つれづれに

つれづれに: 世界で一つのカレンダー

2004年1月

 24節気ではすでに立春が終わり、19日からの雨水(うすい)の期間も今日が最後である。降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃を指し、昔から農耕の準備を始める目安とされているようだが、超早場米を作る宮崎では準備も早く、少し前から田に水が張られ始めている。そろそろ春一番か。実際には寒い日も多く、三寒四温を繰り返しながら、春に向かっていくらしい。しかし、ずいぶんと暖かくなった。2009年に妻がカレンダーを作り始める前には、毎年季節の花をちゃっちゃと描いて専用のカレンダーを拵えてくれていた。世界に一つのカレンダーである。特段気にもせずに大半は捨ててしまったが、何枚かが奇跡的に残っている。画像をブログで紹介するようになるとは夢にも思わなかった。大事に取っておけばよかったと思うが、後の祭りである。昨日、2004年から2007年までの残っているカレンダーを画像にして、絵のブログに載せた。↑

「小島けい2004年私製花カレンダー2004」

2009年カレンダーの表紙絵

 宮崎に来る前から、先輩に紹介された出版社の社長さんに薦められて雑誌にたくさん書かかせてもらっていたが(→「ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日))、記事の挿画や肖像画を頼んでいたこともあって、ある日、本の装画を描きませんかと妻に誘いがあった。宮崎に来る前は、仕事に家事・育児を目一杯引き受けてくれていたので絵を描く時間もほとんど持てなかったが、宮崎に来てからは、花菖蒲や通草や烏瓜などの花を中心に毎日毎日水彩で絵を描いていた。初めはその花を表紙絵に使わせてもらった。そのうち、風景画や人物がなどいろいろ注文が多くなっていったが、生き生きしながら注文に応じて描いていた。→「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」

本紹介8 『馬車道の女』(1991/11/16)

 私専用のカレンダーはその合間に「私が作ったげる」と言いながら、紙を大雑把に切り、水彩でしゃしゃっという感じで描いて作ってくれた。粗っぽいが、なかなか勢いがある。今は注文を受けて、丁寧に丁寧に一枚一枚仕上げているが、その絵とはまた違った趣がある。材料を探すのは私の役目、通草や烏瓜などは明石では近くになかったのでもの珍しいこともあって、色んなところに探しに行った。椿山の途中の繁みの中まで入ったこともあるし、平和台公園の池の上に出っ張っている枝を伝っている時に池に落ちたこともある。文字通り苦労の結晶で描いてもらったのに、何気に捨ててしまったのだからどうしようもない。その後引っ越しをしたあと、残っているカレンダーを居間に飾っているのを東京から帰って来ていた娘が見て、「カレンダー作ればいいのに」とさりげに言っていたが、長崎の印刷・広告会社から誘いがあって販売用のカレンダーが出来た。薄利多売で利益が上がらず、販売は一年で終わったが、それ以降は宣伝用にと自前で今のカレンダーを作るようになった。それをまとめてみたら、歳月の積み重ねがあった。→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」

庭の沈丁花はただ今7分咲き

 明日から啓蟄(けいちつ)である。

つれづれに

藪椿

藪椿を5本摘んで来た。葛などの蔓植物に覆われた樹に辛うじて小振りの花が咲いているのを見つけたからである。思わず切って、持って帰って来た。10月の半ば頃の「つれづれに」の中でも書いたのだが、その藪椿の樹が恐ろしく葛に覆われて、今年は花は咲かないだろうと諦めていたからである。写真↓の右手が畑になっていて、腰の曲がったお年寄りの女性が畑作業を続けている。最近、息子さんらしき人が手伝っている姿を何度か見かけた。おそらくその人たちの家の樹だと思われるが、まったく手入れされていないので、年々葛の勢いは増すばかりだ。つい最近、越して来た左隣の人が見兼ねて枝を払ったようだ。手入れとは言えないほど雑な払い方なので、来年も花が咲くか心配である。誰かの家の樹を勝手に手入れするわけにもいかないし。→「つれづれに: 葛」(2021年10月18日)

この小振りな藪椿にはずいぶんとお世話になった。当時、妻は横浜の出版社の本の装画・挿画を次々と頼まれていたし、長崎の広告・印刷会社からカレンダーの話もあって、当時描いていた花の絵をたくさん使ったからである。友人と作成した絵と字の作品を横浜のビッグサイトに出展していた息子に薦められて花の絵を出品した妻に、会場で絵を目にした東京支社の人からある日電話があった。藪椿の絵もたくさん描いて、そのうち何枚かがカレンダーや本の表紙絵になった。→「クリカレCreators’ Power Calendar」の「クリエーター紹介」

「クリカレ2009」

『さざん・くろーす 広野安人戯曲集』(門土社総合出版、1996/5/22)

1988年に急に宮崎医科大学に決まったとき、妻は14年勤めていた高校を辞めた。30くらいで死ぬだろうと人生をすっかり諦めて生きていたのに、急に結婚を決めてから、人生が急回転し始めた。高校のバスケットボールの顧問や母親の借金に振り回されていたとき、文句も言わず、転がり込んだ父親の家で家事、育児も一手に引き受けてくれた。元々体の弱かった妻には体力ぎりぎりの生活だった。若かったし、子供たちも幼かったし、実の父親の助けもあって辛うじて持ち堪えていた、そんな感じだった。卒業後念願の詩の出版社に就職できたのはよかったが、人と折り合えずに結局辞めたらしい。その後通信教育で単位を補充してからなった高校の教員は、元々望んでいたわけではなかったようだが、それなりに楽しんでいるように見えた。私が高校を辞めて5年後に大学が決まった時に、交代した。どちらも、出せる方が出せばいいと思っていたからだが、やっぱりやりたいことをやれるのが一番だったからである。時間を見つけて絵は描いていたが、仕事と家事・育児の中では、当時まだ半ドンで授業のあった土曜日の午後2時間をみつけて、神戸の絵画教室に出かけるのが精一杯だった。大学が決まったとき「辞めて絵を描いてもいいの?」と、嬉しそうに高校を辞めた。やっと家の近くの自分が卒業した高校に転勤になって一年目、少しは子供との時間も増えたところだったが、一切の迷いはなかった。油絵を描いていたが、「元々体力がないので、一発勝負の水彩にしようかな」と言うので、土曜日の午後に新幹線を使って京都に日本画を見に出かけた。西明石からは半時間で京都に着く。錦市場に寄ってから、色々と観て回ったが、「日本画も体力要るねえ」というのが感想だった。

錦市場アーケード

宮崎に来てからは、水彩で描き始めた。最初は、市民の森の花菖蒲だった。毎日毎日自転車で菖蒲園に通っていた。次が道草、烏瓜、それに藪椿だった。「つれづれに:通草」→「1」「2」「3」「4」「5」「6」「 7」(2021年9月26~10月3日)、「つれづれに」→「 烏瓜」(2021年10月8日)、「烏瓜2」(2021年9月23日)、「椿」

つれづれに

 

つれづれに:木花俯瞰図

 

散歩している時に、すごいものを見つけた。江戸時代後期の木花俯瞰図である。「木花地域まちづくり推進委員会」が年末に新たに作成した案内板の中に含まれていて、俯瞰図は木花神社の宮司が所蔵しているらしい。散歩の途中に何回か表札で宮司の名前を見かけたことがある。委員長は公園脇に家のある方のようで、公園や神社の手入れをしている姿を時々見かける。出来た野菜をもらったこともある。普段神社は無人だが、年に何回かは行事が行われているようで、代々引き継がれた宮司が祭祀を執り行い、氏子の地域の人たちが協力して神社を整備、保存しているようである。江戸時代から受け継がれてきたとても貴重な俯瞰図だ。

絵心のある人の絵は想像力を掻き立ててくれる。木花神社の北に法満寺があったのを知ったのは最近だが(→歩くコース2の)、なかなかイメージが湧かなかった。神社があったと思われるところに、今は人家が何軒かあるからかも知れない。この俯瞰図で、少しイメージが湧いた気もする。寺は神社より小さく描かれているので、規模はそう大きくなかったようである。寺の横に木花集落が並んでいるが、高台にある神社と寺と、木花集落との高低差は描かれていない。

江戸時代後期(1735年~1868年)に描かれた図で、描いた人の名前はわからないらしい。図を見ると木崎浜と内海の位置が今とだいぶ違う。図では清武川と加江田川が河口付近で合流し、清武川の北側に木崎浜が描かれているが、今は清武川と加江田川がほぼ並行に流れ、二つの川の間に3~4キロメートルほどの木崎浜がある。それと、曽山寺浜と青島海岸までが湾曲に描かれているが、今はほぼ直線である。一番奥に内海が描かれているが、現在は岬の陰になって木花神社からは見えない。砂浜や河口は変化が激しいので、地形が大きく変わったかのかも知れない。目測を誤った可能性もある。

描かれている左手(北端)の木崎浜から右手(南端)の内山集落(現在の高岡町で、子供の国の西)までの南北の範囲、奥(東端)の内海から手前(西端)の法満寺と木花神社までの東西の範囲を俯瞰するには、位置的に見て、木花神社のかなり西にある高台か高い山から見る必要があったはずである。しかし、実際にはその辺りにはそれほどの高さの高台や山はなかったようだし、方角的に見てその方角からは岬(現在ホテルサンクマールの南側の突き出たところ)に隠れて内海は見えなかったと思われるので、たぶん木花神社、法満寺近くの高台から見たものに恣意的に手を付け加えて描き上げたのではないかと思う。

と、簡単に閲覧できるウェブの地図や写真の基準に慣れてしまっているもっともらしい感想だが、多少の誤差があっても、絵には写真とは違う何かがあるような気もする。内戦もなかった江戸時代の後期に、この俯瞰図、いったい何のために、誰が描いたのだろうか。描いた絵が代々引き継がれて、木花神の案内板に載せられ、後の世の人たちに紹介されるとは夢にも思わなかっただろう。描いた人に会って、いろいろ尋ねてみたい気もする。

次回は俯瞰図の続きで、法満寺を菩提寺にしていたらしい飫肥藩などをめぐって、か。

3月が始まった。24節気の雨水(うすい)がもうすぐ終わり、3月5日からは啓蟄(けいちつ)である。だいぶ気温も高くなり、大根に薹が立ち始めた。また、虫の季節である。「玄関のドアを開けたら、沈丁花がにおって来たよ」、と遠くで妻が言っている。

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」3月

つれづれに

つれづれに:田植え準備

加江田神社の展望所から

 田に水が張られ始めた。田植えの準備が進んでいるわけだ。台風が来る頃から逆算して田を起こし、水を張るようだ。まだ一割程度だが、そのうちどの田にも水が張られ、三月の終わり頃には田植えが始まる。過去の「つれづれに」にも、田植えの準備について書いている。→「春めいてきました」(2013年3月11日)

奥正面が室内練習用のドーム、左手が総合公園入口

 最近はわりとよく歩けている。昼間は暖かいので汗ばむほどで、体を冷やさなくて済む。今年は東京でも雪が積もったそうだから、穏やかでほんとうに助かる。陽が射してくれると、余計に有難い。暖かい昼間に、一番長いコースを歩くことが多い。高台の公園から墓地を通って加江田神社により、木花駅の南側踏切からサンマリーン球場の見える県道で折り返し、木花駅脇の踏切を渡って、小学校、中学校脇を通って戻る一時間ほどのコースだ。最近は木花駅からコース2を逆に辿って公園から家に戻る場合もある。鳥用の柑橘類の実を拾うためである。誰も実を摘まないまま次の花を咲かせる樹から落ちる実を拾うだけだが、柑橘類の宝庫だけあって、来てくれる鳥たちに充分に出せるだけの実が拾えるのは、有難い。さすが南国である。「 歩くコース2」→、→、→、→、→(2021年7月30日~9月10日)

今日もマッサージで全身の手入れをしてもらいに白浜に出かけた。天気のお知らせでは最低気温が0℃とあっただけあって、曇り空で風も冷たかったので、海の色がもっと深いと予想していたが、それほどでもなかった。実を切るような寒さで晴れている時の色の濃さはなかった。

曽山寺浜にかかる歩行者・自転車用の道路の橋の上から

 風が強く波も高かったのでサーファーはいなかったが、結婚したカップルと親族らしき人たちが砂浜で写真を撮っていた。顔がわからないほど遠くからなので、無断で撮らせてもらった。背景は青島である。浜の手前の旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げたあと、撮影に出たようだ。何年か前に、息子たちも同じように浜に出て写真を撮っていた。両親の不仲を見て育ったので結婚はしないと決めていた相手に結婚してもいいなと思ってもらえたみたいで、目出度く二人は結婚した。相思相愛の相手に巡り合えるのは稀有なことなので、相手の人が私たちには天使に見えたほどである。東京の海の見えない所で育った相手が、海の見える所で結婚式をしたいと言ったと聞いたので、それならと旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げる手配をした。結婚式までに挨拶をという話もあったが、猫が3匹いるので二人同時に出かけるわけにいかないので、時差で挨拶に行きましょか、と言ってみたら、それじゃ私たちがそちらに伺いますと言うことになった。東京から両親と兄と、仙台に住む叔母の5人が宮崎に来てくれた。こちらは事情があって私たち二人、計8人が式に参加、そのあと会食をした。妻からはしゃべらないでねと言われていたので、その通りにしたのがよかった。しゃべらなければ、聞くしかない。相手がみんな酒好きだったのも幸いした。もりもり食べて、おいしそうに酒を飲んでいた。大成功である。本当は式は苦手なので勘弁して欲しかったが、式をしたい人に反対する気持ちもないので、流れにまかせた。思い返せば、自分たちの式も同じ感じだった気がする。僕は式は苦手だし金もないし出来ればしたくないがと言ったが、私はウェディングドレスは着たい、結局折り合いをつけて、式にはお互い3人ずつ合計8人が参加、その後会食。費用はどちらも「パパ」が出した。計画などあるはずもなかったが、期せずして人数までいっしょの8人だった。場所は今はもう存在しない六甲山頂のオリエンタルホテル。窓から見える百万ドルの夜景。夕食のカレーライスが絶品だった。

 折生迫の県水産試験場内の樹にも毎年お世話になっている。誰も実を採らないので、落ちた実を拾わせてもらって鳥に献上している。去年は幸いここで拾わなくても他で実を集められたので、春に花が咲いてもまだ実が落ちないまま付いていた。今年は、今日初めて落ちた実を1個拾い、持って帰ってきた。あまり食べたことのない橙系の実である。堀切峠下海岸道路について書いた時に水産試験場を紹介した。→「堀切峠下海岸道路②」(2021年11月1日)

水産試験場を過ぎた辺りで、急に海がわっと広がる↑