概要
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の23回目で、2011年度に開催したシンポジウム『アフリカとエイズを語る』の報告、6回シリーズの3回目(発表者2番目)、玉田吉行氏の発表についてです。
アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)
天満氏によるシンポジウムのポスター
本文
シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(3):玉田吉行氏の発表
「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」 玉田吉行
玉田吉行氏
玉田と申します。よろしくお願いします。大学では英語を担当しています。1982年ころからアフリカについて考えるようになりました。その過程で考えたことも踏まえて、今日はアフリカのエイズのお話をしようと思います。
アフリカ大陸がエイズで大変なのは間違いないのですが、私たちが日頃接する報道が必ずしも実態を伝えているようには思えません。経済的に豊かな欧米諸国の情報が中心だからです。実際に苦しんでいるアフリカ人の声が、あまり伝わって来ません。
先ほどの服部くんの話にもありましたが、HIVは血液や精液で感染するのだから禁欲して貞操を守りコンドームを使えば予防できるという「ABCモデル」(Abstinence=禁欲、Be-faithful=貞操、Use a Condom=コンドーム)、そしてHIVに感染すれば抗HIV製剤で治療すれば発症を抑えて通常の生活が出来ると言われますが、そう言った生物学的、医学的な方法だけではアフリカのエイズ問題は語れないと思います。
私自身も何年か前にお腹を壊しておかゆを食べる生活が続いたのでよくわかりますが、
抗HIV製剤を飲めばいいとわかってはいても、胃腸の調子が悪い時に大量の薬を飲むのは苦痛です。実際にジンバブエに派遣された日赤の桜井さんという看護師さんが、あとで天満くんが話をするザンビアで処方してもらった抗HIV製剤を飲む40代の女性の話を報告しています。薬を飲み忘れると効果がないので桜井さんは家庭訪問をして指導を続けていたそうで、ある日11時頃に訪問して薬の飲み忘れがないかを尋ねたところ、
飲んでないというので理由を聞きました。すると女性は「薬をきちんと飲まなければ死んでしまうのはわかっていますが、空腹時に飲むと副作用がひどく耐えられないので、必ず食後に飲むようにしています。でも今日は食べるものがなくて、朝から食べ物を探していますがまだ手に入らないので飲めずにいます……。私だって早く薬を飲みたい……。」と涙ぐんで話をしたそうです。いくら薬があっても食べられない状態では薬は飲めないわけです。
エイズは病気とたたかうために本来人間に備わっている免疫機構がやられる病気ですから、充分な食事が取れない人には非常に影響力があります。食うや食わずの人が多いアフリカでは、先進国以上に深刻な問題で、贅沢な生活に慣れた先進国の人にはわかりづらいという面はあると思います。
2003年にアメリカの大統領ブッシュがアフリカのエイズ対策に150億ドル(約1兆350億円)を出すと声明を発表した場にいた元ザンビアの大統領ケネス・カウンダはその援助を実際に複雑な心境で受け止めています。直後のインタビューで、エイズ問題の根本原因は貧困であると発言したムベキについて聞かれて、次のように答えています。
違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、1200ドル(約108万円)で生活していますからね。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしてますから。もしうまく行って・・・将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかり食べて、ちゃんと風呂にも入り、何もかも何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね。
ケネス・カウンダ
欧米のメディアや先進国の政府や製薬会社はこぞってムベキを批判しましたが、多くのアフリカ人はムベキに好意的でした。反応はまったく違ったわけです。
1994年にネルソン・マンデラが大統領になったとき政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズの問題は、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。最初はムベキも禁欲、貞操、コンドームという西洋流の「ABCモデル」に沿って対策を講じたようですが、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。1996年に抗HIV製剤が出まわり始めエイズは不治の病ではなくなりましたが、非常に価格が高くて南アフリカでは手が出ませんでした。1997年、ムベキは急増するHIV感染者に薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。製薬会社が地盤のゴアは製薬会社の利益を守るために、二国間援助の打ち切りをちらつかせて一国の代表を恫喝したわけです。
1999年に大統領になったムベキはエイズの問題と本格的に取り組み始めました。エイズ問題を含めアフリカの問題はアフリカで解決するというのがムベキの考え方で、2000年当初にはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていました。そして、国の内外から専門家を招待して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請しました。ダーバン会議の一週間前に「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言を発表し、ダーバン会議では内外の厳しい批判を浴びながらそれまでの主張を次のように繰り返しました。
私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。
私がずっと考えて来た疑問の一つは、安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうかということです。
エイズは免疫機構をやられる病気なわけですから、ムベキの主張は妥当だと思います。ロンドン拠点の英語の月刊誌「ニューアフリカン」はアフリカの官僚やビジネスマン、
医師や弁護士などに広く読まれているそうですが、1999年にガーナ出身のバッフォ・アンコマーが編集長になり、ムベキが大統領になって、歩調を合わせるように雑誌の傾向を大きく変えました。アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増え、扱うテーマも幅を広げました。
①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の副作用、⑤マスメディア、⑥貧困などが中心で、早くから西洋のエイズの見方と違う意見を出し、ムベキを擁護しました。
服部くんも言っていましたが、「先進国」ではエイズの起源がアフリカであると話題にしますが、アフリカ人の見方は違います。最初にエイズ患者が出たのはアメリカなのに、アフリカ起源説はおかしい、西洋社会は流行の責任をアフリカに転嫁している、と考えます。
また、アフリカと欧米で感染の仕方が異なっている点に注目して、アメリカ人の歴史家チャールズ・ゲシェクターは、1994年に「(1)エイズは世界で報じられているほど実際にはアフリカでは流行していないか、(2)エイズ流行の原因が他にあるか、である」という興味深い指摘をしています。ゲシェクターは主流派が言う「エイズ否認主義者」の一人ですが、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめています。しかし、政府も製薬会社も主流派もマスコミも、こぞってその会議を黙殺しました。
ゲシェクターが「(1)エイズは世界で報じられているほど実際にはアフリカでは流行していない」と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからです。エイズ検査が実施される以前は、医者は患者の咳や下痢や体重減などの症状を見て診断を下していましたが、咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の病気にも見られる一般症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛れ込んでいる確率が高かったわけです。エイズ検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものが信ぴょう性の非常に低いものでした。つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクターは判断したのです。
世紀の変わり目の2000年前後に「HIVの感染率が30%以上の所もあり、崩壊する国が出るかも知れない」という類の記事がたくさん出ましたが、潜伏期間が長くて10年から15年ということを考えても、十年以上経った今、エイズで崩壊した国はありませんから、
報道そのものの元データが不正確だったと言わざるを得ません。二つ目の「(2)エイズ流行の原因が他にある」とゲシェクターが考えたのは、アフリカがエイズ危機に瀕しているのは異性間の性交渉や過度の性行動のせいではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制度、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得ないからです。それは後にムベキが主張した内容と同じです。
先ほども言いましたが2000年前後にマスコミは意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てました。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます。」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませました。
それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものです。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なります。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなりますので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになります。
つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカのエイズの実態を反映したものではなかったわけです。
ではなぜそんなでたらめなデータがどうしてまことしやかに流れたのでしょうか。
理由は簡単です。日本の原子力エネルギー政策に似て、利害が複雑に絡んでいたからです。シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣は「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えました。別のウガンダ人は「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」と語りました。
シェントンが指摘するように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです。」莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけです。
私自身アフリカに関心があったわけではありません。ほとんど知りませんでした。ジンバブエを国の名前ではなく、笛の一種だと思っていたほどですから。読んだり書いたりする空間がほしくて大学を探そうと考え修士課程に行き、修士論文のテーマにアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトを選びました。人種差別のひどかったアメリカ南部の出身で後にシカゴからニューヨークに移り、最後はパリに渡った人です。パリでガーナの独立についての訪問記『ブラックパワー』を書いたのですが、それが私のアフリカとの出会いです。
1985年にミシシッピ大学でライトの国際シンポジウムがあり参加して、ライトの伝記を書いていたソルボンヌ大学の教授だったミシェル・ファーブルさんとお会いしました。
それまで英語をしゃべらないと決めていたのですが、憧れの人に自分の思いが伝えられないのが悔しくて英語をしゃべろうと決めました。
その会議でゲストスピーカーだったケント州立大学の教授伯谷嘉信さんから1987年の会議で発表しないかと誘われました。その会議の「英語と米語以外の英語による文学」という部会で南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて発表しました。それが南アフリカとの出会いです。
アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)
作品の背景が知りたくて色々と調べている過程で、16世紀初めに始まった西洋の侵略の歴史を垣間見ることになりました。西洋社会は1505年の東アフリカのキルワでの虐殺を皮切りに、西海岸での350年にわたる大規模な奴隷貿易によって莫大な富を蓄積し、その資本で産業革命を起こしました。大量の工業製品を生み出し、その製品を売るための市場の争奪戦でアフリカを植民地化し、やがて二つの世界大戦を引き起こしました。大戦で総力が低下したために一時アフリカ諸国に独立を許しますが、やがては復活を果たし、今度は援助と開発の名の下に、多国籍企業と投資の現在の体制を再構築して今日に至っています。侵略を始めたのは西洋人ですが、奴隷貿易や植民地支配では首長などの支配者層が西洋と取引をし、新植民地支配でも、少数のアフリカ人が欧米諸国や日本などと手を携えて大多数のアフリカ人を搾取して来ました。何よりの問題はその搾取構造が今も続いているということです。エイズ問題もそういった歴史の延長線上で考えなければ、実像を捉えることは出来ないと思います。
南アフリカに渡った入植者はアフリカ人から土地を奪って課税をして大量の安価なアフリカ人労働者を生み出し、その人たちを鉱山や大農園や工場や白人家庭でこきつかいました。
私は1992年に在外研究の場所にジンバブエ大学を選び、家族で二ヶ月半、ハラレで暮らしました。白人から一軒家を十万円で借りたのですが、敷地が500坪もありました。
大きな番犬がいて、家主が雇ったゲーリーというガーデンボーイが住んでいました。すぐに仲良しになり、月給が4200円ほど、結婚して3人の子供がいて、一年の大半は家族と離れて暮らしていると知りました。遊びに来たゲーリーの子ども3人と私の子供二人のために買ってきたバスケットボールが500円ほどで、ゲーリーの給料よりも上でした。
番犬のえさ代が4000円ほどでした。今まで本で読んでいた内容と同じような世界が広がっていました。日本が加害者側にいるという意識が離れなかったせいでしょうか、ハラレにいる間じゅう、息苦しい思いがしてなりませんでした。
ジンバブエ大学は唯一の総合大学でエリートが集まっていましたが、学生に聞かれた最初の質問は「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。当時米国のニンジャ映画がはやっていたからでしょう。私は「日本でもたくさんの人がアフリカ人が裸で走ってると思ってるよ。こっちに来る前に、ライオンに気をつけてね、と多くの人から言われたし。」と答えました。これでは国際交流も何もないと思って、帰ってからは、やがては指導的な立場に立つ医者の卵に、世界での日本の位置や社会での自分の位置を考えてもらえるように、何より自分について考える材料になればと考えて、前にも増してアフリカのことを授業で取り上げるようになりました。
アフリカ系米国人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学に職を得て医学に目を向けるようになって24年目になりますが、その過程で得た結論から言えば、アフリカとエイズの問題を考えても、根本的な改善策があるとは思えません。
英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的な改善策には先進国の大幅な譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。いつも授業の最後にため息しか出ないなあとつぶやくのですが、これから発表する3人は極めて前向きにアフリカと向き合っています。今回のシンポジウムに参加してくれたことを深く感謝し、この人たちに一縷の希望を託したいと思います。山下くんからよろしくお願いします。
次回は三番目の発表山下創:「ウガンダ体験記:半年の生活で見えてきた影と光」をご報告する予定です。(宮崎大学医学部教員)
宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)
執筆年
2012年4月10日
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