つれづれに

つれづれに: 高等学校3

一週間ほど前からまた小鳥が来るようになった。生き物が来てくれるのは嬉しい。そろそろ山に食べるものが少なくなったということだろう。金木犀の枝に刺す二つ切りの柑橘類がお目当てである。幸い近くには柑橘類の樹が多く、大体は落ちた実を拾えば賄える。足りない場合は、お爺さんが育てている少し離れた所にある蜜柑農園の百円コーナーへ行けば調達出来る。三月の終わり頃に鳥が来なくなるまで柑橘類集めが続きそうである。最初は警戒して写真を撮るのが難しいので、二年前の写真である。→「つれづれに ひよとめじろが来ています」(2020年2月11日)

今回は高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」である。

前回「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書いたが、今回も同じである。丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。

まるで子供扱いや。自然に生えてくるのになんで無理やり刈らせるねん、なんで全員丸刈りやねん。安上がり?、衛生的?切っても切らんでもそんなん人の勝手やろ。構わんといてくれ。制服やってそやで。何着てもそんなん人の自由やろ。詰襟なんか首に食い込むし、気ぃ悪いわ。通学路?安全?どこ通ろうと人の勝手や。毎週朝礼でなんでまっすぐ並ばなあかんねん、体育教師が偉そうに、お前らなってない?何ごちゃごちゃ説教たれてんねん。頭が筋肉のあんたには言われとうないわ。そもそも周りを見てみぃ。生徒指導を受けなあかん奴なんかいるか?そら僕みたいに親の当たりの悪いのもいるやろけど、人に迷惑をかけるほどおかしいのはおらへんで。そんな生徒、入って来てへんやろ。入られへんで。大概は親に大事にされたええ子ちゃんやし、毎日黙ってしょーもない授業文句も言わんと受けてるやろ。生徒指導?誰を何処に導いて、指導するっちゅうねん。大体お前らが、人に説教?指導?何考えてんねん。教師?偏差値の高い人は殆んどならんそうやん、せんせせんせ言われて勘違いしてるんちゃうか。誰が誰に何を教えんねん?毎回毎回頭のなかはそんな罵詈雑言が渦巻いていたように思う。本当に「よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」

しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。教師が生徒に教えるもの、大人は子供を守るもの、学校では勉強が一番大事、成績がよければいい生徒、周りも自分自身も想像以上にそんな「常識」に縛られていた、と思う。

次回は、意識下の「常識」1、か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに: 高等学校2

種からのリーフレタスの植え替えが何とか終わり、ブロッコリーと葱の植え替えをしている最中である。去年レタスとブロッコリーの種は採れたが、葱は採り損なってしまった。葱坊主にはなったが、長雨が続いて腐り、崩れてしまったからである。去年の長雨は、予想以上に長く、執拗だった。低い地区には絶えず大雨警報が出ていた。南瓜の成長が止まり、実がすべて子ぶりのままだったほどである。

土を運んで一番陽当たりのいい場所に新たに拵えた畝に植え替えたサニーレタス

「諦観」の意識下の深層を探るために高等学校について書いているが、今回は高校そのものについてである。嫌だった理由の一つが「高校そのものに関心がなかった」ことだと書いたが、中学の半ばから始めた社会活動が生活の中心になっていたからである。一年生から二年の夏休みまでは一つ上のまとめ役の先輩といっしょに、それ以降は私自身がまとめ役として活動に夢中だった。何人かの同学年と一つ年下の人たち何人かとはよく集まったし、少しは社会に関われている気がして毎日が充実していた。それで高校に関心が向かなかったのだが、高校生活自体がおもしろくなかった面も大きい。国語や社会などはもともと嫌いではないが、授業はつまらなかった。理科系の科目は性に合わなかったし、世界史や日本史はほぼ教科書をなぞるだけだった。古典と英語の人は受験一辺倒で、「はい、これ重要単語」という古典の人の鼻に抜ける甲高い声と、「リスポンポンシビリテイのビのところにアクセント」と言いながら黒板を叩くコンコンコンという音の感覚が今も耳に残っている。3年次の現代文の人は受験用の参考書を毎回そのまま読むだけだった。文章の末尾の「。(まる)」まで読んでいた。あまりに退屈なので、生徒の一人が質問をして怒らせたら「お前は俺よりえらいと思っているのか!」と大声を上げていた。「せんせよりえらくないと思ってるんですか?」と言い返されて、しばらく黙りこくっていた。言い返した生徒は京大に行ったと聞くが、普段から偉そうにして鼻持ちならなかったので周りは冷ややかで、ほぼ無反応だった。私の場合は、どっちもどっちやな、勝手にやりやと思うくらいだった。

小中でも同じだったが、高校でもひたすら教師の言っているのを聞くだけだった。自分から進んで何かをするとか、グループで討論するとか、誰かが来て違う角度から話をしてくれるとかもなかったし、映像を見ることも一切なかった。時代的なこともあるし、大学でも基本的にはそう変わらなかったが、大学の場合、内容が濃い科目の場合はおもしろかったし、高学年になると少人数のゼミもあって、自分でテーマを決めて発表する機会もあった。その点、高校の内容は、教科書を読めばわかる程度のものが多く、とにかく退屈極まりなかった。一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。

もちろん、東大に行くとか京大に行くとかの身近な目標が持てるか、成績がよくて優越感を味わえたとかがあれば、授業も楽しくなっていたかも知れない。しかし、答えの分かった決められた内容をやらされるのは、苦痛だった。まずする気が起きなかった。一年生のほぼ同じ時期に二つの模擬試験を受けさせられて、一つは百番くらい、もう一方は四百番くらいだった。片方の国語が72で、もう一方が50くらいだったと思う。上位の百人ほどは実力がある程度あったのかも知れないが、それ以降は似たりよったりだったということだろう。入試用に本腰を入れる人が増える3年になれば、そういったこともなかったのかも知れないが。今でも覚えているのが3年の時の519という数字、高校の成績の最高記録である。

私学を受けるわけにもいかないし、そんな状態で国立大を受験したのだから、後から思えば、結果は見えている。それでも直前模試の数値50%を見ながらの担任との面接では、地方の国立大の合格率は「半々やな」と言われた。担任が東京教育大で、地方の国立大を受ける生徒もあまりいなかったこともあるが、無責任なものである。英語も数学も、他の教科もほぼ何もしないで国立大に行こうとする方が、元々無理な話なのだから。一番偏差値の低そうな、人の行きたがらない山陰の2期校の教育学部の小学校教員養成課程も、落ちた。

高校ホームページから

よくも卒業したものだが、3年の時は何やかや理由をつけて3分の1くらい学校を休んだ。規定を満たせば文句を言われる筋合いもないので、休むのに弁解がましい言い訳を考える必要もなかったと思うが、学校を休む=よくない、という意識が働いていたんだと思う。学校に行くか行かないかは本人の意思次第だし、嫌ならやめればよかったんだが、無意識の「常識」に縛られて、雁字搦めだったように思う。評定値は3.3、一番低かったのではないか。

高校の近くに寺があって、ときたま帰りにその寺に立ち寄った。当時は宝物殿とかに収容されていなかった観音像を見るためである。しばらく格子戸越しにぼんやりと観音像を眺めてから、家に帰った。その頃は、将来高校の教員になって、その寺の住職が同僚になるとは夢にも思わなかったが。その人も旧制中学を出たそうである。後輩とは言われず、わりとかわいがってもらった。生徒指導を担当して生徒に厳しかったが、指導を受けたことはない。

観音像があったと思われるお堂

次回は、高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」、か。

つれづれに

つれづれに: 高等学校1

辛うじて生き残った苗からのリーフレタスのほか、種からの冬野菜も順調に大きくなっている。作業の出来る時間が限られているので、植え替えが間に合わずに春になってしまうかも知れない。寒い中で体を冷やすと致命傷になり兼ねないし、回復力も年々しっかりと衰えているからである。

「諦観」の意識下の深層を探るために、嫌々通った高等学校について書いている。嫌だった理由は二つある。どうも、高校そのものに関心がなかった、大人が生徒を子供扱いした、辺りのようである。

進学したのは、旧制高校から終戦後に今の高校になった進学校である。当時は元旧制女学校の普通科の県立高校がもう一つあった。高校のホームページによれば、昭和23年4月に新制高校として開校した三か月後に、その高校と「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうである。今まで知らなかった。

しかし、入学した年の男女比は7対3、もう一つの高校は反対に3対7だったように思う。もう一つの高校に中学から美人タイプの女子生徒が多く行ったような気がしていたから男女比が記憶に残っているのだが、今から思えば、母数が二倍以上なのだから、美人タイプの数が多くても不思議はないわけである。話したこともないが、飛び切りの美人がその高校に行っていたせいかもしれない。私が生まれた頃に「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうだが、校内では「男女共学」ではなかった。男子クラス、女子クラスに分けられていて、3年間男ばかりだった。話したことはないが、一年生で同じクラスの二人が東大に行ったらしいから、進学校だったようだが、女子の一つは就職クラス、つまり三分の一は就職、男子も少なからず就職組がいたようである。

戦後の復興で国力がつき始めた1964年に東京オリンピックがあって、その頃から高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り始めたから、進学校でも就職組が存在していたということだろう。オリンピックの年が中学2年生で、オリンピックの混雑を避けるために変則的にと言われて、2年次に修学旅行で東京に連れて行かれた。1クラスが55人で10クラス、1学年550人の大規模校だった。団塊の世代を収容するための措置だったのだろう。中学校も同じように大規模校で、1クラスが55人、10クラス、1学年550人だったように思う。高校の近くにもう一つの大規模校があって、大規模校からは60~80人程度が進学していたようで、進学者が数人程度の中学校もあった。

中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学したように思う。毎朝家に寄ってくれていっしょに登校していた同級生が落ちて私学に行ったが、同じように落ちていたら方向も変わっていたかも知れない。母子家庭でおとなしい性格のいい人だったが、高校に行くようになってからは会っていない。小学3年生の時に出稼ぎから一時的に戻っていた祖父が急死して、元市営住宅の祖父の家に引っ越していた。生まれてから住んでいたスラムのような密集地帯からは抜け出していたが、同じく4畳半と6畳の2間の家は、5人家族には相変わらず狭かった。中学の頃には下の弟と妹が増えていたので、更に窮屈になっていた。結婚の日に初めて父親と顔を合わせた母親は、それまで継母に虐められていたこともあって結婚でしばらくは解放された気になっていたようだが、引っ越した時には、父親その人と、いびられ続けた「兄嫁」たちを心底毛嫌いするようになっていた。高校に入学した頃には、離婚を言い出した母親と全く自覚のない父親が家にいることはめったになく、親がいなくても子は育つ、そんな状態だった。高校2年の時に二人を呼びつけて、そんなに嫌やったら別れたらええやろ、弟や妹の面倒は僕が見るから、と言ったが、その時は離婚しなかった。言った手前、一時期家族の分の食事も作っていたので、今も料理自体が少し億劫である。しかし、その頃は自分のことだけで精一杯だったというのが本音で、弟や妹のことまで充分に気を遣えなかった気がして、少し悔いが残る。従って、親から勉強するように言われたことはない。塾や家庭教師とも縁がなかったし、参考書なども買わなかったように思う。元々理解力や記憶力が特別よかったわけでもなかったが、教科自体にそう抵抗はなかった。周りに大学に行った人もなく、家には本もなかったが、大学には行くものと自然に考えていたように思う。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

戦争から引き揚げて来て時間が経っていなかったせいか、父親は聞くに堪えない播州弁で騒いで遊ぶ子供相手によく喚き散らしていた。そのせいか怖い思いが先に立って、進学のことも含めて、父親とはほとんど会話をした記憶がない。直接聞いたわけではないが、旧制中学を出たらしい。155センチくらいしかなかったが、運動は万能で記憶力もよかったと聞く。父親と高校を結びつけて考えたことはないが、高校の教師をしたときに、同じ旧制高校出身の年配の英語教師から、後輩のくせに生意気なと怒鳴られたことがあった。その時に旧制中学の人は今の高校の人を後輩と思うんやと思ったが、一方的に後輩やと言われても、という気持ちの方が強く、先輩やいうんやったら手ぇ抜かんとちゃんとせんかぃ、と人からは聞きたくない播州弁で言い返したように思う。

結果的に、父親の通った旧制中学と同じ場所にある高校に「中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学した」ということのようである。

次回は高等学校2で、関心が持てなかった高校そのもの、あたりか。

高校のホームページから

つれづれに

諦観

絹鞘豌豆

寒い日が続いている。絹鞘豌豆の白い花がずいぶんと増えてきた。9月に苗から植えたリーフレタスが辛うじて生き残っているが、自給自足用には量が足りない。希釈した酢を撒いても蒔いても虫の勢いに勝てなかったので諦めかけた頃、葉に勢いがついてきた。撒いてる酢が虫の勢いに追いついた、そんな感じだった。季節の勢いだろう。春もそう遠くない。

去年72になった。干支が6回も巡ったわけだ。一回り下の元生徒から、還暦です、60の大台に乗りましたと去年メールが届いた。出会いの16と28に比べたら、年齢が近くなった気がする。そんなつもりはなかったが、ずいぶんと生き在らえてしまった。

十代の終わりにすべてを諦め、生きても30くらいかとぼんやり思ったのは確かだが、これだけ生き在らえてしまうと「すべてを諦め」、とはとても言えない。今から思えば、信じていた絶対的な存在がわからなくなった、生まれたところが悪かった、入試に合わなかった、などいろいろな言い訳は可能だが、それまで気づかなかった意識下の深層にある自分の意識に気づき始めただけかも知れない。生まれ育った環境や入試制度は引き金に過ぎなかった。ひょっとしたら「諦め」は、世の中に背を向けた気になり、辛うじて自分を守り、生き延びるための無意識の方策だったのかも知れない。大学が決まった時、写真をすべて焼いた。写真を焼く自分をもう一人の自分が外から眺めているような気分だった。そのあと、生活は一変した。

暁け方、海まで走って行く途中の堤防の土手から見える朝日をまぶしく感じ、夕方、2階のトタン屋根に登り、西に沈む夕日を見る時間が多くなった。それまで悔やんで自分を責めることが多かったのに、嘘のように後悔をしなくなった。世間に背を向けたつもりだったのか、ほとんど新聞もテレビも見なくなっていたから、同学年が全員留年した東大闘争も知らなかった。中央で終わっていた残り火が地方の大学で燻っていたらしく、大学の入学式の日に、校舎に通じる階段を上がったところに、角棒にヘルメットの学生が並んでいるのを見かけたが、何だろうとしか思わなかった。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

意識の深層を知るためには、「諦め」の引き金になった手掛かりを探すしかないようである。次回は、嫌々通った高校について思い出して書いてみたい。

生き残ったリーフレタス