つれづれに

英会話

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

「第2外国語」(→「ロシア語」)と同じように、英会話も高校までなかったものの中の一つだった。4年生まで週に一回の割合で授業があり、担当者はすべて英語が母国語の人で、アメリカ人かイギリス人のようだった。ようだった、と言うのは、あまりにも英語に関心がなかったせいか、4人いた講師のうち、スキンヘッドで赤ら顔のアメリカ人とすらっとして顔立ちの端正なイギリス人の二人しか覚えてないからである。語学を志して、留学や進学や就職に英語が必要な人には、格好の実戦の場になったとは思うが。単位は必要だったので、聞かれたら答えはしたが、大抵は首を縦に振るか横に振るかだった。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

スキンヘッドのアメリカ人は、専任か、非常勤講師かはわからなかったが、最初に同志社大学でも授業を持っていると言っていたような気がする。New Yorkをぬーよーくと発音していた。テキストのようなものはなく、終始雑談ばかりで、買い物好きな奥さんの愚痴が多かった。日本人向けに、ゆっくりとしゃべっていたので、大体の内容は理解できた、と思う。どうも夜間の学生を子馬鹿にしている感じが伝わって来て、どうしても馴染めなかった。一度だけ、あんまり馬鹿にせんといてや、という幽かな意思表示のつもりで、質問に答えたことがある。その人は、場所の言い方を演習させたかったようで、鳥取県はどこにあるかと聞いてきた。日本の西日本にあり、兵庫県の北西の方角の日本海に面した地域というのを英語で表現することを求めていたのはわかっていたが、私は島根県の隣とだけ答えた。もちろん島根県はどこ?と聞き返されて、鳥取県の隣と答えたら、むっとしていた。私の意図が伝わったんだろう。その場はそれで終わったが、そて以降当てられることはなった。

イギリス人はスコットランド出身だと言っていた。毎回みんなが揃うまで待ってから、授業を始めていた。あるとき、黒板一面にチョークで何かの景色を描いていた。ヨットが浮かんでいたような気もする。絵が得意だったのか、素敵な絵だった。スコットランドの風景だったかも知れない。学生がすべて後ろの方の席に座るので、いつも右端の真ん中あたりに座って学生の近くで向き合いながら話をしていた。ある日、前方の壁に机をぴたりとつけて、壁を見つめて座っていたら、にこっと笑って後ろに来るように手招きされた。どんな反応をするのかとそこに座ってみただけだったので、私もにこっと笑い返して、ゆっくりと後ろの席に移動した。

学校英語をやっても話せないという当時の一般の英語事情を反映してか、英会話は基本的に半分以上出席していれば単位が出る例外の科目だったようである。事務局で確認したわけではないが、卒業単位がほぼ満たされれば無理やり卒業させられることもあると小耳にはさんだので、5年目に専門科目の単位は取り終え、学割が使えるように、6年目は英会話だけ残すように工夫した。英会話は私のような学生にも、極めて有益な科目だったようである。

キャンパス全景(同窓会HPから)

次は一般教養、か。

つれづれに

紫木蓮(しもくれん)

白木蓮のあと紫木蓮が咲き出した。くっきりと鮮やかな白木蓮(→「つれづれに:白木蓮」、3月12日)とは違った趣があり、紫色の華には気品が漂う。

朝霧の家の庭に咲く花はそう多くなかったが、水仙が芽を出し、梅が咲き、沈丁花のにほいが漂ったあと、紫木蓮の紫の花が咲いていた。しもくれんとという呼び名も響きがいい。白い華の方はびゃくもくれんと呼んでいたが、ウェブではハクモクレンの方が多いようである。→「木蓮」

 →「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」4月

最初妻は花の絵ばかり描いていたが、木蓮もその一つでカレンダーにもなっている。絵に使う花や実を探すのは私の役目で、紫木蓮の枝も何回か頂戴した。いい枝が見つかってもらおうとしたが、ちょうど交番の前だった。それでも結局、頃を見計らって枝を何本か摘んで無事持ち帰り、カレンダーの表紙絵になった。↓

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」表紙(企業採用分)

「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬~」4月(企業採用分)

木蓮と玄風:「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬~」3月

「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬~」表紙(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。個展にも出品して見てもらった。↓

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

妻の絵のブログ→「Forget Me Not」を作ってもらって以来、私が更新を続けている。私のホームページ→「ノアと三太」には元々訪れてくれた人の数を示すカウンターがついていて、訪問者数を確認出来た。2003年に授業用にホームページを作ってもらったあと暫くして、絵のブログも作ってもらった。退職したあと、再任用されたとき、更新し易く画像も簡単に入れられるようにと、授業用のブログを作ってくれた。長い間、せっせと書いて使い続けたご褒美だったようである。多くの学生がカリキュラムの改定のあおりを受けて、学士力難民が溢れ返った時から一年に4~5科目を持つようになり、利用者の数もぐんと増えた。半期に1000人以上持った年もあるから、その時はカウンターも3桁を越えていた。

あるときブログでもカウンターを見られるんやろかと聞いてみたら、検索エンジンを探してくれた。訪問者のIPアドレスまで確認出来る。知らなかったが、絵のブログには毎日20人前後の訪問者、100回ほどの訪問数があるようである。最も訪問数が多いのはアメリカ、次いでソ連、日本、ドイツ、中国、スウェーデン、次がウクライナ。戦時下に、サイトを訪れてくれているようだ。そのあとが、オランダ、ベトナム、フランス(以上10位まで)

それで絵のブログに英語訳を少しずつつけることにした。木蓮の英語を調べて見たら、木蓮、辛夷(こぶし)、泰山木(たいさんぼく)などのモクレン科は、一般にはすべて Magnoliaが使われていることが多いようだ。そう頻繁には使われないらしいが、もちろん個別の名前もあるし、学名もある。ただ、絵のブログの場合、絵があるので、少々名前の使われ方にずれがあっても、そう支障はないだろう、と思う。泰山木はMagnolia、白木蓮はWhite Magnolia、紫木蓮はPurple Magnolia、辛夷だけは学名を拝借して Kobushi Magnolia、それでいくことにした。

膨大な量なので、英語訳をつけるのも時間がかかりそう。カウンターで成果が確かめられれば、少しは励みになるかも知れない。道は、果てしなく続きそうである。

つれづれに

ロシア語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

ロシア語を取ったのは入学後4年目である。大学でバスケットボールを再開してから近くの中学校でコーチの真似事をするようになり、そちらを優先して2年留年していたからである。

5回目くらいに初めて授業に出たら、受講生が私以外に二人、人数は申し分なかった。(→「第2外国語」、4月4日)当てられても素直に謝ったあとは黙っているつもりだったのだが、成り行きとは言え、最初から思いとはまるで違う方向に進んでしまった。

6時過ぎに少し遅れて入って来た担当者が、開口一番「京都産大の授業が終わったあと、名神高速を百キロ以上でぶっ飛ばして来たんだが。」と息せき切ってしゃべり始めた。どうやらロシア学科の専任らしかった。そのうち「私は世界的な学者で、名前も知れ渡っている。」と言い始めた。従って、私は忙しい、専任の教授だがⅡ部にも授業に来てやっている、それも世界的に有名な学者がである、だから少しくらい遅れても仕方ない、私にはそう聞こえた。偉くない人が偉そうにする、あれか。ひとことすみませんと言えば済むのになあ、そんな風に考えているうちに授業が始まった。当てられて、訳すように言われた。ひと月以上も経ってから、準備もせずに授業にのこのこやって来た、それがどうにも我慢ならなかったようだ。その通りだから、私としては謝るしかない。

「初めてですいません、やって来ていません」

「やって来てない?おまえ、昼間は何をしてるんだ?」

「昼間は、寝てますけど」

(授業から帰ったあとも興奮して寝られずに夜中じゅう起きて本を読んでますので)を、意図的にとは言え、省いたのがよろしくなかったらしい。夜中じゅう起きてるんやから、昼間寝んともたんやろ。

「若いのに、惰眠を貪るとは何事か!」

烈火のごとく怒り始めた。ここで止めればよかったが、ぷいと壁の方を向いた。火に油を注ぎたかったらしい。怒りは収まらず、怒鳴り続けていたようだった。次の時間からが、大変だった。

大人数だと避けようもあるが、3人だけである。初回のこともあるし、自分で責任を取るしかない。購読?どこまで進むかわからないけど、準備するしかない。母音の数が13もあるみたいやし、格の変化も煩雑そう、言われっぱなしも癪に障るし。準備に毎回何時間もかかった。根に持つとは相手も大人げない、授業ではいつも喧嘩腰で、細かいことろまで質問して来る、初修やねんから、そんなとこまで知らんやろ。二十数回も続いた。最後のころ、冬場だったと思うが、授業前にいっしょに授業を受けていた女子学生が二人、揃って私の席までやって来た。

「またやってもらえませんか?」

「?」

「あのう、最近やってくれはらへんので、進むのが早くて、早くて。このままやったら、試験範囲がどんどん広がって試験の時に大変そうなんで、またやってくれませんか?」

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

毎回毎回体力を消耗し、必要以上に気も遣ったが、授業はなんとか終わった。単位は無事取ったものの、あまり後味はよくなかった。のちに早稲田の博士課程の試験に第2外国語が要るのがわかって、ロシア語も考えたが、役に立ちそうになかった。結局、フランス語で受験した。

ロシア語の人の話を書いていると、無意識のうちの自分の思い上がりを思い知る。市立大学の教員は地方公務員で、公務員は全体の奉仕者である。人の税金で給与をもらっているので、「専任だが夜の授業もしてやっている」は思い上がりである。自分がいるところに学生が来ていると思っているのかも知れないが、学生がいるから職にありつけているのだけだ。勘違いも甚だしい。そういう人は教えてやっていると思って疑わないのかも知れないが、たかだか第二外国語の購読である。教えてもらわなくても、自分で出来る。概ね、教師がやれることは知れている。生得的な能力に僅かな刺激を与えてその能力を引き出すきっかけを作るくらいにはなっても、それ以上でも以下でもない。そもそも、人が人に何かを教えられるなんて考えること自体がおこがましい。そうわかっていながら、時間と手間をかけて授業の準備をして資料を配り得意げに授業をすると、何だかやったような気になってしまう。たかが英語教師で、学校を出れば、ただのおっちゃん、今はただのおじいちゃんなんやから。

次は一般教養、か。

旧暦では、春分から数えて15日目頃、今年は今日4月5日が清明の始まり、清らかで生き生きとした様を表わす「清浄明潔」を略したものらしい。宮崎では散りかけているが、桜の季節でもある。白木蓮も終わり、紫木蓮が咲き始めた。

紫木蓮が咲き出した

つれづれに

第2外国語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

大学と→「運動クラブ」(3月29日)の自由な雰囲気はよかったし、英作文の『坪田譲治童話集』も素敵だった。(→「英作文」、4月2日)学生運動まがいの入学式やクラス討議、学舎のバリケード封鎖と機動隊による強制撤去なども(→「授業も一巡、本格的に。」、2019年4月15日)、高校までの閉塞感に比べたら新鮮で、その時にしか味わえなかった出来事である。充分に満足だった。

英作文のテキストに使われた文庫本『坪田譲治童話集』の前身か

高校までなかったものの中に第2外国語があった。元々語学は演習科目で半期で1単位、講義科目の半分である。そういう扱いのせいか、医学部ではそれを担当する語学の講座の予算は他の講座の半分だった。医者から見れば、語学の教師?という扱いなんだろう。数の問題である。外国語が専門だけあって、その偏見はなかったように思う。逆に語学の教師だらけで、法経商コースで、例えば商法を専門にしていた人は肩身が狭かったかも知れない。

外国語大学だけのことはある。第2外国語は学科があるフランス語、スペイン語、中国語とロシア語から選択出来た。通年で週に2回、8単位が必修だった。いつか役にたつかも知れない、おもしろそうなど、少しでも興味の持てる言語を普通は優先するようだが、私の選択基準は人が多いかすくないか、たくさんの人は苦手だ。欧米志向が浸透していたからだろう。案の定、フランス語とスペイン語はやたら人が多かった。選択肢は二つ、中国語を取った。その方が少なそうだったからである。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

出席は半分以上と聞けば、半分以上は休んではいけないと考えるようだが、私は半分以上は出てはいけないと思っていた節がある。週に30週と規定されているのは今と同じだが、実際には25~6週が多かった。従って、通年なので出席は多くて13回だった。最初から行くのも気が引けるので、最初に教室に顔を出すのが大抵は夏休み前の7~8回目くらいになっていたような気がする、中国語も他の科目と同じように考えていたが、初めての外国語というのを忘れていた。8回目くらいに出た最初の授業が読みの試験、さすがに、お手上げである。辞書や教科書も買っていたのに、最初の時間で、また来年やな、と思ってしまった。2年目にまた履修届を出して、今回は初回だけでもと顔を出したら、人で溢れ返っていた。とっさに事態が呑み込めなかったが、どうやら1972年は中国との国交回復の年だったようである。前年度が4人だったのに、まさか国交回復で教室が人で溢れ返るとは。世の中について行きようがない。結局この年もまた、また来年やな、で終わってしまった。買った辞書を使う機会もない。

国交回復の年に間違いなかったかが怪しくなって、「1972年中国」で検索してみたら、外務省が「日中国交正常化45周年・日中平和友好条約締結40周年を迎えて日本と中国は,2017年に日中国交正常化45周年,2018年に日中平和友好条約締結40周年という,節目の年を迎えました。」の情報を出していた。40年や45年が節目かどうかは知らないが、あれから、半世紀の歳月が流れたようである。

次はロシア語、か。

満開の桜の下は、お昼寝の場所のようである