つれづれに

歩くコース2の⑤

木花神社の中を通る→「歩くコース2の④」(9月9日)の続きで、歩くコース2の最終回である。

神社は無人で普段は誰もいない。見晴らしのいい高台にあって、旧法満寺があった頃にはたくさんの伽藍があり、飫肥藩から定期的に大勢が訪れていたようだ。南の端に二か所の展望所があり、南側と西側が展望できる。南には加江田の山が広がっている。この景色を見るといつも、山頭火が1930年の行乞の旅で熊本から宮崎を歩いた際に詠んだとされる、

分け入っても分け入っても青い山

を思い出す。

東側には日向灘が広がっており、サンマリーン球場や、春のプロ野球のキャンプで使う室内用のドームが見える。

東側には下の道に出る階段がある。今回、階段の数を数えようと下から登ったら98段、どうして区切りのいい100段にしなかったのか、そんなことを考えながらもう一度数えながら降りてみたら、99段、その辺りのようだ。雨の後などはすべりやすい。急な階段である。

南からの登り口、階段下の鳥居が見える

県道の脇の幡、風の強いときは外すようだ

階段を降りて少し坂を下れば県道に出る。手前の三叉路を左折してしばらくいくと、歩くコース1の道にただり着く。その後は、コース1と同じで、サンマリーン球場の見える交差点で折り返し、木花駅、木花小学校、木花中学校を通って家に戻る。このブログではずいぶんと時間がかかってしまったが、ほぼ一時間ほどの一番長いコースである。

前回戦没者の慰霊碑に触れて、靖国神社や第二次大戦の話を書いた。

次回からはしばらく、種田山頭火の話と併行して、歴史をどうみるか、という大きなテーマで、留学生、教授会、学士力難民など身近な話と結び付けて書いてみたいと思っている。今書いている小説のテーマとも重なるので、この「つれづれに」を習作にでもするつもりなのか、少し下心があるのかも知れない。

つれづれに

歩くコース2の④

重陽の節句である。

木花神社の中を通る「歩くコース2の③」(8月22日)の続きである。境内の残りの写真を紹介しながら少し書こうと思う。

前回紹介した市指定有形文化財の掲示があり。阿弥陀如来立像について詳しく書かれている。

法満寺(明治5年廃寺)については「最盛期である飫肥藩主の崇高熱き大伽藍であったことが窺われ、この阿弥陀如来像もこの寺にまつるにすさわしいものであったといえます。」とあり、近くに石像や石塔がまとめて並べられている。

また日清、日露から第二次大戦までの戦没者の慰霊が祀られている。徴兵されて異国で死んでいった人たちの供養のために建てられたようである。石碑には陸軍や海軍の文字が見える。

同じように戦没者を祀る靖国神社が問題にされるのは、民意を無視して暴走し、挙句は第二次世界大戦まで突っ走ってたくさんの人たちを戦死させてしまった指導者たちーA級戦犯の慰霊もいっしょに祀られているからである。今はコロナ騒動の渦中で、暴走した当時の大日本帝国陸軍と、大多数の反対する人たちを無視してオリンピックを強行開催した安部、管内閣を並べて語る人もいる。いい機会なので歴史の見方などについては、改めて書こうと思う。関連しそうなので、ケニアの続きもその時に。

戦没者慰霊碑

コロナとオリンピックをめぐる状況は、貴重な歴史体験のような気もする。靖国神社に参拝に出かける人たちは、侵略戦争ではなかった、1937年の南京大虐殺もなかったと主張する。しかし、佐々木譲さんが書き上げた小説を基に映画化された「エトロフ遙かなり」の中の、中国人の恋人を殺されたアメリカ人スレンセンさんの言葉や、強制連行されて北九州の炭鉱で無理やり働かされたキム(映画では金森)さんが叫ぶ声に耳を傾けるといい。

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「エトロフ遙かなり」

『エトロフ遥かなり』は1993年にNHKで放映された。佐々木譲の第二次大戦三部作(ベルリン飛行指令、1988年、エトロフ発緊急電、1989年、ストックホルムの密使、1994年)の一つ『エトロフ発緊急電』がドラマ化されたものでである。
第二次世界大戦前夜、日本海軍の動向を探るため、憲兵に追われながらも単身日本に潜入した日系アメリカ人スパイ、スパイと恋に落ちる女性など、戦争に翻弄される人々の過酷な運命を描いている。
主人公ケニー斉藤(斉藤賢一郎)。日系アメリカ人スパイ。少年時代に弁護士を目指すも、日系人扱いを受けて断念。船員などを経た後、スペイン義勇軍に参加するも夢破れて帰国して雇われ暗殺者に。ある暗殺遂行時にアメリカ海軍情報局に拘束された後、日本国内のスパイ活動を強制される。サンディエゴにてスパイ教育を受け、ハワイでの最初の任務をクリアした後、マニラ経由で日本に潜入する。入国地横浜で韓国人金森と出会い、協力者の米国人神父スレンセンの手引きにより、スパイ活動に従事、やがて憲兵隊に追われ、金森を失う。スレンセンの教会に匿われた後、真珠湾奇襲の真偽の確認と出航時期探索の為にエトロフ島に向かう。辿り着いた島で、駅逓の女主人岡谷ゆきと出会う。

金森(金東仁)。朝鮮人で、アメリカ側スパイ。日本統治下の強制労働で強烈な反日感情を抱き、日本国内でスパイ活動に従事するようになる。日本に潜入したケニーと共に東京でスパイ活動を行うが、情報授受の場を発見されて憲兵隊に追われるようにる。ケニーを逃がし、自らは射殺される。
ロバート・スレンセン。アメリカ人宣教師でスパイ。南京に赴任中、最愛の女性美蘭(中国人女子学生)を日本陸軍に惨殺され、反日スパイ活動の仲介者となる。特命を帯びて日本に潜入したケニーに対して、任務の仲介、必要機材の提供などを行う。金森射殺後に逃げ込んだケニーをしばらく匿い、新たな任務に送り出した後、憲兵隊に踏み込まれ、その場で拳銃自殺を遂げる。

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歴史をいかに見るかは難しい問題である。コロナ騒動、第二次世界大戦、ケニアなども絡めて書きたいと思っているが、書き切れるかどうか。

先ずは次回、歩くコース2を終わらせるとしよう。

200枚足らずの原稿の清書だが、やっと80ページまで。パソコンに慣れてしまっているが、以前は原稿用紙に手書きで書いていた。原点に戻るということか。しかし、効率の点から言えば、01の世界にまず適うことはない。

つれづれに

 大根の芽も

大根の芽

何日か前に薄(すすき)と嫁菜(よめな)が玄関の花瓶に放り込まれていたが、季節は確実に秋になったようである。すすきの絵を描いてもらった気がして画像を探したが見つからなかった。画像にして残してなかったようだ。カレンダーも九月↓

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」9月

勢いのあった南瓜(かぼちゃ)があの長雨で成長が止まり、大きくなりかけの実がひとつ腐って萎れてしまった。あのまま長雨が続いていたら、他のもみんなやられていたかも知れない。雨が降らなくなって、大地も渇き、南瓜も持ち直した。しかし、ある一定の大きさ以上にはならない。今はまた花も咲き、虫たちが花の蜜を吸ったついでに、受粉に協力してくれているようだ。

南瓜

今は野菜もかなり高くなっている。食物繊維を摂るのに毎食レタス、トマト、キュウリ、オクラは欠かせないが、どれも三倍以上に高騰している。この時期、オクラが毎日必ず獲れて食べる分には事欠かなかったが、それも心もとない。二回、物産市でオクラを買った。オクラはふだん通りの値段だったが、そろそろ最盛期が過ぎそうである。

ひょろひょろのオクラの芽

少し前にブロッコリーの苗が物産市に一ケースだけ出た。去年取った種からだとなかなか難しい。あまり高温だと芽が出にくいし、日よけをかけて日影を作って発芽させてもひょろひょろになる。うまく育つかどうか。まだ種は残っているので、もう一度蒔くことになりそう。苗の分は年末には収穫出来そうである。

ブロッコリー

今年獲った種で、大根の芽が出ている。胡瓜と鞘オクラの芽も出ている。ブロッコリーといっしょでひょろひょろだ。同じ日に蒔いたレタスは温度が高すぎるからかだろう。芽が出ない。去年まではなかなか畑に出る時間が取れなかったので種からというのは非現実的だった。結局、苗から大きくすることが多かったが、これからは何とか種からやれそうだ。その意味では本格的には一年目なので、試行錯誤である。胡瓜と鞘オクラの二期作はうまく行くのかどうか。どうだろう。

胡瓜の芽

そのうちに台風も来そうである。農業を仕事にしたら、こんな悠長なことを言っているわけにはいかないが、実入りの少ない重労働で支えられている農業をする人は大変である。食べる側には、有難い話なのだが。

秋も深まって行く。歩くコースもそろそろ一区切りしないと、とは思っているが、9月末締め切りの原稿の清書で鉛筆を持つ指と手が思うように動かず、一気にとは行かない。気持ちの方はそう変わらないのに、そのうち身体的機能の老化に耐えられなくなるかも知れない。思ってもみなかったが、現実のようである。

ひょろひょろのブロッコリー

つれづれに

 歩くコース2の③

木花神社の中を通る「歩くコース2の②」(8月15日)の続きである。同じ境内の中にある阿弥陀堂とケニアの続きを少し書こうと思う。

法満寺(今は廃寺)阿弥陀堂

本殿のすぐ近くに阿弥陀堂がある。駅の掲示版によれば「往時の神仏混淆にもとづいて『法満寺』があったが、明治五年廃寺になり、現在唯一『阿弥陀堂』が残っており、奉られている『阿弥陀如来像』は宮崎市指定有形文化財になっている」とある。

身長九十九センチの鎌倉彫で、鎌倉中期以降に彫られたようである。最盛期の飫肥伊東藩時代にはこの阿弥陀如来像をまつるのにふさわしい寺だったらしい。夕方だったが、ガラス越しに阿弥陀如来像の写真が撮れた。

八方塞がりの高校生の時、帰り路にある寺に寄って、仏像を眺めることが多かった。当時は整備もされてなくて、格子越ではあったが真近かで仏像が見えた。そう大きくない建物だったと思うが、五十数年も前のことなので定かでない。インターネットで調べてみたら、それらしき建物と仏像の写真が載っていた。こんな感じだった気がする。

木花神社の境内に寺?と何度か不思議に思ったが、神仏混淆などの歴史的経緯があるようだ。神体そのものも、神仏混淆も、前回紹介したケニア山の麓の神も、やっぱりわからない、が正直な感想である。

ケニアも白人の侵略を受けた国の一つだ。ケニアで最も人口の多いギクユの人たちが住んでいたホワイトハイランド(現ナイロビ)を南アフリカの入植者に狙われた。ケープタウンからエジプトのカイロまでの縦の一大帝国を築く野望の標的にされた。赤道に近く、標高二千二百メートルの高地にあるが、肥沃で過ごし易い土地が狙われた。長い植民地時代が続いた。第二次大戦の頃に植民地政府に抵抗を始め、長い戦争のあとに独立、指導者の一人だったジョモ・ケニヤッタが大統領に選ばれた。しかし、ケニヤッタは多国籍企業による経済支配を目論む欧米や日本と手を組んだ。他の第三世界の国と同じように、一握りの金持ちと大多数の貧乏人、そんな国になった。アングロ・サクソン系の侵略を受けた国の生き残り策である。独立のために戦った多くの人たちが報われることはない。欧米や日本と組む体制に反発して弾かれた人たちもいる。前回紹介した関西のケニア人も、その中の一人である。国外に逃れてから書いた評論『作家、その政治との関わり』(Writers in Politics)を、頼まれて日本語訳したことがある。反体制側にいる人たちの悔しい思いが滲む。すべての面で欧米や日本に経済的に支配されて、その利益を少数のケニア人と先進国が共食いしている様子がよくわかる。持たざる者(Haves-not)、被害者側からの告発の書、貴重な歴史の記録でもある。少し時間がかかりそうだが、一度は書こうと思っている。未出版のままだ。

独立政府のよきパートナー日本は、開発や援助の名の下に大手を振ってODAで深く繋がり、安価なアフリカ人労働力にただ乗りして莫大な利益を国もたらしている。当然人の交流も盛んで、首都ナイロビには日本人学校もある。NGOなどの予算も付きやすく、大金を出して訪れる日本人観光客も多い。ライオンやキリンのいる自然保護区、壮大な動物園を車で回り、多額の費用が投じられた高級リゾート地に滞在してアフリカを体験するのがコースである。持ちつ持たれつということだろう。

次回は「 歩くコース2の④」、境内の残りの写真と、ケニアの続きを少々、か。