つれづれに

歩くコース1の④

廃屋の隣に何軒か家があり、しばらく行くと公民館がある。何年か前から旧宮崎中学校跡で夏祭りを始めた。地域おこしの一環ということらしい。夕方、公民館の傍を通ったことがあるが、駐車場にたくさんの車が止まっていた。青年団の人たちが集まって、準備の打ち合わせをしていたようだ。

自治会用の公民館

その向かい側に「急傾斜地崩壊危険個所」の掲示が見える。高台の一部を削り取って道を造ったために、急傾斜地が出来たようである。十数年前に今の家に引っ越しをして来て以来、大雨が降った直後に四度も地面や山肌が滑り落ちている場面に遭遇している。

「急傾斜地崩壊危険個所」の掲示

一番印象に残っているのは、南側からの車道用の坂道である。どどっという感じで崩れていて、道路に大きな亀裂が入っていた。丘陵地帯の高台に作った公園に入るための車道を造成した箇所が一部崩れ落ちたのである。もちろん大雨も想定して造られたのだろうが、想定外の長雨が続いて地盤が緩んで持ち堪えられなかったということだろう。修復工事が終わるまで、しばらく通行止めになっていた。運悪く車が通り合わせていたら、事故になっていただろう。

その時の豪雨では、近くの山肌でも何か所かで崩落事故が起きていた。杉の伐採で緩んだ地盤の所も、そうでない所も崩れ落ちていた。どぉーーーーん、ずづっという感じで、迫力があった。山肌の草や樹々がほとんど流れてしまった個所もあった。元々この地方は岩盤が弱くて脆(もろ)いから崩れ落ちやすいという解説を後から聞いた。折生迫から白浜の近くによく出かけるが、白浜からホテルのサンクマールまでの間の崖崩れは、規模が大きかった。バスが通れるようにホテルまでの迂回路を急造してその場を凌いでいたが、その後の工事も大々的で、期間も結構長かった。あの規模の崖崩れは、いつでも起こり得る、見ていてそんな感じがした。

修復されて目立たないが大幅の修復の跡が残っている南側からの坂道

もう一つは、その坂道から公園に入る辺りである。トイレの周りの小径脇が大幅に崩れ落ちた。大きな石と鉄筋を組んで補強工事が行われた。さほど影響はなかったが、もちろん期間中、小径は通れなかった。

トイレ脇の小道の横の傾斜地

公園の北端の民家の東側の道路脇も崩れた。民家の西側は短いコースでお墓を抜ける時に歩くが、広い空き地で崖崩れの心配はない。舗装された部分は無事だったが、崖の崩れ方が激しかったので、工事が大掛かりになった。砂利を引いて道を造り、ショベルカーを持ち込んでいた。ここも修復にかなりの時間をかけていた。今は砂利を引いた道路跡に草が生い茂っている。

公園端の民家脇の小道の傍(そば)の傾斜地

最後は短いコースの途中で、旧宮崎中学校前へ出る曲がり角の手前での崖崩れだった。傾斜地に大きな竹が生えてはいるが、道路脇が大きく崩れたうえ、地盤も緩んでいたので通るのも危険な状態だった。ここもわりと長い間通行止めになっていた。二十数件しか民家がないので普段はそうたくさんの車は通らないが、それでもそこそこの車が道路を使っている。通行止めにはなったが、旧中学校側の民家二軒は崩落個所の手前を曲がって坂を下れば大きな道に出られるし、反対側の民家も大回りすれば高台から東側にも南側にも出られるので、道路が寸断されて孤立するという事態は免れた。しかし、地盤が緩いし、修復しても長雨が続けば、いつでも崩落する可能性は高いと実感した。

短いコースの途中、旧宮崎中学校跡地の手前

豪雨や地震があると、崖崩れのニュースを見聞きする。普段歩くコースで崖崩れを目にするとは思ってもいなかったが、その災禍は便利さと引き換えに得た開発の代償の一部で、そんな危うい文明の中で暮らしていることを嫌でも思い知らされる。

つれづれに

歩くコース1の③

歩くコース1の②の続きである。

二つ目の三叉路を左折、緩やかな坂を下る

水道局の加圧基地から少し歩くと右側に一軒の廃屋が見える。以前は老夫婦が住んでいた。トタンで出来たおそらく6畳と4畳半くらいの建物が崩れている。中のものはそのままのようである。南側は崖の竹林、北側にも大きな樹が何本か植わっていて、建物には陽が入らないので、年中暗くてじめじめしている。ときどきドアが開いていて、土の土間の裸電球が見えた。

僕が生まれた播州の小さな町の家も同じようなものだった。戦後のどさくさに急増された粗末な一軒家のひとつで、屋根が油紙では危ないからと消防署から言われてトタンを張ったそうである。親戚が固まって住んでいたようで、従弟も何人かいた。暗い、穢い、臭いイメージしかない。貧乏人は自分が貧乏だという自覚に欠ける。その場所が当たり前で、決して自分から出て行こうとしない。その意識が一番嫌だった。赤痢や疫痢がよく流行(はや)り、どぶやそこら中にDDTの白い粉が撒かれていた記憶がある。僕は疫痢にやられ、姉は2回も赤痢に罹(かか)り死にかけたそうである。

行くところがなくて入った大学の夜間学生だったが、なぜか将来にテキストを作ったり、翻訳はしたくないなと思っていたが、よりによって、ケープタウンのスラムの話の日本語訳を出版してもらうことになった。雨漏りの音や、暗い、穢い、臭いイメージなどが感覚的にわかったのは皮肉な話である。

ナイジェリア版表紙(神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

『まして束ねし縄なれば』表紙(小島けい画)

編註テキストの付録の地図(空港のマークの下の黒塗りの辺りのスラムが舞台)

最近翻訳の経緯についてまとめた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜28:日本語訳『まして束ねし縄なれば』」(玉田吉行)

作者のアレックス・ラ・グーマを読むようになった経緯については→「MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月)、テキストについては→「A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年4月)に、作品については→「『三根の縄』 南アフリカの人々①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁、1990年8月)と→「『三根の縄』 南アフリカの人々②」「ゴンドワナ」17号6-19頁、1990年9月)に書き、翻訳こぼれ話のようなものも少し書いた。→「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)、→「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)、→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)

廃屋の西側に八朔の樹があって、主(あるじ)が居なくなっても、毎年実をつける。去年は何個かもらって帰り、半分に切って金木犀の樹に刺した。年末から春先まで、山に餌がなくなるのか、鳥たちが実を啄(つい)ばみにやって来る。宮崎に来る前の朝霧の家では、たしか梅の木に二つ切りの蜜柑を刺していた。目白や鵯(ひよ)などが多かった。

まだ落ちないで実をつけている八朔

つれづれに

歩くコース1の②・・・

今日は7月7日、七夕(しちせき)の節供(節句と書くことが多い)、中国からの牽牛星と織女星の星祭り伝説にちなむ行事が日本でも根付いている。子供たちがいた時は笹を毎年取って来て、願い事を書いた折り紙を飾っていた。梅雨明けはまだのようだが、真夏日が続いている。

歩くコース1は一時間足らずである。公園からお墓の横の細い道を抜ける。しばらく歩くと緩やかな下り坂になり、一つ目の三叉路に出る。

一つ目の三叉路

お墓は大学の移転も含めた学園都市計画の影響で1970年代の半ばに移転新築されたようだ。川添、高橋という川に因(ちな)んだ姓が半数以上ようである。

お墓近くを歩いているときに、突然「持って帰りますか?」と声をかけられて、赤紫色の西米良大根を2本もらったことがある。公園の世話をされている人で、娘さんが農学部の学生の時に非常勤で行っていた授業で会ったことがあった。初めてお目にかかる丸大根でかなり大きかった。断るのも申し訳ないし、これから歩くのに持って行くには重すぎるし、結局少し先にある椿の樹の茂みの中に隠して散歩を続け、帰りに寄って持って帰った。桜島大根より小さめの赤紫の西米良型のようで、地元の農産品売り場でも見かけたことはない。下り坂の手前で畑仕事をしていた腰の曲がった女性に、一度だけ「よう出来ますか?肥料などはどうされてますか?」と声をかけたことがある。腰を屈(かが)めて下を向いたまま「特にやっていませんが」と小さな声で返事が返ってきた。作物の出来が今一つな感じがして、つい聞いてみたくなったのである。最近はだいぶ年齢が過ぎて、子供さんと車でどこかに行くことが多いようで、畑作業を目にすることが少なくなった。

左に曲がると短いコースで、今は市の公園になっている旧木花中学校跡の横を通って県道に出る。普段はそのまま進んで坂道の途中の二つ目の三叉路まで歩く。坂道をまっすぐに進めば長いコースで、木花神社に上の道から入る。

二つ目の三叉路

普段は二つ目の三叉路を左に曲がり、そのまま坂を下る。

左右は崖で大きな竹林になっている。春先には急な斜面で筍(たけのこ)を掘っている姿をときとぎ見かけることもある。左手前に蜜柑畑があり、その少し東にフェンスに厳重に囲まれたNTTドコモの中継基地がある。「敷地内、赤外線カメラで監視中!!」の掲示がものものしい。点検作業をしている横を通り過ぎたことがある。

少し先の右手には市の水道局の加圧ポンプ基地があり、そこもフェンスの上に有刺鉄線が張られていて、こちらも痛々しい。侵入者がいるからだろうが、入って何をするのだろう?

高台に住む人たちのために丘陵地帯を削って道をつけ、道がついたあと向かって右側に家が建ったらしい。中継基地も加圧基地も造られたのはごく最近である。道を深く掘ったために、急傾斜地の危険地帯が出来たんだろう。人の住んでいる高台は、津波が来ても大丈夫な高さがあるようだ。木花神社も高台の南の端にある。次回の「歩くコース1の③」は危険地帯、その辺りか。

つれづれに

歩くコース1の①・・・

 

「最初に僕が按摩さんのところに行ったときはどんな状態だったのか」については先延ばしにして、歩くコースについて書こうと思う。

7年前に医学科を退職したとき、溜(た)まった書籍や書類、提出課題を片づけるつもりだったが、再任用などもあって、最近まで手つかずだった。科研費の最終年度なので、年末までには終わらせたいと思い、目下、木花の研究室で奮闘中である。三十年余りの課題は、今書きためている小説で一部でも使えればと考えて捨てなかったが、相当な量である。

世話になった按摩さんが取ってくれた血圧の記録がその荷物に紛れ込んだのが先送りの理由である。

歩くコースは四つほどあって、今回は一番よく行くコース1のその①である。

公園は高台にあって、西側正面の階段、南側から駐車場に行く車用の坂道、高台の北側にある墓の横の細い道の三か所から入れるようになっている。車で入れるのは坂道からだけで、夕方七時になると鎖が張られて車では駐車場に入れないようになっている。厳密に言えば、お墓からも車の侵入は可能である。毎日車が一台置いてあるし、時たまバンや大型乗用車が止まっているのを見たことがある。お墓の中を通る細い道の両脇は低いブロック塀で、そろりそろりと車を動かせば中に入れるようである。大型乗用車は、借地で野菜を作っていた人が使っていたようだが、最近はその畑も草に覆われて人の気配はしない。歩く人は階段を登る場合が多い。階段をトレーニングに使っている人も結構いる。夜も階段や公園内の一部は煌々(こうこう)と照らされているので、夜桜の季節などは結構な人出があるようだ。

僕は、近くの自治会の人が北側の山肌にブロックで拵(こしら)えた小さな階段を使い、山肌を登って、手摺(すり)を越えて公園に入ることが多い。今朝数えてみたら、十二のブロックが等間隔に並べててあった。元は高い杉が生えていたが、市の助成金で杉を一部伐採して光を入れ、柑橘類を中心に苗を植えたようである。春先には日向夏や八朔などの白い花から甘酸っぱい匂いがしたあと、いっせいに樹は青い小さな実をつけ、秋には大きくなった実が黄色く色づく。ある時期になると、収穫をしているようで、実が一斉に消える。

北側の山肌の短い階段

秋には浅黄色になる日向夏

冬は草が枯れて登り易いが、これからは草が生い茂る。烏(からす)に襲われかけたことがある

公園では鉄棒にぶら下がる。座っていると腰が痛くなるので、背筋を伸ばすと気持ちがいい。鍛えるために懸垂運動をした時期もあるが、今は中途半端な懸垂を何回かする程度である。高台の真ん中に芝生の空間があって、そこをぐるぐると歩いて回る人もいる。老人会がグランドゴルフをやっている時もある。最近は夕方にサッカークラブの子供たちがどっと来て、練習をしていたりする。

樹や草が生い茂っているので、ある場所からしか見えないが真ん中の芝生から見て東方角の日向灘に浮かぶように青島が見える。この前、東京から突然長男夫婦が訪ねて来たとき、この公園で会い、「ここから青島が見えるで」と紹介した。十数年前に引っ越して来た今の家にはいっしょに長男は住んでいないので、木花方面のことはあまり知らない。海の見えるところで結婚式をしたいと二人が言ったので、本人たちと双方の両親を含め総勢6人が青島のホテルでの結婚式に協力した。

樹の間から見える青島

時間がない時や、長い距離を歩きたくないときは、芝生の上を歩くだけで帰ることもある。大抵は北側にある墓の横の細い道を通って歩く。(歩くコース1の②に続く)

こじんまりした墓地