まとめてみると、結構いろいろやったわけやね。成績も出して、一段落。後期は工学部の授業はないけど、来年の前期で新入生のクラスを持つかもね。授業では会わないけど、いつでもどうぞ。
トーイックの続き⑩以降も作っておくんで、要る人は遠慮なく。
もちろん、トーイック、スコアをあげる必要性が出たり、やって見る気になったときは、いつでも手伝うつもりです。もう先は長くないと思うけど、手伝いを頼まれた地域資源創成学部の今の3年生が卒業するまでは居るつもりなんで。
******************
<南アフリカ概論(前期用)について>
概要
毎回映像を観てもらい、歌も出来れば一曲は聴いてもらうつもりです。発表や議論も期待しています。楽しみながら、いろいろと考える機会になれば嬉しいです。
授業では映像や資料をたくさん使い、映画も見てもらうつもりです。楽しくやれるといいですねえ。今までの価値観や歴史観を自分のために問い直し、自分について考える貴重な時間になればと願っています。
僕のブログは「ノアと三太」https://kojimakei.jp/tamaで、今まで書いたものなども載せています。クラス専用のページを使う予定です。アクセス制限をかけています。
ユーザー名( c2018saa ) パスワード( xr9C )
メール:tamadayoshiyuki@gmail.comもどうぞ。
評価
評価には懐疑的ですが、提出物(自己紹介、感想、課題など)と授業への関わり(発表、コメント、討論など)を総合的に評価する予定です。課題の提出がない時は未受験です。
エセイ=仮説を立てての論証文(課題図書を最低一冊は読む)を二つ、期日までに(1回目は5月29日、2回目は7月10日)提出して下さい。早いのは歓迎です。期日後は受けず未受験扱いにしますので、来年度他で取って下さい。
<明日から授業です。>
4月9日
明日から授業です。よろしく、ね。
<1回目>
4月10日
第1回目の授業でした。たくさん受講してくれてありがと。楽しくやれそう?
今日は受講者を決定するだけで精一杯でした。何とか決まってよかったです。ほんとは全部引き受けられるとええんやけど。
大学や学生、授業についてなどいろいろ話をしました。
金や権力を持っている人たちの都合で世の中がまわっていて、法律も自分たちのために作り、給与体系も自分たちに都合のいいようにこしらえ、その体制を維持するためには、たとえば人身売買(奴隷貿易)もするし、ただ働きをさせる(植民地支配)も何憚ることなくやってのける、その体制を守るための武器も開発し、ほぼ永遠に放射能を出し続ける核兵器も作って、実際に日本で人体実験までしてしまった、そんな話をしました。南アフリカはそういった過程の縮図です。
次回は最初に自己紹介の用紙を集めてから、歴史の話を始めます。音楽も聞いてもらい、実際に発表してもらう人を決めたいと思います。
①今日配った英文のプリントも誰かに読んでもらいたいし、今日少し誰かやらへんかと言った、最初に南アフリカに来た入植者
②オランダ人と
③イギリス人についても誰かに発表してもらいたいと思います。
アパルトヘイト時代に国内でロケできなくてジンバブエで作られた「遠い夜明け」(Cry Freedom)は長いけど、先ずは実態を感じるのに、次回から分けて観てもらうつもりです。通して観たい人はDVDにしてますので、いつでもどうぞ。
今日は説明する時間はなかったけど、課題についても解説したいと思います。
課題図書の古いのは*をつけて画像にしてCDに入れています。資料もつけて渡せるので、メールで直接でも言ってくれれば用意するよ。
テキスト『アフリカ文化論』は生協は僕から直接買ってや。僕も20万ほど出して無理して印刷してもらったんで、協力してもらえると有り難いです。
配ったプリント:自己紹介用紙(次回出してや)、僕の自己紹介、授業と評価と課題について
基礎教育支援課の工藤さんと宮川さんと、地域資源創成学部の日高さんに手伝ってもらえて助かりました。
また、来週に。
<2回目>
4月17日
2回目でした。
ブログを確認したあと、しばらく日本と南アフリカの関係などについて話をしたあと、年表を見ながら大ざっぱに歴史の流れを話しました。
大きな山は3つ、
①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた
②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動
③白人政権と日本の関係
です。その順番で行こうと思っています。
残った時間でSoweto gospel Choirの冒頭とVuma(ZuluのTraditional Song)とAmazing Graceを観て、聴いてもらいました。どうやったやろか。
Amazing Grace、いろんな人が歌っているCDがあるので、聴きたい人は掲示板で知らせてもらえれば、参考ファイルにmp3を置けるよ。遠慮なく。
次回は最初に何人かのコメントを聞いてから、
①オランダ人(医学科江藤さん)→②イギリス人(工学部セナくん)→③英文(前半工学部相澤くん、後半工学部嶋田くん)の順で発表してもらい、時間に余裕があれば「遠い夜明け」(Cry Freedom)の初めの方を観てもらえればと思っています。
今回も説明する時間がなかったけど、課題についても解説しとかんとね。
提出してもらった自己紹介はチェックしてもらったあと、ざっと読みました。202名で9割くらいの人が出してくれていました。少しでも名前が覚えられるとええけどね。
配ったプリントは今回はなしです。
また、来週に。
<3回目>
4月25日
もう3回目やったね。今は木花の部屋でこのページを書いてるけど、このあと医学科の部屋にいくつもり、雨、難儀やねえ。
3週目、だいぶ慣れたやろか。今週が終われば、一息つけるね。
ブログを確認したあと、オランダ人について医学科の江藤さんが、イギリス人について工学部のセナくんが発表してくれました。
二人とも、すごかったねえ。セナくんの日本語も何とも言えんけど、内容もそれ以上になかなか。それに二人とも落ち着いてたし、ほんとすごい。
次回英文(前半工学部相澤くん、後半工学部嶋田くん)を読んで、今日発表してくれた内容を確かめようと思います。
金とダイヤモンドの発見やズールー戦争などの映像もあるので見てもらえると思います。
「遠い夜明け」(Cry Freedom)の最初の方は是非観てもらいたいなあ。
今日の話は
①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた
の部分と、少し②のアパルトヘイト政権の部分も入っていました。先ずは①の部分から確認やね。年代順に箇条書きにしてまとめておきます。
*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)
配ったプリントはSoweto Gospel Choirと用語の解説です。英語で説明する前に、意味をチェックして解説するつもりです。
この前はファイルをアップロードする余裕がなかったけど、Soweto Gospel ChoirのAmazing Graceの映像ファイルを置いときます。
また、来週に。
<4回目>
5月8日
4回目の授業でした。
前回の授業でも「午前中あまり降ってなかったけど、午後からは雨になりました。行き帰りがなかなか難儀です。」と書いたけど、今日もまた雨。行きは何とか合間に辿り着けたけど、帰りはほんとの土砂降り。
プリントも配った「遠い夜明け」を少しでも観てもらうつもりやったけど、観てもらうどころか、英文もやっとやったねえ。次回はその解説も。全文の日本語訳も印刷してるので、細かいところは自分で確認してや。
今日もいろいろしゃべったねえ。特に、今の日本の体制について。ほんとは先進国である日本が第三世界から搾り取って潤っているのに、当事者、加害者側にいる日本人の大半は、加害者意識はなく、実際にはそんなことを考えたことがない場合も多い、みたいな話でした。
それと、自分について考えるのが如何に大事かみたいな話。実際に自分が何に向いていて、何がやりたいかがわかってやり始めると、することが無限に広がって来るみたいな話。是非、大学の豊かな空間で、自分の選択について、自分の適性ややりたいことについて、将来について考えてほしいと思っています。
それには今まで馴染みのなかった南アフリカなどの話は、いい材料になると思います。
次回は最初から「遠い夜明け」、それから今日の解説の続きと英語での解説。
配ったプリントは「遠い夜明け」の1988年の新聞広告(表裏)と、主演のデンデル・ワシントンと原作者のドナルド・ウッズと、「ネルソン・マンデラ」を歌ったユッスー・ンドゥール(表)と試写会の割引券。主演のデンデル・ワシントン↓
1990年に来日して昭和女子大のコンサートで歌った「ネルソン・マンデラ」を紹介するつもりです。
また、来週に。
<5回目>
5月15日
5回目の授業でした。三分の一が済んでしまったわけやね。
いい天気が続いています。
「遠い夜明け」の編集版を観てもらいました。何人かに感想を言ってもらって時間切れでした。
映画の補足や、書いたものなどの紹介もしておきます。
この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。次回観てもらう予定の「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。「ガンジー」でも暗殺の場面を最初に持ってきました。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようです。今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。
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The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.
バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。
REFERENCE 3 参照3
We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”
米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」
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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。
ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。
Cry Freedom_The first meeting
Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.
Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。
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自己意識の話と、アレックス・ラ・グーマの話を補足しときます。
今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。
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白人優位・黒人蔑視
奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。
基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]
南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。
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↑ホームページにはpdfをダウンロード出来るようにしてましたが、今回ブログに書きました。リンクしておきます。↓
「自己意識と侵略の歴史」
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アレックス・ラ・グーマについても少々書いておきます。
1992年にロンドンで亡命中のラ・グーマの奥さんにお会いした話をしましたが、ラ・グーマはケープのカラード(200万人)の指導者です。
1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)
・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANCへの寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。
幸いそのあとに宮崎医科大学に辿り着き、出版社の關さん(テキストを出してくれてる門土社の社長さん)の薦めと支援があって、ラ・グーマのテキストを2冊と『縄』の翻訳本を出したけど、すべて医学生のためやったみたい。
その後南アフリカの歴史を見渡せるようになり、ビコやソブクエのような気高い人たちを知るにつれ、その人たちを知らないばかりか、一般にアフリカをさげすんでながめ、加害者でありながら「かわいそうなアフリカを援助してやっている」と考える医学生とのあまりの格差に、これは国際交流やグローバルもくそもないな、と学生と向かうしかなかったような気もするけど。What a lovely surprise to hear from you after such a long time! のsuch a long timeは、南アフリカの哀しい深淵をのぞき、学生と向き合うばかりでセスゥルには何も言えなかった空白だったような気がするなあ。
十数年も前に出して授業でも使った2冊のテキストと翻訳本一冊とセスゥルに報告も兼ねて送るつもりやけど、まだ送れずじまいです。アパルトヘイト前に亡命中のセスゥルを訪ねた日本人は僕だけやからねえ。
ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。いつも言うように、若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、今日もそんなことを言ったと思うけど、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。
課題図書にもいれている『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。
この本の前に 『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラー」ド社会の一面が生き生きと描かれています。
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。
A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。
宮崎には来ませんでしたが「ワールドアパート」もなかなかしんみりとした映画でした。解説を載せておきます。それもDVDにしてますので、どうぞ。
→「ワールドアパート」 1987年、イギリス映画、1時間53分
1961年の南アフリカ共和国。13歳の少女、モリーの両親は反アパルトヘイトの熱心な活動家だった。一家を取り巻く状況は次第に悪化、弁護士の父は国外へ逃亡、ジャーナリストの母もついに逮捕されてしまう。一人になったモリーの不安は募るばかり。ある日メイドの黒人エルシーの実家を訪れたモリーは、そこでアパルトヘイトの過酷な現実を目の当たりにする……。白人運動家の一家にふりかかる様々な弾圧を、多感な少女のまなざしを通して描く人間ドラマ。
次回は英文の解説と、1652年から1910年くらいまでの映像をしょうかいしてから、ガンジーの発表(地域2年二人)を聞いてからガンジーの映像を観てもらうつもりです。
「遠い夜明け」、全部を見たい人はコピーしてますので、いつでもどうぞ。
配ったプリントは「遠い夜明け」の感想のプリント(B5)→次回顔を見ながら集めます。来た人から出してや。
また、来週に。
<6回目>
5月22日
6回目の授業でした。
もう梅雨に入ったんかねえ、というくらい鬱陶しい日が続いています。
最初に農業が社会基盤のオランダ人が来て、あとからフランスにインド航路の通過点を取られまいと大軍を送ったイギリス人が来て。
オランダ人はイギリス人との権力闘争に負けて富裕層は牛車に家財道具一式を乗せて内陸部に、そこでアフリカ人と衝突。それでも1854年ころまでには海岸部の肥えたケープ州とナタール州をイギリスが領有、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州のオランダ人による自治をイギリスが承認する形で落ち着いたものの、オランダ人の2州で金とダイヤモンドが発見されて、その採掘権を巡って両者が戦争、結局途中で戦争をやめてアフリカ人を搾取する点で連合政権を樹立、それが南アフリカ連邦、1910年のことでした、そんな話を、先にまとめました。
金とダイヤモンドの発見と南アフリカ連邦の成立の間くらいに、ガンジーが弁護士としてナタール州のダーバンから首都のプレトリアに列車に乗ったときの話から始まる映画の一部をみてもらいました。
その前に地域資源創成学部2年冨山さんと原田さんが詳しく発表してくれました。二人の発表が堂々としてわかりやすかったこともあって、映画の内容がよりわかりやすかったね。二人の発表に感心しました。
監督のリチャード・アッテンボローが映画の冒頭に持って来た暗殺の場面は観てもらえなかったけど、ね。
そのあと英文を少しチェックしました。
次回は英文の解説の続きと、1652年から1910年くらいまでの映像の紹介をと考えています。
ヒューマセケラのトランペットと歌も聞いてもらえるかな。
みんなには考えてもらいたいので、今日言った
①連立政権で始まったのに、第二次世界大戦後の1948年の総選挙でどうしてアフリカーナーが過半数を取ってアパルトヘイト政権が誕生したのか、
②そのアパルトヘイト政権とはどんなものだったのか、
について誰かに発表してもらって、みんで意見を出して合ってもらいたいと思っています。誰か是非発表してや。
この前は時間を取って「書いたもの」を作り、わりと気合いを入れて書いたけど、今日はこのくらいに。
毎回忘れないように書くのも、なかなかきついです。
「遠い夜明け」の感想文を集めました。次回は1回目の課題の提出です。原題はCRY FREEDOM、もともとピーター・エイブラハムズというカラードの作家がTELL FREEDOMという小説を1950年代に書いていて(Mine Boyと並んでこのころの傑作)、そのときに比べて状況がより厳しくなって、TellがCryに変わった、とう感じやないやろか。作者のDonald Woodsはそれを意識してたと思うよ。セナくん、それで納得がいくやろか。(感想文に原題のことを書いてたんで。)
配ったプリントは英文1の日本語訳(B4表裏2)
英文2のアパルトヘイト政権とアフリカ人の解放闘争の分を印刷しときます。
また、来週に。
<課題を郵便受けに入れた人に>
今日研究室に行ったら、郵便受けに結構課題と感想文が入っていました。教育実習で提出日に来られない人のようですが、連絡もメモもなく、本文に説明もないようです。
最初に配った課題のプリントでも書いたように、提出日の授業時に直接手渡して下さい。出されたものは、学生支援課の工藤さんにお願いして返却します。
4月に期日は示してあるし、教育実習の日程もわかっているわけやから、郵便受けに黙って出すというのはあり得ないと思います。
そもそも教育実習は公欠扱いではないので、担当者によっては欠席を認めてない人もいます。学部から配慮の要請は来ていますが、決めるのは担当者です。要は、受ける側の気持ちの問題でもあるんやないやろか。
実際、予め断って先週の授業で出した人もいるし。試験に代わるものやから、僕は出されたものを評価するしかないわけです。お互いのために出席は取らないと言ってあるし、出されたものがないと成績は出せないよね。お互いに事情がわかったうえで授業をやり、みんなは授業を受けているんやから、気持ちの通う付き合いをしようや。
今日提出していた人は、教育実習に行くとするといつか立場が教員になる可能性も高いわけで、立場を逆にして考えるとええんやないやろか。
試験に代わる課題の提出日が決まっていて、その日に教育実習があって出席出来ない場合の対応について、もし気持ちがあるなら、黙って郵便受けには入れないやろ、と思うんやけど。
単位を出さへんでと言ってるわけやないけど、黙って郵便受けに入れる、はないと思う。
<7回目>
5月29日
7回目の授業でした。
行きは雨がひどかったね。帰りは降ってなくて助かりました。今週の日曜日は自治会の一斉清掃、長いこと住んでると自治会の役員がまわってきて、へたすると会長を押しつけられそうでした。そのときは辞めるつもりやったけど、やってくれる人が現われて。結局安全衛生の係、年に2回の清掃に、防犯灯の管理やら何やら結構することがあるようです。すでに連絡網などのプリントも三種類こしらえした。清掃の当日に配るペットボトルも300本ほど、とても自転車で運べる代物ではないので、運ぶのを手伝ってもらいました。清掃区域の地図をラミネートコートしたり、ほんまええ加減にせいやと言いたくなります。何より月に一回水曜日の夜に役員会、そんな余裕はないのにねえ。3月末から4月一杯は、大きなことが舞い込んで、その合間に授業と授業の準備としたという感じでした。後期が終わってからすぐに地域資源創成学部で使うトーイック用のプリントと医学科で使う医学用語のプリント(結構な数でした)を予め用意しといてよかったとしみじみ思いました。
これを書いているとき、会長を引き受けてくれはった人から電話、ごみの苦情があったので木曜日の八時前にその班のごみの集積所に立っておこうという話でした。外部の人か新しく入居された人かが出したごみの分別が出来てなくて集めてもらえないままに放置されているからという苦情が班長さんから入ったからやそうです。
ま、いろいろあるよねえ。いっとき生活する学生の立場は、そんな煩わしいこととは無縁でいられて、ええよねえ。
最初に1回目の課題を集め、教育学部の人が黙って郵便ポストに課題を入れて行った話も含めて、課題の提出について30分ほど話をしました。
2回目は期日までに直接手渡して下さい。それ以降は原則的に受け付けないんで、そのつもりで。
英文の解説の続きをして、映像を少々。
カラハリ砂漠に住むサン人(ブッシュマンと西洋人から蔑まれて呼ばれてきた人たち)の貴重な映像、ダイヤモンドの発見時の映像(セシル・ローズの映像も)、ケープの喜望峰とグレート・トレックの映像、ズールー戦争の映像、リザーブ(白人がアフリカ人から土地を奪って代わりにアフリカ人にあてがった不毛の土地)の映像、白人の砂糖きび農園で働かされる12歳のアフリカ人少年の映像を見てもらいました。
次回は金鉱山で働かされる労働者の映像を紹介してから、ヒューマセケラのトランペット演奏と歌も聞いてもらい、
①連立政権で始まったのに、第二次世界大戦後の1948年の総選挙でどうしてアフリカーナーが過半数を取ってアパルトヘイト政権が誕生したのか、
をみんなで考えてみてもらうつもりです。いろんな意見を出してや。
そのあと、
②そのアパルトヘイト政権とはどんなものだったのか、
については、1回目の課題でアパルトヘイトを取り上げた工学部の佐野くんが発表してくれるそうです。
早めに、課題を読んで講評を書けたらと思っています。
英文の続きも用意せんとあかんね。土日で印刷しときます。
また、来週に。
<8回目>
6月5日
8回目の授業でした。
最初に工学部の佐野くんがアパルトヘイト制度について発表してくれました。
そのあと、
1910年に連立政権で始まったのに、第二次世界大戦後の1948年の総選挙でどうしてアフリカーナーが過半数を取ってアパルトヘイト政権が誕生したのか、
について、意見がなかったので、結局僕が話をしました。
WHITWE/ASIAN/COLOURED/BLACKの人口比、白人13%だけの総選挙でのイギリス系とオランダ系人口比率4対6、オランダ系の大半が貧乏白人、その人たちのほとんどがアパルトヘイト政策をスローガンに掲げる国民党に投票→結果的にアフリカーナーが過半数を獲得
大体そんな流れでした。
次回は
40年代、50年代、60年代のアフリカ人による抵抗運動(二つ目の山です、それが終わったら、あとは南アフリカと日本の関係。そこで「アフリカの蹄」をみてもらうつもりです)
① 1955年の全人種による国民会議とその指導者を逮捕して起訴した反逆裁判
② ANCから別れたPACが起こした行動へ警察が過剰反応、結果無防備なアフリカ人を無差別に銃撃(シャープヴィルの虐殺↓写真)→国際的に非難ごうごう、(みせかけの)国連による経済制裁、アフリカ人による武力闘争の開始
③ マンデラが逮捕されて終身刑を言い渡されるリボニアの裁判
②を、地域2年の冨山さんと原田さんのコンビがまた発表してくれるようで。
①と③を誰かやらへんか?
映像は1970年代初めと1980年代後半の金鉱山。
ヒューマセケラ(写真↓)のトランペット演奏と歌「スティメラ」の映像も観て、聴いてもらいました。
8週目が済みました。あしたから東京。三日ほど日常から離れて、あと7週、今回は夏休みの充電期間が長くなるように、早めに課題を読んで成績をつけようと思っているけど、どうなるやろねえ。
また、来週に。
<9回目>
6月12日
9回目の授業でした。
二つ目の山、40~60年代のアフリカ人による抵抗運動
①1955年の国民会議と反逆裁判
→②PACの抗議行動が引き金になったャープヴィルの虐殺
→③マンデラの逮捕とリボニアの裁判の流れをまとめたあと、
先に②についての冨山さんと原田さん(地域2年)の発表先を聞きました。公表されている情報できれいにまとめてたね。落ち着いて発表もなかなか、ファイルもみやすかったです。
配ったプリント7:英文①の日本語訳2、英文②1、ラ・グーマ1、歌2、翻訳など1
歌も何曲か紹介しました。
最初にポール・サイモンが心酔していたエルビス・プレスリーの映像を紹介、
そのあとグレースランドの最初の曲Township Jiveと、最後のコシシケレリアフリカ、それにSoweto Gospel Choirのコシシケレリアフリカ、ついでにサリフ・ケイタの曲とミリアム・マケバのSoweto Bluesを聴いてもらいました。
エルビス・プレスリーの映像で観たB・B・キングが言っていた「教会で歌うゴスペル、教会の外で歌う世俗的なブルースも内容は同じ」という言葉は、ブラックミュージックを理解する上での一つの指標になると思います。
次回もう一回国民会議からリボニアの裁判までの話をしてから、「アフリカの蹄」をみてもらうつもりです。
<附録1>
まとめの意味で、アパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動に関して箇条書きにしておきます。
第二次世界大戦で大きくヨーロッパの国力が低下
→それまで抑圧されていた人たちが独立・自由を求めて闘争
→南アフリカでも、旧世代に飽き足らない若者がANC青年同盟(1943)を結成してデモやストライキなどで激しく闘争を展開
→当時の与党イギリス系の統一党は事態の収拾が出来ず
→1948年に総選挙→アフリカナーの野党国民党はアパルトヘイト(人種隔離)をスローガンに掲げ、人種によって賃金の格差をつけ、本来社会の最底辺のプアホワイト=アフリカーナーの大半の農民を優遇することを約束
→白人人口の60%のうちの大半のプアホワイトが国民党に投票→オランダ系アフリカーナーが議席の過半数を獲得
→アパルトヘイト政権の誕生
→体制を強化(人口登録法で人種の明確化、集団地域法で居住区を限定、共産主義弾圧法で反体制勢力を弾圧)
→アパルトヘイト政権に対抗してANCの闘争は激化
→1955年にクリップタウン郊外で全人種による国民会議、自由憲章を採択→指導者156名を逮捕して裁判にかけ、全員の死刑をはかる
→結果的には無罪
→ANCの中でアフリカ人だけで戦うという理想派(ソブクエがリーダー)とアパルトヘイトを廃止するためなら白人とも共産主義者とも共闘する現実派(マンデラ・タンボがリーダー)が1959年にANCを分裂させる(白人にとっては願ってもないチャンス、アフリカ人側の抵抗力が半減)
→1960年3月ソブクエがパス法不携帯で警察に出頭して法改正を迫る戦略を開始、マンデラは時期尚早と不参加
→シャープヴィル・ランガなどで警官が無差別に発砲(シャープヴィルの虐殺)
→社会は騒然、ソブクエは逮捕され、政府はソブクエ一人のためにソブクエクローズを制定してロベン島に孤独拘禁
→騒乱に乗じてANCがパス法を焼く闘争を展開
→それまでの非暴力戦略を捨てて武力闘争・破壊活動を開始
→政府は非常事態宣言を出して弾圧を強化
→国連は非難決議・経済制裁を開始
→白人政府は親書を各国に送り協力を要請→日本と西ドイツだけが要請に応じて通商条約を再締結
→見返りに白人政府は居住区に関する限り白人並に扱うという名誉白人の権利を附与
→マンデラは国外に出て資金集め・ロンドンのBBCで武力闘争開始宣言
→アパルトヘイト政権は弾圧を強化
→帰国後マンデラは逮捕され裁判にかけられる
→1964年マンデラ他8名に終身刑、以降1990年まで獄中生活。指導者は殺されるか、国外逃亡か、獄中かのいづれかで、指導者はいなくなる暗黒時代に
→日本は東京オリンピックを開催して高度経済成長の時代に突入
<附録2>
破壊活動法の新聞記事でアレックス・ラ・グーマを紹介したので、少し補足しときます。
ラ・グーマも今日話をしたアフリカ人の抵抗運動のケープのカラード(200万人)の指導者です。
1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)
・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANCへの寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。
幸いそのあとに宮崎医科大学に辿り着き、出版社の關さん(テキストを出してくれてる門土社の社長さん)の薦めと支援があって、ラ・グーマのテキストを2冊と『縄』の翻訳本を出してもらいました。
その後南アフリカの歴史を見渡せるようになり、ビコやソブクエのような気高い人たちを知るにつれ、その人たちを知らないばかりか、一般にアフリカをさげすんでながめ、加害者でありながら「かわいそうなアフリカを援助してやっている」と考える学生とのあまりの格差に、これは国際交流やグローバルもくそもないな、と思いました。
ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。
若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。
課題図書にもいれている『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。
この本の前に (既に品切れになっている)『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。今日紹介した新聞記事の中にBANNED BY THE SABOTAGE ACT(破壊活動法によって発禁処分を受けた)と見出しにあった分です。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラード」社会の一面が生き生きと描かれています。
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。
他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。
A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。
宮崎には来ませんでしたが「ワールドアパート」もなかなかしんみりとした映画でした。解説を載せておきます。それもDVDにしてますので、どうぞ。
「ワールドアパート」1987年、イギリス映画、1時間53分 eiga.com http://eiga.com/movie/51078
1961年の南アフリカ共和国。13歳の少女、モリーの両親は反アパルトヘイトの熱心な活動家だった。一家を取り巻く状況は次第に悪化、弁護士の父は国外へ逃亡、ジャーナリストの母もついに逮捕されてしまう。一人になったモリーの不安は募るばかり。ある日メイドの黒人エルシー
の実家を訪れたモリーは、そこでアパルトヘイトの過酷な現実を目の当たりにする……。白人運動家の一家にふりかかる様々な弾圧を、多感な少女のまなざしを通して描く人間ドラマ。
<附録3>
服部くんに頼んで書いてもらったSalif Keitaです。
【サリフ・ケイタ】
西アフリカ、マリ共和国出身のミュージシャンで、ユッスー・ンドゥールと並ぶ、現代アフリカ・ポピュラー・ミュージックのカリスマ。
1949年、現在のマリ共和国の首都バマコの郊外、ニジェール川沿いの町ジョリバに生まれる。彼の家系は、13世紀に古代マリ帝国を興したマリンケ人の英雄、スンディアタ・ケイタの直系であり、王家の血筋を引く高貴な家柄であったことから、アルビノ(先天性白皮症)として生まれた彼は、不吉な徴として父親からも疎まれ、また、周囲の偏見、差別にも苦しめられたという。
幼年期に音楽に目覚めた彼は、音楽家になることを夢見ていたが、「音楽はグリオ(伝統の音楽や叙事詩を伝承する語り部)の家系の者がやるべき卑しい仕事だ」と考える厳格な父の反対に遭い、いったんは教職に就こうとする(グリオは儀式や娯楽には必要とされる一方で、「嘘吐き」「盗人」の代名詞のような社会的に軽蔑された存在でもあった)。しかし、アルビノであることが原因で視力に恵まれず、教師になることも断念せざるを得なかった彼は、結局、父の反対をおして音楽の道へ進むことを決意する。1968年、勘当同然で故郷を飛び出しバマコへ向かった彼は、市場に野宿しながら街角で弾き語りを始め、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートしたが、その後、マリ政府が支援していたレイル・バンドやアンバサドゥールというバンド(ともに国営ホテルの専属バンド)にヴォーカリストとして参加する。この2つのバンドからは、後に「イェケ・イェケ」を欧米で大ヒットさせたモリ・カンテ(マリ)をはじめ、カンテ・マンフィーラ、ウスマン・クヤテ(ともにギニア)など、重要なミュージシャンが数多く輩出されている(ちなみに、「カンテ」や「クヤテ」というのはグリオの代表的な家系の名である)。特に、アンバサドゥールは、当初、ジャズやラテンを主なレパートリーとしていたが、サリフらの加入によってアフリカの伝統色を強めたサウンドに変化していき、1978年に発表されたアルバム『MANDJOU』は西アフリカ全域で大ヒットした。この時期のサリフは、マリやギニアの伝統音楽のほか、キューバ音楽、アメリカのソウル・ミュージックやロック、スペインのフラメンコなど多様な音楽の影響を受けたという。その後、NYでのアルバム・レコーディングも経験し、そこからシングルカットされた『PRIMPIN』の大ヒットによって西アフリカにおける人気を不動のものとした(彼らのNYレコーディングの世話をしたのが、当時アメリカ駐在中だったギニアの若き外交官、オスマン・サンコン氏であったという)。しかし、1982年、サリフはアンバサドゥールを脱退し、当時、アフロ・ムーヴメントが興りつつあったフランスのパリへ1984年に移住。1985年にマヌ・ディバンゴ(カメルーン)が企画した、エチオピア飢餓救済のためのチャリティー・アルバム『タム・タム・アフリカ』に、キング・サニー・アデ(ナイジェリア)、ユッスー・ンドゥール(セネガル)、モリ・カンテなどと共に参加し、一躍その名を知られるようになる。
1987年にソロ・デビュー・アルバム『SORO』を発表。当時、流行していたエレクトリックなサウンドとマリの伝統的な音楽スタイルが融合した傑作として国際的な評価を受けたほか、ヨーロッパ・ツアーも大成功を収め、当時の「ワールド・ミュージック・ブーム」を背景に彼と前後して世界デビューを果たした、モリ・カンテ、ユッスー・ンドゥール、パパ・ウェンバ(旧ザイール)らの音楽と合わせて、アフリカ現代ポップスの多様性や魅力を世界に知らしめることとなった。その後、『KO-YAN』(1989年)、『AMEN』(1991年)、『FOLON』(1994年)、『BEST』(1994年)、『PAPA』(1999年)、『MOFFOU』(2002年)といったアルバムを順調にリリースしているほか、彼が好きだというフレンチ・ポップスのカバー集『SOSIE』といった異色作も発表している。
ライブ活動においても、1988年にロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われたネルソン・マンデラ(当時、まだ獄中にいた)支援のための大コンサートへ参加したのをはじめ、WOMAD(World of Music and Dance:民族音楽・芸術の祭典)など数多くの音楽フェスティバルやイベントに参加し、その評価を確立した。1997年、マンデラ大統領の80歳を祝う南アでのコンサートでスティービー・ワンダーらと共演。1999年の坂本龍一のオペラ「Life」への参加を含め、何度も来日している。
1991年にマリが民主化されたのを機に、彼は祖国への回帰を強め、現在はパリを拠点に世界的な活動を継続する一方、バマコに設立した彼のスタジオを中心として、マリの才能ある若いミュージシャンの育成にも多くの時間を費やしている。また、社会的弱者にはあくまでも優しく、1990年に自ら設立した「SOSアルビノ」という組織で、自分と同じ境遇で恵まれない人々への支援を続けているほか、来日した際には、自ら申し出て重度障害者施設などを訪問しているという。
彼はアフリカのみならず欧米の様々なミュージシャンとコラボレーションを行い、マリの音楽をベースにした独自の現代アフリカン・ポップスの創造を続けているが、その原動力の根底にあるのは、祝福されない子として生まれてきた彼自身の境遇であろう。「世界は進化するものだ。でも、進化ってなんだい? 進化のプロセスとは、次の世代の裏切りで成り立つものさ。貴族は演奏しないのが伝統だったし、今もそうだ。だが僕の心の奥ではそんなことは問題じゃない。それは暮らしを立てるための正当な方法なんだ。コソ泥になるよりはミュージシャンを選ぶさ」と語る彼の言葉には、正当な貴族にも正当なグリオにもなれなかった彼自身の境遇(および周囲)への強烈な対抗心が感じられる。また、ステージなどにおける容易に他人を寄せつけようとしないかのようなあの独特な緊張感を、彼の高貴な生まれによるものと考える向きもあるが、私には幼い頃からの彼の苦悩が少なからず反映されているように思われる。しかし、アルビノであるという大きなハンディキャップと引き替えに、彼には「アフリカの黄金の声」と称賛される、比類なきヴォーカルと音楽センスが与えられていた。そして、自分に立ちはだかる困難に対して、「苦悩を歌にぶつけるだけだ。過酷な状況が私の力を引き出してくれる」と語ることのできるポジティブさも。
自分自身の存在やアイデンティティを証明するために、そうした天賦の才を最大限に発揮できる方法を模索し続けることで、ユッスー・ンドゥールなどと同様、彼は新しいグリオのスタイルを確立していると言えるのではないだろうか。
<附録4>
ミリアム・マケバの訃報情報から
1932年3月4日にヨハネスブルク(Johannesburg)で、スワジ(Swazi)人の母親とコサ(Xhosa)人の父親の間に生まれた。南アフリカの人気バンド「マンハッタン・ブラザーズ(Manhattan Brothers)」の女性ボーカルとしてデビュー。1959年の全米ツアーで、その名を世界に知らしめるにいたり、アフリカ大陸を代表する伝説的な歌姫となった。2005年に引退を決意し、さよならコンサートを世界各地で開催した。
生涯に5回結婚したが、1968年に3人目の夫、米国で急進的な公民権活動を展開していたブラックパンサー党(Black Panthers)の指導者ストークリー・カーマイケル(Stokely Carmichael)氏と結婚した際には、米国内で怒りを買い、いくつかのコンサートがキャンセルされるとともに契約も解消されるという事態にまで発展した。
生活はしばしば困窮した。ひとり娘が1985年に36歳で亡くなったときには、ひつぎを買うお金も持ち合わせていなかった。
自伝の中で、子宮頸(けい)がんをわずらっていることを告白。アルコール中毒とのうわさは否定した。
1987年に米歌手ポール・サイモン(Paul Simon)が「グレースランド・ツアー」で、南アフリカの隣国ジンバブエで公演を行った際には、マケバさんも参加した。(今日観てもらった分です。)1990年代初頭にマンデラ氏が釈放され、アパルトヘイト体制が崩壊すると、約30年ぶりに帰国を許された。
1990年に来日し、東京の昭和女子大学のコンサートで「ソウェトブルーズ」を歌い、BS2の赤道音楽14日間の中の一つとして放送された。今日はそれを観てもらいました。
<10回目>
6月19日
10回目の授業で、あと5回になりました。
今日は行きも帰りもよう降ったねえ。
最初に1955年の国民会議と反逆裁判、PACがANCから分裂して先にやった抗議行動がシャープヴィルの虐殺を引き起こしたことや、その後ANCが非暴力を捨てて破壊活動を始め、マンデラが金集めに国外に行き、そのついでにロンドンからBBCで武力闘争宣言を出した、帰国後変装して逮捕をされずに活動を続けたが逮捕されてリボニアの裁判で終身刑を言い渡されてロベン島に、以来27年間獄中生活を送ることに、そんな流れを話をして、40~60年代の映像を観てもらいました。
マンデラとソブクエがもう少し大人の対応をしていたら、もっと早くアパルトヘイトが廃止されていたやろ、アパルトヘイト政権は一番体制をひっくり返す危険のあるソブクエをロバートソブクエ法という特別法を作って、ソブクエを生涯換金し続けることに成功、そのソブクエの1960年3月22日の行動を克明に描いた野間さんがANCの資料を元に書いたので、史実と違う記述になった、他にも日本人によるラ・グーマの翻訳があまりにもお粗末、そんなかなりマニアックな話をしました。このレベルの話が出来る日本人は、たぶんそういないと思います。大概は、関心そのものがないんで。
でも、そんな話を聴いてもらってたようで、少し嬉しくなりました。たぶん宮崎にいるのも先はそう長くなさそうなので、こんな機会が持てて、よかったんやろなあ、と思います。
『アフリカ文化論』は20万ほど出して出版してもらったけど、今日少し解説したように、今日話したあたり、特にソブクエやラ・グーマについてはかなり気合いを入れて書いたんで、是非読んでもらいたいです。
先が長くなさそうなので、まだ半分ほど残ってるので、40万くらい使ったことになりそう。もう少し長くいて、受講した人に買ってもらえるつもりやったんやけど。長く生きてると、いろいろあるねえ。
次回は、「アフリカの蹄」と、今日紹介出来なかった映像なども補足したいと思っています。
あとは、日本とアパルトヘイトの関係と、どうしてアパルトヘイトを廃止したのかについての議論と、アパルトヘイト廃止後の状況と、エイズの話が出来ればと思っています。先が見えてきたねえ。
今日の授業の終わりの方に2年前に看護学科の大学院を卒業して東京渋谷の日本赤十字病院で助産師をしている黒木さんが、休暇を利用して会いに来てくれ、ました。最後の方は聞いてくれてたみたいです。
そのあと研究室で2時間ほど話して行きました。病院では結構外国人も来るので、英語が使える黒木さんはよく呼ばれるそうで、大学でやってたことが活かせてよかったと思います。タイのプリンスオブソンクラ大学の病院で4年生の時と大学院の時にも実習し、留学生に開放された看護部の宿舎に住み、留学生の世話をして英語も生活の中で使っていました。看護学科の人は2年間も準備期間があるのに話せないままタイで実習をする人が多いような話をしましたが、黒木さんのように実習を利用して英語が使えるようになって、卒業したあとも職場でその英語で重宝されている人もいたわけです。少数派やけどね。
そのあと、来年度の工学部の入試問題を作るのに5人で集まりました。作った問題を持ち寄って検討しました。何回か集まって検討して8月くらいに仕上げたあと、何回かチョックをして完成です。前期の試験の日は、試験の間待機をして、そのあと採点です。
医学科を退職したとき、もうこれで入試問題を作ることはないと思ったんやけど。
<11回目>
6月26日
11回目の授業でした。
「アフリカの蹄」の前編を時間一杯観てもらいました。大澤たかおはなかなかの演技やと思うけど、映画の質としては、事故にあった女の子の描き方とか、パメラの歌の挿入の仕方とか、ジュリアン・レフの描き方とか、もうちょっとうまいこと出来ひんのかなあ、と思うね。それでも、ま、いい映画の部類に入るのかな。
南アフリカの映画は、授業で使えるのを何十年も探してきたけど、そうあれへんし。
小説とは少し違うけど、続編の『アフリカの瞳』もお薦めやね。『アフリカ文化論』の中にも書いてるけど。
新潮社のプロフィールです。
帚木蓬生
ハハキギ・ホウセイ
1947(昭和22)年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部に学ぶ。2018年1月現在は精神科医。1993(平成5)年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞、2011年『ソルハ』で小学館児童出版文化賞、2012年『蠅の帝国』『蛍の航跡』の2部作で日本医療小説大賞、2013年『日御子』で歴史時代作家クラブ賞作品賞をそれぞれ受賞。『国銅』『風花病棟』『天に星 地に花』『受難』『守教』といった小説のほか、新書、選書、児童書などにも多くの著作がある。
幅広く書いてるね。次回新聞記事を印刷して持って行くね。
今日は大澤たかおさんが窓にぶらさがってるところで止めたんで、一週間はぶらさがってもらっとくしかないな。
次回は後編を60分余りに編集したので観てもらうつもりです。
そのあと、アパルトヘイト時代の映像の補足を紹介したあと、なぜアパルトヘイト体制をやめたのか、についていろいろ意見を出してほしいと思っています。
残りの時間で、日本との関係と、マンデラの釈放、エイズ問題かな。最後が見えて来たねえ。
また、来週。
<12回目>
7月3日
雨ばっかりで鬱陶しい日が続いて、被害もようさん出てるなあ。前期もあと3回、このブログ、水曜日までの分は大体その日に書いてきたけど、今回は日曜日になってしまいました。でももうぐ当分は書かなくても済みそう。
大きなクラスも医学科も来週に2回目の課題を集めて、授業が終わる頃には成績をつけとこうと思ってるけど、そううまいこと行くかな。毎年引き摺って引き摺って、へたすると成績が出るのがお盆過ぎになったり。
12回目の授業でした。
台風で大変やったねえ。3回の部屋でも雨風の音がすごくて、傘の骨が風で折れて難儀している姿が見えました。
2コマ目の工学部の授業には三分の一ほどしか来てなかったんで、来られなかった人にも悪いし、授業どうするかをみんなに決めてもらいました。結局残った人が9人くらいやったんで、僕の研究室で、たまたま寝かせて味が馴染んできてた山桃のジュースを飲んでもらいました。
昼からは、普段と同じくらいの人数やったんで、そのまま普段どおりにやりました。
「アフリカの蹄」の残りを観てもらって、少し感想を聞きました。
感想を書いてもらうつもりでプリントも持って行ってたけど、渡せずじまいでした。
次回は、2回目の課題を一人一人の顔を見ながら集めてから、前から言ってたように、なぜアパルトヘイト体制をやめたのか、についていろいろ意見を出してほしいと思っています。いっしょに話をしましょう。
今回は前にも言ったように、基本的には次回の提出日で直接受け取るのが原則、受け取るのは遅くても最後の授業の時まで。
2回目にしっしょに出したりとかも含めてあんまりええかげんなのは(出すのは勝手やけど)、成績は出さないつもりです。後期も持つつもりなんで、後期出直してや。(後期が最後かも)
配ったプリント:帚木蓬生の新聞記事(B4表1)
10日に、また。
<南アフリカ概論 1回目の課題の講評>
全般にはそれぞれ課題をやってたと思います。ただ、仮説がないか、はっきりしないもの、調べたものをまとめたもの(いわゆるレポート)、本を読んでの感想、になっているものも結構ありました。
教育の人のはひどいのが多かったです。A41、2枚、「課題やから出す」が丸出しで、読むところがほとんどなかったのが多かったです。来てない人も多いみたいやし、2回目もこんなにひどかったら、成績もちょっと考えんとあかんやろなあと思ってしまうねえ。来なくても形だけ課題を出せばええというのは、あんまりやと思います。実際に202登録で普段は120人ほど、あしたは、ひょっとしてほとんど来たりして。そうやと、勘弁してよ、そうならんように祈ります。
工学部の環境ロボの人、医学科の人のはいいのが多かったように思います。(秀、優以外のも含めて)
インプットした個々のインフォーメーションを使って、論理的に、客観的にものを述べるというのは大学では大事なことなので、一つのきっかけにしてもらえたならうれしいです。
本来、書くものは、何をどう書くか、相手に伝えるか、が最終的には善し悪しの決め手になるので、読んだあと、ずーんとこっちに伝わって来るのが、やっぱり一番かな。日本語で書いても英語で書いてもそれは同じやと思います。
ただ、評価には懐疑的な僕としては、この評価が正しいという自信はやっぱりありません。ただ、毎年たくさん読むので、横に並べられる分、レベルの区別は可能なような気がしてるけど、それもどうやろ、ま、そんなところで、毎年うろうろしています。
自分と向き合って、しっかり取り組んでくれてるのを読むと、やれることをやって来たので、嬉しい気持ちになります。
ある一定の基準以上やなあと思えるのは満点、少し工夫すれば満点、は秀(大学の規定では九割以上)。満点と秀は以下の通りです。
満点
工環境ロボ 嶋田宙(そら)「なぜ黒人は貧民街にとどまってしますのか」
工環境ロボ 浦越諄(じゅん)「奴隷貿易は欧州の国によって始められた。」
工環境ロボ Silumin Senanayake「なぜMANDELAは、『革命家』から『平和主義者』になったのか?」
工環境ロボ 原田佳明「アフリカ人のストライキは当然である」
工機械設計 緒方丈千代「アフリカの黒人差別と奴隷貿易の歴史」
工機械設計 神谷陸「アフリカから貧困はなくならない」
医学科 上別府司「何故、ギチンガ医師はヒポクラテスの誓いを『忌々しい文書』と揶揄したのか」
医学科 齊籐友彦「イアンはメアリに誘われたふりをしつつもその考えを把握した上でうまく使ったのではないか」
医学科 田中佑樹「なぜ日本人は南アフリカに対しての加害者意識、罪悪感が欠落している考察してみる。」
医学科 江藤佑子「奴隷貿易・奴隷制度は、構造が失敗だった」
秀
農応用生物 那須大修「黒人差別の考察」
農獣医 橋本莉香「”怒り”から”融和へ」
工環境応用 笹貫一馬「ODAは悪魔?」
工環境応用 山本真瑛「解放闘争においてアフリカ人側の分裂がなければ、もっと早くアフリカの問題は解決していた」
工環境ロボ 道内雅己「アフリカの経済」
工電気システム 永里光司郎「奴隷はなぜ黒人が選ばれたのか。」
工情報システム 小酒井雄也「事件が多いのは当たり前?」
<13回目>
7月10日(前日の書き込みになりました。)
雨が終わったら、猛暑やね。
最後あたりになって、なかなか手こずってるなあ。月~水の授業のこのページは大体その日に書けてたのにねえ。
あしたと来週で終わりです。何とか最終日までに成績をつけようと思っているんやけど、なかなか思い通りにならないね。この三日ほど、ある人に書く手紙でかかりっきり。書きたいことは胸の辺りにあって、書いていくうちにだんだんと書きたいことがはっきりして、一応全部吐き出してから、手を入れる、大体そのような要領で書くことが多いみたいです。
アレックス・ラ・グーマ(ラ・グーマのAnd a Threefold Cordとその翻訳『まして束ねし縄なれば』の表紙絵の原画です。奥さんに描いてもらいました。最近画像を取り込みました。↓)は、書き始めるときすでに頭のなかに全部が出来ていて、それをタイプライターに向かって書くだけ、毎回そんな風に書いていたそうやけど、人それぞれやからなあ。
13回目の授業でした。
2回目の課題を集めて、なぜアパルトヘイトを廃止したか、について少し意見を出してもらいました。
出た意見(板書してもらった分)
* 利益が小さくなって不利益の方が大きくなったから
* 外国からの圧力、情報封鎖
* 白人政権とANCの疲弊
* 資本主義vs共産主義
* レアメタルの産出国であった南アを、資本主義国は、簡単に経済封鎖できない
↓
ベルリンの壁のほうかい
↓
東ヨーロッパのレアメタルとれる
↓
経済封鎖(大)
次回はその続き(もし南アフリカで戦争が起こっていたら・・・・がヒントです。もう一度考えて、意見を出してや)と、アパルトヘイト政権時代、政権移行時、新政権誕生後の映像と、エイズの話を少々。時間あるかいな。
あした、また。
<14回目>
7月17日
14回目の授業で、実質的に最後の授業でした。
次回の最終回は一人一人のコメントを聞いて、それでも時間があったら、南アフリカの日本人とマンデラ釈放、アフリカ人政権誕生とその後について、映像を紹介しながら話したいと思っています。120~130人くらいいるんで(実際には100人くらいしか来ないような気がするけど)少し時間はかかるかも知れないけど、後期も来年の前期も後期も授業をするつもりなんで、みんなのコメントを是非聞いておきたいです。
アフロアメリカの歴史と音楽は後期も来年もしないつもりで、前期の今週と来週の木曜日で、たぶん最後やと思います。
なぜアパルトヘイトを廃止したか、の続きをやりました。
前回出た意見
* 利益が小さくなって不利益の方が大きくなったから
* 外国からの圧力、情報封鎖
* 白人政権とANCの疲弊
* 資本主義vs共産主義
* レアメタルの産出国であった南アを、資本主義国は、簡単に経済封鎖できない
は大体的を得ていたと思います。
5つの意見に、江藤さんが言ってた二つの施設を作る非効率性と、セナくんが言ってた南アフリカで戦争が起こっていたら失うものが大きすぎたという意見と、ウランを巡る東西のバランスを加えたくらいが、実質的な理由だと思います。
僕は南アフリカを概観するのに10年ほどかかったので、4月からまだそれほど経っていないのに、的を得た意見が出て、感心しています。
これだという正解はたぶんなく、証明できない推論であることを承知の上で、まとめておきます。
南アフリカ国内と国内に分けると、
南アフリカ国内の問題としては、
* アフリカ人の抵抗運動の効果があった。
* 制度自体経済効率が悪いので(施設を二つ作る必要がある、少数派には出来る人が少ないから無能な白人にも高い給料を払わないといけない一方、多数派の優秀なアフリカ人を法律的に使えない)経済優位のイギリス系の白人の不満が募っていた。
国外の問題としては、
* 他国の経済制裁の効果もあった。
* (最大の要因は)戦争が起きて白人アフリカ人の全面対決の局面に至れば、西側と東側から武器が流れ代理戦争、それも核戦争直前のようなミサイル戦争になる可能性が高く、国土は廃墟になりかねず、その場合、資源と労働力も失われる。
* 核を支えるウランの埋蔵量はソ連と南部アフリカ(南アフリカが委任統治して今も実質的に実権を握っている隣国ナミビアとでバランスを取っている)が、戦争になって社会主義体制の国になればそのバランスが大幅に崩れる。あり得ない話ではなく、隣国のジンバブエ、モザンビーク、アンゴラは前面衝突のあと社会主義体制を敷いている。
他にも理由が考えられると思うけど、結局現状維持の、白人政府と先進国側の利益を損なわない形の妥協策が取られ、アフリカ人側からすれば、最後の変革の好機(アフリカ人の労働賃金を上げる)が永久に失われたわけで、その意味では、他のアフリカ諸国と同じく、植民地支配体制から、先進国と一部のエリートアフリカ人との連合による新植民地体制に移行したに過ぎないと言えそうです。
その妥協策を飲み込んで、圧倒的な民衆の支持を受けられ、しかも改憲に必要な4分の3の得票までは行かない人物、ネルソン・マンデラ以外には見当たらんよね。ソブクエやビコなら、その妥協案を飲まななかったやろし。飲む人物なら、体制に抹殺されることもなかったやろし。これは人の生き方の問題やと思うけど、殺されても理想を貫く、生きて妥協案を飲む、南アフリカはマンデラがその役割を演じたと言うわけです。金持ち層には、それが最も利益を損なわない方法、アフリカ人の大統領、おおいに歓迎、だったと思います。
いつも思うけど、ソブクエとマンデラは、歩み寄れなかったのかなあ。
エイズのプリントしか用意出来なかったので、先にエイズの話を少ししました。
免疫の仕組みと血液中にみられる細胞の種類のプリントで、血液と免疫の話を、HIVの構想図とTargeting a Deadly Scrap of Genetic CodeのDisrupting the Assembly Lineを使って、HIVの複製のメカニズムと抗HIV製剤の話をしました。
1996年がエイズ治療元年の話と、抗HIV製剤と南アフリカのコンパルソリーライセンスやゴアとブッシュの大統領選の話もしました。
読めなかったけど、History of AIDS Discoveryを読めば、ロサンジェルスで最初のエイズ患者が出て当初男性同性愛者が標的にされたことや未知の病の実態が分りだしてウィルスと病気の名前がつけられたことなどがわかります。
エイズについては2回科研費をもらって(3年と4年の7年間)いろいろやりました。ブログの「書いたもの」には本文を移す時間の余裕がなくてタイトルだけしか載せてないけど、ホームページでは出版社のブログに繋いであります。
→ホームページノアと三太のトップページの→玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために
幸いあしたは6月に合同授業をしたので医学科の授業はなく、あしたと土日を使って何とか最終回までには成績をつけたいと思っています。1回目はつけてあるので、たぶん成績を出せそうな気がしているけど、どうやろなあ。いつもすんなり終わったためしがないんで。
また、来週に。
<15回>
最終回は、ニュースステーションのヨハネスブルグの日本人学校やケープタウンの漁船の船員へのインタビュー、1994年のマンデラの釈放などの映像などをみてもらって、少し話をしたような。本当はひとりひとりコメントを聞きたかったんやけどなあ。
<南アフリカ概論 2回目の課題の講評>
講評はだいぶ前に出来てたけど、やっと今日ウェブ登録の作業をして成績だけ入力しました。たぶんあした再確認をして本登録する予定です。出されたものが多かったし、提出日に出さなかった人も多かったし、最終授業のあとに研究室の郵便受けに入れたりした人もいたんで。
それに登録だけして来なかった人も多かったし、1回目の課題を出して2回目を出さなかった人もいたし。
確認作業に手間取りました。
次回から、提出日以外は受け取らない、にしようと思います。ま、来年が最後になりそうな気がするけど。
評価については、一回目と同じく、ある一定の基準以上やなあと思えるのは満点、少し工夫すれば満点は秀(大学の規定では九割以上)。満点と秀は以下の通りです。
全般にはそれぞれ課題をやってたと思います。ただ、仮説がないか、はっきりしないもの、調べたものをまとめたもの(いわゆるレポート)、本を読んでの感想、になっているものも結構あったと思います。
大学では、インプットした個々のインフォーメーションを使って、論理的に、客観的にものを述べるというのは大事なことなので、一つのきっかけにしてもらえたならうれしいです。
本来、書くものは、何をどう書くか、相手に伝えるか、が最終的には善し悪しの決め手になるので、読んだあと、ずーんとこっちに伝わって来るのが、やっぱり一番かな。
ただ、評価には懐疑的な僕としては、この評価が正しいという自信はやっぱりありません。ただ、毎年たくさん読むので、横に並べられる分、レベルの区別は可能なような気がしてるけど、それもどうやろ、ま、そんなところで、毎年うろうろしています。
授業でも積極的に発言してたのセナくんや嶋田くん(環境ロボ)や江藤さん(医学科)の書いたものには、短い間によう書けたなあと感心しました。つられてやと思うけど、環境ロボの一年生はしっかり書けててる人が多かったなあ、と実感しています。
2回目
満点
工環境ロボ2年 道内雅己「アフリカの貿易史」
工電気システム2年 永里光司郎「なぜ、西アフリカ諸国は貿易貿易に加担したのか」
工環境ロボ1年 嶋田宙「アフリカの諸問題を解決するため、持続可能なシステムの構築を」
工環境ロボ1年 Silumin Senanayake「名誉白人 当時日本人が違和感を抱かなかったのはなぜか?」
工環境ロボ1年 藤原教補「アパルトヘイトと見えざる国教」
医学科1年 江藤佑子「ネルソン・マンデラが武力闘争を提案したのはしかたがなかった」
医学科1年 玉利恵一「南アフリカの聾唖者と手話」
医学科 上別府司「」
医学科 齊籐友彦「」
秀
農応用生物2年 那須大修「アフリカの文化と歴史」
農獣医2年 橋本莉香「計画された食糧危機」
工機械設計2年 上岡野歩「日本人の意識と事実の差」
工電子物理2年 宮崎啓太郎「遅れた先進国、日本」
工情報システム2年 小酒井雄也「ワールドカップで一生安泰?」
工環境ロボ1年 佐野友哉「ボーア戦争と植民地」
工環境ロボ1年 原田佳明「ネルソン・マンデラは偉大である」
工機械設計1年 川野祐輝「ダイヤモンドをめぐる戦い」
医学科1年 田中佑樹「エイズ蔓延の背景にはアパルトヘイトの影響がある」
なぜこの授業(南アフリカ概論)の課題にこの課題(「行乞記・一草庵日記を読んでの俳人種田山頭火の考察」)があるのかわからんけど、論述はしっかりしていると思います。
工機械設計1年 緒方丈千代「行乞記・一草庵日記を読んでの俳人種田山頭火の考察」
学士力難民の少しでも手助けになればと、去年の後期に「俳人種田山頭火の世界」を持ったけど、去年の後期だけの限定版になってしまいそうです。
もし、山頭火を通してこれだけは話をしたいというのが僕の中ではっきりしたとき、いつかどこかで山頭火の話をしたい気持ちもあるけど、機会が来るかなあ。
10回くらいまでは何とかやれたけど、15回は、今の僕には力不足やったみたいです。100くらいあるのを10ほど使ってやれないと、気持ちの上でも余裕が持てないなあ。その点、南アフリカについては、自分では1000くらいの中の10か20ほどを使って、という感じです。考えて見たら、1985年くらいから継続的にやってるから、30年以上にもなるし、医大の時から木花でも非常勤で来て、英語の授業でも必ず南アフリカの話は取り上げたし、統合以来、教養の科目でもずっとやって来たもんなあ。
こうしてみると、重なって書いてる部分も含めて、ようさん書いたなあ。