2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑥コンゴ危機

『アフリカとその末裔たち2』

ガーナが独立したとき、英国は独立の過程を妨害し、その後軍事政権を立てましたが、コンゴの場合も基本的には同じでした。

ルムンバが1960年に組閣したとき、最大の問題は国を実質的にどう掌握するかでした。国土は広く土地も肥沃で水にも恵まれ、鉱物資源も豊富です。電力事業に必要な銅の埋蔵量は世界でも有数で、その資源の活用は新政府の死活問題でした。当然大国が見逃すはずもありません。旧宗主国ベルギーの独立の過程の妨害は極めて悪意に満ちて、あからさまでした。政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置かず、ベルギー人官吏8000人を総引き上げしました。コンゴ人には行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入してコンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。

パトリス・ルムンバ(小島けい画)

当時国連大使を勤めていたカンザは当時の状況を「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の中で次のように語っています。

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学卒業者が私を入れて3人でした。
大国がコンゴに経済利権を確立するにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予知しました。すぐに国連軍の軍事介入が始まりました。もともと国連軍は主に欧米から資金を得ており、結局コンゴは国際植民地と化したのです。」

危機を察知したルムンバが国連軍の出動を要請したのですが、ルムンバはアメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。

モブツ・セセ・セコ

このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られた組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。(宮崎大学医学部教員)

 

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国

『アフリカとその末裔たち2』

ガーナの場合、英国は表向きは独立を認めながら独立の過程を極力妨害し、その後軍事政権を立てて搾取構造を温存しましたが、コンゴの場合、状況はもっと苛烈でした。
大衆に選挙で選ばれた首相のパトリッシュ・ルムンバが1960年に組閣したとき、旧宗主国ベルギーは、ベルギー人管理8000人を総引き上げして政権を大混乱させ、後に軍事介入、政権強化を図るルムンバは身の危険を感じて国連軍の派遣を要請しましたが、国連軍は米国大統領から暗殺命令を受けたCIA(中央情報局)の手によってルムンバが殺されるのを見守っただけ、その後米国がルムンバの閣僚だったモブツ・セセ・セコを担いで軍事政権を樹立するという悲惨な結果になりました。

パトリッシュ・ルムンバ

欧米に狙われたのはコンゴが水や土地や資源に恵まれているほか、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあったからですが、ことの起こりは1985~86年のベルリン会議で、コンゴがベルギーのレオポルド二世個人の植民地「コンゴ自由国」として承認されたことです。ベルギー王子の植民地獲得の夢、競争相手には取られたくないが小国ベルギーなら大丈夫と考えた英国とフランスと、アフリカ人奴隷人口の増加に悩みアフリカ大陸への送還策を模索していた米国の思惑、レオポルド2世の接待外交などが絡んで生まれてしまった歴史的な事実ですが、そこに住む人たちには悪夢でした。しかし、この時期を抜きにしてその後のコンゴを理解出来ません。

レオポルド二世

レオポルド二世自身は生涯アフリカには行っていませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の思惑と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えとが、皮肉にも一致して、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。
しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。
町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。
どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。

「認可」を出したのはレオポルド二世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人の傭兵部隊を組織し、多額の予算を出して中央アフリカ最強の軍隊に仕上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。
牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

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天然ゴムの採取:NHK「アフリカシリーズ」(1983年)より

(米国のテレビドラマ『ER救命救急室』の医師カーターがコンゴに行った際、迎えの車の中たくさんの義足が積まれているのを見て「地雷?」と質問したら「手斧」と返事が返ってきましたが、住民同士の「手斧」での手足切断はこの時期のレオポルド二世の暴虐の後遺症だという指摘もあります。)

欧米の反対運動で、王はベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に人口は半減し、約1000万人が殺され、王が植民地から得た生涯所得は、現在価格で約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した16歳の少女に惜しげもなく注いだと言われています。「コンゴ自由国」は1908年にベルギー政府に譲渡され、搾取構造もそのまま引き継がれました。国王の植民地軍は、その後、植民地政府の莫大な予算が注がれて、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。兵士がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。(宮崎大学医学部教員)

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカ諸国の大半は戦後の機運に乗じて独立を果たしますが、結局は戦後の復興を果たした欧米諸国や日本に屈して、形を変えた搾取機構に中に組み込まれて行きました。国によって多少の形態の違いはありますが、独立は果たしたものの基幹産業は旧宗主国に握られて国の運営がうまくいかず、そこへ先進国が軍事介入、という経過を辿っています。植民地支配→独立→新植民地支配の構図です。本ではその典型的な例としてガーナとコンゴを取り上げました。今回はアフリカ諸国で最初に独立を果たしたガーナの場合(前半):1957年の独立まで、です。次回はガーナの場合(後半):独立とその後、です。
クワメ・エンクルマ(小島けい画)

前回も書きましたが、第二次世界大戦でヨーロッパ諸国の総体的な力が落ちたと言っても、発展途上国の力が上がったわけではありません。しかし、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてアフリカ諸国は独立に向けて動き出し、変革の嵐(“The Wind of Change”)が吹き荒れました。闘いの先頭に立ったのは欧米で自由の息吹を味わった若き人たちで、祖国に帰って旧宗主国に果敢に挑んでいきました。

英領ゴールド・コーストで独立要求の先頭に立ったのはクワメ・エンクルマで積極行動を唱える会議人民党を結成し、全国でストライキやボイコットを展開してたくさんの支持者を得ました。右腕だったコロモ・ベデマは「アフリカシリーズ第7回 沸き上がる独立運動」(NHK、1983年)の中でエンクルマの当時の様子を次のように語っています。

私たちは若くて行動的で、演説も強力でした。もちろん、エンクルマの人柄ゆえでもありましたが、若者たちは私たちの側につきました。急進的で、先輩たちより多くのものを要求しました。「即時自治」を求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。

独立の式典でのエンクルマ

西洋諸国は低開発のアフリカの発展のために植民地行政を遂行していると主張しましたが、エンクルマは真っ向から反論ました。後に自伝『アフリカは統一する』(1963) の中で、イギリスの植民地政庁の統治下の実態を、以下のように記しています。

イギリスの植民政庁がこの国を統治していた間じゅう、地方の水の開発は殆んど行なわれませんでした。これが何を意味するかを、蛇口をひねるだけですぐに良質の飲料水が得られるのが当たり前だと思っている読者に伝えるのは難しい。もし田舎の村でそういったことが起こっていたとしたら、みんなは天国だと思ったでしょう。村に一つでも井戸か配水塔かが作られていたとしたら、みんなはどれほど有り難いと思ったでしょう。いつものように、暑くて蒸し暑い田んぼでのきつい仕事を終えて、男も女も村に戻り、それから手桶やかめを持って2時間もとぼとぼと歩かねばならず、その行き着いた先では、沼と言えるかどうかも分からないような所から、塩気のある細菌だらけの水でも手に入れば幸運だったのです。それからまた、長い道のりを戻らなければなりませんでした。洗濯や飲むための水を手に入れるのに1日に4時間、それも大抵は病気の元になる水を。こうした状況は、国じゅうで殆んど同じで、それは、水の開発には費用がかかり、その開発が統治する人々のための公共事業に過ぎず、経済的な見返りをすぐに期待出来る見通しが立たなかったからに過ぎません。しかし、事業や採掘投資で得られた利益をほんの僅かでも使えば、一等級の給水施設の費用は充分にまかなえたでしょう。

リチャード・ライト

パリに移り住んでいた作家リチャード・ライトは、いち早く独立への胎動を察知してエンクルマを訪れ、旅行記『ブラック・パワー』にしてエンクルマたちの息吹を伝えています。私が読んだアフリカについて書かれた最初の本です。のちに「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(1985) にまとめました。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」55号26-32ペイジ)

エンクルマには2冊の自伝『わが祖国への自伝』と『アフリカは統一する』(ともに野間寛二郎訳)があります。

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『アフリカは統一する』表紙

エンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て1957年にゴールド・コースとはサハラ以南のアフリカでは最初の独立国となりました。(宮崎大学医学部教員)