2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の16回目です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

メディアと雑誌「ニューアフリカン」

今回はメディアと雑誌「ニューアフリカン」について書きたいと思います。

大抵の知識や情報は、本や新聞や雑誌、テレビやインターネットなどから得ています。その情報を最終的には自分が判断するにしても、利益が最優先される資本主義社会では、無意識にすり込まれている場合もあります。しかも、マスメディアがたれ流す情報は一方的ですので、アフリカやエイズについては、とりわけその傾向が強いと思います。

4月17日の朝日新聞の書評欄の本を例に考えてみましょう。
『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』という翻訳本(野中香方子訳、化学同人、23100円)です。「史上最悪の疑似科学である『HIV/エイズ否認主義』ほど多くの犠牲者を出したものは他にない」と考える著者セス・C・カリッチマンは、その例としてムベキを以下のように取りあげています。

「例えば南アフリカでは、ムベキ大統領が否認主義者の主張を真に受けてエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったという。その政策の助言者の一人が、アメリカのがん遺伝子研究の権威、ピーター・デューズバーグであった事実には驚かされる。」

著者の肩書きは「米国・コネクティカット大学教授。心理学者」、ごたぶんに洩れず、マスメディアの情報を鵜呑みにして、得意げにムベキを非難していますが、一方的なマスメディアの主張と事実は明らかに違います。ムベキはデューズバーグを会議に招待しましたが、その主張を真に受けてはいませんし、百歩譲って、仮にムベキがエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったのが事実だとしても、否認主義者の主張を真に受けたからではありません。

そもそも、ムベキがエイズ対策を誤ったと誰が非難できるでしょうか。前回の<15>→「『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)でも書きましたが、全面戦争になればアパルトヘイト政権に群がっている諸国の利益が殺がれるので現存の搾取構造を温存して(多数のアフリカ人の賃金は据え置きにして)政権だけアフリカ人に譲る、そんな取り決めのもとに任された政権で、主だった産業や財政を押さえられてたまま予算も自由に使えずに、一体何が出来ると言うのでしょうか。

タボ・ムベキ

それでもマンデラもムベキも、誠実に出来る限りのことをよくやったと思います。1994年のマンデラ政権でムベキは、白人との駆け引きも含め様々な問題で手一杯のマンデラに代わり、大統領代行としてエイズ問題を一手に引き受けました。その取り組みの一環として、当時の南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」だと判断して、1997年にHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。急増するHIV感染者の実態を見れば、根本的な治療薬ではないにしてもHIVを持ったまま生活が出来る抗HIV製剤があれば、誰でも使おうと思うでしょう。しかし世界貿易機関の取り決めで特許料を払うとすれば手も足も出ません。(NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地~南ア・ジンバブエ」(2002年2月20日)では、「その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからです。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければなりませんでした。」と報告されています。)

抗HIV製剤

ならば世界貿易機関の貿易関連知的財産権協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に認めているコンパルソリー・ライセンスを制定して薬を供給しよう、とムベキが考えたのはむしろ当然でしょう。

しかし、米国の副大統領ゴアは南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないと主張し、「南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して」、「悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。」[英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)]「『ナイスピープル』を理解するために―(8)南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日))、『ナイスピープル』を理解するために―(9)エイズ治療薬と南アフリカ(1)」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」(「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年)で詳しく書きました。

当時ゴアと行動を共にした米保健福祉省長官(1993~2001)のドナ・シャレーラは、「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と言っていますが、法律を撤回しないと二国間援助を打ち切るぞと脅しておきながら、「ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました。」とよくもまあぬけぬけと言えたものだと思います。そもそも貿易で莫大な利益をアパルトヘイト政権と分かち合って南アフリカの多数のアフリカ人を苦しめてきたアメリカの中枢にいながら、しかも、その間、マンデラは獄中に閉じ込められ、ムベキは亡命を強いられていたわけですから、何とも恥知らずな人たちよ、と思わないではいられません。

圧倒的な財力にまかせてマスメディアを駆使して一方的に大きな声を張り上げ続けるわけですから、ムベキも「礼儀正しく耳を傾けて」「やるべきことは分かっています。どうもありがとう。」と「形式的な返事」をするしかなかったんだと思います。

圧倒的な声の前にアフリカ人は沈黙を守るしか術がありませんが、『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』(2005年出版)の著者であるアメリカ人医師レイモンド・ダウニングさんが指摘するように「この沈黙は上からの押しつけで、沈黙の下には、無数の小さな屈辱と大きくて修復しがたい屈辱から生まれた封じ込められた怒りが籠もっている」のです。

エイズは人間が持っている、外敵から自分の体を守る免疫機構がやられる病気です。前ザンビアの大統領カウンダが言ったように、もしアフリカ人が西洋諸国並みの水準で生活出来るなら、「たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・」(→「『ナイスピープル』を理解するために―(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日))と思います。しかし、南アフリカに住む大半の人たちは、アパルトヘイト政権時代と変わらず、スラムにひしめきながら低い水準で生活することを強いられているのです。そして、その安価な労働者を生む体制をオランダとイギリスの入植者が作り上げ、第二次世界大戦後も、アメリカと西ドイツと日本が加わって、体制維持をはかって来たのです。南アフリカで260万人以上が犠牲者になったのはムベキが対策を誤ったからではなく、著者のセス・C・カリッチマンが住むアメリカや私たちが住む日本が、アフリカ人に犠牲を強いて来た結果に他なりません。

前ザンビア大統領カウンダ

朝日新聞が信頼した書評委員がこの本を選んで推奨しているわけですが、事実を誤認したという認識もないままこの本を薦めていると言わざるを得ません。

今、津波と地震と放射能で日本は大変な事態になっていますが、同じような構図が透けて見えます。マスメディアも国民も変革を期待して自分たちが選んだ現政権を非難しますが、原子力エネルギーを推進して来たのは、自民党とその党と手を組んで利益を得てきた政財界です。国の繁栄のためにと、放射能を出す核燃料の処理も不完全なまま危険を覚悟で経済効率を優先させ、政治家は鉄鋼業界や電機メーカー、都県業界や電気産業などに巨利を生む仕事の世話をし、その人たちは選挙で与党に協力して仕事の受注の便宜をはかってもらう、国民は安価な電力のおかげで快適な生活を享受し、選挙では与党を支持し続ける、そんな構図が長年続いてきました。

しかし、原子力が安価な電力を供給できるのは、安価なウランを南アフリカやナミビアから購入できるからで、その前提は、食うや食わずの賃金で鉱山で働かされる無尽蔵のアフリカ人労働者がいることです。

自民党にいた石原慎太郎は今回の震災は天罰で日本人は我欲を捨てて生活を見直した方がいいという趣旨の発言をしたそうですが、石原慎太郎には言われたくない、と思います。ウランを購入する南アフリカのアパルトヘイト政権と、日本の政財界を繋ぐ南ア議員連盟で、得意げに旗振り役をしていた人ですから。その人を四度も都知事に選ぶ日本人が、何とも恥ずかしいです。

メディアの大半は経済大国がおさえていますから、アフリカ人の声はほとんど聞こえて来ません。何より問題なのは、大半がアフリカ人の声を聞こうともしない、その無関心だと思います。しかし、ウランを例に取っても、もし西洋のメディアが喧伝するようにHIV感染者が激増して死者が増え続ければ、今のようにウランが安価では入手出来なくなり、基本的に現在の体制を見直さざるをえません。本当は、自分たちのためにも、アフリカ人の声に耳を傾けるべきです。

次回は、手始めに、ムベキの発言を非難した欧米のメディアとは違ってムベキを支持した雑誌「ニューアフリカン」を取り上げたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

「ニューアフリカン」

執筆年

2011年5月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 33」

ダウンロード・閲覧

『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後

2010年~の執筆物

「アフリカとその末裔たち2一覧」(「モンド通信」掲載分の番号、題などを修正)

『アフリカとその末裔たち2』

2014年

<1>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→「続モンド通信10」(2019年9月20日)に収載。連載開始。

<2>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)

<3>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載)→「続モンド通信11」(2019年10月20日)に収載。

2015年

<4>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加→(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)
ここから

<5>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正→(「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)

<6>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)

<7>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)

<8>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 82」 、2015年5月30日)

<9>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)

<10>→「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)

<11>→「アフリカとその末裔たち 2 (2) ①And a Threefold Cord」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)

<12>→「アフリカとその末裔たち 2 (2) ②The Honourable MP」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)

<13>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)

<14>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)

<15>→「アフリカとその末裔たち 2 (3) ③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)

2016年

<16>→「アフリカとその末裔たち 2 (4) アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正→(「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)連載終了。

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (4) アフリカ系アメリカ人の音楽

ルイ・アームストロング

「アフロアメリカの歴史と音楽」という教養の科目も担当していますが、音感のない僕が音楽を紹介してもええんやろか、と思いながら185人の学生に毎回ゴスペルやブルースなどを聴いてもらっています。いわゆるブラック・ミュージックは映像なども多いですので、大きな4つの液晶画面と天井の6つのスピーカーを駆使して音声と映像を楽しんでもらっています。LPレコードやカセットテープから音声ファイルにしたものもあります。ミシシッピ州出身の作家リチャード・ライト(1902-1960)を修士論文のテーマに選んだとき、小説を理解するために必然的に歴史と音楽にも触れるようになりました。

1619年以来、西アフリカから北アメリカに連れて来られたアフリカ人は奴隷として過酷な労働を強いられただけでなく、言葉を奪われ、歴史や文化からも切り離されて、奴隷主の言葉や宗教も押しつけられました。生き延びるためには受け入れるほか術はなく、日曜日には教会に行くようになり、
聖歌隊の歌うゴスペルや賛美歌を聞かされました。最初は聞くだけでしたが、白人の歌に自分たちのビートやリズムをのせて、やがては自分たち独自の歌に仕上げました。その歌は自分たちの思いや文化を子孫に歌い継ぐ手段でした。同時に、農場ではアフリカの歌を歌い続けました。奴隷たちの歌はアフリカ系アメリカ人の民族音楽の始まりとなり、ヨーロッパ移民のイギリス系アメリカ人の習慣と混ざり合って、アメリカの伝統の一部となりました。音楽とダンスは一体で、歌には力強さとリズムがあり、その後、アフリカ系アメリカ人の伝統はアメリカ大衆音楽に強い影響を及ぼしました。

奴隷制の下での過酷な日々がアフリカ系アメリカ人の音楽の起爆剤の一部となりました。家族は引き裂かれ、女性たちは常に奴隷主の性欲の犠牲者になりましたが、夫や父親は全くの無力でした。憤懣は募るばかりで、何の慰めも見い出せませんでした。キリスト教徒の奴隷は従順見えましたが、誰も奴隷になりたかったわけではありません。逃亡したり、暴動も起こしました。秘密に集会が持たれ、南部から奴隷を北部に逃がす地下組織は二重の意味を持つスピリチァル(黒人霊歌)もありました。
深い河("Deep River")の元々の意味は旧約聖書2章出エジプト記(Exodus)のヨルダン(Jordan River)ですが、アメリカに連れて来られたアフリカ人には大西洋を指しました。奴隷制の下では、奴隷州と非奴隷州の境のオハイオ川が深い河の時期もありました。奴隷制廃止前には、アメリカとカナダの境の五大湖が深い河だったと言われます。

多くの奴隷歌が奴隷によって作られましたが、一般にあまりよく知られていませんでした。『合衆国の奴隷歌』が1867年に出され、フィスク・ジュビリー・シンガーズ(The Fisk Jubilee Singers)によってスピリチァル(黒人霊歌)が広められました。フィスク大学はテネシー州ナッシュヴィルの黒人大学で、募金を募るために白人の聖歌隊長が黒人の歌手グループを国内ツアーに連れて行き、各地で歓迎されました。ヨーロッパツアーも成功を収めました。

20世紀初頭、スピリチァル音楽は伝導音楽になり、アフリカ系アメリカ人教会で歌われました。この時歌われた音楽が現代ゴスペル音楽の基礎となりました。南部のペンテコスタル教会が現代ゴスペル音楽の発展に大きな役割を果たしています。教会ではほとんどの人が歌に加わり、牧師も会衆も興奮して大声で歌いました。このスタイルは伝統派には嫌われましたが、多くのアフリカ系アメリカ人に高い人気を博しました。

ポール・ロブソン

1920年代が伝導音楽の黄金時代です。トーマス・ドロシーが30年代にゴスペル音楽を今の伝導音楽に押し上げました。1932年に最初のゴスペル音楽の出版社を開き、歌手サリー・マーティンと組んで多くの作曲家の作品を売りました。

40年、50年代はゴスペル音楽の黄金期です。ウィリー・メイ・フォードースミス、ロバータ・マーティン、マへリア・ジャクソン、クララ・ウォード、ロゼッタ・ソープなどの女性歌手がこの時代を席巻しました。男性歌手はカルテット(リード、テナー、バリトーン、ベースで構成)で活躍しました。デキシー・ハミングバード、ファイブ・ブラインド・ボーイズ、ナイチンゲールズ、ソウル・スターラーズなどが有名です。

マへリア・ジャクソンはゴスペルの女王と言われます。ブルースの女王ベシー・スミスの影響を深く受けましたが、ナイトクラブへの出演は断り、教会に留まりました。30年代にはドロシーといっしょに歌い、白人の聴衆も増やしました。多くのレコードをヒットさせ、大手のテレビに出演もしました。ヨーロッパツアーもし、日本にも来ています。

マへリア・ジャクソン

ゴスペルには3つの形式:

①牧師と会衆によるゴスペル、
②教会を持たない牧師が流しで説教をしたゴスペル(ギター・エヴァンジェリスト)、
③カルテットによるゴスペルがあります。

50年代には、ゴスペル音楽は50年代~60年代のソウル音楽ロックンロール音楽に影響を与え、
公民権運動では人を励ます役割を果たしました。

今日アフリカ系アメリカ人のゴスペル音楽には二つの種類があります。ひとつは伝統もの、もう一つはポップ音楽の音に頼るコンテンポラリーゴスペルです。かつてほどの人気はありませんが、国際的にも根強い人気があり、奴隷として西アフリカから連れて来られた人たちの思いやビートが今日まで連綿として受け継がれています。

90年ころにNHKのBS放送で元野球選手ウォレン・クロマティが案内役の「愛と祈りの歌をたずねて」というゴスペルの音楽紀行番組がありました。自らスタジオを持って音楽活動を続けるマイアミからミシシッピ、メンフィス、ニューオリンズとめぐるゴスペルの旅です。ミシシッピでは残り一人となったと言われるギター・エヴァンジェリストを訪ねたり、メンフィスでは1957年設立という伝説のカルテットの演奏を紹介していました。なかなか貴重な映像で、「アフロアメリカの歴史と音楽」の授業でも紹介しています。(宮崎大学医学部教員)

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「愛と祈りの歌をたずねて」

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在

ハラレに行く前の何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて書きながら、反アパルトヘイト運動の集会に出たり、講演に呼ばれて話をしたりしていました。国立大学に職を得て在外研究に行けることになった時、本当は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行きたいと思っていました。しかし、申請時の1991年はまだ南アフリカとの文化・教育交流が禁じられていましたので(白人政府の良きパートナーですから経済的な繋がりは批評に強く、経済制裁や文化・教育交流の禁止は表向きだけの政策でしたが)、ジンバブエに行き先を変えました。南アフリカの入植者が住んでいたショナ人から土地や家畜を奪って作り上げた国なので制度が南アフリカとよく似ているうえ、アメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地であったこともあって、映画の中のあの赤茶けた大地を見たいなあと思ったからです。
ジンバブエは1980年に独立していますが、経済力は完全に白人に握られ、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけっているという点では、他のアフリカ諸国と社会の構図は同じで、大統領のムガベが支配する社会主義路線の一党独裁が続いていました。

そんな国で、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできました。ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市で、欧米並みのシェラトンもあります。1200メートルの高地にあって極めて過ごしやすい土地でした。気候も温暖で、庭にはマンゴウやパパイヤがなっていました。

白人街の500坪ほどの借家

大学と子供の学校に近く、自転車で通える範囲内で、という条件で家を探してもらいました。「ジンバブエには少数の貴族と大多数の貧乏人しかいませんので不動産事情が恐ろしく悪く、ホテル住まいも覚悟して下さい」と言われていましたが、出発の2週間前に、「新聞広告が効いて、家が見つかりました」と連絡をもらい、一軒家に住むことが出来ました。アレクサンドラ・パークという白人街の500坪ほどの家で、大きな番犬と「庭番」付きで家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)でした。

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ゲイリー(ガリカーイ・モヨ)

  住み込みで24時間拘束される「庭番」のゲイリー(通称で、本名はガリカーイ・モヨ)とはすぐ仲良しになりました。正直な優しいクリスチャンで、住み始めてから10日ほど後に、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段白人の家主がいる場合家族はいっしょに住めないようですが、僕らが住むようになって家族を呼び寄せたのでしょう。私たちの2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)とゲイリーの3人の子供たちはすぐ仲良しになり、毎日ボールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだりして楽しそうでした。
庭で遊ぶ子どもたち

ゲイリーの月給が170ジンバブエドル(42000円ほど)、子供たちが蹴っていた段ボールが140ドル、番犬の餌代が150ドル、何とも複雑な気持ちでした。

ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約一万人、当時は70パーセントがアフリカ人、農学部に小象がいたりして広々としていましたが、体育館もなく、図書館の蔵書も極めて貧弱でした。大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどなく、あっても経済的には使えない人がほとんどなので、授業の間、質の悪い紙のノートに、インクの出の悪いボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。
ジンバブエ大学教育学部棟

新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、白人街にあるキャンパスの広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。

ジンンバブエ大学ではアレックス・ムチャデイ・ニュタとい教育学部の3年生(最終学年)と仲良くなりました。その年の終わりにジンバブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生でした。自分のいる寮に案内してくれた時、いっしょに食べたアイスクリームのお礼にと、金もないのにコーラをおごってくれたのが出会いでした。食べること自体が難しい大半のショナ人にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」だと、アレックスは言っていました。

ジンバブエ大学学生寮ニューホール

画像アレックス

直接お世話になった英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書き、22冊も出版をしていました。
ツォゾォさん

大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から大変でしたし、滞在中も、搾取する側の人間として、搾取される側の歪みばかりが感じられて終始息苦しいばかりでした。

行きにロンドンに10間滞在して、亡命中だったアレックス・ラ・グーマ夫人のブランシさんと、帰りにパリに1週間滞在して、リチャード・ライトの国際シンポジウムでお会い出来たソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。

ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で

ソルボンヌ大学を背景にミシェル・ファーブルさんと家族で

アレックスが部屋に連れて来た学生の最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。日本ではジンバブエに行く前にライオンに気をつけてねと何度も言われました。お互いを知らないで、グローバル化もないやろ、そんな気がしました。

以降、英語の授業の中で、アフリカやアフロアメリカの話題を取り上げ、滞在中に感じた加害者側の息苦しさを、学生に語るようになりました。(宮崎大学医学部教員)