つれづれに

つれづれに: 大学4:無意識の「常識」4

パン屋さんに行く途中で、見事な梅を見つけた。満開に近い。よく通るのに、今まで満開の時を見逃していたようだ。立春とは言え、陽が照らないと寒く感じるし、今日のように風が強いと寒さもなかなかである。こうして春になって行くらしい。今年は種から苗を育てようと思っているが、うまく行くかどうか。何とか種を確保した鞘オクラとピーマンと、買って来た胡瓜と茄子ととまとの種をポットに蒔いて、ガラスケースの中に入れてみようと思っている。今年は零下になる日が今のところないが、夜中は気温も下がる。夏野菜が芽を出してくれるといいが。とまとは雨に弱いので、雨よけの柵も少しずつ作業を進めている。風をまともに受けないように、南側の両隅に金木犀の樹を風よけに使って畝を拵えようと思っている。冬は木陰になって陽が当たらないが、夏は陽が真上から射すのでその心配も要らない。この時期ずーっと学年末の課題評価や学期初めの準備などで時間的な余裕がなく、とまとといちごはうまく行ったためしがない。市販のものは今はほぼハウス栽培だから、地から取れるといちごととまとは、やはり味が違う、そう言ってみたい気がする。

「梅とぴのこ」(2010年2月21日)、→「梅とぴのこ2019」(2019年2月20日)

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、その頃の教育環境やクラスメートなどについて書こうと思う。

高校に関心がなかったとは言え、家や地域社会や学校に腹を立ててばかりの高校生活は、考えてみると哀しいものである。高校に関心が持てなかったのは、どうも思いこみの激しい自分自身の性格のせいのようで、一つのことに目が行くとのめり過ぎてほかに目が行かなくなるらしい。元々人が嫌いではないし、生涯続く親友が出来ていてもおかしくなかったと思う。小学3年まで過ごしたスラムのような密集地帯に住んでいた時も、川を挟んで西側にある旧市営住宅に移ってからも、同年代といっしょに毎日何かをして遊んでいたようだ。3年生で引っ越しをする時によく遊んでいた同じ学年の一人と別れるのが辛くて泣いた記憶がある。近くに素麺工場の広い敷地があり、よくそこでもいっしょに遊んだ。親は素麺工場や大きな米屋もやっていて、それなりの地元の名士だったようである。何回か家に行ったことがある。高校に入った時、同じ学年にいるのがわかったが一度も話をしなかった。不良ぽい連中といっしょにいたので、声を掛けそびれてしまったのかも知れない。別れが辛くなるほどの親友だと思っていたのは自分だけだったのかと気落ちしたのを覚えている。小さな広場に集まって暗くなるまで遊んだり、川に魚釣りにも出かけたようだ。戦争で鉄が不足していたので、壊れかけの大きな磁石の塊に紐をつけて歩き回り、屑鉄をあつめて屑鉄屋に売りに行ったりもしていた。どちらも貧乏な人たちが多く、密集地帯の近くには山口組系の事務所があった。貧乏で、親の愛情に飢えた、気持ちのささくれ立った子供たちがやくざの予備軍である。特に引っ越した先の近くの長屋には親がやくざの人たちもいた。いつもお腹を空かせてがつがつしていたが、よくいっしょに遊んだ。中学に入ったとき、やくざ予備軍の子弟の不良連中がいて気に入らない成績のいい生徒を廊下に呼び出して、みんなが見ている前でよく殴っていた。殴られた生徒が痛いと言うと、何が痛いねん、と殴っていたから筋金入りである。私が殴られなかったのは、そのとき遊んでいた一人が、あいつはやめとけや、と止めて入ってくれたお陰だそうである。パチンコ屋が並んでいる街中を通っている時に、小さな頃に遊んでいた一人と会って、喫茶店で話をしたことがあるが、その時にその話を聞いた。中学を出たあと就職もせず、昼間からパチンコ屋の周りをうろついていた。喧嘩はそう強くなかったが、気性のさっぱりした遊び仲間だった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

周りは貧しい人が多かった。引っ越しをした家の近所に、朝鮮部落が二つあった。戦争で両方の政府から見捨てられたらしく、大変そうだった。日本人の嫌がる仕事をしている人が多く、両方の部落では残飯を集めて豚を飼っていた。その残飯が腐って、特に夏には強烈な悪臭が辺り一帯に漂っていた。弟はその部落の一人とつるんで、悪さばっかりしてたわ、と言っていた。腹が減ってたんで二人でなんでも食べたけど、いたちはあかんで、臭うて食べられへん、あいつ、北朝鮮のスパイやったみたいで、北に帰ると言ってたから、今頃北ちゃうか、と話してくれたことがある。私は同級生の家に寄せてもらったことはあるが、親しくなった人はいなかった。在日一世に日本人はことのほか厳しかったようで、一世は子供に日本語を強要したと聞いたことがある。クラスメイトにも朝鮮部落から来ていた人が何人もいたが、朝鮮語を聞いたことがない。親しくなって言葉を教えてもらっておけばよかったという思いは、今もある。朝鮮人も貧しかったが、朝鮮部落の周りには劣らず無知で貧しい日本人が、粗末な小屋で暮らしていた。そんな人たちがなぜか目に入った。大学に入った時に牛乳を配っていたが、朝鮮部落の一つも配達区域に入っていて毎朝そのそばを通った。貧乏が身近だったせいか、貧しい人たちのために何か出来ないか、いつもその意識はあったように思う。高校時代はそんな社会活動を優先した。→「戦後?①」(2021年11月24日)

高校ホームページから

時代的、地理的なこともあって、塾や家庭教師も少なかったと思う。ただ、高校では始業前に補習をやっており、教師が金を集めていた。嫌なのに金を払うんか、と腹が立ったことがある。今なら副業規定に抵触して、問題になるところだ。ずいぶん前に廃止されたようだが、宮崎に来て、朝課外、夕課外と言う名の補習が強制的なのに驚いた。前時代的な感じがした。高校には友だちとクラブだけで行ってもええかと言った息子は、普通でも授業多いのに課外て、ようさんしても出来るわけやないやろ、と怒って行かなかった。

中学、高校から私学に行く人もほとんどいなかった。周りでは小学校が同じで東大に行ったのが唯一灘を受験したようだが、県立高校でいっしょだった。灘や甲陽なども遠かったし、白陵も出来て間もなかったので評判はよくなかった。のちに教員をした高校の校長が、ワシの同級生が始めた私学や、と言っているのを聞いたことがある。本人に確かめたわけではないが、一、二年の担任が数学で、成績のいい生徒は家で教えてもらっていると聞いたことがある。当時は進学校の英数の教師は家で生徒に受験指導をしても容認される雰囲気があったと思う。姫路にカトリック系の私学があって、小学校で同じだったのが中学校からその学校に通っていた。家に何度か行ったことがあるが、離婚して薬局をしている母親と兄と祖父母と暮らしていた。母親は薬剤師でインテリのかおりがした。全員がクリスチャンで、兄とともに系列の私学に通わせたようである。周りと雰囲気も違っていたので毛色の変わった天才肌と感じたこともある。どうも本人も家族も人嫌いだった気がするが、なぜか、一時期いっしょにいたし、家にも呼んでくれた。高校を卒業したあと神大に行って、神戸市の高校の教師をしていた時に、顧問をしていたバスケットボールの試合で再会したが、天才肌の感じはしなかった。

次回は、まだ続きで無意識の「常識」5、か。

梅の樹は8本あった、満開と7分咲きくらいである

つれづれに

梅の季節に

立春である。宮崎ではあちこちで梅が咲いている。沈丁花や金木犀ほどかおりが漂わないが、近くで嗅いでみるとほんのりといい香りがする。→「梅」(2009年9月26日)、→小島けい「梅の季節に」(2011年2月1日)

旧暦では立春が1年の始まり、節分などの季節の節目の行事は立春を起点として定められているらしい。「梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます」と解説にあった。今回二十四節気について検索して、毎年国立天文台の暦計算室が暦要項を出していることに初めて気が付いた。暦要項には「立春 315度 2月04日 5時51分」とある。315度は春分点を座標ゼロとして360度に当分して計算されたもので、太陽が天球上を通る経路(黄道)を等角に分割した座標らしい。

明石にいたときに二人で京都の北野天満宮の梅を見に行ったりしていたが、2月の終わり頃だったような気がする。検索してみると、50品種1500本の梅の樹があるそうで、見頃は2月中旬~3月中旬、2月25日には菅原道真を偲んで梅花祭が開かれるらしい。ずいぶんと前のことなので覚えていないが、有料の梅苑に入ったようである。

宮崎に来た頃は宮崎神宮の少し北に住んでいたので、市民の森の梅を見に通った。妻は毎日のように絵を描きに行っていた。暁方に梅の実を拾いに行ったこともある。今はだいぶ南の木花にいるので、市民の森も遠くなった。ずいぶんとご無沙汰である。その時はよくは知らなかったが、案内によると「阿波岐原森林公園の中にあり、約210本の紅梅、白梅」の樹が植わっていたようである。

木花に来てから、木崎浜や青島に自転車で出かける機会が多くなった。何年か前から青島に行く途中で「好隣梅」の掲示を見かけるようになった。行ってみようということになり、二人で自転車で出かけた。県道から少し入ったところで「好隣梅はこの道でいいんですか?」と初老の女性に訊ねたら、「ずーっと先じゃねえ」と返事が返ってきた。そのまま進んだが、漕いでも漕いでもなかなか好隣梅に行きつかなかった。ほんとに、「ずーっと先」じゃった。

案内によると「青島自然休養村にある好隣梅は青島の西後背地の山間地に位置し、市の中心地から車で約13kmの距離です。梅園には紅梅・小梅・白加賀・豊後など約670本植栽されており、1月下旬から2月下旬にかけて、順次咲いていきます。(※開花状況は年により異なります。)毎年、2月に『好隣梅まつり』が開催されます。」とあった。

山腹からは見慣れた青島が遠くに見えた。帰りは、坂道を一気に下った。

つれづれに

つれづれに: 大学3:無意識の「常識」3

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」2月

2月になった。立春ももうすぐである。今年は24節気の始まりに、鞘オクラと胡瓜と茄子とトマトとピーマンの種を蒔いて苗を拵えようと思っている。去年採れた種は鞘オクラとピーマンだけだが、今年は他の種にも挑戦したい。種から芽が出た苗を植え替えたサニーレタスもずいぶんと大きくなった(上の写真)。もうすぐ食べられそうである。虫が来ないうちに食べられるといいが。

前回は「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」深層を探ってみたが、今回は偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きをもう少し、無意識の「常識」3である。

大学のランクについては、授業を受けた教師や近くの席に座っていたクラスメイトや社会活動でよくいっしょにいた一つ上の先輩と接する中で勝手に思いこんだものだが、おそらく周りの教師や生徒の持つ認識とそう大差はなかったと思う。時代や地域性の影響もあると思うが国公立志向が強く、毎年東大と京大には何人か、地元の神大(しんだい)にはせいぜい100番まで、あとは関学、そんな感じが強かった。センター試験のような全国一斉試験はなく、進学者の割合も今より遥かに少なかった。特に女子の割合は極めて低く、理系に進む女子は数えるほどしかいなかった。私大の場合に比べて推薦入試も少なく、実際に制度を利用していたのは神戸商大くらいである。3月初めの1期試験前に内定していた何人かは普通に受ければ神大に行ける可能性もあった連中で、安全策を取ったようだ。制度が始まったばかりで、教師も合格可能な推薦者を確保したかったのだろう。2月に私大、3月初めに1期校(東大、京大など)、20日過ぎに2期校、間に公立の中間校(京都府大、愛知県立大、北九州大を受験した)の入試があった。

バスケットの練習で神戸高校出身の先輩たちと走っていったこともある神戸大学(ホームページより)

関西は関東に次いで選択肢の幅が多かったから、知らなかっただけで、実際には色々な大学に入学していたと思う。旧帝大について言えば、一番よくできるのが東大、次が京大、阪大を希望する人は少なく、名大と九大は殆ど聞かなかった。その代わり、遠いのになぜか北大や東北大を選ぶものがいた。理系は県内なら姫路工大、県外なら大阪府大や京都工繊大、文系は県内なら神戸商大、神戸外大、県外なら大阪市大、大阪外大に行っていた。(姫路工大と神戸商大は再編成されて名前も変わっているようだが、経緯は知らない)教育系は神大の他に広島大、大阪教育大を選んでいたようだ。広島大以外は西の方に行く人はほとんど聞かなかったと思う。東京では一橋大、東京工大、東京教育大もいたと思うが、早慶大はほとんどいなかった。同じ中学からの生徒が早大に合格した時も、誰も関心がなさそうだった。関学大には神大落ちも含めて結構な数が行っていたと思う。医学部については今ほど騒がれていなかったので、同学年でも少なかったようだ。慶応大の医学部や東京医科歯科大は名前も知らなかった。

次回はまだ偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きで、家庭環境やクラスメートなどについて、か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに: 大学2:無意識の「常識」2

この原稿を書き始めた一昨日は朝からきれいに晴れていた。気温も4度近くあり、家の中にいる猫たちは陽だまりで気持ちよく眠っていた。大寒のわりにはずいぶんと穏やかな日だと思ったが、昨日は朝の小雨は上がったものの、その後も曇り空で寒かった。窓から見える加江田の山の方も、どんよりとしたままだった。一昨日よりも最低気温が3度も高いようなのに、陽差しがないのでずいぶんと寒い感じがした。猫たちも丸まって重なり合っていた。新聞では夕方に晴れマークが出ていたので晴れてくれると思ったが、一度も晴れなかった。今日はきれいに晴れてくれたお陰で、猫たちも陽だまりにいる。寛いでいる姿を見るのは、嬉しい。1年を春夏秋冬に分け、それぞれの季節を6つに分けたこよみ二十四節気では、冬の最後を締めくくる約半月が大寒だそうで、毎年、だいたい1月20日~2月3日ごろ、今がその大寒の最中である。大寒が終われば立春で、二十四節気の一年が始まる。春がすぐそこまで来ている、ということのようである。

前回は、入学した頃の大学について少し触れたあと「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」と書いたのだが、今回はその深層について書いてみたい。→「大学1:無意識の『常識』1」(1月25日)

坂を登ると長い階段があり、その先が事務局・研究棟(大学のホームページから)

すべてを諦めたつもりだったが、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」は諦めた「すべて」の中には入ってなかったらしい。「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」深層には、昼間の学生は偏差値が高く、夜間の学生は偏差値が低い、そんな意識が強く働いていたようである。すべてを諦めたつもりでいたし、受験勉強も出来なかったのだから、そんな劣等の意識を持つ必要もなかったのだが、実際には「なんだか見下されているような気がした」と感じてしまったのである。

中学校までは大学についてほとんど考えたことはないから、高校の3年間にその「常識」が染み付いたことになる。そう思えば、何だか思い当たる。入学して間もなく近隣地域の模擬試験があった。試験結果が出ると、百番くらいまでの名前と点数が壁に大きく張り出されていた。張り紙に名前のあった者は優越感を味わい、なかった人は少し劣等感を感じたかも知れない。県下一斉の模擬試験があった時には、張り紙だけでなく、教室では教師が神戸の第3学区の進学校と姫路の進学校と比較して、平均点でいくら負けたとか、頑張って平均点を上げるようにとかを繰り返し言い続けていた。模擬試験は年に何回かあったから、それだけ繰り返し繰り返し張り紙を出され、同じことを言い続けられたら、やっぱり無意識に何かを摺り込まれる。3年になると、成績のいい者から選んだ文系と理系の各1クラス、あとは均等に分けたクラスに分けられた。あるとき、隣に座っていた人が俺らはアホクラスやなと自嘲気味に呟いているのを聞いた。入試結果が届くと、次々に仰々しく張り出されていた。大きな張り紙を見た記憶があるから、卒業までに何回か登校したようである。この類のあからさまで継続的な摺り込みは、意外と大きかったかも知れない。親の期待を受け、受験勉強に励んだものは尚更、その影響も強かったに違いない。

自分と向き合うこういった掘り起こし作業は、意外と時間がかかる。忌まわしい記憶なので、出来るだけかき消したい思いが無意識に働いているし、嫌な記憶は変に増幅されて残っているからだ。五十年以上も前のことだし、細部の記憶も余りない。その中から拾い出そうとしているので、時間もかかるわけである。仲良しで、卒業後も継続して顔を合わせているのが何人かでもいれば、細かい記憶も引き出せるのかもしれないが、特に仲が良かった人もいないし、卒業後に会った同級生も極めて少ない。同窓会とも無縁である。その後、地元を離れ、四十前には遠く離れた宮崎に来てしまったから、僅かな記憶のかけらを紡ぎ合わせるしかない。

次回は、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きをもう少し、無意識の「常識」3か。

高校ホームページから