つれづれに

教室で

移転先の新校舎

 教室で過ごす時間が中心の生活になった。生徒として座って授業を受けていた時も、教育実習で授業の見学を言われて見ていた時も、教室にいるのが嫌で堪らなかったが、教壇で授業をするのは結構楽しかった。誰からもあれこれ言われないのが一番だったが、どうも性(しょう)にあっていたようである。職員室を見ていると、どうも授業や生徒といっしょにやって行くのに向いていないと思われる人が多かった。一番欠けていたと思えるのは、横柄なのである。自分が人に何かを教えられると信じて疑わない人が多かった。人が人に何を教えられるのか、そんなことを意識したこともないような人もいた。そういうが、生徒を大人として見ていない場合が多かったように思う。生徒指導の人などは、特にひどかった。私が生徒の時に感じたのと同じ種類の違和感を教師になっても感じているように思えた。それまでそれほど何かをしたわけでもないが、何かをし始めるとやればやるほど自分の無力を知る。英語を少し齧っただけだが、それくらいで人に何かが教えられるとは思えない。しかし、教員になってみると勘違いでもしたように、大きな顔をして、教えてる気になっている人が多いように思えた。そんな人が教師だと、接する時間が多いだけに、生徒には災難である。この思いは自分が生徒の時も教師になってからも、その後数十年授業をした来ても、基本的にはかわっていないと思う。
 生徒に大人として接することが出来ない人は、相手は生徒の中の一人で、その人として見ていないのではないか。教室にいて教壇側から見るとよくわかる、自分と生徒全体という構図で考えがちになる。しかしこちらは一人でも、相手は人によって違う。反応もそれぞれである。もちろん一人一人に対応するのは時間的に難しいが、出来る限り一人一人と向き合う姿勢は持ち続けないといけない。一対多で接すれば、立場が元々教師の側の方が強いのだから、楽には決まっているが、その姿勢を忘れたら、一番大事なことを見落としてしまう。抽象的な羅列になっているが、一対多の中でも可能な限り一対一に持ち込む可能性を追い続けなければいけないと常に自分に言い聞かせ続けるしかない。一年目、二年目辺りに感じたかこの感覚は、その後もずっと心の真ん中あたりに居座り続けた。

 柿の小さな実がたくさん落ちている。150~200個近くありそうである。(↓)去年生ったのが7つ、干し柿に出来たのが6つと大違いだ。隔年の生り年に実際を、まざまざと見せつけられているようだ。樹にはまだ数百個も残っていて、台風や雨風でやられても、百個くらいは残りそうである。一時取り入れるのも洗うのも剥くのもきつく感じられて気持ちも重たかったが、今年は大丈夫そうである。干して少しは保存が可能とはいえ、妻はたくさん食べられないし、一人では食べきれないので、お裾分けするだけだが、好きな人もいるので、送る気持ちは保てそうである。
 次は、担任、か。

つれづれに

 

会議

移転先の新校舎

 新校舎に移転して3学年が揃い、新学期が始まった。各学年10クラス、1クラス45人、総数1350人の規模だった。1クラス55人だった私の高校の時に比べて、1クラス10人が減っていたわけである。3番目に作られた高校にも就職クラスはなかったから、ずいぶんと進学する人が増えていたわけである。ただ、理系の女子は数えるほどでほとんどが文系だった。就職する人も少しいたが、短大への進学が一番多かった。通える範囲内の神戸や西宮には短大がたくさんあった。新任研修から戻って職員室に入ったとたんに、この先長くなさそう、もって2年かなとは思ったが、授業が始まると毎日がバタバタで、なかなか辞める踏ん切りもつかないまま、月日が経っていった。非常勤の3ヶ月は授業と好きなバスケットの練習に付き合うだけでよかったが、授業、ホームルーム、課外活動の三つが中心の教諭の毎日が始まった、もっとも、いきなり担任を持たせると危険と判断されたようでホームルームはなかったが、代わりに教務の中で、校務の全体をながめることになった。

 新たに加わったのは会議である。と言っても月に一回水曜日にある定例職員会議と英語科の会議くらいだった。職員会議の前に議案を練る校務運営委員会があるのを知ったのはずいぶん後のことである。学校自体に余り関心がなかったからだろう。幸い、出来る教務の人のお陰で、毎月の会議は短くて済んだ。朝晩一便だが、近くの駅と学校を結ぶバスが毎日出ており、それを利用しているので、5時発のバスの時間に合わせて職員会議もそれまでに終わっていたからである。今から思えば、大抵は文書を回せば済むような内容が多かったから、年に数回、入試の合否判定、成績の承認、退学や停学の議決など、どうしても全員の承認が要る項目だけを審議して決を取ればよかったと思う。せいぜい年に数回で済む話である。英語科の会議は必要な時だけだったが、一度だけ大声で怒鳴り返した人が主任だったので、腹を立てることが多かった。退職したあと「あの頃、たまさん、会議が終わって部屋から出て来て、そこらじゅうを蹴りまくっていましたよねえ」と言われたことがあるから、血気盛んだったようである。

ラ・グーマ(小島けい画):

最初の科研費はこの人でもらった→「 科学研究費 1」(2020年)

 科学研究費の最終報告書を書いた。20日が締め切りで、ウェブで報告しないといけないので気が重かったが研究協力課の人の助けを借りて何とか完了した。定年退職後の科研費の申請は書類が面倒で渋っていたが、研究協力課の人任せで書類を出した。個人の場合は最高500万でその7掛け程度が交付される場合が多いのだが、申請額などを決めてもらって効果てきめん、4年で400万を超えたのは初めてである。応募枠は文学。人件費と旅費が大半で、運営交付金が削られて、削られて、今や研究費が雀の涙ほどだったので大いに助かった。ただ、最後の2年間はコロナ騒動で移動が出来ずに旅費を使えなかった。授業は去年の4月からやっていないが、この3月まで科研費が残っていたので、研究室にはときたま出かけていた。今は研究室がずいぶんと遠くなった。学術振興会から修正依頼が来なければ、一件落着のようである。名古屋の医療専門職大学に内定していたので、あと2回ほど、エイズの小説と奴隷体験記を軸に科研費が取れると思っていたが、忖度政治のあおりを受けて風向きが変わり、機会は来ないかも知れない。戦争の時ほどではないが、いつも国の決定に右往左往である。国家公務員とはそういうものだろう。書類を書くのも、ウェブで申請するのも、しなくて済むのが何より有難い。この先、売れると出版社が判断するかどうかだが、書き溜めておくモードに入っているので、授業も、科研費の申請も億劫になって来ている。こちらも、先行きが極めて不透明である。

修士論文はこの人(小島けい画)で書いた→
“Richard Wright and His World”

 次は、教室で、か。

つれづれに

懇親会

移転先の新校舎

 間借りの木造校舎からコンクリートの新校舎に移転して、新学期が始まった。前回の写真(↓)は新任研修を終わって初めて「出勤」した日に、職員全体で取ったものである。面倒臭いので、新任研修の続きでスーツを着て行ったが、写真を撮るとは思わなかった。大勢の人たちである。一番前に並んでいるのが年寄り組で、新設の場合、呼ばれたか、便乗して転勤して来たかのどちらかだった。呼ばれたのは、前回書いた教務の人と、生徒指導の人くらいなものである。校長と教頭とその二人が中心になって、最低限のメンバーを連れて来たという感じだった。私は校長が連れて来た一人、新任研修にいっしょに行った人は教頭が連れて来た一人というわけか。他は便乗組で、質(たち)が悪い。可能なら関わりたくない人たちだった。なるべく近くに来て欲しくなかった。英語科の人は、中堅の二人以外は便乗組で、この人、授業大丈夫なんやろかと心配になる人もいた。

 たぶんその週に、さっそく懇親会があった。元々酒を無理強いされるのも嫌だったし、有象無象の人たちに色々聞かれるのも鬱陶しかった。校長室で髭の話をしたとき、懇親会についても話が出ていた。

 「懇親会、鬱陶しいですね。人が集まるのがどうも苦手で」
 「そうか。あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」
 「そうですよねえ」

 だから、もちろん懇親会には行かなかった。関わりたくないと思える人が多そうだったし、懇親する必要性が感じられなかったからである、というより、なんで好き好んでいっしょに酒を飲んで話せなあかんねん、と思っただけである。
 懇親会の次の日、同じ列の一番南側に構えている教頭が「玉田クン、玉田くん、ちょっと」と大声を出して、手招きして呼んだ。私から話すことはないので行きたくなかったが、仕方なく席まで行った。

 「玉田クン、懇親会、どうしてたん?」
 「懇親会、行きませんけど」

 会話はそれだけだった。たぶん、懇親会になぜ来なかったのかを確かめて、次からは来るように促すのが自分の役目だと信じて疑わなかったんだろう。そんな態度が見え見えだった。次の言葉を言われていたら「あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」て言われてますけど、と言うつもりだったが、その時は言わずに済んだ。これで収まるわけがない。尾を引きそうな悪い予感がした。一度爆発してもろに感情をぶつけられ、職員室の端から端までにじり寄られながら怒鳴られ続けたことがある。ほとんどの教員が自分の席に座っていた。→「ロシア語」(4月5日)の授業の時と同じで、相手が怒鳴って来た時にぷいと黒板の方を見つめたからである。意思表示のつもりだったが、日頃溜まっていたものが一気に噴き出したんだろう。溜めるのは体によくはない。そんなこともあったが、全般には、校長と教務の人に守られていたお陰で、髭を剃れとも言われず、懇親会も強要されずに済んだ。
 教務の人は校長が直々に連れて来ただけのことはある、数学科は実力のある中堅どころを集めていた。全員が同窓生で、広島大の卒業生で作る「尚志会」の会員が大半だった。本人は、後に教頭試験を受けに行ったあと「ワシ、辞めるで。あんなんやっとれるか」と言って、早々に管理職のコースから降りてしまったが、他の「尚志会」の人たちは堪(こら)えてその後無事管理職になったようである。
 英語科は便乗組が多くて大いに問題ありだったが、こちらに火の粉が飛んで来ないかぎり、自分のことさえやっていれば気にならなかった。ただ、同窓の意識を持ち出し先輩風を吹かせる年寄りが、ときたま出しゃばって踏み込んで来るので、鬱陶しかった。出来るだけ避(よ)ける努力はしたが、一度だけ、みんなのいる職員室で怒鳴り返したことがある。言うことを聞かない「後輩」が癇にさわったに違いない。

 「お前、後輩のくせに生意気な」
 「あんた、先輩言うんやったら、ずるせんとちゃんとやらんかい」

 播州弁は果てしなく口穢い言葉である。出来れば使いたく、ない。

 新校舎の完成した年に出された「校舎竣工記念誌」(↑)で、全員書くよう教員にも原稿依頼があり、「生きゆけるかしら」を書いて出した。ホームページとブログに載せてある一番目の「(印刷物として)書いたもの」(→「書いたもの一覧」)である。
 次は、会議、か。

つれづれに

 

新任研修

姫路西高

 慌ただしい冬だった。秋に→「教育実習」(5月4日)の時の教頭と→「街でばったり」(5月13日)と出逢い、校長をしていた新設高校に誘われた。年末にはその人から産休の人の代わりをするように頼まれて→「3ケ月早めに」(5月14日)高校の教員になり、→「初めての授業」(5月15日)も終え、課外活動で、バスケットボールの女子チームの県大会にも参加した。定期試験も2度あったし、初めて入学試験の採点もやった。丸々1学期を経験したわけである。
 そのあと新任研修があり、4月1日に採用試験のあった姫路西高に出かけた。行きたくなかったが、新採用の教師の仕事の一部だったようで、嫌々参加した。なぜか前日に買った安物のスーツを着て、ついでに散髪もして行った。ただ、一枚刈りのつるつる頭だったので、少し目立ったかも知れない。

 新任研修には同じ夜間課程で知り合いになり、同じ新設校に行くことになった人と駅前で(↓)待ち合わせをした。180センチほどあって、スーツを着ていた。前の日にも会って別れたばかりだったが、先に待っていたその人の近くに行き、胸元まで近づいたが最初は全く反応しなかった。それから、一瞬、ぎゃと声を上げて、大声で笑い始めた、しばらく興奮冷めやらぬ様子で、笑い続けていた。その人とは電車が同じなので否応なしに駅で顔を合わせていたが、挨拶を交わす程度だった。当たり障りのない対応をする人で、本人が訪ねて来ていなかったら、話もしてなかったと思う。ある日家に来て、採用試験を受けたいが何をしたらいいでしょうかと聞かれた。その年に4年間で卒業予定で、浪人と留年4年の私より4歳下だった。母子家庭で独身の兄と三人暮らし、高校は隣の県立高校の商業科で、卒業後財務関係の県の出先機関に勤めていると言っていた。似非夜間学生の私とは大違いで、正規の公務員だったようである。その人にとっては私はその地区で一番の進学校の卒業生で、まさか受験勉強をせずに大学に入り英語もしないで英米学科を卒業したとは思わなかっただろう。採用試験の準備の真っ最中だったし、教えるように頼まれて断る理由もないので、やっていることについて話はした。役に立ったのかどうかは知らないが、採用試験には合格したらしい。それでもいっしょの高校になるとは思ってもいなかった。当時担任だった人が新設校の教頭になり、その人の勧めで採用が決まったと教えてくれた。

 大学に入ってしばらくしてから髭が伸び始め、剃らないでそのままにしていたのだが、散髪屋に行くのが嫌だったので、一年に一度、髪と髭が伸びた頃に自分でバリカンで刈るようになっていた。一枚刈りである。普段の→「髭と下駄」の風体がたまたま全共闘の人たちと似ていたために警官に目の敵にされているうちに、自分の中に潜む「反体制」の自己意識に気づいてしまっていたらしい。→「面接」(5月9日)では髭を剃るかどうかを迷ったが、丸刈りの時期と合っていれば、変に悩まずに済んでいたかも知れない。つるつる頭は好まれそうとは思いもしなかった。4月1日はたまたま丸刈りにする時期だったのである。

「県大会」(5月16日)の時の集合写真→(直後に)つるつる頭(↑)

 何日かの新任研修のあと、新校舎での新採用一年目の日々が始まった。新任研修で着たスーツは、その後、何回かしか着ていない。普段は、学生の時のように髭に下駄履きの風体に戻っていた。
 次回は、新採用一年目、か。