つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合1

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 今回は、反体制ーグギさんの場合である。
新聞で韓国の詩人金芝河(きむじは)さんの訃報を読み、グギさんの評論の中に引用されていた詩を日本語訳した縁で、金芝河さんに関する「つれづれに」を5回書いた。(「金芝河さん」→「1」、→「2」、→「3」、→「4」、→「5」、5月26日~29日)学生運動の過激派の風貌にたまたま似ていたせいで警官にしつこく職務質問されているうちに(→「髭と下駄」、4月19日)、自分の中にある反体制の意識に気づいたのだが、この前の科学研究費のテーマ「アングロ・サクソンの侵略の系譜」(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」、2022年3月)はまさに反体制そのものだった。この五百年に渡って欧米中心の自称「先進国」がいかに好き勝手やって来たか、というテーマがよくもその「先進国」の一員である国の日本学術振興会に選ばれて予算が交付されたもんやと感心したほどである。修士論文(→“Richard Wright and His World”、1982)に選んだアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(↓、→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月)も、→「MLA」、2020年2月)で発表する作家に選んだ南アフリカのアレックス・ラ・グーマ(→「闘争家として、作家として」、→「拘禁されて」、→「祖国を離れて」、1987)も、出版社の社長さんから評論の日本語訳を頼まれたグギさんもすべて反体制の作家である。金芝河さんが1974年に死刑宣告を受けたのも、体制側朴正熙軍事政権にとって詩人としての影響力の強い金芝河さんが脅威だったからである。訃報を読んで金芝河さんについて書いた時に、この機に、反体制の題でグギさんとラ・グーマとライトについてまとめておこうと考えた。先ずは、『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳をしたグギさんからである。

リチャード・ライト(小島けい画)

 ロンドンを拠点にジェームズ・グギの名前で作品を書いてる限りは「ナイロビ大学教授、世界的に著名な作家」のままで居られたが、ある時点から体制の脅威となり、投獄され死を覚悟して、亡命の道を選んだ。何が体制の脅威になったのか。それは母国語のギクユ語で描き始めたことと、グギさんの感化を受けて大衆が自らの意思で動き始めたからである。『作家、その政治とのかかわり』の中に、その手掛かりがある。序で概要が書かれ、作品や文化活動を通して得た成果、特に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている。今回は序の私の日本語訳を紹介し、次回に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳を紹介したい。作品は一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)で、1ー文学と社会、2ー学校での文学、3-ケニア人の文化―生きのびるための国民的な闘い、4ーある戯曲に架けられた「手錠」、5-原点に立ち戻って、あとがきー文化に関して、二部(作家、その政治とのかかわり)では、6-作家、その政治とのかかわり、7ーJ・M―ある作家への献辞、8-再生―マウマウ、解き放たれて、9-慈愛の花びらと項目分けしている。「序」の私の日本語訳である。

グギさん

 「本書に収められた評論は一九七◯年から一九八◯年の間に書かれたもので、七十年代の私の心を支配していた「人生にとっての文学の妥当性とは何か?」に要約されるいくつかの問題を示しています。文学の妥当性を求めていた私は、文化と教育の問題から言語や文学や政治に及ぶたくさんのイデオロギー論争に巻き込まれました。そのお蔭で、ナイロビ大学(↓)での文学部との深い関わりや文学部主催の多くの活発な討論や活動から、リムルの農民や労働者の文化活動まで、同じように深くかかわるようになりました。

 私にとっては、変化に富んだ恐るべき十年でした。最終的には、もはや私は一教師ではなく、ケニアの農民と労働者の足元で一人の生徒になっていました。その結果が、民衆に根ざし、国を思い、伝統を持つ文学や国民的文化に再び自分自身がかかわるための、アフリカ系サクソン文学からの私の新しい旅立ちとなりました。こういった変化が、この十年に書いた私の作品の中に反映されています。七十年代の初めに、すでに私は英語で『炎の花びら』を書き始めていましたが、七十年代の終わりにはギクユ語で『サイタアニ・ムサラバイニ(十字架の悪魔)』を書き終えていました。演劇の分野では、ミシェレ・ゲタエ・ムゴと英語で書いた『デダン・キマジの裁判』と、グギ・ワ・ミリイと一緒にギクユ語で書いた『ンガアヒカ・デーンダ(結婚?私の勝手よ)』の脚本をこの時期に生み出しました。また、ナイロビ大学の教員生活から奈落のカマタ最高治安刑務所の牢獄に放りこまれたのもこの時期です。

『炎の花びら』

 ケニアの学校の教材として相応しい文学の検討、文学と社会に関する連続公開講座、無料移動劇場の年次企画を通じての民衆主体の取り組み、という文学部の三大企画の妥当性を探っていた私の気持ちに刺激を与えてくれました。
従って、例えば文学と社会に関する論文は、ケニアの学校での文学教育に関して、一九七三年にナイロビ学校で行なわれた文学部主催の文学会議に出席した教師のために書きました。「作家、その政治とのかかわり」についての論文は、文学部企画の公開講座で読みました。そして、大半が言語と演劇の問題で占められているのは、帝国主義に組する文化と、国を大切に思うケニアの国民文化との間の大きなイデオロギーの闘いが、特に劇場で烈しく繰り広げられたという理由に過ぎません。
このイデオロギーの闘いは、J・M・カリユキが暗殺されたり、国会議員、労働者、作家、学生、国を思う知識人がそれぞれ拘禁されたり投獄されたりした七十年代のケニヤの高まる闘争を順に反映しています。J・Mとその著書『マウマウ、抑留された人々』に関する二つの評論は、台頭するケニアの右翼政治勢力の抱く不安を示しています。本書の評論が、これからも続く国を大切に思う国民文化の闘いに少しでも役に立てば、というのが私の願いです。その闘いは、帝国主義者の利益を反映する外国主体の文化の攻勢に抵抗するケニアの国益を映し出しています。

 しかしながら、アフリカやアジア、ラテン・アメリカなど、世界で起こっている事態と切り離してケニアの闘いを見てはなりません。経済や政治や文化の外国支配に反対するケニア人の闘いは、第三世界やその他の地域で争われている闘いと同種のものです。ですから、私たちを結ぶ絆を示すために、韓国とアメリカに関する評論を何編か収めています。
私たちの毎日の生活を形成する階級の権力構造と文学が無縁ではいられませんから、私はこの本に『作家、その政治とのかかわり』という題をつけました。そこでは、作家に選択の余地は残されていません。その作家が意識しているかいないかにかかわらず、多かれ少なかれその作品は、経済、政治、文化、イデオロギーの激しい闘争の局面を照らし出しています。作家に選べるのは、民衆(↓)の側なのか、民衆を抑圧し続けようとする社会権力や階級の側なのか、戦場ではどちらかの側かしかないのです。その作家が男性であれ、女性であれ、中立に留まることだけは出来ません。作家である限り、政治とのかかわりを持たずにはいられないのです。問題は、どんな政治なのか、誰の政治なのかということです。グギ・ワ・ジオンゴ ケニア リムル村ギトゴオジにて。」

農園では働く人々

 次回は、反体制ーグギさんの場合2、母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳の紹介、か。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ホームルーム2

 修学旅行を予定していたが、その前に、ホームルーム2(→「ホームルーム」、5月24日)を挟み、2年目と3年目に担任したクラスについて書くことにした。二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。学年の方針で関学に10人を入れるために英語でクラス分けをして、上位の2クラスのうちの一つの担任になった。(→「学年の方針」、5月23日)文系と理系に分けるのは3年次からで、文系と理系が入り混じったクラスだった。入学時の英語の成績でクラス分けしたが、一年で半分くらいが入れ代わっていた。一年目に偶数クラスを持って英語の力は大体把握していたので、予想通りで納得のいく顔ぶれだった。最初の会議で「自分が受験勉強もしてないのに、英語でクラス分けしてがんがんと言われても」と反対したが、優等生の集団は受験勉強をしなかったこと自体を信じようともせずに、ことを進めてしまった。多勢に無勢、気付けば、きっちりと押し切られてしまっていた。しかし、現実には何が起きるかわからないものである。一年目のホームルームは可もなく不可もなくだったが、二年目はなんと、リーダーシップを取れる人がいるとこんなにも違うんやと教えてもらった。その男子生徒は出来れば人前を避けたいと思っている風だったが、渋々ながらリーダー役を引き受けて、ホームルームも仕切ってくれた。少し裏事情もある。1年の時にすでにワルで一目置かれていた生徒が、そのリーダー役となぜか気があってしまったうえ、リーダー役の仲良し5人組と、女子の仲良し5人組が仲良くなってしまったのである。編入生も私の判断でクラスに入れた。神戸から来た最初の編入生だったこともあり、編入試験の時は大丈夫やろかと心配していた人たちもいたが、最初の模擬試験では2番、学籍番号の近かった素直な生徒とすぐに仲良しになり、クラスにもすんなり溶け込んでしまった。3年でも担任をして卒業したあと、たままたま神戸のデパートで会った時は、久しぶりでよほど嬉しかったのか、たまさ~んと大声を出しながら抱きついて来た。母親もいっしょだったので、どうしたらいいものかと、困ってしまった。不安だった編入時もその後の2年間も、楽しく過ごせたようである。
ワルで一目置かれていた生徒は二つ年上で、訳ありのようだった。関西に静岡県の浜松からきたこともあり、年齢も言葉遣いも違うし、髪型がいかにもワル風で、剃り込みもあった。他の学校の生徒と暴力沙汰を起こして停学になっていた生徒も黙って従っていたようで、担任をはじめ、教師も当たらず触らずという感じだった。私は弟もワルのリーダーにさせられていたらしいし、やくざの子弟とも遊んだりしていたので、エネルギーの行き先さえ間違えなければ大丈夫という変な自信もあった。すんなり仲良くなった。廊下を歩いている時に、何人かで廊下の壁を背にいわゆる「便所座り」をしている中にその生徒がいたので「こう座ったら楽なんか?」と言いながら、横に「便所座り」で並んで、しばらく話し込んだことがある。普段はトレパン(当時出回っていた体操時間に使う白のトレーニングパンツ)にTシャツを着て、スリッパを履いていたので、廊下に座っても支障はなかった。何人もの生徒がもの珍しそうに眺めて通り過ぎていた。「ええ、まあ」と少し照れ笑いを浮かべていた。訳ありの中には、継母との軋轢や父親への反感、教師との揉め事も含まれているようだった。大人との摩擦で出来た心の傷が、すぐに和らぐはずもない。それに、30までそう時間もなかったし、本当は人より自分の方が心配なくらいだった。(文芸部員に頼まれて書いた→「露とくとく」、「黄昏」6号、1978年)

 教師とクラスを教師からみた「一対多」で捉えてしまうと気づかないままだが、一人一人を個別に見ると、実に多彩である。私は気づいてもらえなかったようだが、新しいクラスに男子で二人、女子で二人も集団に馴染み難そうな生徒がいた。私が気づいていることを本人が自覚していたかどうかはわからないが、最初から何となくぴんと来たが、じっくりと見るうちに、やっぱりそうやったと合点がいった。クラス全体にはあまり干渉したくなかったので、座席も自分たちで決めやと言っていたが、年休明けに来て見ると座席表が出来ていた。どうも学年付きの補佐の人が代わりにホームルームの時間に行って、決めてくれたようだった。聞いてみると、その人の意向で決めたらしい。自分たちで決めやと言っていたし、納得も行かなかったので、その人に断ってみんなに決め直してもらった。好きな所に座ってええんちゃうと言ったときは、集団に馴染めない男子二人が向き合って座っていた。一人は背中を向けていたが、授業中にしゃべるわけでもないので、お前らようやるなあ、と言ったきりでそのまま授業を続けた。しばらくして飽きたのか、いつの間にか元に戻っていた。その続きがあった。ある女子生徒が「政経の人、教室に入って来るなり、お前らこのごろ机がまっすぐに並んでないな、と言って、机を並べ直させんねんよ、たまさん」と立って文句を言っていた。机はまっすぐに並んでないと気が済まない人が、教師には多いようである。
何人かは本人に確かめて、3年でもクラスに入ってもらった。ただのお節介である。卒業の時の一言が「やまびこ」(↓)という文集の中にあって、今も手元にある。

 リーダー「嫌んなった。もぉーだめさぁー。だけど腐んのはやめとこおー。日の目を見るかもこの俺だって。もひとつ気張ってイイ娘を見つけに出かけよお。なんとかしてくれ。神様。仏様。どうも、どうも。」
ワル「もうすぐだ……。もうすぐだ……。見たまえ、はや僕らの頭の上を、春の燕が飛んで行く!!僕を卒業まで、めんどうみてくれた玉田吉行君に”アメリカン”とともに乾杯。どうも、どうも。」
集団に馴染めない男子生徒1「吹けよ風、呼べよ嵐」
集団に馴染めない男子生徒2「It’s up to you if you give it a try or not, but how come you don’t dream to make for through it and have it made? It’s you’re never scared or hurt or embarrassed, it means you’re never taking chances. – Heart of Hearts」
集団に馴染めない女子生徒1「くそったれ!うっとうしい!なんという無責任な教師だろう。やっと別れられてせいせいするわ うう……」
集団に馴染めない女子生徒2「やさしくすばらしい先生方と、思いやりのあるステキなお友達に囲まれて、ホントにもうバラ色の高校生活でありました。涙…涙の卒業です。あ~しょっぱい!」
デパートで会った女子生徒「三年間の思い出ベスト3……1転校を経験(初めは辛かったけど、いい経験になった)2楽しかった修学旅行(先生、消燈時間守らなくてゴメンナサイ)3彼ができた(現在は一人身、恋人募集中!)
冊子の日付が1980年だから、40年以上の歳月が流れたわけである。次回は、修学旅行、か。
<追伸>私の一言は「・・・ 美しさ 哀しさまでも 遠くなり   我鬼子 ・・・」(我鬼子は、芥川さんの我鬼を借用して当時使っていた雅号)

移転先の新校舎

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修学旅行

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫ときどき馬~」6月

 今日から6月(↑)である。6日の芒種まであとわずか、一年で一番過ごし易い小満の時期を大切にしたい。とまとの柵は二つ完了、いるだけでひりひりする陽射しの時期が間もなくやって来る前に、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)用のジャングルジム風の柵が終わればいいのだが。 →「ホームルーム」(5月24日)を運営する、それ自体が教師の思いこみである。考えてみれば、自分がホームルームに参加したいと思ったこともないし、必要性を感じたこともないのに、教師になったとたんに「ホームルームを運営する」など、不自然である。それにするのは生徒である。「二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。」と書いたが、その延長線上に、修学旅行があった。クラスは集団なので、何もしないと動くわけでもない。干渉はしたくなかったが「好きなようにやってや」と言うだけでうまく行くはずもない。人前に出るのは出来ればさけたいと望むリーダーといつもつるんでいる仲良し5人組、学校でも一目置かれている「ワル」(↓)、女子の仲良し五人組、そんな役者が揃い、自分たちの意思で動き始めてこそうまく行くものらしい。すべて、運次第というか。(→「ホームルーム2」、5月31日)

 修学旅行のスタンツをどうするか、放課後決めようや、と何日かかかって決めたらしい。修学旅行の初日の夕食後に各クラスの出し物をやるのがスタンツ、持ち時間は20分らしかった。「現代版”かぐや姫”」(↓)という寸劇をすることに決まったらしい。いろいろごちゃごちゃやって、最後にシンデレラ役が誰かに押されて倒れ、一人が覗き込んで「死んでれら」という落ちをつける、如何にも関西人が考えるパターンだった。それだけ決めるのに、何日もかかり、一応練習もやったらしい。文集を編集したときに初めてお目にかかったが、詳細な台本もあり、文集の中に綴じられて残っている。

 当日、旅館の大広間でスタンツが行われた。私も見物人の一人だったが、クラスのスタンツには担ぎ出された。なぜか聖徳太子役で、一万円札をと書いた紙きれを持たされて、晒しものになった。(↓)

 予め聞かされていた「現代版”かぐや姫”」が無事終わったところまでは予定通りだったが、なぜか乗り始めたリーダーがマイクを離さず(↓)、そのまま、バスの中で歌い続けた「夏のお嬢さん」という曲を手始めに、次から次へとヒットパレードが繰り広げられた。

 予定などそっちのけ、会場も乗りに乗って、2時間もそのロックコンサートは続いた。(↓)誰もが生き生きとしている。クラスだけでなく、学年全体を引っかき回したのである。いやあ、やるもんだ。

 その余韻は、部屋に戻っても続いていた。教員の部屋で寝るのも嫌なので、みんなの部屋に行って誰かのふとんに入れてもらった。楽しそうな時間は延々と続く。夜中に「こらー、はよ寝んか!」と見回りの体育教師の怒鳴り声が聞こえ、何人かが廊下に呼び出されていた。どうやら殴られていたらしい。「たまさん、ばれるとやばいんちゃう?」と誰かが言っていた。「そやな、隠れとこか」次の日、誰からも「どこ行ってたん?」とは聞かれなかったので、誰も気づかなかったのかもしれない。「みんなで飲んでて、気づかなかったんやろか?」
余波はその後も続いた。集団に馴染むのが難しそうな男子生徒の一人が川に入り、なんとみんなの手拍子に乗せられて、梓川を泳いで渡り始めたのである。(↓)夏でも雪渓が残っている地域、氷が解けた水が滔滔とながれている川である。また手拍子に乗せられて、向こう岸から戻って来た。ほんま、ようやるわ。その晩、その生徒はふとんに包まってぶるぶる震えていた。「大丈夫か?」誰かが聞いていた。「第4日 そして、ついに最後の夜をむかえる日 ー上高地 “音もなく流れる梓川”というイメージとは違っていたが、その、山をバックにした静寂さは予想以上のものだ。ちょっと見ただけでもその澄んだ水からその冷たさが伝わってくる。澄んでいて、浅く見えた川が実際にはいってみると腰あたりまであってずぶぬれになってしまった。そのしばれる冷たさはひときわだった。あとで足ががくがくふるえた。」と文集の中で書いていた。

 行った先は信州である。名古屋までは新幹線、あとはバスだった。「バスはただの運送機構でそのバスの中ですごす時間があまりに長いことはつまらないkとおだと考えていたのがくつがえされた。」と「梓川」が旅日記に書いていた通りだった。そして、その余韻は学校に戻ってからも続いた。学年で作る文集の原稿を集めて読んだとき、みんなにも読んでもらいたいと感じた。「クラスの文集を作らへんか?」と提案してみたら、作るかということになって「2-5 信州への旅 ’78」が出来た。B4わら半紙85枚、写真用B4白上質コピー紙5枚、合計180ページの大冊である。ガリ版刷の手書き、原稿集めも組み込んだ特集もすべて自主的に放課後に残って作ってくれ、写真や原稿の最後の編集などは私がやった。バスの車掌さん(↓)が生徒と同じ中学の何年か上で、その人にも原稿を依頼して寄稿してもらっていた。

 その学年が始まる前に結婚をしていたので、妻に47人分の似顔絵を頼んで描いてもらった。一人一人の特徴を捉えて、その人そのままの似顔絵である。バスの車掌さんと隣のクラスの担任の似顔絵まである。
「学級運営」は教師の思い上がり、ホームルームをするのは生徒、そのことをしみじみと教えられた修学旅行だった。次の年にみんなは卒業して、新たに一年生の担任をしたあと、大学院に行ったので、2度目の修学旅行がなかったのは幸いである。
次は、また暫く戻って、反体制ーグギさんの場合、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:顧問

 今日は朝から雨が降っているが、二日間晴れてくれたので、畑も乾いてずいぶんと助かった。二つ目のとまとの柵とブロックを使って畑周りの通路を継続して造っている。畑には溜枡が4つある。長雨でも水が溜まらないように、うまくその溜枡に雨水を流し込めればいいのだが。元は庭だったので、全体の畑用の土が基本的に足りない。少しでも他から土を運ぶ必要がある。たまたま道路に流れ出ている黒土を見つけたので、少し前からせっせと土を運んでいる。土が肥料だと考えれば、補強も大切である。特に霧島の火山灰で出来た田野や清武の黒土は、きめが細かく栄養は満点のようだ。金曜日に胡瓜の初生りを3本(↓)収穫した。細長いタイプとずんぐりむっくりのタイプだ。種からはタイプは見分けがつかない。たくさん花を咲かせているので(↑)、生り始めると二人ではとても食べきれない、またお裾分けの毎日である。

 卒業した年の夏に→「採用試験」(5月8日)、秋に→「面接」(5月9日)と→「大学院入試」(5月10日)を受けたあと、→「街でばったり」(5月13日)教育実習の時の教頭に会い、その人が校長をしていた新設校に誘われた。歳の瀬に校長から電話があり、産休に入る人の代わりを頼まれ、→「3ケ月早めに」(5月14日)→「初めての授業」(5月15日)もやった。放課後、バスケットボール部の練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、顧問みたいにベンチに座り、女子チームの→「県大会」(5月16日)にも同行した。4月に新校舎に移って→「新任研修」(5月17日)を終え、→「新採用一年目」(5月18日)が始まった頃には、そのまま女子のチームの顧問になっていた。最初の職員会議では校長から「新任です」ではなく、「旧職員です」と紹介された。一年目は担任がなく→「ホームルーム」(5月24日)はなかったが、学校全体を見渡せる教務の雑用と、授業、それに課外活動の日々が始まった。非常勤の3ケ月があったせいか、ずいぶんと前からいる古株のような大きな顔をしていたように思う。

校長にばったり出会った駅前通り

 スポーツにどう取り組むか、楽しむためにやるのか勝つためにやるのかは難しい問題である。参加する人の数や年齢などにもよるので、団体競技の場合は尚更難しい。結局5年と3ケ月の間、顧問としてバスケットボールのチームといっしょに色々させてもらったが、最後まで結論が出なかった。それに顧問の立ち位置も曖昧である。法的には顧問の扱いは今も変わっていないと思うが、実際はすべて顧問任せだった。一応全員が顧問を持つことになっていたが、毎日放課後に時間を割いている人は僅かだった。全学共同体制は、無責任体制でもある。もちろん職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない、それが実際の状況だったと思う。だから毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行する人は、あの人熱心やな、と言われていた。授業や担任を持ってのホームルームをしないわけには行かないが、課外活動はしてもしなくてもいい、少なくともしないから責任を問われることはない領域だった。
非常勤の時に練習に混ぜてもらった女子チームが初めて県大会に出て、いっしょに淡路島で一泊した時は楽しかったが、新任で顧問としてかかわるようになってからは、その楽しさの質が変わっていった気がする。チームを優先して勝てるように練習をするのか、部員一人一人にあったように練習メニューを考え、試合に負けても楽しむのか、振り返ると、どうもどっちつかずだった。旧校舎には外のコートしかなかったが、新校舎にはきれいな二面コートがあった。バスケットボールは人気があったので、たくさんの新入生が入部して来た。体育館はバレー、バドミントン、卓球なども使うので、実際には週に3日、男女で一面、それぞれ半面が使えるだけだった。2、3年はそれぞれ10人近くいたし試合も近かったので、新学期は新入生も交えていっしょに練習するのも難しかった。希望に燃えて入って来ても、コートも使えず基礎練習や見学ばかりの毎日は楽しいはずがない。特に、中学校の3年生で試合に出て活躍した人たちには不満の多い時期だったに違いない。一年目は県大会に行った女子のチームの顧問で出発したが、女子チームを見ていた男子からも顧問をせがまれた。生徒からの声が強かったので、前に顧問をしていた人に相談したら、いいですよ、男子もやって下さいということだったが、本当によかったのかどうか、今は心許ない。顧問を奪ってしまったのかも知れない。男子のチームで身長は低かったものの、3人ほど抜群に出来る人が集まった学年は、レベルも高かった。本当にバスケットが好きで、練習したくてしたくてうずうずしていた。そのチームで、スポーツで選手を集めた私学に勝って県代表で近畿大会に行こう、そんな気持ちを選手とともに持って、公式戦も含め年間に100試合近くもやったが、結果は、少し及ばなかった。最高で174センチ。180センチ台が何人かいて、私のコーチのレベルが少し高ければ、分厚い壁も破れていたかもしれないが、過ぎてしまえば何とでも言える。元々、中学、高校、大学でコーチまがいのことをやったてはいたが、勝負師になれないのを誰よりも自分がよく知っていた。
「職務上、対抗試合などで責任が生じる場合など、最低限は関わっていたが、ほとんどが必要以上には関わっていない」状況の中で、「毎日放課後に練習に付き合い、土日に試合に同行」したが、生徒のためだったのか、自己満足のためだったのか。成り行きだったとはいえ、かなりの時間だったので、すべてを諦めたつもりの割には、未練がましく悔いが残る。このままずるずると引き摺りたくない、高校を辞める決心がついたのは、顧問をしたお陰だったかも知れない。
次回は、修学旅行、か。

移転先の新校舎