つれづれに

つれづれに:大学入学

すっかり諦めもついて、よう持って30くらいまでやろなと思いこんで入学した割には、大学は面白かった。入学した年が1971年、1970年の安保闘争で国と闘っていた学生が安田講堂から機動隊に排除されて墜ち、同じ学年の東大生全員が留年したことも全く知らなかったから、入学の日に校門から登る階段の上にヘルメットを被り、ゲバ棒を持っている学生たちが並んでいるのを見ても、反応の仕様がなかった。階段教室で、学長の話と合唱部の校歌と「我々全共闘は…」のマイク越しのがなり声を同時に聞きながら、おもしろそうとは思ったが、まったく事態は飲み込めなかった。なかなか刺激的な出だしだったが、大学の空間さえあればよかったので、心は全く動かなかった。気遣ってくれる両親に恵まれて高校ですんなりと受験勉強に励んで京大の文学部にでも行っていたら、無精ひげに下駄履きの風体だけは充分に資格を満たしていたのだから、ゲバ棒を握り確実に国家に歯向かっていたような気もする。しかし、そうはならなかった。たぶん、ひとり別世界にいたんだと思う。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

必要以上に大学には行かなかったが、新鮮だった。入学後すぐに学舎が封鎖され、クラス討議とかが長いこと続いたが、30くらいまでの束の間の空間さえあればよかったので、特段問題はなかった。

高校までの子供扱いの鬱陶しさがないのが、よかった。出席半分で試験が受けられたし、欠席しても咎められる雰囲気はなかった。すべて、学生任せの大人の扱いである。都会にあって、風通しがよかったのかも知れない。戦後創られた外事専門学校が新制大学になり、神戸市が経営母体で、京大などから来た人たちが自由な気風を作り、卒業生で教員がまかなえるようになった後も、創設時の学問的な自由が引き継がれていたのかも知れない。入学時、大人扱いされ、学問的自由の雰囲気は漂っていたと思う。その空間が何よりだった。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

毎週マッサージに通っている白浜に行く途で、すでに田植えが始まっているのを知った。この時期になると、三十年以上も前に初めて見た田植えの光景をいつも思い出す。きのう、片付けも済んだ木花の研究室に授業で出会った人たちが訪ねて来て、お祝いをしてくれた。みんな無事に卒業をして国家試験に通った「大先生」の面々である。宮崎に来てから、ずいぶんと経つ。すっかり、春になった。→「超早場米」(2021年8月12日)、→「春めいてきました」(2013年3月11日)

次回は、夜間課程か。

つれづれに

 

つれづれに:諦めの形

 

小さい頃の写真が一枚もない。大学の入学を決めた日に燃やしたからだが、五十年以上も前のことなので詳細ははっきりとしない。ただ、卒業写真の中の自分を、何か筆記用具みたいなもので串刺しにした覚えがある。写真を串刺しにしながら、何演技してんねん、と呟くもう一人の自分がいたような気もする。
よほどそれまでの自分を否定したかったのだろう。「十七から二十一くらいまでの期間は、僕には悪夢の歳月であった。おそらく自分の持つ価値観が、大きく移っていった時代だった。そんな大げさなものではないかも知れないが、それが過ぎた頃には、たしかに自分が、それまでの自分とは違うものになっていた。」と担任をしていた文芸部員から頼まれた原稿にそう書いている。

ある日、世界が一変してしまった。生まれ育った環境や家族や学校に、いつも腹を立てていたし、大学もいくとことろが見つからなかった。しかし、それが直接の原因ではない。「ぼくは、それまで、世に絶対的なものがあると信じて、疑ったことがなかった。そのことを考えたこともなかった。だからこそ、生きるということを疑ったこともなかったし、生きるからこそ、生きなければならないという命題があった。すべて思う通り生きられるはずもなかったが、それでも、思いどおりにゆかないときには、それこそ、事あるごとに後悔をし、自分を責めた。
一日、六時間も寝た日には、ああ惰眠をむさぼって、自分は何となさけない人間だと本気で思った。大阪の街に出て、人の多さと、建物の大きさに驚いて、自分の非力を嘆いて、涙した。
そんな自分が、本当に…絶対的なものを信じているのか…もしかりに、あるとしても、わからないものをあると信じる自分が果たして、本当に、自分なのか・・・そんなことを思い出してから、心の中のすべてが、がらがらと音をたてて、くずれはじめた。
一瞬には、くずれなかった。長い歳月が必要だった。悪夢の連続であった。夜すら、ねむれなかった。ちょうど、大学入試や、家のごたごたが重なった。が、それどころではなかった。自分の存在がわからない…くる日も、くる日も、同じことを考えた。生きる命題が見つからない…そんな言葉に換えた……生きる命題が、見つからない…」

どうやらそういうことだったらしい。一番多感な時期に、すべてを割いて没頭した社会活動を支えていた拠り所が、実は自分にとってはまことに不確かなもので、基盤もろとも崩れ去ってしまったのである。そして出した結論は、絶対的なものがあるかどうかはわからないが、あると思いこむのはやめよう、わからないならわからないまま、すべての社会の規範をもう一度取捨選択して取り込み直そう、そう考えたら、少なくとも、いま暫くは生きて行けそうである。生きるのは大変や、こんな大変なもんなんや、これからまだ生きなあかんのか、そう思ったのが13くらいの時で、その倍を生きて、それでも死にきれずにおたおたして、それでもよう持って30くらいやろな、そう思いこんでしまった。その区切りが、写真を燃やすという形になったのかも知れない。→「生きゆけるかしら」(1976)、→「露とくとく」(1978)、→「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」(1981年)

前の「つれづれに」を書いてから、歩くのも畑も停滞気味で、気が付いたら春分の日を過ぎ、すっかり春になっている。田に水が張られ、どころではなく、田植えが始まっていた。芽を出した夏野菜の季節である。少し、またペースを戻さないと。

次回は、大学入学か。

つれづれに

 

つれづれに: 畑の春模様

 

豌豆も今が盛りである

ずいぶんと暖かくなって、庭の畑もずいぶんと春らしくなった。大根に薹が立ち、花が咲き放題である。以前は虫が来ないように花が咲くとちぎっていたが、今は種を採るために咲いたままにしている。毎年大量の種が採れる。虫の天国である。

鳥たちに用意する二つ切りにした柑橘類もそろそろ終わりのようである。さすがに柑橘類の王国だけはある。散歩の時に拾って帰るだけで事足りている。まだだいぶ残ったままである。日向夏も最近は増えてだいぶ拾って帰って来たが、水分が多いので腐り方が早い。今年はひよや目白以外にも、名前はわからないが色の濃い少し大き目の鳥が3種類ほど来てくれていた。旧歴通り啓蟄(けいちつ)が始まった頃から虫も動き出したのだろう。確実に季節は過ぎている。

二月はなかなか芽がでなかった夏野菜が芽を出している。一番最初に芽を出したのは胡瓜、種が大きいだけのことはある。きわめて種の小さい茄子やとまとも芽を出し始めている。これからまた、植え替えの準備である。近くの地元の物産展にははやとまとの苗が出ていた。芽を出したばかりですぐには大きくならないので、それぞれ何本かは買ってしまいそうである。

七割方植え替えの済んだブロッコリー、10月に植えた苗の分10本ほどは虫と格闘して希釈した酢をせっせと撒いた甲斐があって、充分に食べさせてもらったが、花が咲いている。第二弾は二人では食べきれないので何人かにお裾分けをしたが、そちらももうそろそろ花が咲く頃である。第三弾は、今度は虫との闘いである。虫の緑の糞まみれになるのもそう先ではなさそうである。更に気温が上がると、黄色く、白くなってもう食べられなくなってしまう。まだ3割ほど植え替えられないままだが、そのままになる確率が高い。

レタスの第一弾も重宝した。吉祥寺にいる娘がいっしょに住んでいる猫ちゃんがこのレタスが大好きらしく、今年は二度送っている。時間的に忙しいらしく、宅配便を受け取るのが難しいようで。近くなら毎日でも届けられるのにと思うが、隔たる距離はどうしようもない。猫は電話も大好きで、毎晩妻と話をしている。

コロナ騒動がなければ近くに引っ越しをしたと思うが、今は十五、六歳になる猫たちには、住み慣れたこちらの生活がよさそうなので、こちらで看取れるのが一番かも知れないと思うようになっている。猫たちにとって、東京までの移動距離は、果てしなく遠い。

とまとは雨がかかると出来が悪いようで、雨よけの柵も拵えないといけない。去年は初めて少しとまとがなった。間に合わせながら、雨よけを拵えた成果だと思う。今年は南側の両隅の通路の部分も含む二か所に、金木犀の樹を雨よけに柵を拵えようと思っている。通路の部分は上は砂利でその下が庭用の真砂土、それを掘り返して畑用の土を入れるので、意外と時間がかかっている。

胡瓜や苺などと同じでとまとも露地物は出回らないようになってしまっている。色艶が良く、まっすぐで傷のついていないものでないと売れないし、季節に関係なく品を揃えるとなると、寒い時期に灯油を焚いて温室で作るしかない、そんな仕組みになってしまっている。いつでも食べられるのは有難いことなのだが。慣れとは恐ろしいもので、旬の野菜だけで済ませない日常はもどりそうにない。

種からの小葱も大きくなっている

21日が春分である。

つれづれに

 

作州

 

双石山

  初めて双石山(ぼろいしやま)を見た時、いつかあの山の洞窟で何か彫っていそうね、と妻に言われた。宮本武蔵が晩年熊本の洞窟で岩に仏像を彫った話をしたことがあったからだろう。

吉川英治の『宮本武蔵』を読んだ時期がある。すっかり諦めたつもりで世の中に背を向け、生き在らえて30くらいかと思いながら、たくさんの本を読んだ。その中の一つである。冬の寒い時期に暖房も入れずに夜中じゅう、本を読んでいた。すぐにその気になるので、和服に素足、寒くなると家の前の道路で夜中に木刀を振った。暁け方が一番頭が冴える気がした。陽が昇る頃に、近くの川の堤防を、海まで走った。十キロほどだったと思う。この時期、朝日を眩しく感じ始めていた。

行くところがなくて夜間の英米学科に入ったが、読んでいたのは日本のもので、古典も多かった。同時期に世阿弥の風姿花伝の文庫本も読んだ。作中の武蔵の恋人お通が京都で身を寄せた先が世阿弥宅という設定で、武蔵とも会っている。なぜかはわからなかったが、茶の稽古に和服で通い、百グラム三千円の煎茶を飲んだ。授業料が一月千円の時に百グラム三千円の茶である。将来を考えていたら、そんなことはしなかっただろう。稽古の時に立てられた茶は飲まなかった。抹茶が粉臭く感じたからである。

同じ時期、立原正秋を読み始めた。神戸と大阪の古本屋を回っているときに、出ている単行本はほとんど見つけて読んだ。讀賣新聞の夕刊に連載されていた『冬の旅』を読んだ。小説を書くと思いこんだのはこの辺りである。美や勁さに対する感覚が、すっと心に沁み込んで来た、そんな気がしたのである。

美や勁さが心に沁み込んだ「お陰」で、体はぼろぼろになった。よくも生き在らえたものである。そのあと生きることになって、大変な思いをした。
木花神社横にあった法満寺が飫肥藩の菩提寺だと知って、なぜか作州を思い浮かべて書いた。『宮本武蔵』で「作州浪人宮本武蔵(たけぞう)」に慣れていたせいか、作州(美作国の異称)生まれ、岡山県生まれか、と得心していたが、兵庫県高砂市米田町米田生まれ、兵庫県揖保郡太子町宮本162生まれだと言っている人たちもいる。それぞれ一理ありそうだが、生まれた所は一つである。