アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国
『アフリカとその末裔たち2』
ガーナの場合、英国は表向きは独立を認めながら独立の過程を極力妨害し、その後軍事政権を立てて搾取構造を温存しましたが、コンゴの場合、状況はもっと苛烈でした。
大衆に選挙で選ばれた首相のパトリッシュ・ルムンバが1960年に組閣したとき、旧宗主国ベルギーは、ベルギー人管理8000人を総引き上げして政権を大混乱させ、後に軍事介入、政権強化を図るルムンバは身の危険を感じて国連軍の派遣を要請しましたが、国連軍は米国大統領から暗殺命令を受けたCIA(中央情報局)の手によってルムンバが殺されるのを見守っただけ、その後米国がルムンバの閣僚だったモブツ・セセ・セコを担いで軍事政権を樹立するという悲惨な結果になりました。
パトリッシュ・ルムンバ
欧米に狙われたのはコンゴが水や土地や資源に恵まれているほか、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあったからですが、ことの起こりは1985~86年のベルリン会議で、コンゴがベルギーのレオポルド二世個人の植民地「コンゴ自由国」として承認されたことです。ベルギー王子の植民地獲得の夢、競争相手には取られたくないが小国ベルギーなら大丈夫と考えた英国とフランスと、アフリカ人奴隷人口の増加に悩みアフリカ大陸への送還策を模索していた米国の思惑、レオポルド2世の接待外交などが絡んで生まれてしまった歴史的な事実ですが、そこに住む人たちには悪夢でした。しかし、この時期を抜きにしてその後のコンゴを理解出来ません。
レオポルド二世
レオポルド二世自身は生涯アフリカには行っていませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の思惑と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えとが、皮肉にも一致して、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。
この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。
しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。
町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。
どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。
「認可」を出したのはレオポルド二世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人の傭兵部隊を組織し、多額の予算を出して中央アフリカ最強の軍隊に仕上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。
牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。
天然ゴムの採取:NHK「アフリカシリーズ」(1983年)より
(米国のテレビドラマ『ER救命救急室』の医師カーターがコンゴに行った際、迎えの車の中たくさんの義足が積まれているのを見て「地雷?」と質問したら「手斧」と返事が返ってきましたが、住民同士の「手斧」での手足切断はこの時期のレオポルド二世の暴虐の後遺症だという指摘もあります。)
欧米の反対運動で、王はベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に人口は半減し、約1000万人が殺され、王が植民地から得た生涯所得は、現在価格で約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した16歳の少女に惜しげもなく注いだと言われています。「コンゴ自由国」は1908年にベルギー政府に譲渡され、搾取構造もそのまま引き継がれました。国王の植民地軍は、その後、植民地政府の莫大な予算が注がれて、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。兵士がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。(宮崎大学医学部教員)