つれづれに

諦観

絹鞘豌豆

寒い日が続いている。絹鞘豌豆の白い花がずいぶんと増えてきた。9月に苗から植えたリーフレタスが辛うじて生き残っているが、自給自足用には量が足りない。希釈した酢を撒いても蒔いても虫の勢いに勝てなかったので諦めかけた頃、葉に勢いがついてきた。撒いてる酢が虫の勢いに追いついた、そんな感じだった。季節の勢いだろう。春もそう遠くない。

去年72になった。干支が6回も巡ったわけだ。一回り下の元生徒から、還暦です、60の大台に乗りましたと去年メールが届いた。出会いの16と28に比べたら、年齢が近くなった気がする。そんなつもりはなかったが、ずいぶんと生き在らえてしまった。

十代の終わりにすべてを諦め、生きても30くらいかとぼんやり思ったのは確かだが、これだけ生き在らえてしまうと「すべてを諦め」、とはとても言えない。今から思えば、信じていた絶対的な存在がわからなくなった、生まれたところが悪かった、入試に合わなかった、などいろいろな言い訳は可能だが、それまで気づかなかった意識下の深層にある自分の意識に気づき始めただけかも知れない。生まれ育った環境や入試制度は引き金に過ぎなかった。ひょっとしたら「諦め」は、世の中に背を向けた気になり、辛うじて自分を守り、生き延びるための無意識の方策だったのかも知れない。大学が決まった時、写真をすべて焼いた。写真を焼く自分をもう一人の自分が外から眺めているような気分だった。そのあと、生活は一変した。

暁け方、海まで走って行く途中の堤防の土手から見える朝日をまぶしく感じ、夕方、2階のトタン屋根に登り、西に沈む夕日を見る時間が多くなった。それまで悔やんで自分を責めることが多かったのに、嘘のように後悔をしなくなった。世間に背を向けたつもりだったのか、ほとんど新聞もテレビも見なくなっていたから、同学年が全員留年した東大闘争も知らなかった。中央で終わっていた残り火が地方の大学で燻っていたらしく、大学の入学式の日に、校舎に通じる階段を上がったところに、角棒にヘルメットの学生が並んでいるのを見かけたが、何だろうとしか思わなかった。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

意識の深層を知るためには、「諦め」の引き金になった手掛かりを探すしかないようである。次回は、嫌々通った高校について思い出して書いてみたい。

生き残ったリーフレタス

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜4

木崎浜も、やはりいい。湘南から来た人が開口一番に「水がきれい」と言ったのも頷ける、「温かい」もこの時期には実感できる。関東から来たなら、尚更だろう。この辺りでも二月の初めが一番寒いようだが、それでも雪はほとんど降らないし、二月の終わりになればだいぶ寒さも和らぐ。兵庫では二月の終わりに卒業式があったが、体育館は底冷えした。もっとも担任した人たちの卒業式に出ないわけにもいかなかったが、他の年は年休を取って卒業式は勘弁してもらった。式は苦手である。宮崎ではこの三十数年間で、数えるほどしか雪を見なかったし、降っても積もったのは何度か、それもみぞれ混じりの場合が多かった。高校の教員をしている時に、生徒を連れ出して雪合戦をしたことがあるが、別世界である。一年に何度か5~6センチほど積もる日があった。次の年から他の教員二人が生徒を連れ出していたそうだが、その時は気がつかなかった。新設で生徒にはやたら規律が厳しく、スカート丈を厳しくチェックしていたし、服装センスなどお構いなしの家庭科の教師が、生活の乱れは先ずは服装の乱れからと真顔で口癖のように言っていたのに、よくも雪合戦は止められなかったものだ。校長が見逃してくれたようだが、教頭は怒り心頭だったに違いない。ある日、余程腹に据えかねたのか、頭の真上から思いっ切り怒鳴られたことがあった。思うままにならない年下に日頃言えなかった鬱憤が爆発したんだろう。怒鳴られる謂れもないので、壁の方を向いたら更に怒鳴り声が大きくなって、職員室の端から端まで二人で移動した。ほとんどの教員がいた時間帯だった。見る側に居たら、存分に楽しめたかも知れない。その人が校長だったら、翌年に工業高校への異動辞令が出てきっと辞めていた、と思う。

7年間いた新設校

わりと風の強い日に撮った写真(↓)だが、これだけ波が砕けると、波に乗れないらしい。従って、そんな日にはサーファーは見かけない。トップの写真のような波が乗りやすそうだが、サーフィン経験がないので、実際のところはよくわからない。ただ、サーファーが多いときは、そんな波が来てるような気がする。

僕の方は砂浜を歩くだけなのだが、ガードマンが出て、波打ち際で、ここからは入れませんと何度か止められたことがあった。コマーシャルの撮影か、サーフィンの大会かがあったらしい。木崎浜のサーフィン関連のコマーシャルはウェブの動画で何度かみかけた。いつも歩いている場所なのに、どこか遠い国の出来事のようだった。ガードマンに制止された時は少し気分が悪かったが、何も言わずに迂回した。

前回北向きの尾鈴山系を背景にしたシーガイヤが見える写真(↓)を載せたが、同じ場所で西方向にレンズを向けたら、流木が散乱していた。何度か流木が流れ着いたら、県の土木課から委託された業者がブルドーザーで片づけ作業をしているようだ。青島の海水浴場も木崎浜も、サーファーや観光業者のために県の経費が毎年計上されているようだから、また作業が始まってきれいになるだろう。

コロナ騒動で去年は開催されなかったが、毎年サーフィンの大会がある。サーフィンがオリンピック競技に加えられて、騒動前にサーフィンの世界大会が木崎浜に誘致された。人が多そうだったので出かけなかったが、地元のテレビ局も出て、たくさんの人が世界中から集まったようである。狭い道も拡張され、サーフィン用の施設も出来そうだと思ったが、僅かに浜の道路の一部が拡張されただけだった。

右側の1車線が新たに加えられて、2日はその道路にも駐車されていた

工事の際に余った砂利が道脇の砂の中に捨てられたようで、家まわりに敷くためにその砂利を取りに何度か出かけた。サーファー用の洗い場で砂利の砂を落として持ち帰った。砂浜で砂利を集めることになるとは思わなかった。長いこと行ってないので、庭の砂利敷きの作業も止まったままだ。自転車での砂利運びも、なかなかの力仕事である。

次回は木崎浜5、歩くコースの最終回になりそうである。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜5

木崎浜の5回目、歩くコースの最終回になりそうである。木崎浜に行くようになってからわりと日が経つので、いろいろなことがあったような気がする。何度か護岸工事にも遭ったし、前回の写真の解説に書いたように(一枚目の写真↓のように)「右側の1車線が新たに」加えられた。2日はその道路にも結構車が停められていたが、それでもコロナ以前ほどの台数ではなかった気がする。

護岸コンクリートの続きの一車線に新たな車線が加えらて、気兼ねせず自転車で行けるようになった

トイレは二つあって、北側のトイレ付近に大会の本部が設定されて、マイクで中継される。大会の時は、その辺りは車だらけで、出店が出る時もあるようである。しばらく行ってない間に、サーフィンセンターが作られ始めたようである。春には完成するようだが、どんな建物になるのか。浜にサーファーのための飲食設備はないので、繁盛して名所になるかも知れない。

台風の前に出かけたこともある。海水は濁って波も高く、流木がたくさん押し寄せられていた。台風や大雨で砂浜の形が年々変わっているようだ。特に清武川の河口の変化は大きい。以前はまだまっすぐに近い形で水が流れていたと思うが、今は蛇行が激しい。これからも台風や集中豪雨が来るたびに砂の位置が変わり流れも変わり続けるだろう。ひょっとしたら、一ッ葉海岸のように砂浜自体がなくなる可能性もある。毎年定点を決めて写真を撮れば、比較できそうだが。

前々回に書いたように、木崎浜への入り口は清武川、加江田川の堤防からの二か所しかない。道幅も狭い。加江田川の堤防からの入り口は、木崎浜の南端に続いている。木崎浜から加江田川の堤防を通って外に出るときは、何年か前に作られた海岸沿いの歩行者、自転車用の舗道への入り口脇を通ってトンネルを抜ける。舗道は総合運動公園から青島まで続く。詳細は知らないが、途中に1000メートルコースや3000メートルコースの案内の掲示があるから、青島マラソン用に作られたかも知れない。2週間ごとに白浜に通っていたのに、舗道に気付いたのは2年ほど前である。

加江田川、向かいは曽山寺浜

舗道の入り口

総合公園と曽山寺浜を繋ぐ橋

曽山寺浜上の舗道から青島が近くに見える

舗道入り口脇のトンネル

樹の覆い繁った中をしばらく行くと、右手に総合公園に入れる小さな道が見える。

その堤防をまっすぐに進めば、総合公園から青島に向かう県道にかかる橋が見えて来る。道幅は狭く、対向車があれば待つ必要がある。サーフィンの世界大会の時は、この狭い道路と少ない浜の駐車スペースでは対応し切れるはずもなく、少し遠くなるが総合運動公園の駐車場を利用したようである。世界大会を誘致しても、大きな変化がなかったわけである。

県道は空港から運動総合公園を通って青島、内海、日南方面に行く道である。写真の右手向かい側を少し行くと、「キムタクの入ったジョイフル」跡があり、手前右側を少し行くと総合運動公園の正面入り口、その向かいがJRの運動公園駅である。白浜に行くときに海岸沿いの舗道をよく利用するが、行き帰りに木崎浜を通ることは滅多にない。だいぶ遠回りだし、冬場の海岸線は風も強くて体も冷えるからである。三月になり、気温も上がれば、少し時間はかかっても行き帰りに木崎浜を通ろうと思う。コース4の木崎浜を書くのに5回もかかるとは思わなかったが、それだけ撮る写真も多かったということだろう。歩くコースを紹介するのに、ずいぶんと時間がかかっていまったが、海と山に囲まれた住み易い南国に暮らしているようだ。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜3

意識下になかった「遠い」木崎浜に行ったのは、越して来て住み始めた家から真東に行けばどこに行くんだろう、という好奇心からだ。そして、行ってみたら、木崎浜だった。元々名所や人の集まる場所を避ける傾向があるようで「キムタクが来て近くのジョイフルに入ってたらしいよ」と聞いた時点で、木崎浜は意識から除外されていたように思う。しかし、行ってみたら、きれいな砂浜だった。無理が祟って血圧の上が120、下が15という状態で頭の上まで痺れていたときに救ってもらった按摩さんが「焼けた砂浜を歩いて足を海に浸ける、また砂浜を歩いて海に浸ける、ちょっと間やってみなはれ、血が巡りまっせ、下駄履きがよろしいな」と勧めてくれた忠言に素直に従って、砂浜をしばらく歩いた時期がある。34の頃で、高校を辞めて大学の職を探しながら、あちこちで非常勤をやっていた時期である。明石市の中朝霧丘という優雅な地名の家のすぐ南が大倉海岸で、その砂浜を歩いた。

西の方角、明石の街が見える

南向き、対岸は淡路島である

それから木崎浜に行くようになって、たまに砂浜を歩くことがある。下駄ばきで行って、熱い砂浜を歩いて海に足を浸けることもある。按摩で救ってもらって、二年ほどで上が110、下が60の今の血圧に落ち着いた。「すべて血液とリンパの流れでんな、私の場合、ブルドーザーでがーっとと言う感じでっしゃろか」という按摩、とにかく痛かった。「体に異常がある場合」は特に痛かった。「脹脛の後ろはようなってもいつも痛いでんな」と言いながら、お構いなしに太い指を深くまで入れてくれた。一度卒倒したような気がする。しかし、血流が戻ると、半分ほどの白髪頭が黒髪に戻った。この前の研究室の写真(↓)は指を入れてもらい始めてから4~5年後のものである。宮崎に来てからも3ケ月に一度は、揉んでもらうために夜行列車か飛行機で行き来した。毎回2~3時間、痛さとの闘いだったが、そのうち脹脛以外はそう痛く感じなくなっていた。

その按摩さんを薦めてくれたのは、一時同居していた上の弟の奥さんで、看護師をしている時に人から噂を聞いたらしく、兄さんに薦めてみたらと弟に言ってくれたらしい。行ったとき、最初に足の甲を押さえて感触を確かめたあと血圧を測ってくれて「もう2か月ほどで、くも膜下でしたな、危なかったでっせ」と一言。神戸新開地の繁華街で30分程度の短いマッサージ(ショート)で数をこなしていたらしいが、一日にせいぜい6組くらいをじっくりとやりたいと神戸市の西隣の新興住宅に開業したと聞く。いつも予約は固定客で詰まっていた。その人も70にならずに、死んだ。通っていた人の体に指を入れて血やリンパの流れをよくは出来たが、自分の体は揉めなかったということだろう。宮崎で指を入れてくれる人を探してみたが見つからず諦めかけた頃にたまたま入った鍼灸院で、指を入れて揉んでくれませんかと言ったら、指を入れて揉んでくれた。大阪の繁華街でマッサージのショートで数をこなしていた人で、サーフィンをするために移住して来て開業したらしい。その人からいろいろサーフィンの話を教えてもらっている。木崎浜は上級者用、青島は初心者用の波が来るらしい。呑気に砂浜を歩いているときに見かけるサーファーは、上級者の人たちのようである。

2日の木崎浜

初心者向けの青島の砂浜、去年の11月頃?に撮影

次回は歩くコース4木崎浜4である。