Boers in Transvaal tried to channel income from the British-owned mines there to themselves. The tense situation between the Boers and the British led to the second Anglo-Boer War in 1899. It ended in 1902 with victory for British imperialism. Cruelties were committed on both sides, but the concentration camps set up by the British for Boer women and children left especially bitter scars.

トランスヴァールを支配するボーア人は自分たちの方に、イギリスに所有された鉱山からの収入を向けようと努力しました。ボーア人とイギリス人との間の緊張した状況は1899年の第二次アングローボーア戦争を生みました。1902年にイギリスの帝国主義者の勝利で戦争は終了しました。双方で残虐行為が行われましたが、イギリス人がボーア人女性と子供用に建設した強制収容所は、ボーア人に特に酷い傷跡を残しました。

最初から今日牧浦さんがやってくれた箇所の前までの日本語訳も貼っておきます。たぶん、全体の流れがわかりやすくなると思います。

The Struggle for South Africa

in Africa and Its Descendants (Mondo Books, 1995) Chapter 2, pp. 40-70

THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化

When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.

南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。

The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.

オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。

Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.

会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。

The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.

南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。

Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.

イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。

By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.

1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。

The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).

イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)

The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.

イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。

THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長

The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.

まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。

The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.

地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。

 

南アフリカ概論(後期用)

10月18日

3回目の授業でした。

「遠い夜明け」の続きを見てもらうつもりが、岩切くんと山口くんの発表(オランダ人とイギリス人)に感心して、発表してくれた内容に関連する映像と、1652年にオランダ人がやって来た辺りから1910年の南アフリカ連邦成立までの流れをテキストと巻末の年表でざっと辿りました。オランダ仁の到来から南アフリカ連邦の成立までは、これでだいぶ理解してもらえたやろか。ヨーロッパ人がアフリカ人から土地を奪って無産者にして課税、安価な短期契約の賃金労働者として働かせる一大労働者搾取機構を打ち立てた、というのが侵略の形態の骨子なので、時間をたくさん使いました。

岩切くんも山口くんもしっかりと調べて、落ち着いてわかりやすかったです。どちらも前期の英語の授業で会っていて、後期も授業を取ってもらえて光栄です。他にもたくさん取ってくれてるのは嬉しい限りです。

映像はオランダ人に奴隷にされ、ブッシュマンと蔑まれたサン人、オランダ人が東洋への中継地として立ち寄ったケープの海からの様子、「遠い夜明け」の冒頭の場面で出て来ていたケープタウンのクロスローヅから見たテーブルマウンティンの景色、1885年前後に開かれてベルリン会議での植民地分割の模様、でした。

映像は紹介する時間はなかったけど、レオポルト2世の植民地「コンゴ自由国」コンゴの独立と首相ルムンバが暗殺されたコンゴ危機、それにその地で発生したエボラ出血熱騒動の話をしました。

 

その辺りについてはまとめて雑誌に書きました。→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」

テキストの第4章 「アフリカ史のなかで」も併せて読むとわかりやすいと思います。

この前書いたその辺りの歴史の流れをもう一度貼っておきます。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントはなしです。

次回は今日は観られなかった映画の続きをみて、→英文(THE CONFLICT ~, THE UNION~、牧浦さん)を読んで、そのあと英語で解説したいと思っています。

それでも時間があれば、歌も少々紹介出来るとええけどねえ。

次々回にイルファンくんにマレーシアの発表をしてもらうけど、南アフリカ全般について誰か発表せえへんやろか。

また、来週に。