つれづれに

つれづれに:運動クラブ

キャンパス全景(同窓会HPから)

 学内全体に漂う自由な雰囲気もよかったが、思いがけなく入った運動クラブは、思っていたよりも自由で居心地がよかった。社会活動を優先して敢えて運動クラブには入らなかった高校の時の反動で、可能なら何か運動をしたいと思っていた。今なら他のスポーツを選んだかも知れないが、入学した時点では、中学校で中途半端に終わっていたバスケットボールをもう一度やりたい気持ちが強かった。しかし、放課後練習するにしても仕事に差し支えない程度にしかやれないだろうし、遅くなれば帰りの電車がなくなるし。昼間の人といっしょにやれればいいが、体育会系の色合いが強いかも知れないし。そう思いながら、体育館を覗いてみたら、180センチ以上もありそうな恰好いい人が一人で黙々とシュートを打っていた。リングの近くまで近づいて、Ⅱ部でも入部出来ますかと声をかけた。Ⅱ部の部員がいたこともあるから大丈夫、練習は月水土の午後の2時間やで、とその人から返事が返って来た。それと、体育館は土足禁止やから靴は脱いで入って来てや、と足元を見ながら言われた。文字通り、足元を見透かされている感じだった。先輩風を吹かされたら反抗してやるぞと身構えていたのに、その必要はまったくなく、拍子外れに終わってしまった。嬉しい誤算だった。あとからその人が4年生で、3年生の時は主将をしていたことを知った。

いっしょに練習を始めたら、背が高いうえにプレイもなかなかだった。たま、いっしょに掃除しようや、と練習のあとは全員でさっと掃除をした。お前ら掃除しとけよ、という先輩たちでなくてよかった。練習中は厳しく、コートに入ったら普段とは別人になれ、2時間はプレイのことだけ考えて集中しろ、と言われたが、全員その通りで、逆らうも何も、すべてすんなりと受け入れてしまった。3年生の主将が冬休み前に怪我をして見舞いに行ったとき、お前シュートが特別よう入るわけやない、そう速う走れるわけやない、けど、たま、お前が主将やれ、と言われた。本来主将をすべき学年の人が大学から始めたので主将の自信はなく、2年生の二人が中途半端で、というチーム事情もあった。一年から?という気持ちも少しあったが、中学校でも2年生の早い時期にキャプテンをやらされていたので、またかという気持ちで言うことを聞いた。一年生の終わりに主将を引き受けるチームだけのことはあった。その次の年の春の大きな大会では一回戦で当たった2部1位の大阪経済大とあたり、開始から40対0。180以上の人が多い相手に、悉くシュートをカットされて速攻を決められた。あんまり惨めな思いがしたので、一人でドリブルで相手コートまで行って初得点、割れんばかりの拍手喝采だった。夏の関西学生リーグ戦(最下部の4部)では12戦全敗、4年生の元主将が留学先のアメリカから戻って試合に出てくれた最終戦の滋賀大との試合だけ、96対60の大差で勝った。4年の先輩が取ってくれたリバウンドを僕が先に走って入れただけだったが、56得点、後にも先にも50得点を越えたのはその試合限りである。リーグ戦より短期のアメリカ留学を優先、が当たり前の雰囲気だった。一つ下の主将も、夏のリーグ戦の時はスペインにいて試合には参加しなかった。

毎月のようにOB戦があった。割と背の高い人も多くチームとしても強かったらしいが、毎回僅差の試合だった。終わったあとは学生会館で食事をしたが、OBが酒を無理強いすることもなく、現役が食事代を出すこともなかった。みな紳士で、なぜか松下電器貿易に勤めている人が多かった。大学には語学文学コースと法経商コースがあって、全般には法経商コースから大企業や大手メーカーなどに就職している人が多かったようだ。OBも含めて誰からも体育会系のにおいがしなかったのが何よりだった。

一年生の時は出来る先輩といっしょにプレイをしたので練習自体が楽しかったが、キャプテンになってからは、プレイングコーチ的な役割も多かったので、プレイ自体を楽しめなかったように思う。しかし、運動クラブに入ってよかった、素敵な人たちの集まりでよかった、という思いは残っている。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

 入学してから半世紀ほど経っているので、大学の環境も大きく変わっている。神戸市の東の端にあった二階建ての木造校舎も西の学園都市の高い建物に代わっているし、だいぶ前に大学のホームページで見つけた旧校舎の写真も、今はホームページには載っていないようである。体育館の写真はないかと同窓会のホームページを探してみたら、50年史か何かの中に旧校舎の写真が掲載されていたが、体育館の写真は見つからなかった。上の写真の講義棟の奥の建物、右端に一部が見える4階建ての建物が部室会館で、その右隣が体育館だった。一番上のキャンパス全景の写真では手前の大学会館と講義棟の間にある大きな建物がよくわかる。入学を決めたときに写真を焼いた影響を引き摺っていたので、大学の時の写真もほとんどない。卒業式に行ってないので、卒業写真も見たことがない。小説を書くと決めていたわりには、資料として写真くらいは残しておくべきだったような気もする。今回いろいろ書いて見て思うのだが、以前に比べてウェブで探せる度合いが格段に高くなった。しかし、その時にしか残せないものもある。あとの祭りである。

次回は、牛乳配達か。

つれづれに

 

つれづれに:夜間課程

 

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

通い始めたのは神戸外大の夜間課程、正式な名称は神戸市外国語大学Ⅱ部英米学科である。もちろんまさか行くことになるとは思っていなかったので大学についてはほとんど予備知識はなかったが、入学後、昼間課程に英米学科、スペイン学科、中国語学科、ロシア学科があり、夜間課程は英米学科だけだと知った。夜間課程は4クラスあった。定員がどれだけあったのかは知らないが、クラスには20人か30人くらいいたような気がする。確かめたわけではないので真偽はわからないが、あとでどうも成績順にクラス分けをしていたような感じがした。成績順だったのなら、Bクラスだったので、まだ下がいたということになる。

その入学年度の授業料は12000円、入学時に授業料と合わせて4万円余りを払ったような気がする。昼間課程は18000円、入学年度が早い人で半期3000円の領収書を受け取るのを事務室の窓口で見かけたことがある。月に1000円だから、学生は随分と優遇されていたようである。学生食堂を利用したこともあるが、うどんは100円以下、カレーライスが100円余り、定食が200円足らずだったような気がする。交通費も今から思えば超格安で、国鉄(JR)の三宮から一時間ほどの駅までの月額定期が580円、三宮から阪急六甲までは1000円前後、その時は、たった3駅やのに私鉄て高いんやなと思ったが、今から思えば嘘みたいな値段である。結果的に家から通えば、月額2500円ほどの経費で大学に通えたわけである。入学の一年ほど前から母親のやっていたのを見兼ねて始めた牛乳配達の月額が5000円ほど、それで十分に足りたことになる。

阪急に乗り換えていた三宮駅

授業は毎日6時前から9時前までの100分2コマ、128単位を取れば4年で卒業出来る設定だったと思う。昼間は144単位。夜間課程もゼミがあり3年次に取ったのだが、4年次にはなかったので、学生便覧を確認したら、元々夜間課程のゼミは3年次だけ、昼間課程の卒業認定単位は144、と載っていた。入学後5年目の春先だったと思う。

教養科目で体育が週に一度あり、中学校の時にやっていたバスケットボールを選択した。高校のときによく比較された神戸市の進学校を出た一つ上のクラスメイトがいっしょだった。高校でもバスケットボールをやっていたようで、えらく馬が合って、毎回楽しんでプレイ出来た。そのこともあって、帰り道で時々話すようになったが、神戸の経済を二度落ちて、昼間は神戸の検察庁で事務官や、きのうやくざを取り調べたから駅で突き落とされんように注意せんと、と言っていた。ずいぶんと大人に見えた。

大学に一番近かった阪急六甲駅

それで何となくわかったのだが、クラスの半分は正規の職を持っていたようで、五時に仕事が終わってから6時前の授業の開始時間に間に合わせるためにいつもみな急ぎ足だった。あとの半分は、定職を持たない似非(えせ)夜間学生で、私と同じのように運動クラブに入り、昼の学生といっしょにプレイしていた学生も何人かいた。昼間に何回か会って、立ち話をしたことがある。おそらく当時は経済的に夜間課程の必要性が高かったと思う。留年して同じクラスになった人は、高校も4年の定時制で、島根から来た好青年だった。住友金属に勤めて、数百万ほど貯めていると言っていた。後に高校の教員の時に出会い、同じ夜間課程に行った生徒の話では、クラスメイトの9割が定職を持っていないということだった。神戸市の東の端にあったキャンパスは今は西の学園都市に移転したと聞くが、経済事情がすっかり変わった今、夜間課程の状況はどんなものなんだろう。宮崎に来てから非常勤で行った昼間課程の公立大学で、わたしせんせの行った夜間に落ちましたと言う学生がいたが、何となく受験生には入れるか入れないかの偏差値が最優先事項で、経済的に困っているので選択していた学生が多かったかつての夜間課程と昼間課程の区別がないような感じがした。最近の経済事情から考えれば、今の時代に夜間課程がどうしても必要なのかと聞かれれば、答え難い気もする。

キャンパス全景(大学HPから)

次回は、運動クラブか。

つれづれに

つれづれに:大学入学

すっかり諦めもついて、よう持って30くらいまでやろなと思いこんで入学した割には、大学は面白かった。入学した年が1971年、1970年の安保闘争で国と闘っていた学生が安田講堂から機動隊に排除されて墜ち、同じ学年の東大生全員が留年したことも全く知らなかったから、入学の日に校門から登る階段の上にヘルメットを被り、ゲバ棒を持っている学生たちが並んでいるのを見ても、反応の仕様がなかった。階段教室で、学長の話と合唱部の校歌と「我々全共闘は…」のマイク越しのがなり声を同時に聞きながら、おもしろそうとは思ったが、まったく事態は飲み込めなかった。なかなか刺激的な出だしだったが、大学の空間さえあればよかったので、心は全く動かなかった。気遣ってくれる両親に恵まれて高校ですんなりと受験勉強に励んで京大の文学部にでも行っていたら、無精ひげに下駄履きの風体だけは充分に資格を満たしていたのだから、ゲバ棒を握り確実に国家に歯向かっていたような気もする。しかし、そうはならなかった。たぶん、ひとり別世界にいたんだと思う。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

必要以上に大学には行かなかったが、新鮮だった。入学後すぐに学舎が封鎖され、クラス討議とかが長いこと続いたが、30くらいまでの束の間の空間さえあればよかったので、特段問題はなかった。

高校までの子供扱いの鬱陶しさがないのが、よかった。出席半分で試験が受けられたし、欠席しても咎められる雰囲気はなかった。すべて、学生任せの大人の扱いである。都会にあって、風通しがよかったのかも知れない。戦後創られた外事専門学校が新制大学になり、神戸市が経営母体で、京大などから来た人たちが自由な気風を作り、卒業生で教員がまかなえるようになった後も、創設時の学問的な自由が引き継がれていたのかも知れない。入学時、大人扱いされ、学問的自由の雰囲気は漂っていたと思う。その空間が何よりだった。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

毎週マッサージに通っている白浜に行く途で、すでに田植えが始まっているのを知った。この時期になると、三十年以上も前に初めて見た田植えの光景をいつも思い出す。きのう、片付けも済んだ木花の研究室に授業で出会った人たちが訪ねて来て、お祝いをしてくれた。みんな無事に卒業をして国家試験に通った「大先生」の面々である。宮崎に来てから、ずいぶんと経つ。すっかり、春になった。→「超早場米」(2021年8月12日)、→「春めいてきました」(2013年3月11日)

次回は、夜間課程か。

つれづれに

 

つれづれに:諦めの形

 

小さい頃の写真が一枚もない。大学の入学を決めた日に燃やしたからだが、五十年以上も前のことなので詳細ははっきりとしない。ただ、卒業写真の中の自分を、何か筆記用具みたいなもので串刺しにした覚えがある。写真を串刺しにしながら、何演技してんねん、と呟くもう一人の自分がいたような気もする。
よほどそれまでの自分を否定したかったのだろう。「十七から二十一くらいまでの期間は、僕には悪夢の歳月であった。おそらく自分の持つ価値観が、大きく移っていった時代だった。そんな大げさなものではないかも知れないが、それが過ぎた頃には、たしかに自分が、それまでの自分とは違うものになっていた。」と担任をしていた文芸部員から頼まれた原稿にそう書いている。

ある日、世界が一変してしまった。生まれ育った環境や家族や学校に、いつも腹を立てていたし、大学もいくとことろが見つからなかった。しかし、それが直接の原因ではない。「ぼくは、それまで、世に絶対的なものがあると信じて、疑ったことがなかった。そのことを考えたこともなかった。だからこそ、生きるということを疑ったこともなかったし、生きるからこそ、生きなければならないという命題があった。すべて思う通り生きられるはずもなかったが、それでも、思いどおりにゆかないときには、それこそ、事あるごとに後悔をし、自分を責めた。
一日、六時間も寝た日には、ああ惰眠をむさぼって、自分は何となさけない人間だと本気で思った。大阪の街に出て、人の多さと、建物の大きさに驚いて、自分の非力を嘆いて、涙した。
そんな自分が、本当に…絶対的なものを信じているのか…もしかりに、あるとしても、わからないものをあると信じる自分が果たして、本当に、自分なのか・・・そんなことを思い出してから、心の中のすべてが、がらがらと音をたてて、くずれはじめた。
一瞬には、くずれなかった。長い歳月が必要だった。悪夢の連続であった。夜すら、ねむれなかった。ちょうど、大学入試や、家のごたごたが重なった。が、それどころではなかった。自分の存在がわからない…くる日も、くる日も、同じことを考えた。生きる命題が見つからない…そんな言葉に換えた……生きる命題が、見つからない…」

どうやらそういうことだったらしい。一番多感な時期に、すべてを割いて没頭した社会活動を支えていた拠り所が、実は自分にとってはまことに不確かなもので、基盤もろとも崩れ去ってしまったのである。そして出した結論は、絶対的なものがあるかどうかはわからないが、あると思いこむのはやめよう、わからないならわからないまま、すべての社会の規範をもう一度取捨選択して取り込み直そう、そう考えたら、少なくとも、いま暫くは生きて行けそうである。生きるのは大変や、こんな大変なもんなんや、これからまだ生きなあかんのか、そう思ったのが13くらいの時で、その倍を生きて、それでも死にきれずにおたおたして、それでもよう持って30くらいやろな、そう思いこんでしまった。その区切りが、写真を燃やすという形になったのかも知れない。→「生きゆけるかしら」(1976)、→「露とくとく」(1978)、→「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」(1981年)

前の「つれづれに」を書いてから、歩くのも畑も停滞気味で、気が付いたら春分の日を過ぎ、すっかり春になっている。田に水が張られ、どころではなく、田植えが始まっていた。芽を出した夏野菜の季節である。少し、またペースを戻さないと。

次回は、大学入学か。