2010年~の執筆物

『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

解説

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985)はアパルトヘイト反対闘争の中で『まして束ねし縄なれば』(And a Threeford Cord, 1964)を書きましたが、その物語はラ・グーマの文学的な技法に裏打ちされて、すぐれた文学作品として高く評価されています。そのラ・グーマの文学的な技法のうち、雨の象徴性と擬声語の効用について書きました。

平成30年度~ 令和3年度に科学研究費(基盤研究(C)、4,030,000円、)を交付されているテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の一環です。

本文

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1 アングロ・サクソン侵略の系譜

2 アレックス・ラ・グーマ

3 『まして束ねし縄なれば』

4 雨の象徴性

5 擬声語の効用

6 ラ・グーマの思い

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1 アングロ・サクソン侵略の系譜

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985)はアパルトヘイト反対闘争の中で『まして束ねし縄なれば』(And a Threeford Cord, 1964)を書きました。その物語はラ・グーマの文学的な技法に裏打ちされて、すぐれた文学作品として高く評価されています。ここでは、ラ・グーマの文学的な技法のうち、雨の象徴性と擬声語の効用について書きたいと思います。

And a Threeford Cord, 1964(東ベルリンのセブン・シィーズ社版、神戸市外国語大学国人文庫所有)

アメリカの作家リチャード・ライト(1908-1960)の作品を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めた時、その人たちが主に西アフリカから連れて来られたと知り、自然にアフリカに目が向くようになりました。「アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易とライト」を皮切りに、「ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ」、「南アフリカの歴史とラ・グーマとエイズ」、「エボラ出血熱とコンゴ」、「ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ」と、テーマが広がり、それぞれ10年くらいずつ個別に辿ってきました。

リチャード・ライト(小島けい画)

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

ラ・グーマ(小島けい画)

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

そこから見えて来たものは、アングロ・サクソン系を中心にした今も続く欧米人の傍若無人な歴史と、その中で踏み付けられ、傷つけられてきた多くの人たちの姿でした。定年退職で途切れるかと思いましたが、「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で科学研究費を申請して交付されたのを機に、広範で多岐にわたるテーマですが、今暫く手探りを続けようと思っています。

アンゴラの一風景(『まして束ねし縄なれば』表紙の原画、小島けい画)

元々文学作品を理解するために歴史を辿りましたが、今回は逆にアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、アフリカ系アメリカ、コンゴ、ケニア、南アフリカの作家が書き残した英語による文学と、エイズとエボラ出血熱という感染症を軸に、その侵略の基本構造と、その中で呻吟する人々の姿を文学と医学の狭間から見てみようと思っています。『まして束ねし縄なれば』は、アングロ・サクソン系のイギリス人とオランダ人がそこに住んでいたアフリカ人から土地を奪って作り上げた南アフリカのアパルトヘイト体制の下で、奪われ虐げられた側の一人、人権を否定され続けたラ・グーマが書き残した秀作です。

2 アレックス・ラ・グーマ

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれました。母方はオランダ系とインドネシア系、父方はインドネシア系とドイツ系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」と分類され、ケープタウンの「カラード」居住地区「第六区」で生まれて育っています。父親が反対闘争の指導者でしたので、早くから社会に目を向け、のちに「ケープカラード」200万人の指導者になりました。父親の影響を受けて文学にも関心を持ち、文才が認められて反体制の週間紙「ニュー・エイジ」に記者として採用され、多くの記事を残しています。

「第六区」

(担当した「ニュー・エイジ」のコラム欄Up My Alleyの記事)

アパルトヘイト反対闘争の中心組織ANC(アフリカ民族会議)とSACP(南アフリカ共産党)の指導者だったラ・グーマは体制の脅威で、出版活動も禁じられ、当時逮捕・拘禁されていたために、最初の作品『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)は国外で出版されています。1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていて、原稿を一年間郵便局に寝かせておくように妻のブランシに指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡り、国外に持ち出されて世に出たと言うわけです。

(ブランシ夫人と家族いっしょに、1992年7月亡命中のロンドンの自宅で)

A Walk in the Nightの発行禁止を伝える「ニュー・エイジ」の記事)

命も狙われ、何度か投獄され、1966年にはロンドンに亡命も強いられました。その後、ANCの代表として外交官待遇でソ連とキューバに正式に迎えられ、国外からアパルトヘイト反対の闘争を継続しましたが、1985年にキューバで急死しています。

南アフリカ国内ではケープタウンの「カラード」200万人の指導者として中心的な役割を、亡命後も継続して指導者として国外からの反アパルトヘイト運動の中心的な役割を担いました。その闘争のさなかに、新聞記事や物語を書きました。そして、奇跡的に日の目を見た『夜の彷徨』は世界の人の心を打ちました。

3 『まして束ねし縄なれば』

『夜の彷徨』の高い評価を受けて「何か」を提供して欲しいという東ベルリンのセブン・シィーズ社からの要請を受けて、ラ・グーマは2作目『まして束ねし縄なれば』を書きました。執筆の一部や出版の折衝、契約なども刑務所内で行なわれていますので、文字通り鉄格子の中から世に送り出された作品です。

ラ・グーマが提供しようとした「何か」は、ケープタウンにすむ普通の人たちの日常生活でした。生まれ育った南アフリカはヨーロッパ人入植者に侵略され、そこに住む人たちは土地を奪われて安価な労働力として農場や鉱山や工場や白人家庭でこき使われました。入植者たちは人種差別を最大限に利用して労働賃金を極力抑え、「先進国」と協力して、豊かな富を貪り続けてきました。

政府は外国人観光客を誘致するために、動物保護区、豪華な夜行列車、整ったゴルフ場や海岸線などのきれいな「南アフリカ」を宣伝しました。表面上はアパルトヘイト反対の姿勢を取りながら、アパルトヘイト政権と密な関係を持ち続けた日本政府に「認可」されて東京に事務所を持っていた南アフリカ観光局 (South African Tourism Board) は日本人の観光客を誘致するために、美しくすばらしい「南アフリカ共和国」を強調する写真入りの美しい装丁のパンフレットやビデオなどに多額の宣伝費をかけていました。

ケープタウンのテーブルマウンティン(南アフリカ観光局のパンフレット)

しかし宣伝とは裏腹に、大抵の人は劣悪な環境のスラムに住まざるを得ませんでした。1984年から3年余り、記者としてヨハネルブルグに在駐した伊高浩昭氏が『南アフリカの内側』の中で書いたスラムです。

白人政府は1955年、ケープタウンを中心とするケープ西部の商工業地帯を、カラード雇用優先地域に指定した。雇用主は、カラード労働者を補充できない場合に限って黒人を雇うことが認められた。この地域での黒人用住宅の建設は同年、中止された。

それから20年後の70年代半ばには、20万人を越える家のない黒人たちがケープタウン郊外に住みついていた。この事実を背景にして、81年に「不法居住者」問題が改めて浮き彫りになった。

ケープタウンの東方20キロの荒地に、ダンボール、ナイロン、トタン、木の切れ端などで掘立小屋が立ちはじめた。小屋はキノコのように次々に現われ、いつしか荒地を埋め尽くしてしまった。81年7月のこと、荒れ地の名はンヤンガ。

ラ・グーマは世界に実際の南アフリカを知ってもらうために、日常世界の舞台として、ケープタウン郊外のカラード居住区のスラムを選びました。それはアパルトヘイト体制の下で「カラード」と分類された作家だからこそ出来たことです。次のインタビューからラ・グーマの真意が汲み取れます。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。

『まして束ねし縄なれば』の主人公の家族が住む「家」は次の書き出しで始まります。

ポールズ一家の父親は、ずっと以前にその家を建てた。ポールズ一家の母親と一緒に、田舎から都会に流れてきたときである。母親はすでにキャロラインを身ごもっており、ロナルドは洟垂(はなた)れ坊主で、怪我をした仔犬のようにくんくん泣きながら母親のスカートにまとわりついて離れなかった。父親はその土地を借りていた。土地は荒れた砂地を幾つかに仕切っただけの、がらんとして何もない空き地の一つだった。ちょうど、そのころ、高速道路から脚のように延びた土地に、ぶつぶつと出来物のようなぼろ小屋が立ちはじめ、たくさんの人びとがひしめき合って住みつくようになってきたのだ。(中略)

父親とチャーリーは、家の材料をごみの中から探しだしたり、人に頼んでもらい受けたり、暗い夜に盗んだりした。錆びた波型鉄板や厚板や段ボールの切れ端、それにこんな物がと思われるような意外ながらくたも、一つ残らず、何キロも引きずって持ってきたのであった。横に石油会社の名前が入ったぺちゃんこにした灯油の缶と、チャーリーが集めたがらくたから引きぬいて石の上で金槌(かなづち)を使って真っすぐにした古釘の一入った缶があった。また、割れ目や穴に詰めるぼろ布、何本もの荷造り用の針金と防水紙、紙箱、古い金属片と針金の束、荷造り用木箱の横面の木、それに線路の枕木が二本あった。

アパルトヘイト政権の下でASIAN, COLOURED, BLACKと分類された人々の大半は『まして束ねし縄なれば』に描かれたようなスラムに住んでいたのです。

4 雨の象徴性

ラ・グーマは、聖書の伝道之書第4章の9節から12節の中の「二人は一人にまさる・・・・人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」の「三根の縄」(a Threefold Cord)になぞらえ、厳しい環境の中でも何とか助け合って生き延びる家族の日常を描いてみせました。子供たちと夫に尽くし続ける母親、家族のために働き、家族を思いながら死んで行った父親、生来の楽天的性格で陰ながら両親を支え、思いやるチャーリー、そんな親子の関係を通して、ラ・グーマは「三根の縄」の貴さを見事に描き出しています。

助け合う家族の姿をさらに印象づけるために、冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を持ち出しました。

『夜の彷徨』でラ・グーマは、夜と黒のイメージを使って第6区の抑圧的雰囲気を醸し出しましたが、この作品では惨めなスラム街の雰囲気を作り出すために、雨と灰色のイメージを利用しました。

A Walk in the Night, 1962(ナイジェリアのムバリ出版社版、神戸市外国語大学国人文庫所有)

ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからです。次のインタビューからそんなラ・グーマの真意が汲み取れます。

暫く前に、なぜいつも私が南アフリカの天候について書くのかと尋ねられました。たぶん、1つには天候がその雰囲気を作り出す役割を果たし、実情などを描き出す助けとなっているからです。又、この国がとてもすばらしい気候の国だという政府の観光宣伝を海外の人が信じているという事実もあるからです。私にはその気候を南アフリカの1特徴として使えたらという考えもありましたが、同時に象徴としての可能性から見て、最も南アフリカ的なものにしたい、或いはしようとする考えもありました。言い換えれば、私は自然美を謳う政府の観光宣伝とたたかい、美しいゴルフ場だけが南アフリカのすべてではないことを世界の人々に示そうとしているのです。

ケープタウンの海岸線(南アフリカ観光局のパンフレット)

ラ・グーマは物語を雨で始め、雨で終えています。しかも、主題に係わる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包み込んでいます。まえがきでバンティングが言うように『まして束ねし縄なれば』は「ケープの冬の湿り気と惨めさに濡れそぼり、その灰色と佗しい色調をラ・グーマは一連の絵画的、散文的銅版画」10で捕えています。

<第1章遠景>

山々を背景にひかえ、海に面した町の遠景から先ずラ・グーマは書き始めます。次に映画のクローズアップ手法さながらに、国道や鉄道線路脇のスラム街をゆっくりと写し出して行きます。

南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせます。最初は細やかな霧雨が地面に湿り気を与えるだけですが、雨はやがて本降りとなり、見渡す限り灰色の世界が広がります。ラ・グーマは次の言葉でその冬景色を語っています。

太陽は遮られてどんよりした灰色の世界が広がり、昼には不似合いなじめじめした薄明かりがさしていた。雨は突然の烈しい風で再び始まり、断続的な大粒の雨でその世界を垣間見せた。それから、雨脚は次第に一定となり、容赦ない本降りの雨となる。それは灰色一色の世界だった。(1)

あくまでも静かな書き出しです。第1章には音に関する表現が殆んど見当たりません。殊に、全体を通してあれほど多く使われている擬声語が皆無です。視覚に焦点を置き、特に雨の灰色のイメージをラ・グーマはまず読者の心に植えつけたかったのでしょう。それはまさしくこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴しています。しかも、climbing battlements(聳[そそ]り立つ銃眼つきの胸壁)、a rough wall of mortar(粗あらい、モルタル塗りの城壁)、marched(行進した)、commanded(指令されて)、ramparts(塁壁)、held at bay(寄せつけない)、harried (繰り返し攻撃した)、flank(側面)、The high, grey-uniformed fog(灰色の軍服を着た濃い霧)、breaches(突破口)、assault(襲撃する)、retreating(退却しながら)、intermittent([戦闘などが]断続的な)など、軍隊で使う用語を意図的に多用しています。

「鉛色に垂れこめた雲の群れが、強風の指令に従って、大西洋の方から隊列を組んで進入し、空を横切り、城壁のような山なみに向かって、痛めた足を引きずりながら、のろのろと行進していった。・・・雨は海岸線だけを集中的に攻撃し、ぎざぎざ型に突き出た岬とばりの上空に雨の帳が垂れこめた。側面の雨は海に降り注いだ。灰色の軍服を着た濃い霧が山なみをおおって、空やほかの世界からは見えなくなり、やがて何か不吉な前ぶれのように、地上はいちめんの霧に包まれた。」(1)などの表現が、無防備なスラムの住民が軍隊の容赦ない攻撃を受けているような感じを漂わせ、雨が住民を苦しめる存在の象徴として描かれています。

<雨・雨・雨>

父親の臨終、警察の2つの手入れ、キャロラインの出産、ロニーのスージィ惨殺など、主だった事件ではすべて雨が降っています。例えば、フリーダの小屋の手入れやキャロラインの出産では、雨がフリーダや子供たち、またキャロラインの、それぞれの不安を助長する一因となっています。そして、裸同然の姿で引き立てられて行く場面、スージィ惨殺の場面においては、状況の苛酷さが雨によって増幅されています。

<終章小屋>

第2章と同じ書き出しで始まる第28章もやはり雨で終わります。灰色の世界です。火事で2人の子供を亡くしたフリーダを今は亡き父親のベッドに休ませて、母親とチャーリーがやさしく慰めます。外では烈しい嵐が吹き荒んでおり、その様子をラ・グーマは次のように描きます。

雨は土台を掘り起こし、表面の土をさらった。そして継目が口を開け、外の壁が騒々しい音を立てた。家はたわんで倒れそうになり、歪んだひし形に形を変えた。雨は庇のところで、ゴボゴボ、ブクブタ、タツタツと音を立て、天井に沿って水銀のように流れた。下では、貧しい人々が吹いて缶に火を起こし、容赦ない雨のなか、悪寒に震えてうずくまり、歯をガタガタ鳴らせながら、肩を寄せ合って暖を取った。(109-110)

吹き荒ぶ外の嵐はアパルトヘイト体制を死守する白人政権の暴挙を連想させ、土台を掘り起こされ、倒れそうになりながらも嵐に耐える小屋の姿は、白人でない人々の社会的立場を暗喩しています。その小屋の中で寒さに震えながら肩を寄せ合って暖を取る光景は、アパルトヘイトの嵐の中で何とか生きのびている南アフリカの人々の姿の象徴でもあります。ラ・グーマは雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者の感性に迫っています。

5 擬声語の効用

<第2章小屋>

チャーリーは雨の音に起こされます。第1章とは対照的に音に関する表現が多く使われています。自然音を模した擬声語が書き出しだけでも、ヒュッ (hissing)、パラッ (rattling)、ドオッ (roar)、ポトポト (drip-drip)、ポツポツポツ (plop-plop-plop) などと多彩です。雨が小屋に当たって様々な音を発するからです。小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられており、錆びたトタン板や石油缶、段ボール紙などから出来ています。瓦屋根の家なら余程の雨が降らない限りそれほど音はしません。つまり、雨の音は小屋の貧しさの象徴なのです。

雨脚が弱ければその音はポタッやポトッですが、ひどくなればポタ、ポト、ボタ、ボトにかわます。チャーリーが雨漏り水を缶に受ける一光景です。

チャーリーは天井から落ちて来る雫の下に缶を置いた。ポツポツ (plop-plopping) が金属に当たることで、突然小さなバシャン (rumbling) に変わり、次第に鈍いポトン (tinkling) になった。(5)

3つの擬声語に含まれる流音r, lは雨漏り水の流れ落ちるさまを、plop (ポツ) の2つの無声破裂音pは雨水が床に当たる澄んだ階音を、rumbling (バシャン) の有声破裂音bは缶の中にこもる軽い金属音の感じを、tinkling (ポトン) の無声破裂音kは缶の中に溜った水の表面に雨水が落ちる際に発するリズミカルな快音をそれぞれ言い写しています。又、語尾の鼻音-ngはその音が余韻を残して響く様子を、更に別の鼻音 [m]、[n] との繰り返し音 (rumbling・tinkling) は、その音の短い楽音的な響きをうまく言い当てています。家族がまだ眠っている静かな部屋の中では、それらの響きがより広がりと余韻を持ちます。3つの擬声語は短いながら、室内のそんなイメージを伝える働きをしています。

風が烈しくなれば、雨の音も大きくなります。同じ章の別の光景です。

外では風が再び烈しくなり、小屋に雨を叩きつげ、暫くの間トタン板にバシャ(rumbling) という音がした。それから風向きが変わって風は止み、それまでのパラッ (rattling)、ポタッ (tapping) という低い音が消えた。(4)

Tap (ポタッ)には元来「そっと打つ」という含意がありますから「低い」がなくても風の弱かったことはわかりますが、この場合、rumbleとrattleの強弱、清濁の対比的使い方が印象的です。雨の流れるさまを象徴的に示す両鼻音r, lにはさまれたmbとの対比です (rattling・rumbling)。

烈しい風が雨を小屋に叩きつける濁った鈍い音と弱い風による小さな雨の澄んだ軽い音の差を、余韻を残す鼻音mと濁った音を表わす有声破裂音bとの組み合わせmbと澄んだ音を示す無声破裂音pとの対比で言い分けたのです。先の場合と同じように、室内が静かなだけに雨の音はよけいに、響きの広がりを持っています。

又、同章には、ヒュッ (hiss) を巧く使った光景がすぐあとにあります。弟ロニーを起こしてしまったチャーリーがベッドに戻って座る場面です。

チャーリーは汚れた下着でベッドに腰を掛けた。もう1人の弟のジョーニーは、顔を壁の方に向け、中身の出かけた古い掛けぶとんから刈り込んだ黒い頭だけを見せて眠っていた。雨が家に当たってヒュッと音を立てた。(hissed)。(5)

Hiss(ヒュッ)は短い言葉ですが、両摩擦音h, sで雨の叩きつけられる激しいイメージを、短母音iでその速さ、鋭さを象徴しています。ラ・グーマは静かな小屋の雰囲気と対照的なそのイメージを短い動詞1語で簡潔に言い当てたわけです。

数えあげればきりがないのですが、ラ・グーマは直接的、感覚的な感じを与える擬声語を駆使することによって、雨に苛まれる人々の実状を鮮明に、聴覚から訴えかけていると言えます。

雨は小屋に騒音をもたらすだけではありません。雨の湿気が小屋内の悪臭を助長します。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化してしまいます。そんな臭いに関する1節もあります。

室内にも又、臭いがこもっていた。汗、毛布、むっとする寝具の臭いがしみこんで、どこからともなくすえた食べものとこもった湿気、それに濡れた金属の悪臭が漂っていた。(3)

それは貧乏の臭いであり、スラム街の別の象徴的存在でもあります。哀しいことに、小屋の住人たちはその臭いが気にならないほど慣れてしまっているのです。

第1章でラ・グーマが視覚に訴えているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に直接訴えかけていることになります。

6 ラ・グーマの思い

ラ・グーマ(1981年川崎市にて)

アパルトヘイト政権下で人権を否定され続けていたラ・グーマには、文学や人生以前に、その文学や人生を獲得するためのたたかいが存在していました。人間的な生き方をしようとすれば、南アフリカではどんな生き方を選択しても,当然人はそのたたかいの渦中に身を置くことになります。従って、『まして束ねし縄なれば』は人問としてのたたかいと生き方の中から生まれたものと言えます。しかし、この物語の文学としての評価が高いのは、たたかいのためのプロパガンダやスローガンではないからです。次のインタビューの一節から、ラ・グーマの文学と闘争についての基本的な姿勢が窺えます。

聞き手:小説のなかであなたが求める価値とは何ですか。

ラ・グーマ:私は出来るだけもったいぶらないで、人の尊厳や基本的な人間の魂を表現したいと思っています。政治宣伝やスローガンは避けるべきです。私は政治的にも闘いに関わっていて、作品を描く場合も闘争に関わる場合も、人間の尊厳を守りますが、著作と闘争は二つの違った活動です。11

ブライアン・バンテイングはイギリス版のAnd a Threefold Cordの序文でこの作品を次のように評しています。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。12

And a Threeford Cord, 1988(イギリスKliptown Books版)

『まして束ねし縄なれば』は、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ラ・グーマが後の世に伝える歴史的な遺産で、文学的な技法に裏打ちされた、貴くすぐれた作品だと思います。

「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年4月~平成2年3月)、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年4月~平成18年3月)、「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年4月~平成23年3月)で科研費の交付を受けました。

今回交付されたのは、基盤研究(C)、4,030,000円(平成30年度~ 令和3年度)です。

カナダに亡命中のCecil A. Abrahamsさん(Alex La Gumaの著者)を自宅に訪ねて「『カラード』と呼んでもいいんですか。」と聞いたとき、「今は『カラード』と呼ばれたがらないね。ホワイトかブラックだけ。政府がBLACK, COLOURED, ASIANと人々を呼んで、分断支配をやろうとしたからねえ。」という答えが返って来ました。(1987年8月22-25日、セントキャサリンズ)

Cecil A. Abrahamsさん(1987年カナダセントキャサリンズの自宅にて)

宮崎に来た1988年に県立図書館の殆ど何もない「国際コーナー」に南アフリカ観光局の寄贈の本や地図だけが並べられているのを見て哀しくなった記憶があります。多くの人が「人道的に」反対するなか100万もの大金を払ってそんなところに誰が行くんだろうと思っていましたら、同僚の教授が二人出かけて行きました。

伊高浩昭『南アフリカの内側―崩れゆくアパルトヘイト―』(サイマル出版会、1985年)94ページ。

Cecil A. Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma (Boston Twyne Publishers, 1985), p. 70.

Alex La Guma, And a Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964), p. 17. 以降の引用はこの作品のページ数のみを括弧の中に記します。

エピグラフに使ったのは伝道之書第4章の9節から12節:「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」で、

「三根の縄」(a Threefold Cord)が題に使われています。『まして束ねし縄なれば』(横浜:門土社、1992年)として日本語訳を出版してもらっています。

玉田吉行訳『まして束ねし縄なれば』(横浜:門土社、1992年)

Dennis Duerden and Cosmo Pieterse (ed.), African Writers Talking (London: Heinemann, 1972), p. 93.

10Brian Bunting, “Preface” to And a Threefold Cord (London: Kliptown Books, 1988), p. viii.

11Richard Samin, “Interviews de Alex La Guma," in Afram Newsletter No. 29 (January 1987), p. 13.

12Brian Bunting, “Preface to And a Threefold Cord”, p. viii.

(たまだ よしゆき・宮崎大学)

執筆年

2019年

収録・公開

「言語表現研究」(2020年3月)37号(収載予定)

 

「言語表現研究」(2020年3月)37号(表紙の写真掲載予定)

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2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。

5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。

入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。

結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。

マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。

そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。

その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、教育歴はなく研究業績もほとんどなし(「黒人研究」に2本だけ)なのに大学の職が見つかるわけないわなあ、どこも博士課程に入れてくれないし、ほんまどうしたらええんやろ、と文字通り、途方に暮れました。

教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職にはなりましたが。

7年在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

(→続モンド通信9(2019年8月20日)に収載)

1990~99年の執筆物

概要

(概要・写真作成中)

本文

南アフリカのひと

二年前の夏、カナダのセスゥル・エイブラハムズさんのお世話になった私が、今度は宮崎で、ミリアム・トラーディさんをお迎えすることになるとは夢にも思わなかった。エイブラハムズさんはカナダに亡命中の文学者、ミリアムさんは国内で活動を続ける作家、ともに南アフリカのひとである。

カナダに住むエイブラハムズさんにお会いしたいと思ったのは、ミシシッピ州オクスフォードの本屋のリチャードさんから届いたエイブラハムズさんの新刊『アレックス・ラ・グーマ』(1985年刊)を読んだからだった。お訪ねしてもいいですか、と手紙を書いたら、「どうぞ。北アメリカに着いたらお電話下さい。」との返事がかえってきた。

北アメリカに着いて電話をしてみたが、つながらなかった。オハイオ州ケントの伯谷嘉信さんとニューヨーク州プキープシィでのローレンス・マミヤさんご一家にお世話になりながら、やっと電話がつながったのは一週間のちのことだった。

あとから考えれば、よく行けたなあ、というのが正直な感想である。

*本誌10号1987年7月号に「セスゥル・エイブラハムズ・・・アレックス・ラ・グーマの伝記家を訪ねて・・・」を書かせていただいた。

今回のミリアムさんの場合も、経緯はおおむね同じだった。

京都に住むケニア人サイラス・ムアンギさんから「南アフリカからミリアムさんという作家が日本に来れるようやけど、宮崎に行けないやろかな。」という電話があった。来日の三週間ほど前のことである。「うーん、そうやなあ・・・・」と考えているうちに、「はっきりしたら、また電話します。」ということになった。

同行される大阪の佐竹純子さんから、来られることになりましたのでそろそろ切符の手配をという電話があったのが、ほぼ2週間まえである。さっそく航空会社に予約の電話を入れてみたが、全日空の6便はすべて満席だった。最近乗り入れた日本エアシステムの座席をなんとか確保したが、それが最後の2席だった。ホテルにも電話を人れてみたが、どこもほぼ満員とのこと、かろうじて市街地にあるワシントンホテルを予約するのが精一杯だった。あとで判ったのだが、到着予定の日が運悪く、年に一度の「みやざき納涼花火大会」の開催日であった。

26日あたりから台風の影響で、雨と曇りの毎日で、我が家のカーポートの屋根は無残な姿をさらし、物置は吹き飛ばされたままだった。飛行機が飛ばないと東京での予定が狂うから宮崎での日程を早めて帰京して下さい、という東京からの声も無理からぬと思えるほどの荒天続きだった。しかし、東京の予定に合わせていたとしたら、宮崎での講演会を中止して昼の1時22分宮崎発の特急「富士」に乗っても、東京到着は翌朝の9時58分である。ミリアムさんと佐竹さんはあやうく20時間以上の長旅を強いられるところだった。

東京にいると、東京がすべての中心と考えて宮崎の遠さもわからなくなるものらしい。

幸い、到着前日の4日から、空は嘘のように晴れわたった。

宮崎空港から一ツ葉海岸ヘ

ミリアムさんと佐竹さんが宮崎空港に降りたったのは8月5日のお昼まえである。出迎えたのは河野次郎君と小島裕子さんと私、それにコンスタンス(コニー)・ヒダカさんと二人の子供ラティファンちゃんとイマニュエル君の6人だった。次郎さんと小島さんは「運転手」を快く引き受けてくれた医科大生、コニーさんは県内都城市に住む南アフリカのひとである。

空港に姿を現わしたミリアムさんは長旅の疲れの色が顔ににじんでいるようだった。ミリアムさんとコニーさんは、耳慣れぬ言葉で挨拶を交わしながらしっかりと抱き合った。はるかな日本の、しかも都心から遠く離れた土地で、まさか南アフリカの同胞と巡り合えるとは思っていなかった感慨からであろう。あとからコニーさんに尋ねてみたら、二人が交わした挨拶は「こんにちわ」の意の「デュメラ」(Dumela)というツワナ語だったそうである。

真夏の太陽の照りつけるなか、八人は二台の車に分乗して、すぐ一ツ葉海岸に向かった。ミリアムさんが一年の半分ずつを過ごされているというヨハネスブルグもレソトも内陸部にあるので、日向灘に面した一面の砂浜にまずお連れしたいと考えたからである。宮崎に来るまえに住んでいた明石で見慣れていた瀬戸内海と違って、島もなく、行き交う船も少なく、見えるのはただ一直線の水平線である。そして何より、海の色が美しい。穏やかに見える海は予想以上に荒く、遊泳禁止を無視して泳ぐ若者が毎年のようにおぼれるという。案の定、砂浜に駆けおりたラティファンちゃんは波に足をすくわれてしまった。捕まえようと慌てて海に入った次郎さんと小島さんの革靴は、哀れずぶぬれとなった。

砂浜に降りたったミリアムさんは、浜辺に打ち上げられた朽ち木と発泡スチロールを手にカメラのレンズのまえに立たれた。海辺のレストランでは、日本食の苦手らしいミリアムさんは、ステーキののったカレーライスをおいしそうに食べ、フルーツ・ジュースを飲みながら、コニーさんと佐竹さんとの会話を楽しんでいた。

食べ物はいかがでしたか、と尋ねたら、レセプションやパーティ続きで余り食べられなかったからやっと一息ついた感じ、との答えが返ってきた。

「カレーは南アフリカの国民的な食べ物ですよ」といいながらカレーを作ってくれたエイブラハムズさんのことを思い出しながら、ミリアムさんにもカレーはやはり食べやすかったのかな、と思った。

コシ・シケレリ・アフリカ

ホテルのチェック・インをすませて、少し休んだあと、夕方から家で小さなパーティをもった。パーティには、宮田敏近さん、大塚和之さん、さらに波多野義典君が加わった。波多野君は準備の段階から何かと手伝ってくれた医科大生、宮田さんと大塚さんはともに良き先輩である。

夕食を食べながら、宮田さんが質問役、大体はコニーさんが、ときおり佐竹さんが解説役をしながら、ミリアムさんの話を聞いた。人数が少ないうえ、飲んだり食べたりしながらだったので、割合ざっくばらんの話だったように思う。そのとき撮った写真を見ても、ミリアムさんの表情がかなりくつろいでいたのが解る。

近所のお菓子屋さん「梅月」のWELCOME MIRIAM!の文字入りのデコレーションケーキのろうそくの火をミリアムさんが吹き消す前に、ピアノ伴奏でコサ語の「コシ・シケレリ・アフリカ」を歌った。ザンビア、タンザニア、ジンバブエの国歌として歌われている賛美歌調のこの歌は、南アフリカが解放されたとき、国歌になるだろうと言われている。最近よく練習していたこの歌を、南アフリカのひととわが家で歌うとは考えてもみなかった。ミリアムさんとコニーさんがきれいなハーモニーを聞かせてくれたが、無情にも録音テープは一番いい所でプツンと切れていた。私がこの瞬間を逃しては、とシャッターをきり続けていたからである。

歌い終わってミリアムさんが右手の拳を握り締めて「アマンドラ!」とやると、すかさずコニーさんと佐竹さんが同じ動作で「ガウェツゥ!」と呼応した。

映画『遠い夜明け』や『ワールド・アパート』の中でも、黒人の指導者が聴衆に向かって「アマンドラ!」(力は!)とやると、聴衆が「ガウェツゥ!」(我らに!)と応じる場面があった。あらかじめ解説をうけたことのある次郎さんはなるほどとうなずいていたが、宮田さんと大塚さんは初めて見る光景に目を白黒させた。

大淀川の花火

その夜は、疲れているのでホテルでゆっくりされる予定だった。しかし、いざホテルの近くに来て花火のバンバン鳴っている音を聞くと、やっぱり花火を見に行きましょう、ということになって、大淀川河畔まで歩いて行くことになった。

早く歩くのは大変だろうと気づかってみんながゆっくり歩いていると、そんなにゆっくり歩いていたら南アフリカではやっていけないのよ、とミリアムさんはひとり先にどんどん進んでいった。

花火はオハイオ州立大学に留学中に見て以来二度目であったそうだが、かき氷を食べながらの花火見物に、ミリアムさんはご満悦の様子だった。翌朝の新聞によれば、打ち上げられた花火は一万発、ざっと15万人の人出があったとのことである。

次の日の講演で、ミリアムさんがこの夜のことを「忘れ難い出来事」として紹介されたが、日本の夏の夜の一風物詩として心の中に永くとどまればうれしい限りである。

宮崎医科大学にて

11時頃、次郎さんと一緒にホテルに迎えに行ったとき、ミリアムさんはすっかり元気を取り戻されたように見えた。

昨晩は夜中の2時まで、アレックス・ラ・グーマを読んでいて、久し振りに興奮しました、とのことだった。差しあげた門土社版のアレックス・ラ・グーマの大学用のテキスト』A Walk in the Night(『夜の彷徨』)だが、発禁処分を受けて南アフリカ国内では読めないラ・グーマの本が宮崎の学生に読まれているとは、ミリアムさんも予想していなかったに違いない。

大学に着くと、小島さん、波多野くんに加えて医科大生の日高恵子さんと松浦由佳さんがすでに待機してくれていた。

ミリアムさんを囲んで簡単な昼食を済ませてから、手分けして会場の準備に取りかかった。会場では受け付けに福永一美さんの加勢もあって、なんとか一時の開演にこぎつけることが出来た。

会場の臨床講義室には、NHKの取材陣なども含め、百人近い人が集まっていた。

私が今回の宮崎での状況と簡単な南アフリカの歴史を、佐竹さんが来日の経緯と人物の紹介を少ししてから、さっそくミリアムさんの話が始まった。昨夜のくつろいだ表情とはうってかわり、赤を基調にした鮮やかなターバンを頭に巻いた演壇のミリアムさんの表情は、さすがにきりっと引き締まっていた。

短かい挨拶のあと、さっそく講演「南アフリカの文学と政治」に入ったが、私の通訳がもたもたしたり、講演論文のコピーがあらかじめ配られてあったこともあって、論文の途中から質疑応答形式に切りかえ、ミリアムさんが参加者から質問を受けることになった。

講演と質疑応答については、掲載している翻訳を参照していただければ幸いである。通訳では伝えられなかったところを補えればと考えて、コニーさんの助けを借りてテープを起こし、日本語訳したものである。

最近では、従来の西洋一辺倒ではない視点から書かれた南アフリカに関する本も何冊か出ているし、注意して見ていれば、南アフリカに関する情報は以前よりたくさん流されるようになっている。そのあたりの事情を考慮すれば、「質問は、言語、検閲、教育など多岐にわたった」(8月19日付け「朝日新聞」)が、そのレベルは必ずしも高くなかったように思う。あとで書いてもらったアンケートの中でも、大学の授業で歴史や文学を中心に南アフリカのことをやっている学生が「やや新鮮味に欠けた」という感想を書いていた。しかし、全般的には、厳しい抑圧のなかで活動する作家の生の迫力に感動したという人が多かった。会場にいた記録作家川原一之さんは、担当する「朝日新聞」のコラム欄「目ン玉かかし」に「検閲や発禁にめげず小説を書き続ける、その誇りと信念がトラーディさんの大きな体から発散していた・・・・久しく耳にすることのなかった、文学の初源を教えられる講演会だった」と、また西日本新聞の吉本秀俊さんは、コラム欄「みやざき点描」に「・・・・”生の声”の訴えは、すごい力で胸に迫った」と書かれた。

最近、本誌8号でも紹介されたケープタウン在住の「カラード」作家リチャード・リーブが殺されたが、ミリアムさんはすでに、同じように国内で作家活動を続ける同胞の死をご存知だった。個人的ではなく、南アフリカの人々の一般的な意見を述べています、とミリアムさんは自らの立場を説明したが、史実にもとづきながら、言うべきところは言い、決して一歩も譲らなかったように思う。それは国内で踏みとどまる作家が、常に「死」と隣り合わせのところで生きなければならない状況の厳しさに裏付けられているようだった。

その時は会場を見渡す余裕がなくて気がつかなかったのだが、あとから写真を見ると、ミリアムさんが最後の挨拶のあと立ち上がって深くお辞儀をされたとき、たくさんのひとが立ち上がって拍手を送っている。拍手はなかなか鳴り止まなかった。

NHKは当日の夜のニュースで講演会の内容を簡単に紹介した。「西日本新聞」が翌日に報告記事を、14日には吉本さんのスケッチ入りの「自由平等を訴える南アの黒人女性作家」と題するコラムを、「朝日新聞」は19日に「南アの反アパルトヘイト作家ツラーリさん宮崎医大で講演『小説の半分削られた』差別の大きさ訴え熱弁」の記事と12月22日に川原さんのコラム「南アの女性作家」を掲載した。

みやざきのひとびと

最初、ムアンギさんから話があったとき、日本での日程がきつそうだから宮崎でゆっくり出来れば、ということだったので、宮崎のきれいな海を見てもらい、コニーさんに会ってもらって、もし出来れば、英語による小さな集まりでもというのが最初のぼんやりした心づもりだった。しかし、連絡の段階で、そんな機会は宮崎ではめったにありませんから是非公開して下さいよ、という宮崎大学の高須金作さんの言葉に心がぐらつきかけたとき、医科大生の中村政人君から「川原さんが新聞社とかを一緒に回って下さるそうですから、車で迎えに行きます」と電話があった。

にわか仕立ての写真入りチラシを持って川原さんを訪ね、中村君の車で新聞社や放送局を回っていただいた。新聞社、放送局巡りが初めての私には反応の程は分からなかったが、川原さんによれば「反応、いいですね。」ということだった。

30日に読売新聞と毎日新聞が短かい記事を、4日に西日本新聞、5日に宮崎日日新聞、6日当日に朝日新聞がそれぞれ少し詳しい記事を掲載した。(毎日新聞では「ソウェト」が「ソビエト」になっていたが。MRT宮崎は一週間まえあたりから何回か、また、NHKは当日の朝のニュースで「講演会案内のお知らせ」を放映した。FM宮崎の電波にも案内の知らせが流れたとのことである。川原さんに回っていただいたところは、UMKテレビ宮崎を除いてすべて取り上げて下さったことになるが、いつもこうではないとのことであった。「アパルトヘイト」は、「今」の問題なのかも知れない。

川原さんは宮崎在住の記録作家である。新聞記者として宮崎県の亜砒鉱毒の山村「土呂久」に出会い、「本格的にのめりこむ覚悟を決めて朝日新聞社を辞め」て、十数年来「土呂久」とともに歩んで来られた。「土呂久」を「近代日本の縮図」ととらえ、1980年に「鉱毒の里の人びとの生き死にを記録した」『口伝 亜砒焼き谷』(岩波新書)を、1986年に「百年裁判の覚悟を胸に」闘う「土呂久」と川原さんの記録を綴った『辺境の石文』(径書房)を、1988年には『浄土むら土呂久 文明といのちの史記』(筑摩書房)を上梓されている。『浄土むら土呂久』は、土呂久や他の鉱山の歴史から諸外国の公害問題にも触れ、土呂久をもっと大きな、地球規模の視点から捉えようとする労作である。「朝日ジャーナル」等に取材記事を載せながら、昨年から朝日新聞宮崎版のコラム欄「目ン玉かかし」を担当、宮崎のいろいろな人や出来事を紹介され続けている。

小説を書いておられる宮崎大学の岡林稔さんは「宮崎で一番いい人に、新聞社回ってもらったね」と言われたが、アンケートに、新聞を見て講演会に来ました、と書かれた人も多かった。

中村君は「社会人の苦労に比べたら、学生としての苦労はやっぱり何でもないですね」と言う医科大生、三児の父親である。宮崎大学の学生時代に「土呂久」と出会い、川原さんとも知り合ったとのこと、野外キャンプに行く子供たちのためにマイクロバスの運転手をつとめ、パーティや講演会には参加出来なかったが、何十枚もチラシを持っていろいろな人の所を回ってくれた「影の功労者」である。

会場では、次郎さんがビデオをうつし、波多野君と小島さんがマイクを持って質問者の間を走りまわった。波多野君は写真もたくさん撮ってくれた。本誌の講演の写真は波多野君の「ウデ」のお陰である。誰もが自分の意志と判断でごく自然に振るまえたのが何よりも大切なものに思えた。

準備の段階での資料作りや電話の問い合わせに応じて協力下さったのは、一般教育事務室の戸高幸子さんである。

アンケートから、担任の先生から聞いて来たという高校生、子供から聞いて駆けつけた父親、親から聞いて出席した大学生などが参加されたのを知ったが、なんとなく心暖まる思いがしてうれしかった。

2日目の夜は、一ツ葉の海の見えるホテルに泊まっていただき、翌朝、自然動物園の観覧車から日向灘を一望していただいた。

空港では、次郎さんが別れ際に白い封筒を手渡していた。中には、英語で書かれた手紙と小さな贈り物が入っていたようだった。

みやざきから

今回もまた、あとから考えれば、ミリアムさんをよく宮崎にお迎えできたなあ、というのが正直な感想である。

ずいぶんと急な話であったが、いろいろな人の協力により、結果的にはミリアムさんの宮崎訪問は成功だったように思う。

亡命をいさぎよしとせずあくまで国内で闘うミリアムさんとお会い出来たのはもちろんだが、ミリアムさんにきれいな海を見ていただいたことや、「ひとのよい」宮崎の人たちと接していただけたのが、何よりだった。

今回の来日は、南アフリカの文学を研究する日本人の佐竹さんと南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんとの個人的な交流から生まれ、大部分は佐竹さんの骨折りによって実現したものである。

とかく何事も、国と国とのレベルで捉えられがちであるが、個人と個人のレベルでの交流のほうが、本当の意味で、もっと大切な何かを含んでいる。

最近、ミリアムさんの著書『アマンドラ』を翻訳出版された佐竹さんと、無事に帰国されたのちすぐにイェール大学にわたられたと聞くミリアムさんの、ますますのご活躍をみやざきの地からお祈りしたいと思う。

1990年1月10日

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

執筆年

1990年

収録・公開

「ゴンドワナ」15号2-8ペイジ

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「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(作業中)