つれづれに

つれづれに:薊(あざみ)

薊も宮崎に来てよく摘んで来るようになった花の一つだ。結婚するまで住んでいた家の近くの堤防にもよく生えていたが、明石に越してからは目にしなくなった。神戸に近い都会で舗装されたところが多かったからだろう。

どこにでも咲いているわけではないが、木花に来てからは散歩の途中にもよく見かけるようになった。高台にある公園の土手や、近くの池の周りでは特にたくさん花が咲いていて、今からが盛りだ。土の成分や状態などにもよると思うが、加江田川と清武川の堤防の土手にはたくさん咲いている。大振りなので、わざわざ採りに出かけることもある。

茎が空洞になっていて水をよく吸うので、花瓶の水がすぐになくなってしまう。棘がすごいので、何度も痛い目に遭って摘み取る時の要領を文字通り身をもって覚えた。摘んできた薊は妻の絵にもなり、カレンダーにもなっている。→「薊」

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

薊:「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬」5月

薊:「私の散歩道2009」5月(カレンダーに誘ってくれた長崎のオムロプリントのお陰で地元企業に採用された分→「クリカレ」))

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

検索エンジンを探してもらって、2月の半ばからサイトへのアクセス情報を見るようになった。あれから二ヶ月ほどが経つ。最初に検索情報を見て驚いたのが、予想以上にアクセスが多かったことと、ロシアの攻撃を受けていた最中にウクライナの首都キーウからも見てくれていたことである。訪問者や訪問数にIPアドレスもわかるようになっていて、ウクライナの訪問者(69)は今日現在で、アメリカ(373)、ロシア(328)、日本(148)、ドイツ(135)、中国(91)、スウェーデン(89)に次いで7番目の多さである。ベトナム(53)、オランダ(47)、イギリス(35)と続く。世界のあちこちで絵のブログ(→「Forget Me Not」)を見てくれているようなので、英語しか出来ないが、せめてと思う気持ちで少しずつ英語を併記するようになった。妻の書いたエセイも英訳を始めた。

薊の英語がthistleなのは、ずいぶんと前に調べたので知っていた。医学科の授業で種田山頭火を取り上げて俳句を英訳した時に必要だったからである。学生にはスキャナで取り込んで印刷したMountain Tasting – Zen Haiku by Santoka Tanedaを配った。(今も手元にあるので、連絡をもらえれば、送付可である。)

アメリカ人John Stevensは「あざみあざやかなあさのあめあがり」を

The thistles –

bright and fresh,

Just after the morning rain.

と英訳していた。不定型の俳人が、文頭に「あ」を並べたリズムだけの句を戯れで作ったようだが、「あ」を並べたリズムを英語訳で表現するのは、不可能か、至難の業だろう。

首都キエフの表記がキーウに代わったのは知っていたが、表記を確かめるために検索したら首都キーウにある国立大学の日本語学科の教員のインタビュー記事「学生20人ほど日本の大学を希望 支援を」(2022年4月22日 22時54分 ウクライナ情勢)があった。日本語学科があったことも知らなかったし、「およそ300人の学生が日本語や日本文化」を学んでいることも知らなかった。現地に住んでいる人がブログを覗きに来てくれてるんやろかと思っていたが、日本語を学んでいる外国の人がブログを見てくれているのかも知れない。

教育文化学部の大学院を兼任で持ったことがあるが、台湾の学生もきれいな日本語をしゃべっていたし、提携校のインドネシアのブライジャワ大学では3000人も日本語を学んでいると聞いた。どちらも過去に日本が侵略をした痛ましい過去があるが、今も日本企業が多いと聞く。院の「翻訳論特論」や「アフリカ文化論特論」の授業に来てくれていた院生は卒業後台湾の日系企業に就職して、大学の提携で教員が台湾に行った際には案内役をしてくれたと聞く。

共通教育科目や学士力発展科目にはインドネシアやマレーシアの留学生が必ず何人か受講してくれていたし、工学部の英語のクラスにも何人かいた。コロナ騒動の前は、後期に教育学部に短期留学する予定の学生4人から、地域資源創成学部2年生のビジネス英語を受講してもいいかと別々に問い合わせがあった。英語での発表を中心に授業をするというシラバスを見たらしかった。ビジネス英語の受講生の2人を除いて日本語がよく出来ていた。聞けばやり始めて2年くらいという人もいたが、充分に対応できていていた。特に国費留学生は英語もよく出来たし、飛び抜けていたように思う。ブログを見にきてくれている人たちと、いつか繋がるかも知れない。

次は臼杵と宮崎、か。

臼杵の石仏

つれづれに

伎藝天

 秋篠寺に行った。伎藝天を観るためだった。家庭教師で経済的に少し余裕が出来て古本屋で立原正秋の本をたくさん買った悪影響である。すぐにその気になる性質は、どうにもならないものらしい。高校時代にはいつも何かに腹を立てていたが、学校帰りに時より近くの寺に寄って、仏像を眺めて気を鎮めていたようだから、木彫を観る素養は元々あったようである。→「高等学校2」

高校の時に立ち寄ったお堂、聖観音像(↓)があったと思われる

鶴林寺公式ホームページから

 立原正秋の作品の舞台は、鎌倉や湘南辺りが多いのだが、『花のいのち』の肝心の舞台は奈良の秋篠寺である。その寺に伎藝天がいる。

伎藝天像(国宝らしい)

 『花のいのち』は立原正秋の典型的な男と女の物語である。男は奈良の寺をめぐって分厚い写真集を出している。高価だが、売れる。焼き物にも詳しく、目利きが確かで、鑑定も頼まれる。妻をなくしている。女は才色兼備で見合い結婚はしたものの、相手に結婚前から女性と子供がいるのがわかり、離婚して自宅を出版社の保養所にして暮らし始める。その保養所に兄が男を連れて来て、女と出逢う。知と美の出会いである。男は自分の恋心を中唐の詩人耿湋(こうい)の五言絶句に込め、女はそれを理解して秋篠寺を訪ねて行く。そんな立原正秋の世界である。

返照入閭巷 憂来誰共語 古道少人行 秋風動禾黍

「返照閭巷(りょこう)に入る、憂うるも誰と共にか語らん、古道人行少(まれ)に、秋風禾黍(かしょ)を動かす」と読み「夕日の照り返しが村里にさしこんで、あたりをやわらかく包んでいる。わたしの心には憂いがいっぱい湧いてくるが、それを慰めあう相手もいない。古い道には人の往来もまれで、ただ秋風が稲やきびの穂を動かしているだけである」という意味らしい。美しい女は、伎藝天に準えて恋心を贈った男に会いに行く。

 鎌倉や湘南と違って、私には奈良は日常の世界である。一年生の時だけいっしょにプレイをした同級生の家の最寄り駅が秋篠寺に行くときに利用した大和西大寺である。近鉄沿線の石切駅近くには、いっしょに合宿をした私立の外国語大学生の豪邸もある。勉強が苦手な人たちで、宿舎ではオンナとパチンコの話ばかりだった。その人は金持ちの息子らしく、外車を乗り回していた。大阪、神戸、京都、関西の四外大定期戦で知り合った女子チームの同級生をデートに誘っていたようだが、優等生の同級生と合うようには思えなかった。少し付き合ったと聞くが、案の定結ばれなかったようだ。どちらもすらりと背が高く、経済的にも恵まれた美男美女だったが。その時はわからなかったが、理系に行く人が少なかった時代、昼間の英米学科には、才媛が集まっていたようだ。一人の同級生は親と兄が東大卒で、卒業後半年アメリカに留学して、高校の教員にはならないでJALの地上職に就いていた。今なら医学科に行って、医者になる人も少なからずいたような気がする。

近鉄大和西大寺駅

 秋篠寺には国鉄と近鉄を使って出かけた。近鉄の大和西大寺駅で降りて、駅からは歩いた。郊外の寺とは違って、生活の場を通って秋篠寺に着いた。伎藝天と長い時間さしで向き合っていたが、眼前に立原正秋の世界が広がることはなかった。

立原正秋(立原光代『追想 夫・立原正秋』より)

つれづれに

家庭教師4

木崎浜から北側に尾鈴山系をのぞむ

 今日は朝からきれいに晴れている。昨日も雨だったし、この先1週間ほどぐずぐずした天気が続くらしい。短い時間でも、布団を干しておこう。昼からは白浜だから、晴れている分、きれいな海を見ながら行けそうである。

青島海岸

100点の中学生を毎朝にしてもらうように頼んだのは、夜間課程の時間帯では捌けない数の家庭教師を頼まれていたからである。(→「家庭教師1」)11歳下の妹の元同級生の母親から頼まれた。妹とは小学校の3年生か4年生の時に同じクラスだったようで、かなり離れた川の上流の田舎の祖父母の家に引っ越しをしていたらしい。妹が家庭教師の話をしたのかも知れない。母親が声をかけた近所の同級生と、高校生の姉も合わせて4人でやって欲しいということだった。自転車で行くのも時間的にきつそうだったので、バイクを乗っていた弟に相談したら、YAMAHAの50CCのバイクを用意してくれた。中学校の時に「殴られて血を見たらかーっとなって遣り返したら、いつの間にかグループの頭になってしもうて。わい、血ぃみたらあかんねん。」と言っていたが、そこから抜けるために、中卒で大手の車輛会社の養成所に入って家を出ていた。期間が過ぎたあと家に戻り、家から神戸の会社に通勤しながら夜間高校に通っていた。元々機械やバイクに関心が強かったようで、出入りしていた整備会社の人を兄貴分と慕うようになっていた。その人に都合をつけてもらったらしい。バイクや車に関心がなかったので運転免許は考えたことはなかったが、運転免許を取って足を確保することにした。原付は筆記試験だけでよかったので、免許はすぐに取れた。当時のバイクは50CCでもエンジンがかなり強力だったようだ。夜中に川の堤防の道路を南に下ったが、100キロは軽く超えていたと思う。バイクて、速いもんやなあと思いながら、誰もいない真っ暗な道でエンジンを噴かした。

バイクを飛ばしたのはこの川の堤防である(→「作州」、3月14日)

引き受けたのは、元同級生と二人の男子中学生と高校生の姉の4人だった。やりながら、今までの人たちとどうも勝手が違うようやな、と感じ始めた。姉妹と男子中学生の一人は、元々勉強に向いてないようだった。親から言われて何となく、そんな感じだった。もう一人は頭もよく、する気もあったようだ。その3人をいっしょに、というのはなかなか難しい。幼馴染でもあるし、一人だけ、よう出来るなあと褒めるわけにもいかなし。親に別にやった方が本人のためになりますよ、とも言えないし。姉の方は、別の意味で大変だった。二番手の県立高校には行っていたが、商業科で教科書は中学校用に毛が生えた程度なのだが、進学する気もないようなのに、どうして英語の家庭教師?という程度なのである。同時並行という時間の制約もあって、一週間たまっていた話を話したくて仕様がないようだった。ここまではやっときや、と言ってもなかなかやって来ない。半ばお手上げである。ある時、父親が二人で話している所に、あんな成績で、一体何をやってるんですかと怒鳴り込んで来た。何も言わなかったが、やめなかったのはなぜだろう。高校生の話を聞いてやりたい気持ちもあったのかも知れない。この家庭教師は、なんだかもやもやが残っている。思わずたくさんの家庭教師をやらせてもらったが、やっぱり勉強は自分でするもんやろな、という思いは変わらなかったものの、暫くのあいだ、経済的にも気持ちの上でも余裕をもたせてもらったのは確かである。その後、高校の教師になり、長いこと大学で授業を持つとは夢にも思わなかった。

次は奈良西大寺、か。

折生迫のきんぽうげ、もう盛りを過ぎている

つれづれに

家庭教師3

とまとの柵(工事中?!)

 夜半過ぎから雨になり、今も雨が降っている。夕方過ぎまで続きそうである。雨を嫌うとまとの柵を作るのに思いのほか苦心している。竹を編んで拵えればいいのだが、腐らず長持ちするように工夫しようと考えたのがそもそもの始まりである。小さな温室のようなものを作ろうと考えて量販店で探している時に、屋根の部分の円形の支えと側面の支えを組み合わせる鉄製の部品を見つけて、これにしようと2回に分けて持ち帰った。結構長いので、自転車で運ぶのも大変である。さっそく組み立て、屋根になる部分の骨組みを他の支え棒で固定したが、これがどうもうまく行かない。土の部分が平行でないから捻じれるのかとも思いながら色々やってみたが、屋根の部分に固定した細い支えの棒がねじ曲がってしまった。ねじれ方が尋常でないので、初めて気が付いた。支え棒の長さが違うのではないか。調べてみたら、最初に買って来た4本と2回目の4本の長さが10センチほど違っていた。道理でうまくいかないわけだ。あした雨の降る前に買って来るか、そう思っていたら、夜半から雨が降り出した。あしたは白浜だから自転車に乗ると運動し過ぎてしまうし、仕方がない、土曜日か。雨に当たらないように、植えたとまとの苗にバケツを4つ被せとくか。思い付きの応急処置、やれやれである。

左側の買って来た苗と種からの苗

 100点の中学生、頭のいい二人の中学生、茶と琴を習いに行った先の高校生、それにコーチまがいの毎日、文字通り大学に行っている暇もないくらい忙しくて、2年留年をした。しばらく後でまた二人、今度はそれぞれ高校生の母親から頼まれた。慣れとは恐ろしいもので、「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが」(→「家庭教師1」、4月10日)と後ろめたい気持ちを持っていたわりには、さも受験勉強でもしたかのような不遜な振る舞いだった。
一人は私立高校の一年生で、すでに高校生になっていた「頭のいい二人の中学生」のうちの一人がテニス部の「先輩」だと言っていたから話を聞いたのかも知れない。子供の前で母親が少しおどおどしていた。子供は母親を少し鬱陶しく思っているようで、何となく不合格が尾を引いている感じだった。私といっしょに同じ高校を受けて不合格となり私立高校に行くことになった時に同級生が見せた物悲し気な表情が思い浮かんだ。通り道だったので毎朝迎えに来てくれていた同級生が行ったのも同じ私立高校だった。その時期(多感な時期、田舎でもあり今ほど進学する人が多くなかった時期)に地元の進学校に行けなくて、諦めて私立高校に通う本当の気持ちは、当事者でないときっとわからないだろう。後に大学院のゼミでいっしょになった人も同じ私立高校だったが、そんな感じは微塵もなかった。高校時代は野球でも有名だったチームでエースだったらしく、現役で同志社に行き、教員再養成向けの大学院に現役入学。担当教授の感化を受けてイギリス文学、それもキーツに関心を持ち、いたく教授に気に入られて楽しそうで、「物悲し気な表情」とは無縁のようだった。県立高校が二つしかなく、三番手は隣の市の県立高校を選んでいた田舎町とは違って、神戸に近い明石市の中学校だったので進学先の選択肢の幅が格段に広かったという進学事情が背後にあったかも知れない。

2列目左端がキーツくん、黒髭だが周りは教官並みに老けた「大学生」だった

 2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか。親子関係はうまく行ってるんやろか。私が教員になって中途半端のまま終わってしまったが、高校受験の傷が大学入試で少しでも恢復していればと願うばかりである。

河川敷近くに家があった(→「作州」、3月14日)

 もう一人はコーチまがいのことをしていた2年目のチームのキャプテンだった男子生徒の姉で、地元のもう一つの県立高校の2年生だった。弟は背は高くなかったが負けん気が強く、スポーツ向きだった。当然のような顔をしてキャプテンをしていたが、あまり勉強向きではなかったらしく、隣の市の三番手の高校に行っていた。語学にも向いてなさそうだったが、なぜか私立の外国語大学に行ったと聞く。私とコンビを組んでいた背の高いチームメイトも勉強は苦手だったらしく、その弟と同じ高校だった。市を跨いで通えるようにしていたのは単なる制度上の問題である。どういう政治的な経緯があったかは知らないが、こちらから行けるのだから、当然、成績のいい人が向こうからも入学して来る。数は多くなかったが、隣の市から通っていたクラスメイトもいたと思う。社会活動で仲の良かった一つ年上の人は成績がよくて地元に残った口である。高校の時は社会活動で忙しく浪人をしてしまったが、一浪して神戸の法に行って判事となり、最後は大阪高裁の判事だったらしい。高裁の判事になる時に「東大、京大以外で、と驚かれたで」と得意そうに言っていた。世評とは無関係に、優秀な人もいたわけである。
本人は弟とは違って体が元々強くなかったようで、控え目でおとなしい性格だった。大きな紡績会社で働いている父親も含めて家族四人で職員用の社宅(↓)に住んでいた。私立高校に通っていた生徒と同じように、2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか、そんな思いが残っている。卒業してから何年か後に、たぶん高校の教員をしている頃に家まで訪ねて来てくれたことがある。少し先に結婚することになったと話をしてくれていたが、少しも嬉しそうではなかった。私が何かを言うのを待っていると感じたが、敢えて何も言わなかった。生きてせいぜい30くらいだろうという思いが先に立ったからだと思う。それが二人が会った最後である。

紡績会社の社宅(→「引っ越しのあと」4月1日)

次は、家庭教師4、か。