つれづれに

梅の季節に

立春である。宮崎ではあちこちで梅が咲いている。沈丁花や金木犀ほどかおりが漂わないが、近くで嗅いでみるとほんのりといい香りがする。→「梅」(2009年9月26日)、→小島けい「梅の季節に」(2011年2月1日)

旧暦では立春が1年の始まり、節分などの季節の節目の行事は立春を起点として定められているらしい。「梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます」と解説にあった。今回二十四節気について検索して、毎年国立天文台の暦計算室が暦要項を出していることに初めて気が付いた。暦要項には「立春 315度 2月04日 5時51分」とある。315度は春分点を座標ゼロとして360度に当分して計算されたもので、太陽が天球上を通る経路(黄道)を等角に分割した座標らしい。

明石にいたときに二人で京都の北野天満宮の梅を見に行ったりしていたが、2月の終わり頃だったような気がする。検索してみると、50品種1500本の梅の樹があるそうで、見頃は2月中旬~3月中旬、2月25日には菅原道真を偲んで梅花祭が開かれるらしい。ずいぶんと前のことなので覚えていないが、有料の梅苑に入ったようである。

宮崎に来た頃は宮崎神宮の少し北に住んでいたので、市民の森の梅を見に通った。妻は毎日のように絵を描きに行っていた。暁方に梅の実を拾いに行ったこともある。今はだいぶ南の木花にいるので、市民の森も遠くなった。ずいぶんとご無沙汰である。その時はよくは知らなかったが、案内によると「阿波岐原森林公園の中にあり、約210本の紅梅、白梅」の樹が植わっていたようである。

木花に来てから、木崎浜や青島に自転車で出かける機会が多くなった。何年か前から青島に行く途中で「好隣梅」の掲示を見かけるようになった。行ってみようということになり、二人で自転車で出かけた。県道から少し入ったところで「好隣梅はこの道でいいんですか?」と初老の女性に訊ねたら、「ずーっと先じゃねえ」と返事が返ってきた。そのまま進んだが、漕いでも漕いでもなかなか好隣梅に行きつかなかった。ほんとに、「ずーっと先」じゃった。

案内によると「青島自然休養村にある好隣梅は青島の西後背地の山間地に位置し、市の中心地から車で約13kmの距離です。梅園には紅梅・小梅・白加賀・豊後など約670本植栽されており、1月下旬から2月下旬にかけて、順次咲いていきます。(※開花状況は年により異なります。)毎年、2月に『好隣梅まつり』が開催されます。」とあった。

山腹からは見慣れた青島が遠くに見えた。帰りは、坂道を一気に下った。

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つれづれに: 大学3:無意識の「常識」3

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」2月

2月になった。立春ももうすぐである。今年は24節気の始まりに、鞘オクラと胡瓜と茄子とトマトとピーマンの種を蒔いて苗を拵えようと思っている。去年採れた種は鞘オクラとピーマンだけだが、今年は他の種にも挑戦したい。種から芽が出た苗を植え替えたサニーレタスもずいぶんと大きくなった(上の写真)。もうすぐ食べられそうである。虫が来ないうちに食べられるといいが。

前回は「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」深層を探ってみたが、今回は偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きをもう少し、無意識の「常識」3である。

大学のランクについては、授業を受けた教師や近くの席に座っていたクラスメイトや社会活動でよくいっしょにいた一つ上の先輩と接する中で勝手に思いこんだものだが、おそらく周りの教師や生徒の持つ認識とそう大差はなかったと思う。時代や地域性の影響もあると思うが国公立志向が強く、毎年東大と京大には何人か、地元の神大(しんだい)にはせいぜい100番まで、あとは関学、そんな感じが強かった。センター試験のような全国一斉試験はなく、進学者の割合も今より遥かに少なかった。特に女子の割合は極めて低く、理系に進む女子は数えるほどしかいなかった。私大の場合に比べて推薦入試も少なく、実際に制度を利用していたのは神戸商大くらいである。3月初めの1期試験前に内定していた何人かは普通に受ければ神大に行ける可能性もあった連中で、安全策を取ったようだ。制度が始まったばかりで、教師も合格可能な推薦者を確保したかったのだろう。2月に私大、3月初めに1期校(東大、京大など)、20日過ぎに2期校、間に公立の中間校(京都府大、愛知県立大、北九州大を受験した)の入試があった。

バスケットの練習で神戸高校出身の先輩たちと走っていったこともある神戸大学(ホームページより)

関西は関東に次いで選択肢の幅が多かったから、知らなかっただけで、実際には色々な大学に入学していたと思う。旧帝大について言えば、一番よくできるのが東大、次が京大、阪大を希望する人は少なく、名大と九大は殆ど聞かなかった。その代わり、遠いのになぜか北大や東北大を選ぶものがいた。理系は県内なら姫路工大、県外なら大阪府大や京都工繊大、文系は県内なら神戸商大、神戸外大、県外なら大阪市大、大阪外大に行っていた。(姫路工大と神戸商大は再編成されて名前も変わっているようだが、経緯は知らない)教育系は神大の他に広島大、大阪教育大を選んでいたようだ。広島大以外は西の方に行く人はほとんど聞かなかったと思う。東京では一橋大、東京工大、東京教育大もいたと思うが、早慶大はほとんどいなかった。同じ中学からの生徒が早大に合格した時も、誰も関心がなさそうだった。関学大には神大落ちも含めて結構な数が行っていたと思う。医学部については今ほど騒がれていなかったので、同学年でも少なかったようだ。慶応大の医学部や東京医科歯科大は名前も知らなかった。

次回はまだ偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きで、家庭環境やクラスメートなどについて、か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに: 大学2:無意識の「常識」2

この原稿を書き始めた一昨日は朝からきれいに晴れていた。気温も4度近くあり、家の中にいる猫たちは陽だまりで気持ちよく眠っていた。大寒のわりにはずいぶんと穏やかな日だと思ったが、昨日は朝の小雨は上がったものの、その後も曇り空で寒かった。窓から見える加江田の山の方も、どんよりとしたままだった。一昨日よりも最低気温が3度も高いようなのに、陽差しがないのでずいぶんと寒い感じがした。猫たちも丸まって重なり合っていた。新聞では夕方に晴れマークが出ていたので晴れてくれると思ったが、一度も晴れなかった。今日はきれいに晴れてくれたお陰で、猫たちも陽だまりにいる。寛いでいる姿を見るのは、嬉しい。1年を春夏秋冬に分け、それぞれの季節を6つに分けたこよみ二十四節気では、冬の最後を締めくくる約半月が大寒だそうで、毎年、だいたい1月20日~2月3日ごろ、今がその大寒の最中である。大寒が終われば立春で、二十四節気の一年が始まる。春がすぐそこまで来ている、ということのようである。

前回は、入学した頃の大学について少し触れたあと「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」と書いたのだが、今回はその深層について書いてみたい。→「大学1:無意識の『常識』1」(1月25日)

坂を登ると長い階段があり、その先が事務局・研究棟(大学のホームページから)

すべてを諦めたつもりだったが、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」は諦めた「すべて」の中には入ってなかったらしい。「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」深層には、昼間の学生は偏差値が高く、夜間の学生は偏差値が低い、そんな意識が強く働いていたようである。すべてを諦めたつもりでいたし、受験勉強も出来なかったのだから、そんな劣等の意識を持つ必要もなかったのだが、実際には「なんだか見下されているような気がした」と感じてしまったのである。

中学校までは大学についてほとんど考えたことはないから、高校の3年間にその「常識」が染み付いたことになる。そう思えば、何だか思い当たる。入学して間もなく近隣地域の模擬試験があった。試験結果が出ると、百番くらいまでの名前と点数が壁に大きく張り出されていた。張り紙に名前のあった者は優越感を味わい、なかった人は少し劣等感を感じたかも知れない。県下一斉の模擬試験があった時には、張り紙だけでなく、教室では教師が神戸の第3学区の進学校と姫路の進学校と比較して、平均点でいくら負けたとか、頑張って平均点を上げるようにとかを繰り返し言い続けていた。模擬試験は年に何回かあったから、それだけ繰り返し繰り返し張り紙を出され、同じことを言い続けられたら、やっぱり無意識に何かを摺り込まれる。3年になると、成績のいい者から選んだ文系と理系の各1クラス、あとは均等に分けたクラスに分けられた。あるとき、隣に座っていた人が俺らはアホクラスやなと自嘲気味に呟いているのを聞いた。入試結果が届くと、次々に仰々しく張り出されていた。大きな張り紙を見た記憶があるから、卒業までに何回か登校したようである。この類のあからさまで継続的な摺り込みは、意外と大きかったかも知れない。親の期待を受け、受験勉強に励んだものは尚更、その影響も強かったに違いない。

自分と向き合うこういった掘り起こし作業は、意外と時間がかかる。忌まわしい記憶なので、出来るだけかき消したい思いが無意識に働いているし、嫌な記憶は変に増幅されて残っているからだ。五十年以上も前のことだし、細部の記憶も余りない。その中から拾い出そうとしているので、時間もかかるわけである。仲良しで、卒業後も継続して顔を合わせているのが何人かでもいれば、細かい記憶も引き出せるのかもしれないが、特に仲が良かった人もいないし、卒業後に会った同級生も極めて少ない。同窓会とも無縁である。その後、地元を離れ、四十前には遠く離れた宮崎に来てしまったから、僅かな記憶のかけらを紡ぎ合わせるしかない。

次回は、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きをもう少し、無意識の「常識」3か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに:大学1 :無意識の「常識」1

来てくれる小鳥の数が増えて来た。猫のぴのこを抱いて庭を見ていた妻が「ひよやね。あれはめじろかな。別の種類の鳥も来てるけど、名前がわからんからしじゅうがらにしとこ」と言っている。めじろとひよ以外に、別の種類の鳥が来ているようである。ぴのこは元々食が細く、消化器の一部が細くなっているそうなので、ある程度以上食べると必ず戻す。たくさん水を飲んだ場合も同様である。それで食べたあと5分程抱いてやると、戻さなくなった。前屈みの姿勢で消化管を圧迫しなくて済むからだろう。(→「梅とぴのこ」(「私の絵画館」2010年2月21日)↓

前々回は「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書き、前回は「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いた。そして「しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。」とも書いた。今回は雁字搦めになっていた枷と無意識のうちに働いていた抑制因子について書こうと思う。

雁字搦めになっていた枷に気づき始めたのが大学に入ってからだから、入学した頃の大学について少し書いておく必要がありそうである。一年間浪人をしても受験勉強が出来ず、また英数国もしないまま国公立大を受けた。ただ、2年目は二期校を神戸市外国語大学Ⅱ部にして、願書を出した。夜間課程だが、英米学科でも文学は出来るわけだし、時間もあるし、と気持ちに区切りをつけ(自分を正当化し?!)、最後の砦のつもりだったかも知れない。

神戸市外国語大学は今は西区の学園都市に移転しているが、通ったキャンパスは神戸市の東端の東灘区にあった。標高931メートルの六甲山の山裾にあって、坂道も多かった。坂の上のキャンパスからは神戸の街の夜景が見えた。山頂からの百万ドルの夜景は有名だが、帰りの坂道で見た夜景もなかなかだった。昼間課程には英米学科、中国学科、ロシア学科、スペイン学科があり、夜間課程にはⅡ部英米学科があった。国公立大学の外国語学部は他に東京外国語大学と大阪外国語大学しかなく、英米学科の偏差値はそれなりに高かったようである。(外国語学部も昼間課程も考えたことがなかったので、当時の偏差値は全く知らない)入学したのはⅡ部英米学科語学文学コースだった。(他に法経商コースがあった)たぶん、偏差値を見て、行けるかもしれないと思ったのかも知れない。

授業料は年間12000円(昼間課程は18000円)で、月額1000円、入学金は28000円だった(ような気がする、40000円だったかも知れない)。事務局で支払う時に半期3000円の領収書を受け取っている学生を見た気がするので、値上げをしてその金額だったようである。毎朝一時間ほどやっていた牛乳配達が5000円、何年か後に頼まれた家庭教師が3000円だった。通学時間が1時間半余りの自宅からは国鉄と阪急を利用したが、国鉄の定期が月額にして980円、阪急が1580円(だったように思う、「3駅の距離やのに、国鉄に比べて阪急はえらい高いやん、私鉄やからやろな」と思った記憶がある)、合わせても2500円程度だったので、学費と交通費は牛乳配達の5000円でまかなえていたということになる。三宮まで1時間程度の距離で定期代の月額が1000円足らずだから、今から考えると、国鉄(JRの前身)の学割も国公立大学の授業料も別世界の話である。1年浪人、2年留年をして最終学年の4年生になったとき、「30くらいで死ぬとして、あと一つ大学に行って終わりやな。大学院やったら学生のままやから、大学院を受けてみる手もあったんや」と考えたのも、その学割の影響が強かった気がする。

入学式は「常識」の範囲では計り切れない突然の出来事だった。→「授業も一巡、本格的に。」(「つれづれに」、2019/4/15)

火炎瓶を脇に置き、ゲバ棒を持ちヘルメットを被った全共闘の学生たちの一人がマイクを片手に喚き散らす拡声器からの声、入学後すぐに始まり機動隊導入前まで毎晩続いた授業代わりのクラス討議、ある日出来ていた机と椅子の学舎バリケード封鎖、機動隊導入によるバリケード強制撤去と学生排除など、中央で国家権力にぺしゃんこに潰されていた学生運動の余波とは言え、あの年でないと経験出来なかったわけだから、ひょっとしたら歴史的出来事の生き証人の一人だったかも知れない、という気もする。個人的には、極めて新鮮で、「思わず遭遇した」貴重な体験だった

バリケード封鎖された木造2階建て校舎(大学のホームページから)

雁字搦めになっていた枷を意識し始めたのは、大学前の坂道を登る時だった。夜間の学生が坂道を登るときと、授業を終えた昼間の学生が坂道を降りて来る時間帯が重なるのだが、坂道を登っているときに、坂道の上からなんだか見下されているような気がしたのである。位置関係からすれば昼間の学生が夜間の学生を実際に下に見ていたのだから、当然と言えば当然なのだが、どうもそれが偏差値と少し重なっていたような気がするのである。入学後バスケットボール部に入って昼間の学生といっしょに練習を始めたので、その意識は薄れていったようにも思うが、「なんだか見下されているような気がした」のは確かである。

次回は大学2:無意識の「常識」1(続き)で、「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」の深層、か。

大学の全景(大学のホームページから)