つれづれに

つれづれに:髭と下駄

妻に描いてもらって自己紹介に貼っていた似顔絵

髭が生えだした。時期ははっきりしないが、大学の2年目くらいからだったような気もする。髭を伸ばすという意識はなかったが、剃るのも面倒臭くてそのままにしていたら、ずいぶんと目立つようになった。そのうち、髭を剃る音が、俗世間の象徴のような気がして、僕は世の中と違うねんから、という変な理屈をつけて、意地になって伸ばし始めた。

その頃、よく警官に職務質問を受けた。そんな……と思ったが、学生運動の過激な人たちの姿形とよく似ていたらしい。1970年の反安保闘争で、機動隊にこてんぱんにやっつけられ、指名手配を受けて地下に潜った人たち、である。仇(かたき)のように、警官に呼び止められて、職務質問をされた。夜の授業が終わって電車で帰ってくると、夜中の十一時過ぎになり、橋を渡る前に信号待ちをすることが多かった。運悪く、信号の前に交番があり、毎回呼び止められた。いくら暇や言うても、毎回職務質問はないやろ、と思ったが、本当に毎回呼び止められて、交番の中まで連れて行かれて職務質問された。同じ人間だとわかっていながらやっていたと思う。あれは行き過ぎやろ、と今でも思うが、夢の中の出来事のような気もする。それ以来、頭の中まで筋肉の人がという偏見が頭をかすめて、警官を見ると反射的に身構える。すれ違ったパトカーが、わざわざ戻って来て職務質問されたこともある。明石に引っ越ししたあとも、自転車で二人乗りをして必死に坂を漕いでいるときでも、平気で呼び止められた。しかし、さすがに陸の孤島だけのことはある。学生運動の波が来た形跡もなく、宮崎では一度も呼び止められたことがない。今では、ごくろうさまです、と挨拶をする余裕すら芽生えている。外国みたい、そんな感じさえする。あの職務質問は、一体何だったんだろう。→「夜間課程」(3月28日)

橋を渡った左手辺りに交番があった

下駄は古典と立原正秋、それと家庭教師で少しゆとりが出来た悪影響である。源氏や落窪や宇津保は、琴や着物の世界である。立原正秋の『鎌倉夫人』などもその世界である。すぐに感情移入をしてしまうらしい。ある日、家にあった着物を着て、お茶を習い始めた。そこでは琴も教えているようだったので、ついでに琴も習うことになった。茶を立てているとき、娘の家庭教師をお願い出来ませんかと言われた。嫌とは言えずに黙っていたら、では出ず入らずで、と言われた。いまだに、その時の稽古料がいくらだったのか、知る由もない。→「作州」(2022年3月14日)

着物を着ると、当然下駄に褌(ふんどし)である。それから、普段も下駄を履くようになった。桐下駄である。素足には心地よい。ただ、すぐに汚れがつくので、一日に何回も雑巾できれいに拭いた。アスファルトの上は、滑るので歩きにくかった。その点、木造校舎はいい。廊下が木のままだったら滑って歩き難かったと思うが、滑り止めシートが貼ってあった。今ならゴムか塩化ビニール樹脂だったかも知れないが、その時はドンゴロス(麻袋を作る目の粗い厚手の布)の材料と同じ麻製のシートが敷いてあったように思う。授業中なら、これ見よがしに大きな音を立てながら歩いた覚えがある。一度だけ、学年が上の女性だったと思うが、和服を着て廊下を歩いていた。学生が和服を着ているのを見たのは、後にも先にもその時だけである。今のキャンパスでそんな雅びた光景に出くわすことはない。なぜか、強く印象に残っている。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

次回は、家庭教師3、か。

つれづれに

つれづれに:古本屋

「2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った」(→「コーチ」、4月15日) と書いたが、お金はないよりあった方がいい。3人の家庭教師をするようになってから少し余裕が出て、行き帰りに神戸近辺の古本屋に行くようになった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三宮駅(今はJR)

大学までは2時間足らずかかるので、授業だけの日は4時台の電車に乗った。宮崎の単線にすっかり馴染んでいるが、複線の山陽本線も昼間は1時間に1本しかなかったので他に選択肢はなかった。駅まで自転車で10分ほど、1時間ほど快速電車に乗り、三宮で乗り換え、阪急電車で3駅目の阪急六甲で降りて、20分ほど歩いた。三宮からの月額定期が580円、阪急3駅分が1000円前後だったから、今から思えば超格安だった。→「夜間課程」(3月28日)

大学に一番近かった阪急六甲駅

行き帰りに行った古本屋は、神戸と三宮間の高架下と、神戸から三宮センター街までの間にあった。10軒くらいはあった気がする。インターネットもスマートフォンもない時代、それなりに活気もあった。英語もしないのに、なぜか高架下で中古の手動英文タイプライターを1万5000円で買い、asdfとブラインドタッチの練習をやりかけたこともある。大学院では電動タイプライターで修士論文を書いた。締め切りに追われて遅くまで打っていた電動タイプの音が、2時間おきにミルクをやっていた息子には子守歌だったかも知れない。オレ、そんなん知らんでえ、と言われそうだが。

神戸元町の高架下

少し余裕が出始めてから、だんだんと本の数も増えていった。最初は漱石や芥川、太宰や谷崎を、そのあと古典の源氏や落窪、宇津保、萩原朔太郎の詩にまで手を出してみたが、どうもしっくりこなかった。その頃、家で取っていた讀賣新聞の夕刊で立原正秋の『冬の旅』を読んだ。なぜか、すっと心に沁み込んで来た。古本屋に行くと、たくさん出回っていて、目についた本は手当たり次第に買って、読んだ。多作で、出版社の要請に応えた駄作も結構ある。しかし、小説を書くという自分の中にあった思いに気づき始め、その思いが強くなっていったのは確かである。→「作州」(3月14日)

次回は、髭と桐下駄、か。

つれづれに

家庭教師2

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが、これで何とか30くらいまでは持ちそうと、少し気持ちに余裕が出来たことは確かである。」(→「家庭教師1」(4月10日)と前回書いたが、それは3年目が終わる頃の話で、それまでは経済的にきつかった。今から思えば働けばよかったが、30くらいまでしか考えてなかったので時間の方が大事だったのかも知れない。

100点を取った中学生の日にちを増やす話の前に、新たに二人の男子中学生から別々に家庭教師を頼まれた。一人はコーチの真似事をしていた一年目のチームにいた3年生の女子から聞いたらしかった。その女の子は親戚で、私と同じ高校に行っていたらしい。もう一人は誰から聞いのかは聞かなかった。依頼を聞いて、会いに行った。どちらも母親を交えて、本人と話をした。一人は両親が呉服屋をしていた。今は着物の需要が減って呉服屋を続けるのは難しい時代のようだが、その頃はまだ呉服屋の需要はあって、そこそこの生活をしている人が多かったように思う。両親とも普段も着物を着ていた。本人はテニスをしていて、明るくて賢そうだった。

通った高校(高校のホームページから)

もう一人は父親が電気工事店をやっていたようで、母親が教養もある清楚な人だった。本人もまじめな性格のようだった。100点を取った中学生と違って、どちらもよく出来て、飲み込みも理解するのも早かった。これなら自分で出来るやろ、と思ったくらいである。出来る人は、どんどんやればいいだけのようなので、中学のテキストはさっさと終えて、高校のテキストなどをやっても充分にこなせていた。お互いに気持ちの余裕も出来るし、いろんな無駄話をしていたように思う。成績もよかった。二人はお互いに知らなかったようだが、卒業をする頃にはなぜか同じ人に家庭教師をしてもらっているとわかったらしい。あまり模擬試験の結果に関心はなかったが、それぞれに聞いたら、5番と6番だと言ってた。私が30番前後で進学校に行ったし、私のようにすべてを諦めたりはしていないだろうから、それなりに神大か関学かくらいには行ったのではないか。

近くの川の河川敷

受験勉強をしたこともない私が家庭教師をするのもおかしな話だが、元々頭の回転の速い人は、うまく嚙み合えば、生得的な能力をぐっと伸ばせるような気もする。しかし、やってみて、やっぱり勉強は自分でするもんや、と言う思いは変わらなかった。

家庭教師を頼まれたおかげで、経済的にも気持ちの上でも余裕が出来たのは確かである。余裕のお陰か、大学の行き帰りに神戸や大阪の古本屋にも通うようになって、たくさんの本を読み始めた。

次回は古本屋、か。

山藤があちらこちらに咲いている。一昨日は白浜に出かけたが、行く道でも何度か見かけた。曽山寺浜の歩行者・自転車用道路脇にある老人福祉施設の生垣にも、見事な花が垂れ下がって咲いていた。↓

つれづれに

 

イリス

植え替え後に、また咲いてくれたイリス

イリスが咲き出した。一昨年に植え替えた後一つも花が咲かなかったので心配していたが、今年は咲いてくれてほっとしている。花にはそれぞれ特有の性質がある。水仙は球根を植えても花が咲くまでに数年かかり、花が咲かない場合もある。山から根ごと持ち帰って植えた通草(あけび)は実をつけるのに、六、七年もかかった。イリスも植え替えて馴染むまでに、歳月が必要らしい。

通草

植えて見事な花を咲かせてくれていた牡丹の樹が一本枯れ、また一本枯れて、最後の一本も怪しくなったので、同じように陽当たりのいい場所に植え替えた。元々陽当たりのいい通路の一部に庭の真砂土を入れて牡丹を植え、その周りにイリスを植えていた。牡丹の植え替えのついでに、イリスも植え替えたのは、その場所も含めてレタスを植える畝を作るためだった。冬場は隣の家や金木犀の垣根の陰になるので畑の南半分は陽が差しこまない。陽の当たる場所は限られるので毎年同じ所に植えていたら、数年前から根ごと腐ってしまうことが多くなった。新たな陽当たりのいい場所が必要になって思いついたのが、牡丹とイリスを植えていた通路だったわけである。庭の中でも南向きの居間に一番近く、陽当たりも一番いい。庭との境の通路には砂利が敷いてあったので取り除き、その下の庭用の真砂土も取って肥料と畑用の新たな土を入れたのである。作業にだいぶ時間はかかったが、予想通りレタスの出来はかなりいい。

レタス

諸々の要因で植え替えたのだが、球根のイリスが植え替えた翌年に花が咲かないとは思わなかった。3月の終わりに牡丹を買いたいと思い、宮崎神宮外苑で開催されいた春秋恒例の植木市に出かけた。(→「植木市と牡丹」、3月31日)そのとき店にいた女性から、木陰に植えて下さいねと言われた。牡丹は陽当たりのいい場所に植えたらあかんかったんや。牡丹に悪いことをしてしまった。陽当たりのいい所が一番と信じて疑わなかった素人考えが、そもそも間違っていたのだ。植木に限らず、こういったそもそもの間違いは、多そうである。

イリスも宮崎に来て妻が最初に描いていた花の一つで、大分の個展にも出して見てもらい、カレンダーに誘ってくれた長崎のオムロプリント(→「クリカレ(Creators’ Power Calendar)」)の営業努力のお陰で、長崎の企業がカレンダーに採用してくれている。

イリス

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」6月(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

植え替え前のイリス