つれづれに

 

つれづれに: 畑の春模様

 

豌豆も今が盛りである

ずいぶんと暖かくなって、庭の畑もずいぶんと春らしくなった。大根に薹が立ち、花が咲き放題である。以前は虫が来ないように花が咲くとちぎっていたが、今は種を採るために咲いたままにしている。毎年大量の種が採れる。虫の天国である。

鳥たちに用意する二つ切りにした柑橘類もそろそろ終わりのようである。さすがに柑橘類の王国だけはある。散歩の時に拾って帰るだけで事足りている。まだだいぶ残ったままである。日向夏も最近は増えてだいぶ拾って帰って来たが、水分が多いので腐り方が早い。今年はひよや目白以外にも、名前はわからないが色の濃い少し大き目の鳥が3種類ほど来てくれていた。旧歴通り啓蟄(けいちつ)が始まった頃から虫も動き出したのだろう。確実に季節は過ぎている。

二月はなかなか芽がでなかった夏野菜が芽を出している。一番最初に芽を出したのは胡瓜、種が大きいだけのことはある。きわめて種の小さい茄子やとまとも芽を出し始めている。これからまた、植え替えの準備である。近くの地元の物産展にははやとまとの苗が出ていた。芽を出したばかりですぐには大きくならないので、それぞれ何本かは買ってしまいそうである。

七割方植え替えの済んだブロッコリー、10月に植えた苗の分10本ほどは虫と格闘して希釈した酢をせっせと撒いた甲斐があって、充分に食べさせてもらったが、花が咲いている。第二弾は二人では食べきれないので何人かにお裾分けをしたが、そちらももうそろそろ花が咲く頃である。第三弾は、今度は虫との闘いである。虫の緑の糞まみれになるのもそう先ではなさそうである。更に気温が上がると、黄色く、白くなってもう食べられなくなってしまう。まだ3割ほど植え替えられないままだが、そのままになる確率が高い。

レタスの第一弾も重宝した。吉祥寺にいる娘がいっしょに住んでいる猫ちゃんがこのレタスが大好きらしく、今年は二度送っている。時間的に忙しいらしく、宅配便を受け取るのが難しいようで。近くなら毎日でも届けられるのにと思うが、隔たる距離はどうしようもない。猫は電話も大好きで、毎晩妻と話をしている。

コロナ騒動がなければ近くに引っ越しをしたと思うが、今は十五、六歳になる猫たちには、住み慣れたこちらの生活がよさそうなので、こちらで看取れるのが一番かも知れないと思うようになっている。猫たちにとって、東京までの移動距離は、果てしなく遠い。

とまとは雨がかかると出来が悪いようで、雨よけの柵も拵えないといけない。去年は初めて少しとまとがなった。間に合わせながら、雨よけを拵えた成果だと思う。今年は南側の両隅の通路の部分も含む二か所に、金木犀の樹を雨よけに柵を拵えようと思っている。通路の部分は上は砂利でその下が庭用の真砂土、それを掘り返して畑用の土を入れるので、意外と時間がかかっている。

胡瓜や苺などと同じでとまとも露地物は出回らないようになってしまっている。色艶が良く、まっすぐで傷のついていないものでないと売れないし、季節に関係なく品を揃えるとなると、寒い時期に灯油を焚いて温室で作るしかない、そんな仕組みになってしまっている。いつでも食べられるのは有難いことなのだが。慣れとは恐ろしいもので、旬の野菜だけで済ませない日常はもどりそうにない。

種からの小葱も大きくなっている

21日が春分である。

つれづれに

 

作州

 

双石山

  初めて双石山(ぼろいしやま)を見た時、いつかあの山の洞窟で何か彫っていそうね、と妻に言われた。宮本武蔵が晩年熊本の洞窟で岩に仏像を彫った話をしたことがあったからだろう。

吉川英治の『宮本武蔵』を読んだ時期がある。すっかり諦めたつもりで世の中に背を向け、生き在らえて30くらいかと思いながら、たくさんの本を読んだ。その中の一つである。冬の寒い時期に暖房も入れずに夜中じゅう、本を読んでいた。すぐにその気になるので、和服に素足、寒くなると家の前の道路で夜中に木刀を振った。暁け方が一番頭が冴える気がした。陽が昇る頃に、近くの川の堤防を、海まで走った。十キロほどだったと思う。この時期、朝日を眩しく感じ始めていた。

行くところがなくて夜間の英米学科に入ったが、読んでいたのは日本のもので、古典も多かった。同時期に世阿弥の風姿花伝の文庫本も読んだ。作中の武蔵の恋人お通が京都で身を寄せた先が世阿弥宅という設定で、武蔵とも会っている。なぜかはわからなかったが、茶の稽古に和服で通い、百グラム三千円の煎茶を飲んだ。授業料が一月千円の時に百グラム三千円の茶である。将来を考えていたら、そんなことはしなかっただろう。稽古の時に立てられた茶は飲まなかった。抹茶が粉臭く感じたからである。

同じ時期、立原正秋を読み始めた。神戸と大阪の古本屋を回っているときに、出ている単行本はほとんど見つけて読んだ。讀賣新聞の夕刊に連載されていた『冬の旅』を読んだ。小説を書くと思いこんだのはこの辺りである。美や勁さに対する感覚が、すっと心に沁み込んで来た、そんな気がしたのである。

美や勁さが心に沁み込んだ「お陰」で、体はぼろぼろになった。よくも生き在らえたものである。そのあと生きることになって、大変な思いをした。
木花神社横にあった法満寺が飫肥藩の菩提寺だと知って、なぜか作州を思い浮かべて書いた。『宮本武蔵』で「作州浪人宮本武蔵(たけぞう)」に慣れていたせいか、作州(美作国の異称)生まれ、岡山県生まれか、と得心していたが、兵庫県高砂市米田町米田生まれ、兵庫県揖保郡太子町宮本162生まれだと言っている人たちもいる。それぞれ一理ありそうだが、生まれた所は一つである。

つれづれに

 

白木蓮(びゃくもくれん)

 

白木蓮が咲き始めた。そう書き始めてから何日かが過ぎてしまったので、咲き乱れている花も多く、中には花弁(はなびら)が散り始めている樹もある。花の命は短くて、である。上の花はある家の庭先に咲いている樹で、見事である。写真を撮る際、玄関先で座って携帯をしている人に、写真を撮らせて下さいと断ったら、家の者じゃありませんよ、と言われた。そのすぐあと、家の人が軽トラックで現われた。これから二人で仕事に出かけるらしかった。

無意識の「常識」をながいこと書いているが、自分自身や過去と向き合うことになるのでまとまらないことも多いし、時間もかかる。結果的に、あまり深く考えずに書けるものを挟むようになっている。木花神社の俯瞰図は久しぶりの発見だった。木花神社が日向国飫肥藩に属していたらしいので、関連して生まれた播州や、一時期読んだ吉川英治の『宮本武蔵』の主人公が生まれた作州などについて書きたいとも思い、ウェブで調べていると、実際の人物の出生地が作州でないという説もあるようである。

春は花の多い季節なので、花についていろいろ書いてみたい気持ちもある。→「藪椿」(3月2日)や→「世界で一つのカレンダー」(3月4日)でも書いたが、妻の描く花を探すのが僕の役目だったからもある。それまでなかなか描く時間が取れずに申し訳ないことをしたという気持ちもあったし、毎日生き生きとして絵を描いている妻を見て、探して来ようと思ったのも事実である。庭木や野草など、春はその数もほんとうに多い。白木蓮もその一つである。

朝霧の庭には紫木蓮しかなかったし、周りでも白木蓮は滅多に見かけなかったが、宮崎に来てからはこの時期よく見かけるようになった。くっきりと鮮やかなのである。自転車に乗って角を曲がったら急に白木蓮が浮き上がって来た、そんな感覚を何度か味わった。一面が浮き上がったように見えるときがある。何日か前も、ある日、散歩の途中に振り返ったら、急に白木蓮が浮き上がって来るような感覚になった。夕方、まだ明るい時間だった。

次の日、夕方少し遅くなったが、確かめてみたくて前日に通ったコースを辿りなおした。しかし、薄暗くなって場所を確認出来なかった。その次の日にまた、明るいうちに出かけた。撮った写真(↑)ではそうは見えないが、振り返った時に上の写真の角度で、白木蓮がくっきりと浮かんで見えていたのだ。

くっきりと浮かんで見えていた場所にはなかなか行きつけなかった。何軒かが通路なしの状態で密集しており、樹はある家の庭の片隅、密集して内部に通路のない四、五軒の家の真ん中辺りにあった。幸い引っ越しをしたあとの空き家の樹のようで、ごめんなさいと言いながら、庭に入らせてもらった。雑草が生い茂り、棘のある蔓などがからんで、ブロック塀に登るのが一番近づけそうで、登ってはみたが結構大変だった。2年前の夏に、大きな台風が来る前、カーポートの屋根の補強をしている時に、梯子から落ちて足首をひどく捻挫した。そのとき弟がメールに、高い所に登ったらあかんで、歳も考えな、と書いていたのを思い出した。ひと月ほど松葉づえで難儀しただけでなく、落ちた時は失神するくらいの痛みがあって暫く動けなかった。何日もなかなか痛みと腫れもひかなかった。その痛みが蘇ってくるような感じもしたが、慎重に登って撮ったのが上の写真である。

空き家の玄関から如何に見え難いかを書くよりは写真の方が早いと考えて、写真手前の学生アパートの3階の廊下から写真を撮らせてもらった。この角度からは手前の樹で見えないが、上の写真の角度からだと、夕方に白木蓮がくっきりと浮かんで見えた、というのを書きたくて、大層な思いをした。

白木蓮は絵になり、カレンダーにもなっている。

 

「私の散歩道2009」4月

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。

つれづれに

つれづれに: 丸坊主

北側玄関先の沈丁花

啓蟄(けいちつ)である。沈丁花が七部咲きで、何とも言えないかほりを漂わせてくれる。ずいぶんと暖かくなった。啓蟄の「啓」はひらくという意味で、寒さが緩んで土の中で冬ごもりをしている虫=「蟄」が、土の中から動き出す季節のことを指すらしい。今年は啓蟄の始まりが3月5日、厳密には太陽黄径345度、23時44分が始まりのようだ。3月21日の春分まで続く。

今回は無意識の「常識」の続きで、高校まで強いられていた丸坊主についてである。丸坊主には軍隊の影が濃い。教育制度が戦争で大きく変わったとは言え、教育を担当する側の人間が変わったわけではないので、前の体制から染み付いた意識は色んなところに色濃く残っていて、後々まで影響を及ぼしている。一度できた制度や染み付いた意識はそう容易く変わることはない。反動で増幅される場合もある。制服一つをとってみても、あの学生運動でも廃止の対象にならなかったが、その後の同和問題を絡めた高校運動で大きく変化し、制服を廃止する高校も増えた。公立高校でも制服が自由化されたところもあるようだ。染み付いた意識は、間違ったら叩く、遅刻すると廊下に立たせる、失敗すると運動場を何周も走らせるなどの体罰や、一番寒い頃に実施されていた耐寒訓練などの現象として形を見せるようである。すべて根は同じところにあって、丸坊主はその象徴的な存在なのかも知れない。だから無意識に体と気持ちが反発したんだと思う。

安保断固粉砕と朱書きされた階段と占拠された事務局・研究棟(大学のHPから)

 最初から高校生活のすべてが息苦しく鬱陶しかったが、中でも毎週の朝礼と寒い時期の耐寒訓練には体が拒否反応を起こしてどうしても馴染めなかった。小太りの体育の教師は、終始威張った口調で大声をあげていた。体育会系の人はなぜかまっすぐに並ばせたがる。そもそもまっすぐに並ぶ必要があるのか。どういう位置で立っていようと人の勝手やろ、と言いたくなる。高校の教員になって担任を持たされた時、席替えがしたいという生徒に「みんなで決めて好きにしたらええやろ」と言ったら、斜に構えた男子生徒の何人かは一人が机を後ろ向きにして二人で向き合っていた。普段仲がよさそうには見えなかったが、納得した顔で座っていた。私の授業のあとに来た教師が「お前ら、何で机の列が乱れている?」と居丈高に言ってたらしい。「毎回机をまっすぐにさせられるわ、たまさん」と一人の女子生徒が言っていた。その1歳上の「同僚」の頭の中には、机がまっすぐに並んでいない状況そのものが存在しなかったのだろう。近くにいたくない部類の人で、姿が見えそうになると出来る限り避ける態勢を取った。「へえー、机て、まっすぐ並んでないとあかんもんなんですか?」と年上を茶化す自分の姿が想像出来たからである。

7年間教員として在籍していた県立高校

 耐寒訓練もおぞましかった。一番寒い頃に一週間、普段の始業開始時間より一時間も前から、旧制中学からある暗い古ぼけた講堂で、裸足で素振りをやらされた。大体、なんでこんな寒いときにやらされなあかんねん、寒い寒い中で嫌々竹刀を振らされて、精神が鍛えられると思ってんのか、委縮するだけやろ、精神を鍛えるてどういうことやねん、そもそも鍛える必要なんかあるんかい、そんな憤りしか感じなかった。もっとも自衛手段を講じてほとんど参加しなかったから、文句を言う筋合いでもないが。なんで耐寒訓練やねん、と抵抗する気も起らなかったらしい。体制は堅固である。どちらも軍隊の影を感じた。もちろん、軍隊の経験があるわけでないが。

高校ホームページから

仲代達矢が主演していた『不毛地帯』(1976年)という映画を見た時、へえー、戦争が終わっても、戦前の官僚体制は脈々と続いてたんや、その戦前の体制、ひょっとしたら明治維新でひっくり返されたはずの幕藩体制から続いてたんちゃうか、と何となく感じた。次期主力戦闘機の選定をめぐって、各商社が政財界を巻き込んで水面下で激しい競争を繰り広げるという山崎豊子の同名小説を山本薩夫監督が映画化したもので、ビデオを借りて見たとき、戦闘機をめぐる巨額の金が動くわけやから、空陸海軍の人脈を政財界が放っておかなかったわけや、と変に得心した。縦の人脈は理不尽にしぶとく強い。コロナ騒動で多くの人が開催に反対している中で巨額の利権に絡む政財界の大きな集団が利益を優先させてオリンピックを強行したように、多くの人の反対を押し切って大日本帝国陸軍が大東亜戦争に突き進んだとき、主人公はその中枢の参謀本部にいて、終戦時には大本営の陸軍参謀降伏を潔しとしない関東軍を説得する為に満州へ赴いたという設定である。東条英機は責任を取らされて処刑されたが、中枢にいたほぼ全員が生き残り、軍隊の名は外されたものの戦後の自衛隊に体制や意識がそのまま引き継がれたというわけである。実際に、映画とよく似たロッキード事件が発覚し、田中角栄前首相が逮捕されるという非常事態まで発生している。

高校の時に染み付いた無意識の「常識」は、ひょっとしたら幕藩体制から、いやもっと前から延々と続いて来たものなのかも知れない。

次回は、高校を辛うじて卒業したあと、一年の浪人をして、入った大学か。

「雨の一日でした。」(2018/03/03)に載せた沈丁花