つれづれに

 

初めての授業

曽山寺浜の橋の上から見る雨に煙る山側

 思いがけず3ケ月早く授業をすることになった。緊張して前の夜は寝にくかった、初めての授業でうまくしゃべれなかった、などは一切なく、百年も授業をしてきたみたいな顔で授業をしたように思う。3年間嫌々授業を受け、教育実習でも散々な思いをしたが、人からあれこれ言われないのが何よりだった、ような気がする。産休に入る人からはよろしくお願いしますと言われただけだったし、校長も何も言わなかったし、英語科の人ともほとんどしゃべらなかった。4月から新採用という立場も、微妙に作用していた可能性もある。それと、後で聞いてわかったことだが、あまり生徒受けがよくなかった人の代わりだったというのもあったかも知れない。
家でも学校でも疎外感を感じ、敗戦や急なアメリカ化への反発が強く受験勉強には馴染めなかったが、購読や英文法が嫌いというわけでもなかった。普通科1年生の教科書は易しいし、量も多くない。家庭教師を頼まれて、複数の高校生や中学生にも高校のテキストを使っていたから、生徒で授業を受けていた時以来というわけでもなかった。採用試験を受けて感触を確かめ(→「教員採用試験」、5月2日))、1年後の教員試験用に購読(→「購読」、5月5日)と英作文(→「英作文2」、5月7日)、院試用に言語学と文学史(→「大学院入試」、5月10日)の準備もしたので、当面の授業には困らなくて済みそうな感触はあった。
定期試験の問題を作って採点もし、入試の手伝いもした感想は、自分のことを棚に上げてという気もするが、英語が受験の主要教科の割には、全般に出来ない人が多いんやなあ、だった。ただ、小、中、高は同じテキストを使うので教師が工夫する範囲が限られている感じがして、きっと高校の教員は長くは続かないだろうなという予感はした。それに、生きても30くらいまでという感覚はずっと引き摺っていたし、この先どうなるかは全くわからなかった。
一つだけ予想していなかった展開があった。授業に行っている生徒が二人が頻繁に職員室に質問にやって来た。どちらもその学校の中では英語が一番出来る部類の生徒で、ほんの僅かな休み時間ごとによく来れるもんやなという感じがした。教師のところに質問に行くということ自体考えたこともしなかったので、尚更だった。しかし、二人は4月から非常勤でなくなったあとも、よく職員室に来た。卒業したあとも関係は続いた。その後、大学でも同じような展開になるとは、その時は思いもしなかった。
次は、県大会、か。

きのうに続いて今のとろこ雨が降っていないので、地面がさらに乾いてくれそうである。一昨日は一日じゅうの雨で、午後からはかなり荒れるという予報が出ていたが、風もなく雨だけでほんとうに助かった。それまで一年半の間マッサージに通う金曜日には一日も雨の日がなかったが、昨日は2回続きの雨だった。たまに降るなら雨の風情も悪くないと思うが(↓)、長雨が続くと、じめじめとして気が滅入る。雨風の前には、無力である。

曽山寺浜の橋の上から見る雨に煙る海側、幽かに青島が見える

つれづれに

 

3ケ月早めに

 長く続く雨の日が少し途切れた。地面も少しは乾いてくれそうで有難い。気持ちも軽くなる。旧暦では今年は20日まで立夏の時期で、畑はすでに夏野菜の世界である。胡瓜も花をつけ、蔓が伸びて勢いが出始めて来た。(↓)実が生りだすと、二人では食べきれない。お裾分けの心配が出来るのは有難い限りである。オクラも茄子もピーマンも、そろそろ花が咲き出す。今年は、とまとの出来が気になりそうである。

花が咲き始めた胡瓜、次々に実がなりそうである

 産前休暇を取る人の代わりだったが、3ケ月早めに高校の教員になった。卒業していたから経験した思わぬ展開である。土曜日の午前中もまだ授業があった頃で、その女性は1コマ50分の授業を週に15コマ、一日に3コマ弱、一年生の購読と英文法を担当していた。

 高校では授業とホームルーム運営と課外活動が中心らしいが、産休の代わりの非常勤教諭だったので、授業だけだった。煩わしい職員会議や他の会議にも出る必要がないのが何よりだった。

 2年前に出来たばかりの新設高で、4月に新校舎に移転するまで、空いていた近くの県立高校の旧校舎を使っていたようである。全国的に学校の校舎を順次建て替えていた時期で、それまでの2階建ての木造校舎が消えて、同じ様式の4階建てのコンクリート校舎が増えていた。私が高校に入学した時はすでにコンクリートの建物だったと思うが、在学中に木造の講堂が体育館に建て替えられた。講堂は式や集会や体育館にも使われていた。実際にも暗かったが、整列させられて話を聞かされたうえ、冬の寒い時期に朝早くから無理やり裸足で剣道を強いられたので、余計に暗いイメージが付き纏う。前時代を象徴するような遺物に思えた。大学では下駄を履いて学舎の廊下を大きな音を立てながら歩いたりしていたが、木造校舎にはコンクリート製にはないぬくもりがあったような気がする。(→「髭と下駄」、4月19日)宮崎に来た春先に、秋から農学部で非常勤を頼まれていたので、お世話になる英語科の人に会うために教育学部に行ったが、まだ木造校舎だった。そのあとすぐに、コンクリート7階建ての校舎のある今のキャンパスに移転した。

 間借りをしていた校舎と移転予定の新校舎は、私が通った高校の両隣の町にあって、少し距離があった。当時住んでいた家は二つの学校のちょうど真ん中にあって、どちらへも自転車で一時間弱の距離にあった。当時はその辺り一帯が同じ校区で、その学区の生徒はその新設高校にも進学が出来た。すでに県立高校があったので、3番目の普通高校が出来たわけである。人口増に合わせて作られたようで、今はもう1校が加わって、隣の市にある県立高と合わせて普通科5校から選ぶことが出来る。山陽本線の複々線が切れる西明石より西は神戸や大阪に通勤が可能な地域で、ずいぶんと家が建った。小学校の時に引っ越しした時には、裏は堤防まで空き地だったが、結婚して家を出る頃には家が建って、空き地がほとんど消えていた。(→「牛乳配達」、3月30日、→「引っ越しのあと」、4月1日)

近くの川の河川敷

 2学年各6クラスと木造校舎、こじんまりとしてなななかの出だしだった。最初の日に、菓子折りを持って、用務員さんの部屋を訪ねた。
 次回は、初めての授業、か。

つれづれに

街でばったり

 阿蘇から戻ってしばらく経ったころ、街でばったりある人に会った。教育実習の時の教頭である。2週間の教育実習では、担当の元担任からは一週間授業を見ておくように言われ、その後教案も含めて散散嫌な思いをさせられたあと、最後に教頭の強烈な2時間の説教があった。締め括りに少しでも意思表示はしておかないと気が済まなかったし、元々説教されるのは大嫌いで、その時説教をされる謂れもなかったので、一番前に座り顔の真下から、2時間のあいだじっと睨みつけた。(→「教育実習」、5月4日)もう会うこともない、と思っていたが、ある日、ばったりと出逢ってしまったのである。列車から降りて駅前通り(↑)を歩いている時だった。高校は歩いて15分ほどの位置にあり、相手は駅に向かって歩いて来ていたようだ。普段は、知っている人を遠くで見かけると必ず避(よ)ける工夫をするのだが、その時は、まさに真正面からばったりで、避(よ)ける暇がなかった。

「あんた、いまどうしてるねん?」

「今ですか?歩いてますけど。」

「そやないやろ、これからどうすんねん?」

「大学院と高校の採用試験を受けて、採用試験は通ってますけど」

「わし今、校長してんねん。出来たばかりの新設やけど、うち、来(き)ぃ。ええか?ほな、また」

「はあ」

そんな会話だった。顔は覚えてくれていたらしい。咄嗟のことで、「?」と思ったが、どうやら面接だったようである。ちょうど来年度の新採用の教員を探しているところに、たまたま私が視界に飛び込んで来たということだろう。実習で「面倒見た学生」やし、同じ「同窓会」やし、というところだったのか。

12月に入ったある日、その人から電話がかかってきた。

「ひとり英語で産休に入る人がいるんで、あんた、代わりに来てくれるか?」

「産休の代わり、ですか?」

「そや、大丈夫?頼めるか?」

「大丈夫、ですけど」

「頼んだで。ほな」

その人の頭の中では、すでに新年度に採用する教員の一人だったようである。履歴書を見たら既卒になっていたから、産休の代用が可能、そう判断して電話がかかって来たということだろう。一月から産休の人の代わりに、三か月早く高校に行くことになった。

高校のホームページから

 長雨の前に、苦戦して組み立てていたとまとの柵に屋根の部分に透明のビニールシートかぶせ、周りは色付きのシートで囲み、虫よけの網を何とかかぶせた。台風が来ると丸ごと吹き飛ばされてしまう可能性が高いので、杭で補強しとこうと思う。買って来た十本ほどの苗と種からの苗がどれくらい実をつけるか。去年間に合わせの覆いを被せて十数個の実がなったが、温室栽培ではない味がするねと妻が言っていた。今年は、露地の実がどれくらい生るんだろうか。

とまとの柵のつもりが雨よけのミニ温室になってしまった

 次回は、3ケ月早めに、か。

つれづれに

 

生野峠

生野峠

 →「阿蘇に自転車で」(5月11日)行く前の夏に、自転車で生野峠を越えた。→「関門海峡」(4月26日)まで行って以来、長距離は2度目だった。八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えようと思いつき、寝袋を積んで、自転車で出かけた。ついでなので、鳥取砂丘に行き、北部の海岸線を回って来るか、そんな感じだった。他にも、二月初めの一番寒い時期に宇高フェリーで四国に渡り、室戸岬を回って足摺岬まで、どの時期でもいいが日本海側を北上して北海道まで、と考えていたが、どちらにも行けなかった。片道一時間余りが限界の今の体力では、実現の可能性はない。

生野峠周辺の山々

 朝早く家を出て姫路の手前辺りで北に向かい、福崎町を過ぎて生野峠まで一度も降りないで、一気に自転車をこいだ。その時点で、八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えるという今回の目的は達成された。

辛夷と播但線

 中国山脈のど真ん中、周囲はもちろん山々である。辛夷(こぶし)の花(↑)が咲いていた。姫路からは播但線(↑)が走っていて、福崎、和田山(↓)の地名は何度か見かけたことがあった。

 生野は銀山でも有名である。平安時代初期に開坑、16世紀半ばに石見銀山からの技術導入で本格的な採掘が始まったらしい。信長、秀吉、家康は直轄地にして、佐渡の金山、石見の銀山とともに重要な財源としたようだ。江戸時代中期に銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。明治に入ってから政府が直轄して近代化が進められたが、資源の減少と採掘コストが増加して1973年に閉山、今は史跡になっている。以前南アフリカ関連で金鉱が見たくなって、鹿児島県の串木野ゴールドパークに行ったことがあるが、生野でも観光用に坑道を見せてくれるようだ。閉山後は三菱鉱業(現・三菱マテリアル)が銀山周辺で事業を展開しているらしい。その時、銀山の跡地(↓)を見たのか、標示だけを見たのかははっきりしないが、自転車の上で銀山を意識していたのは覚えている。

 生野峠を越えたあと、すぐ北の和田山から北西の方角に進んで、鳥取県に入り、砂丘に着いた。夕方近くになっていたと思う。砂丘に入って、寝袋を広げて寝た。海の近くなので蚊はいないと思っていたが、夜中じゅう蚊の音に悩まされた。もっと海の近くで寝ればよかったが、入り口からそう遠くない場所で寝たように思う。砂丘なのでずーっと向こうまで砂の海、を想像していたが、周辺には草も生えていたし、人の出入りも結構あるようで、勝手に想像していたイメージとはずいぶんと違っていた。

 翌日は海岸線を行きながら、途中の諸寄、浜坂、香住では港に立ち寄り、海岸線では時折自転車を停めて、お茶を飲んだ。

香住海岸

 その後、竹野海岸から城崎に入った。兵庫県は南北に結構広い土地なので、南部に住んでいると普段は日本海側のことを考えることはない。香住や浜坂くらいしか名前も知らなかった。北部のこの辺りの海岸沿いの道も、思いのほか起伏が激しかった。地図ではわからないが、想像以上に急な坂が続いていた。体力があったのだろう。今回はぐっと踏ん張れるように下駄を履いていたので、意地でも降りるものかと、大声を出しながら立ってこぎ続けた。今から思うと、どうしてそんなに向きになってこぎ続けたのか。そのあと城崎に入ったが、温泉街だったのに好きな温泉にも浸からないまま通り過ぎたように思う。

城崎温泉街

 そこからは豊岡、そばで有名な出石城下、和田山経由で戻って来た、ようである。今回、行ったと思われる所を辿りながら、あれこれウェブで画像や地図を探してみた。ずいぶんと前のことなので記憶は極めて曖昧だが、一番暑い時期に生野峠を越えた、砂丘で蚊に悩まされた、海岸線の坂がきつかった、という感覚だけは今も残っている。

出石城下

 次回は、街でばったり、か。