つれづれに

つれづれに: 大学6:無意識の「常識」6

小島けい手製カレンダー2006年

立春でもまだまだ寒い日が続いている。24節気では4つの季節をそれぞれ6つに分け24のひとまとまりに名前がある。それぞれの期間が約半月ほどで、一般的に始まりの日にその名前が使われるが、その期間をその名前で呼ぶこともあるらしい。今年の立春の始まりは2月4日で、次が2月19日の雨水(うすい)ということになる。畑をしていると、季節の動きがわかって、二十四節気もなるほどと思うことが多い。6日に鞘オクラ、胡瓜、茄子、とまとの種を何とか蒔いた。茄子もとまとも粒がきわめて小さいので、芽が出てくれるといいが。毎日ガラスケースから出して陽に当ててはいるが、今のところ芽は出ていない。

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、教師についてである。「つれづれに」で「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」(→「高等学校2」)、「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いたが(→「高等学校3」)、もちろんその人たちだけのせいでもない。

延々としゃべり続けたのも、生徒を丸坊主にして制服を着せたのも、前からやっていたことを普通にそのままやっただけである。教員は団塊世代の私より一回りも二回りも歳上で、大半が戦前の教育を受けていたわけだ。田舎町ながら、神戸まで一時間ほどの距離で国鉄(今のJR)も複線、何駅か東に行けば複々線、経済的に複線を維持するだけの人口を抱えていたわけである。そんな地域で唯一の進学校の教師だったということになる。戦前は進学率も低く大学に行く人もそう多くなかったそうだから、それなりに勉強も出来て高校に入り、受験勉強もして大学に行き、教員になったんだろう。実際、1、2年の担任は数学で広島大、3年の担任は英語で東京教育大(筑波大の前身)だった。神戸大が多く、大阪教育大もいたようだ。高校の教員になった1年目は1、2年で担任だった教員と同僚になって近くの席に座り、教務をやらされた。時間割の作成や授業の実施と運営が主な業務で、教務主任のその人が学校運営の要で、校長が引っ張ってきたこともあり、管理職からも他の職員からも一目置かれていた。その人から兵庫県では広島大卒業生の尚志会という同窓会があり、校長や教頭の橋渡しをしていると言ってたよと隣の席の人から教えてもらったことがある。ある年、その人も尚志会の推薦で筋書き通りに教頭試験を受けたらしいが、次の朝「あほらしいてやっとれるか、わしゃもう辞めや、辞め」と言ってたよとも聞かされた。気質からして、イエスマンになるのが我慢ならなかったようだ。3年の担任は同じ東京教育大出の先輩に引っ張られて指導主事になり、研修所で現役教師の研修をしていたと聞いたが、その後どうなったかは知らない。

高校ホームページから

その人たちは自分たちの生まれた制度にうまく対応して生きただけである。親やその親の世代もまた、同じように生きたに違いない。今の教育制度の枠組みは明治維新で作られた。開国を迫られて鎖国体制を諦めたからである。鎖国の間に、西洋諸国は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こして、農業中心から産業中心の社会に変わっていた。原材料と労働力を求めて植民地争奪戦を繰り広げて、経済自体も飛躍的に拡大し、体制を守るための兵器や軍事力も大幅に強化されていた。その強大な力で脅され、開国したわけである。アメリカやヨーロッパの制度や議会制民主主義を借用し、幕藩体制から産業中心の明治政府に移行した。しかし、人が変わったわけではない。明治政府を支えたのは江戸幕府の武士である。第2次世界大戦で体制が大きく変わったが、新体制の中心は戦前の人たちだった。

アメリカ映画「ルーツ」から

ただ、体制が変わっても、生産される富が平等に分配されたことはない。一部の金持ち層の都合のいいように社会は動かされて来た。その人たちは議会制民主主義を巧みに政治家を利用して法を作らせ、富を増やすために役人を育てて自分たちの利益を優先した。戦後も戦前も、武家社会も貴族社会も基本構図はそう変わっていない。稗や粟を食べ、粗末な茅葺の小屋に住んだ時代もある。中学を出たてで紡績工場に就職して「哀史」に残された女工たちもいた。不安定で安賃金の非正規雇用で先の見えない若者も多い。今のように経済規模が拡大し、社会も複雑化すると、余りにも対象が大き過ぎて掴みにくいが、基本構図は同じである。最初にそれに気づいたのは、修士論文でアフリカ系アメリカ人の作家を選び、その作品を理解しようとアフリカ系アメリカの歴史を辿っている時だった……奴隷貿易と奴隷制で法外な利益を上げた荘園主の金持ち層が自分たちの利益を守るために民主党を作り、代弁者を首都ワシントンに送り込んで16代まで民主党が大統領だった構図は、極めて分かり易い。北部で結成された共和党がリンカーンを大統領候補に立てたのは、力をつけ始めた産業資本家の金持ちが、利益を独占してきた荘園主の金持ち層に力で拮抗してきたからである。必然的に奴隷と奴隷制を巡って利害が対立して南北戦争が起きた……

エイブラハム・リンカーン

丸坊主に指定のズック靴を履き制服を着て、通学道路を通ったのも、そういった過去の延長線上にあった、大きな歴史の枠組みの中では、そう思えるようになった。前や隣の席のクラスメイトと同じように受験勉強をして、そこそこの大学に行っていたら、たぶんそんな観方をすることはなかったように思う。挫折をして、諦めて、初めて気づいたのかも知れない。

次回は「丸坊主と制服」か。

つれづれに

つれづれに: 大学5:無意識の「常識」

植え替えて少し大きくなった小葱

葱も冬野菜の一つである。去年も秋口に何度か種を蒔いたが、気温が高かったせいか芽が出なかった。それが11月に入ると、しっかりと芽が出て大きくなるから不思議である。去年種を採ろうとしたが、小葱は葱坊主になる前に終わってしまったし、太葱は出来た葱坊主が長雨で腐ってしまった。今年は種採りに、再挑戦である。まだ植え替えが終わってないものもあるので、何とか植え替えたいものである。葱はにおいもきついので以前はさほど食べなかったが、今は毎食の味噌汁に入れて結構な量を食べるようになったので、細かく刻んで冷凍保存していつでも使えるようにしている。

植え替えられないままの小葱

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、3年生の時のクラスメイトについてである。1、2年生の時は社会活動ですることが多く、特に学校に関心が向かなかったからか教室でもほとんどしゃべらなかったが、3年生では学年全体も席の周りも受験を意識していたせいか、前と左隣の3人でわりと話をしたように思う。1クラス55人で7列、北側から3列目の前から二番目が私の席だった。私は相変わらず受験勉強は出来ないままだったが、二人は普通にやっていたようだ。前の席のクラスメイトは相当な自信家で、最初から関学に行くつもりで3科目に絞っていると言っていた。文科系の場合、英国社で受験する人が多いが、社会の代わりに数学を選択していた。数学には特に自信を持っているようだった。親が警察官でかなり厳しく育てられたらしい。元々無口で人と話しているところを余り見たことはなかったが、なぜかよく後ろを向いて話しかけて来た。そこへ左隣のクラスメイトが口を出してくることが多かった。陽気で、いつもにこにこしていた。学校には可能な限りいたくなかったので、休めるときは色々口実を作って学校に行かなかった。普段は始業の10分前に出て、放課後は十分後に家に着いていた。いっしょに社会活動をしていた同級生や下の学年の誰かが家に来ることが多かったこともある。宮崎医科大学でも研究室に必ず定期的に学生が何人も来てくれたが、同じような状態だった。何か特別な話をしたわけでもないが、来たら必ず2時間か3時間は話をしてから帰って行った。どちらの場合も、自分のことで一杯一杯だったが、喜んで話し相手をさせてもらった。

情に流されたのか、放課後、自転車を押しながら前の席のクラスメイトを駅まで送っていった時期がある。駅まで10分余りの距離である。日南線のような1時間に列車が1本あるかないかのダイヤのローカル線で、家が2駅目の駅のすぐ近くにあったらしい。「つれづれに」で学校帰りに近くの寺に時々寄っていたと書いたが、放課後すぐに家に帰らずに寄り道したのはその二つだけである。→「高等学校2」(2022年1月19日)

よく通った寺の観音像があったと思われるお堂

ある時、いっしょに高知受けへんか、と前の席のクラスメイトに言ったことがある。関学に行くと言ってたから、まさかとは思ったが、それもええなと言ってくれた。もちろん国立大の1期校だったので社会も理科も要る。受験勉強もしてないのに、国立を受けるなら社会2科目かと考えている時に、1科目にしたら楽そう、とどうも思ったらしい。それでつい言ってみたら、いっしょに受けに行く流れになってしまった。当日、もうすぐ結婚するらしい二人目のお姉さんまでついて来てくれた。旅行ついでにいっしょに行くと言ってくれたらしい。今はなくなった宇高連絡船(宇野←→高松)の上で少ししゃべった記憶がある。偏差値はそう高くなかったと思う。私は落ちて当然だったが、英数に相当自信を持っていたのに私といっしょに落ちたのはなぜだったのか。二人はどちらも関学に行った。隣の席の方は社会学部から兵庫県庁に、前の席の方は法学部から兵庫県警に就職した。卒業後に会ったのはそれぞれ1回きりで、警官になった方とは、当時住んでいた家の近くの朝霧駅のプラットホームで偶然会った。「この前テレビに映ったんやけど、犯人より人相が悪いと妻と子供に言われて」、と苦笑していた。すっかり警察官の顔だった。もう一人とは電車の中で会った。「俺ら出来悪い劣等生やったもんな」、と卑屈そうな表情で言われて「へぇー、そう思(おも)てたんか、他のやつらもたいしたことなかったやん」、と言い返してしまった。「出来悪い劣等生」には違いなかったが、卑屈な思いを受け入れる気にはなれなかったからかも知れない。それ以来、消息も聞いていない。

次回は、教師についての、無意識の「常識」か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに:歩くコース補足1

昨日ほど風はなく、きれいに晴れていたので気持ちよく散歩が出来た。天気ニュースでは上が9度下が零度とあったが、昼間は陽ざしのお陰て体感温度は高めの感じだった。歩くコースの紹介を始めたのが6月の末だから、もう半年以上が過ぎたことになる。→「歩くコースは・・・」(2021年6月30日)今回は歩くコースの追伸1、木花駅と道路工事についてである。何日か前に歩くコース1→「歩くコース1の①」(2021年7月5日)を散歩しているときに、帰り路で木花駅の外壁を塗り直している場面に遭遇した。その日は「そんなに痛んでないのになあ」と思いながら通り過ぎたが、次の日になぜ塗り直したかが判明した。巨人のキャンプ入りだったのである。→「歩くコース1の⑧」(2021年7月24日)
昔から野球に関心が向かなかったのでそれほど影響はないが、人と車が多くなるのは少し鬱陶しい。県道を渡るときに待たされることも多くなる。10年ほど前に、医学生の交換留学制度でタイとアメリカから医師を招待して症例報告(ケーススタディ)や病院での臨床実習(ベッドサイドティーチング)をやってもらった時に、いつも通りに半年以上も前に普段使っている宮崎観光ホテルの予約しようとしたが既に満室だと言われた。メディア関係の人たちが宿を押さえていたからだそうである。イチローが来たと言われる年は、特にひどかった。

今回はコロナの第6波で感染者が急激に増えている最中である。キャンプ誘致は仕方がないにしても、有観客には「宮崎の首長たちは、住民たちに自助の新型コロナ対策を訴えまくってるけど、プロ野球のキャンプは認めて、県外からどっさり人を入れるんだから、めちゃくちゃな県だよ。民度の低い県だから仕方ないけどね。」、「無観客を支持しなかった河野知事。キャンプクラスターで増えまくったらどう責任をとるか?が楽しみだし、これが原因で落選となってもおかしくない。武井氏や戸敷氏に続くかね?子供たちには午前授業、学級閉鎖、部活停止とかしといてこれはあんまり。県民には我慢を、だけどキャンプは有観客。>矛盾だらけですよね、子供達の大切なものをこれ以上奪わないでいただきたい。県民に不要不急の外出ヲ控えろって言ってるのに有観客ってどういう考えなんだ?宮崎県知事の考えは?」(Yahooのコメント)などの反対意見も多い。もちろん、「えっ!キャンプは有観客なん?うーっわ!行きたい!無観客やろなって思ってたから行く予定してなかったけど、これから宿探しして宮崎行く段取りする!」と言う人たちもいる。何が正しいのか誰にもわからないようだし、先行きもまだ見えそうにないが、自分の身は自分で守るしかないようである。

歩くコースの途中の道の工事中が続いているが、舗装済みの個所も増えて来たとところを見ると、全面開通の日もそう遠くはないらしい。

元々木花駅は東側に正面入り口があり、西側からはプラットホームには上がれず、踏切を渡って細い道を通り駅入り口まで行って列車の乗り降りをしていた。サンマリーン球場が出来た後、整備が進められた。駅からの道は立ち退き交渉がうまく行かなかったのか、ことのほか時間がかかっていたように感じた。駅から県道までの道が開通したあと、東口駅前のロータリーと東西の自転車置き場など、次々と工事が進んだ。学園木花台から南の県道への道路の工事が済めば、その付近一帯の整備工事も完了しそうである。

西口にはバス停とタクシー乗り場、東口にもタクシー乗り場が出来ている。大学の統合後、宮崎駅から清武経由大学病院行きのバスがタウンセンターまで延長されていたが、駅の整備に伴って更に一部が駅の西口まで延長された。宮崎駅から木花経由のバスも大学病院まで延長されている。一時間に一本あるかないかのダイヤだから、通学通勤に使うと料金も高いし、よく待たされる。しかし、列車もそうだが、利用できるのと出来ないとでは大きな違いがある。大学に来た三十数年前に比べれば、利用できる店も増えたし、駅も整備され、VISAカードが使える店が増えて、だいぶ住みやすくなった。

つれづれに

つれづれに: 大学4:無意識の「常識」4

パン屋さんに行く途中で、見事な梅を見つけた。満開に近い。よく通るのに、今まで満開の時を見逃していたようだ。立春とは言え、陽が照らないと寒く感じるし、今日のように風が強いと寒さもなかなかである。こうして春になって行くらしい。今年は種から苗を育てようと思っているが、うまく行くかどうか。何とか種を確保した鞘オクラとピーマンと、買って来た胡瓜と茄子ととまとの種をポットに蒔いて、ガラスケースの中に入れてみようと思っている。今年は零下になる日が今のところないが、夜中は気温も下がる。夏野菜が芽を出してくれるといいが。とまとは雨に弱いので、雨よけの柵も少しずつ作業を進めている。風をまともに受けないように、南側の両隅に金木犀の樹を風よけに使って畝を拵えようと思っている。冬は木陰になって陽が当たらないが、夏は陽が真上から射すのでその心配も要らない。この時期ずーっと学年末の課題評価や学期初めの準備などで時間的な余裕がなく、とまとといちごはうまく行ったためしがない。市販のものは今はほぼハウス栽培だから、地から取れるといちごととまとは、やはり味が違う、そう言ってみたい気がする。

「梅とぴのこ」(2010年2月21日)、→「梅とぴのこ2019」(2019年2月20日)

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、その頃の教育環境やクラスメートなどについて書こうと思う。

高校に関心がなかったとは言え、家や地域社会や学校に腹を立ててばかりの高校生活は、考えてみると哀しいものである。高校に関心が持てなかったのは、どうも思いこみの激しい自分自身の性格のせいのようで、一つのことに目が行くとのめり過ぎてほかに目が行かなくなるらしい。元々人が嫌いではないし、生涯続く親友が出来ていてもおかしくなかったと思う。小学3年まで過ごしたスラムのような密集地帯に住んでいた時も、川を挟んで西側にある旧市営住宅に移ってからも、同年代といっしょに毎日何かをして遊んでいたようだ。3年生で引っ越しをする時によく遊んでいた同じ学年の一人と別れるのが辛くて泣いた記憶がある。近くに素麺工場の広い敷地があり、よくそこでもいっしょに遊んだ。親は素麺工場や大きな米屋もやっていて、それなりの地元の名士だったようである。何回か家に行ったことがある。高校に入った時、同じ学年にいるのがわかったが一度も話をしなかった。不良ぽい連中といっしょにいたので、声を掛けそびれてしまったのかも知れない。別れが辛くなるほどの親友だと思っていたのは自分だけだったのかと気落ちしたのを覚えている。小さな広場に集まって暗くなるまで遊んだり、川に魚釣りにも出かけたようだ。戦争で鉄が不足していたので、壊れかけの大きな磁石の塊に紐をつけて歩き回り、屑鉄をあつめて屑鉄屋に売りに行ったりもしていた。どちらも貧乏な人たちが多く、密集地帯の近くには山口組系の事務所があった。貧乏で、親の愛情に飢えた、気持ちのささくれ立った子供たちがやくざの予備軍である。特に引っ越した先の近くの長屋には親がやくざの人たちもいた。いつもお腹を空かせてがつがつしていたが、よくいっしょに遊んだ。中学に入ったとき、やくざ予備軍の子弟の不良連中がいて気に入らない成績のいい生徒を廊下に呼び出して、みんなが見ている前でよく殴っていた。殴られた生徒が痛いと言うと、何が痛いねん、と殴っていたから筋金入りである。私が殴られなかったのは、そのとき遊んでいた一人が、あいつはやめとけや、と止めて入ってくれたお陰だそうである。パチンコ屋が並んでいる街中を通っている時に、小さな頃に遊んでいた一人と会って、喫茶店で話をしたことがあるが、その時にその話を聞いた。中学を出たあと就職もせず、昼間からパチンコ屋の周りをうろついていた。喧嘩はそう強くなかったが、気性のさっぱりした遊び仲間だった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

周りは貧しい人が多かった。引っ越しをした家の近所に、朝鮮部落が二つあった。戦争で両方の政府から見捨てられたらしく、大変そうだった。日本人の嫌がる仕事をしている人が多く、両方の部落では残飯を集めて豚を飼っていた。その残飯が腐って、特に夏には強烈な悪臭が辺り一帯に漂っていた。弟はその部落の一人とつるんで、悪さばっかりしてたわ、と言っていた。腹が減ってたんで二人でなんでも食べたけど、いたちはあかんで、臭うて食べられへん、あいつ、北朝鮮のスパイやったみたいで、北に帰ると言ってたから、今頃北ちゃうか、と話してくれたことがある。私は同級生の家に寄せてもらったことはあるが、親しくなった人はいなかった。在日一世に日本人はことのほか厳しかったようで、一世は子供に日本語を強要したと聞いたことがある。クラスメイトにも朝鮮部落から来ていた人が何人もいたが、朝鮮語を聞いたことがない。親しくなって言葉を教えてもらっておけばよかったという思いは、今もある。朝鮮人も貧しかったが、朝鮮部落の周りには劣らず無知で貧しい日本人が、粗末な小屋で暮らしていた。そんな人たちがなぜか目に入った。大学に入った時に牛乳を配っていたが、朝鮮部落の一つも配達区域に入っていて毎朝そのそばを通った。貧乏が身近だったせいか、貧しい人たちのために何か出来ないか、いつもその意識はあったように思う。高校時代はそんな社会活動を優先した。→「戦後?①」(2021年11月24日)

高校ホームページから

時代的、地理的なこともあって、塾や家庭教師も少なかったと思う。ただ、高校では始業前に補習をやっており、教師が金を集めていた。嫌なのに金を払うんか、と腹が立ったことがある。今なら副業規定に抵触して、問題になるところだ。ずいぶん前に廃止されたようだが、宮崎に来て、朝課外、夕課外と言う名の補習が強制的なのに驚いた。前時代的な感じがした。高校には友だちとクラブだけで行ってもええかと言った息子は、普通でも授業多いのに課外て、ようさんしても出来るわけやないやろ、と怒って行かなかった。

中学、高校から私学に行く人もほとんどいなかった。周りでは小学校が同じで東大に行ったのが唯一灘を受験したようだが、県立高校でいっしょだった。灘や甲陽なども遠かったし、白陵も出来て間もなかったので評判はよくなかった。のちに教員をした高校の校長が、ワシの同級生が始めた私学や、と言っているのを聞いたことがある。本人に確かめたわけではないが、一、二年の担任が数学で、成績のいい生徒は家で教えてもらっていると聞いたことがある。当時は進学校の英数の教師は家で生徒に受験指導をしても容認される雰囲気があったと思う。姫路にカトリック系の私学があって、小学校で同じだったのが中学校からその学校に通っていた。家に何度か行ったことがあるが、離婚して薬局をしている母親と兄と祖父母と暮らしていた。母親は薬剤師でインテリのかおりがした。全員がクリスチャンで、兄とともに系列の私学に通わせたようである。周りと雰囲気も違っていたので毛色の変わった天才肌と感じたこともある。どうも本人も家族も人嫌いだった気がするが、なぜか、一時期いっしょにいたし、家にも呼んでくれた。高校を卒業したあと神大に行って、神戸市の高校の教師をしていた時に、顧問をしていたバスケットボールの試合で再会したが、天才肌の感じはしなかった。

次回は、まだ続きで無意識の「常識」5、か。

梅の樹は8本あった、満開と7分咲きくらいである