つれづれに

英作文

ほぼ田植えが済んだ田んぼ

田植えがほぼ済んでいる。まだのところはこの土日で終えるだろう。すっきりとは晴れてくれないが、そろそろ畑も虫が活発に動き出す頃である。今のところレタスも何とかやられてないが、あと10日ほどもすれば、見るも無惨な姿を晒しそうである。今年はやられてしまう前に、根ごと洗ってせっせとお裾分けをしている。長持ちするようにポットに植え替えている人もいるようだ。昨日も吉祥寺に住んでいる娘にレタスや豌豆や葱もいっしょに荷物を送ったが、最近は長持ちするように根をつけたまま売ってる野菜が増えてるよ、と言っていた。

まだやられていないレタス

英作文に『坪田譲治童話集』を選んだ人は素敵だった。大人扱いをする大学の雰囲気も自由で新鮮だったが、『坪田譲治童話集』には心底恐れ入った。

文庫本だったので、たぶんこれが前身か

もちろん始まるまで授業について考えたことはなかったが、英米学科だけのことはある。一年生から月水金に英語(英書購読、英作文、英会話)があり、火木が第2外国語(フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語から選択)と教養科目だったと思う。土曜日もまだ授業があった気もするが、定かでない。夜間課程は一日に2コマしかないので、128単位を4年間で取ろうとすると、落とさず全部取っても、4年生で5コマほど空きが出る程度である。教職課程を取ると、一つも落とさずに取る必要がある、と学生便覧をみて思ったことがある。その後、あっさり留年したので、見てもさほど意味がなかったとは思うが。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(同窓会HPから)

まさか後に英語の教師になって、高校では英作文の授業を持ち、大学で医学生の英語の授業を担当して医学英語までやって、研究を装って科学研究費を交付され、南アフリカの作家の書いた英語の物語を日本語訳するとは思いもしなかった。

「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」(2021年6月20日)

本が売れないと出版社は持たないので、アフリカのものは普通は出版されない。日本人の一般の意識から考えて、アフリカのものを出版しても売れる見込みが全くない。他にもケニアの作家の評論集とエイズの小説を日本語訳したが、出版されないままだ。一冊を日本語訳するとなると、分量にもよるが、まるまる2年くらいは最低限かかる。教科書と翻訳だけは避けたかったが、流れで断れなかった。

未出版のままの評論

それで改めて、『坪田譲治童話集』の凄さがわかる。よほど英語に自信がないと、その本は選べない。大学で使った教科書の類はほとんど残っていないが、たぶん購入した教科書は『坪田譲治童話集』 (新潮文庫)で、1950年初版の改訂版だったような気がする。

高校の教員は教科書が決められていて、さほど使う資料を大幅に工夫する余地は残されていないが、大学は個人の裁量にまかされている場合が多いので個人差が大きい。しかし実際には、高校の延長のようなことをしている人が多い。人の教科書を学生に買わせて、30分くらいで採点出来る筆記試験をして成績を出している。それが、一番楽だからである。自分の受けてきた授業にそう不満を感じなかった人たちだろう。私は英語だけではないが、教科書をなぞるだけの中高の授業が嫌だったから、自分が嫌だったものを人に強要するのも気が引ける、そんな思いが強かった。高い教科書を平気で指定する人もいるが、資料はできるだけ自分で作って、印刷して配ることが多かった。そのうち、出版社の社長さんから薦められてテキストも4冊出版してもらった。学生に買ってもらったが、そう高くなかったし、自分で書いたものなので、勘弁してもらった。→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」

「編註書And a Threefold Cord 」(2021年7月20日)

『坪田譲治童話集』を選んだ人は、マスコミで大口をたたく人のせいで有名になった大阪の北野高校を出て神戸外大に入り、卒業したあとは北野高校で教員をしたあと神戸外大で教員になったらしい。私が出会った時はアメリカ文学が専門の教授、40十代初めのようだった。私の場合、初めての大学着任が38か9、教授就任が53か4である。文系にしては、かなり早い方だろう。授業でアメリカに留学している頃の話をしてくれたような気もする。当時は1ドルが360円で長いこと動かなかったので、留学も難しかったと思うが、在外研究を利用したと思う。私が利用した頃は、長期で9か月、短期で3か月の経費が出ていたが、その前はもっと期間が長かったらしいので、たぶん一年かもう少し長くアメリカに滞在出来たのではないか。

ニューヨークのマンハッタン遠景

本人の資質にアメリカ滞在、さり気なく童話集を選べるほど英語に自信を持っていたんだと思う。ただ、相手が悪かった。いくら授業を持つ側が素敵で有能でも、授業は一方的にするわけではない。受ける側が問題である。私のように場違いな人は別にしても、半分は似非夜間学生、である。大学紛争でクラス討議が長かったので授業のコマ数は多くなかったが、学生の反応を見て、後期に入るとすぐに、やっぱり無理でしたね、英文法でもやって基礎からやりますか、と『坪田譲治童話集』はあっけなく、終わってしまった。今なら、『坪田譲治童話集』、その人といっしょにやってみたい気がする。その人は胃癌を患い、共通一次試験の監督をしている時に具合が悪くなって、急逝した。高校で私の英語のクラスにいて、当時夜間課程の学生だった人と自宅にお悔やみに行ったが、知らない弔問客は迷惑だっただろうなと反省しきりである。52歳だった。

キャンパス全景(同窓会HPから)

次回は、第2外国語、か。

つれづれに

引っ越しのあと

西側の紡績工場、引っ越した先の家からその工場が見えた

引っ越しのあと、結婚を機に20代の後半で家を出るまで、その元市営住宅に住んだ。家にも家の周りにも学校にもいつも腹を立てていたし、ひどい疎外感を感じてばかりだったので、いい印象がない。しかし、一番多感な時期をそこで過ごした。瀬戸内海の近くで台風もあまり来ず、暑くもなく寒くもなく、そんなぬるい土地柄やから代々住んでる人間が陰気で、意地悪うなったんやろ、家を出た後も長いことそう思っていた。高校まで同じ町に住んでいてその町が大好きだという同僚が近くの研究室に来たが、そんな人もいてはるんやとしか反応出来なかった。以前よりはだいぶ気持ちも和らいだ気はするが、いまだに心のどこかで引き摺ったままなのかも知れない。

普通の従業員が住んでいた長屋式の社宅

前々回の「つれづれに」、「今回いろいろ書いて見て思うのだが、以前に比べてウェブで探せる度合いが格段に高くなった。」(→「運動クラブ、3月29日)と書いたが、今回も調べて見たら、感心するほどの画像があった。工場の古そうな写真↑もその一枚である。当時はさほど気にも留めていなかったが、川の両岸に大きな紡績工場があったので、引っ越す前も後もその工場の影響をもろに受けていたことになる。特に引っ越した後は、前のどぶ川に定期的に染色に使ったあとの廃液が垂れ流されて川全体がえんじ色に染まっていたし、遊び場の範囲内に従業員向けの社宅もあったので、個人的にも関りが深かった。

工場内に入ったことはないが、こういった煉瓦造りの建物↑が多かった。今も社宅や煉瓦の建物が残っているそうである。↓

明石で一時期同居し、宮崎で最期を看取った妻の父親も紡績会社にいたらしい。「よく引っ越しをして、社宅に住んでいたよ」、と妻が話すのを聞いたとき、県住や市住の建物を思い浮かべた。しかし、「家の中に電話ボックスやお手伝いさんの部屋もあったよ」、という話になって、「?」である。

「どんな家やったん?」

「500坪くらいあったかな」

最初は話についていけなかったが、どうやら明治生まれ、大学の工学部を出て紡績会社に就職、そのときは技術肌の工場長として各地を転々としていたようである。そうなんや、紡績会社て、景気よかったんやなあ。スラムのようなところの崩壊家庭で悶々と暮らした世界とは、まったくの別世界にいたんや。おんなじ時代に生きてたのになあ。それしか、反応の仕様がなかった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

従業員の社宅でもいっしょに遊んだが、その近くの長屋に住んでいる同級生ともよく遊んだ。その時は知らなかったが、親がほとんど家にいなくて放ったままにされていた同級生が多かった。いつも腹を空かせて、落ち着きがなかった。土地柄も最悪で、山口組の本拠地に近いこともあって、そういった親の目の届かなかった少年がのちにぐれてチンピラになっていた。街宣車に乗るような、やくざの予備軍である。中学校ではそういうやくざやチンピラの子弟が学年に必ず何人かいて、よく暴力沙汰を起こしていた。毎日、こわごわだった。家の陰で殴られているのをよく見かけた。成績がよくて生意気な同級生もその餌食になっていたから、私自身殴られてもおかしくなかったが、その頃の遊び仲間の一人が「あいつはやめといたれや」と言ってくれたらしい。駅前のパチンコ屋の横でたまたま会って、喫茶店で話をしたときに「わいが止めたったから、やられんかったんや」と言っていた。

周りは貧しい人たちが多く、長屋住まいの人も多かった。町内に二つ朝鮮部落があった。少し離れた地域には被差別部落もいくつかあった。スラムのようなところに育ったし、周りも貧しい人が多かったが、なぜか何とか力になれないものか、と思うようになっていた。高校で社会活動を最優先したのも、そういった貧しさと関係があった。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

次回は、家庭教師、か。四月になった。↓

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬~」4月

つれづれに

 

植木市

 

宮崎神宮の→「春の植木市」に行って来た。今年2度目である。
そう書き始めたが、2回目はどうも行けそうにない。今日が最終日である。
前回は車に便乗させてもらったが、今回は自転車で行くつもりだった。大体片道1時間20分ほどで、最近はその辺りの走行距離が限界である。歳相応に、と言うところだろう。無理をすればもう少し行けると思うが、回復力も考えるとどうもその辺りが今の限界らしい。今年は牡丹である。前回一本買ったのだが、もう2本を買い足したかった。以前も同じ植木市で3本買って大事に育てていたが、一本が枯れ、もう一本も枯れて、残りも花が咲くかどうか怪しくなってきたからである。本の装画やカレンダーの題材としてピンクと白と臙脂の3本を買ったら、毎年見事な華をつけてくれていた。→「牡丹」もどうぞ。

小島けい「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」5月(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。

見事な華を切って部屋に運び、その日のうちに妻が仕上げてカレンダーの原画になった。実際の華を真近かに見ながら描いただけのことはある。絵に勢いがある。額に入れても、なかなかである。一枚は今手元にはない。寺に牡丹がたくさん咲くので牡丹寺になるように、絵を分けてもらえませんかと言って下さる方がいて送ったからである。

高校教員の3、4年目に担任した人の父親で、実家が香川のお寺だそうである。担任をしているときに、親父が家庭訪問に来て欲しいと言ってますけど、と言われて会いに行ったのがその人との最初である。何を話したのかは覚えていないが、いまだに年賀状が届き、私もカレンダーを届けている。担任した人からは仲人を頼まれた。「すべての社会の規範をもう一度取捨選択して取り込み直そう」(→「諦めの形」、3月26日)と心に決めた中に入学式、卒業式、結婚式、葬式など、式の類は選択肢にはないので出来れば断りたかったが、父親から直接頼まれて断り切れなかった。本人からは、上司二人のうち一方に頼むと角が立つので、髭だけ来てくれたらいいからたまさんお願い、と言われて妻といっしょに出かけた。披露宴では、髭だけ来ましたとだけ挨拶をした。毎年カレンダーは送っていて、絵のブログを時また見てくれる一人である。

寺に参詣に来たたくさんの人に絵のカードに作者紹介を書いて配って下さったそうである。二十代に出会って以来続く、有り難い、有り難い縁である。
前回牡丹を買った植木屋さんから、肥料は油粕だけで十分です、木陰に植えるのがいいですよ、とアドバイスをもらった。南側の一番陽当たりのいところにとの素人考えが枯れた原因のようだから、今度は長生きしてもらえるように木陰に植えようと思う。

寺に集まった檀家の人たち

つれづれに

 

牛乳配達

 

いつから始めたのかははっきりとはしないが、母親が毎朝新聞と牛乳を配っているのを見兼ねて、代わって牛乳を配り出した。小学校3年生の年末に祖父が急死して、川を挟んで西側にあった祖父の持ち家に引っ越すことになった。6畳4畳半二間の一戸建ての元市営住宅だった。大理石職人だった祖父は岐阜県大垣市に出稼ぎに出て、家にはほとんど戻らなかったらしい。覚えているのはちょび髭を蓄えた遺影だけで、私自身は会った記憶がない。祖父が再婚した相手に私の母親は相当虐められたらしいが、祖父の葬式の時も、それ以降もそれらしき人は見かけなかった。祖父には出稼ぎ先に内縁の妻と子供がいたようで、その後どうなったか、どう折り合いがついたのかはわからない。私が生まれ育ったところは父親の兄弟や家族が済むスラムのような密集地帯で、暗い、臭い、穢いというイメージしか残っていない。→「戦後?①」(2021年11月24日)

当時とあまり変わっていない引っ越しの時に渡った橋

引っ越したところは、両親と子供4人には充分密集地帯だったが、東側と南側に小さな庭もあり、裏は川の堤防までほとんど畑と空き地で開放感があって、それまでの暗いというイメージは払拭された。大学に入る頃には家が建ち始めており、その一軒に住む高校生の親から家庭教師を頼まれた。十年ほど前に、駅から自転車を借りて、当時住んでいた辺りを回ったことがあるが、その辺り一帯はすっかり宅地に造成されて、家が建ち並んでいた。南側の少し離れたところに国道2号線が走っており、車の往来は常時激しかった。小さい頃はバスに車掌さんが乗っていた。あるとき、バスが満員で両手で手摺を握っていた車掌さんが落ちて死んだことがあった。ワンマンの時代では考えられない事故である。転校する前にしばらくそのバスに乗っていたので、鮮明に覚えている。
町内には朝鮮部落が二つあり、国道沿いに少し西に行くと片方の部落があった。国道より南側の、家のある辺りから朝鮮部落辺りまでが配達区域だった。酒屋、呉服屋、クリーニング屋などがあったが、基本的には長屋か小さな一軒家が多かった。朝鮮部落は豚を飼い、残飯を野ざらしにしたままだったので、年中悪臭が漂っていた。朝鮮部落の脇に、更に貧しい人たちも住んでいた。概ね、貧しい人たちが多かった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

引っ越したときはすでに両親の関係は破綻していた、と思う。母親は自立しようと働き始めたが、学歴もない女性にまともな職はなく、保険の外交のあとスクーターに乗ってミシン販売をやっていた。ほとんど家にはいなかった。父親は家事育児をしないうえ、ほとんど家にいなかったので、手のかかる年代の子供5人は、それぞれの形で自分を守るしかなかった。母親が新聞や牛乳を配っていたのも、その流れだったとは思うが、見兼ねた私が変わって配り始めたというわけである。しかし、実際には毎日朝早く起きるのはなかなか大変だった。明け方なので人には会わうことは滅多にないが、集金に行くと、なんだか憐れんで見下したような目で見られた。自転車に瓶入りの牛乳を一箱乗せて配るのだが、かなり重量があり、毎回落として壊してしまわないかと心配だった。一度だけ落として大半の瓶が割れてしまったことがある。そのあとどうしたのかは覚えていない。印象に残っているのは、クリーニング屋から出される空き瓶に、毎回たばこの吸い殻がぎっしりと詰まっていたことである。火を消すのに水を入れたのだろう。その悪臭がいまだに鼻に残っているような気がする。
入学後半年ほどで、牛乳配達はやめた。家庭教師を言われたのと、時間的に夜の授業との両立が難しくなってきていたからである。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

高校ホームページから

春分の日もとっくに過ぎ、4月5日には次の節気清明の時期に入る。 季節の変わり目でぐずつく天気が続いている。三十数年前に明石から宮崎に越して来たときも、雨の日が多かった。南国に行くのでもうこの時期、なんぼなんでもストーブは要らんでと調子のいいことを言ったから、毎年、この時期になると、この時期にストーブなしね?と嫌味を言われる。子供二人の世話にみんなの食事を作り、学校の職をこなすだけでも大変なのに引っ越しまで加わって、今思うとよう持ってくれたものだと思う。ぐうの音も出ない。ひたすら耐えるだけである。それに、紹介してもらった公務員共済の宿も、変に侘しかった。最悪の出だしだった。春は、淡い季節である。

次回は、植木市と牡丹、か。