つれづれに

 

3ケ月早めに

 長く続く雨の日が少し途切れた。地面も少しは乾いてくれそうで有難い。気持ちも軽くなる。旧暦では今年は20日まで立夏の時期で、畑はすでに夏野菜の世界である。胡瓜も花をつけ、蔓が伸びて勢いが出始めて来た。(↓)実が生りだすと、二人では食べきれない。お裾分けの心配が出来るのは有難い限りである。オクラも茄子もピーマンも、そろそろ花が咲き出す。今年は、とまとの出来が気になりそうである。

花が咲き始めた胡瓜、次々に実がなりそうである

 産前休暇を取る人の代わりだったが、3ケ月早めに高校の教員になった。卒業していたから経験した思わぬ展開である。土曜日の午前中もまだ授業があった頃で、その女性は1コマ50分の授業を週に15コマ、一日に3コマ弱、一年生の購読と英文法を担当していた。

 高校では授業とホームルーム運営と課外活動が中心らしいが、産休の代わりの非常勤教諭だったので、授業だけだった。煩わしい職員会議や他の会議にも出る必要がないのが何よりだった。

 2年前に出来たばかりの新設高で、4月に新校舎に移転するまで、空いていた近くの県立高校の旧校舎を使っていたようである。全国的に学校の校舎を順次建て替えていた時期で、それまでの2階建ての木造校舎が消えて、同じ様式の4階建てのコンクリート校舎が増えていた。私が高校に入学した時はすでにコンクリートの建物だったと思うが、在学中に木造の講堂が体育館に建て替えられた。講堂は式や集会や体育館にも使われていた。実際にも暗かったが、整列させられて話を聞かされたうえ、冬の寒い時期に朝早くから無理やり裸足で剣道を強いられたので、余計に暗いイメージが付き纏う。前時代を象徴するような遺物に思えた。大学では下駄を履いて学舎の廊下を大きな音を立てながら歩いたりしていたが、木造校舎にはコンクリート製にはないぬくもりがあったような気がする。(→「髭と下駄」、4月19日)宮崎に来た春先に、秋から農学部で非常勤を頼まれていたので、お世話になる英語科の人に会うために教育学部に行ったが、まだ木造校舎だった。そのあとすぐに、コンクリート7階建ての校舎のある今のキャンパスに移転した。

 間借りをしていた校舎と移転予定の新校舎は、私が通った高校の両隣の町にあって、少し距離があった。当時住んでいた家は二つの学校のちょうど真ん中にあって、どちらへも自転車で一時間弱の距離にあった。当時はその辺り一帯が同じ校区で、その学区の生徒はその新設高校にも進学が出来た。すでに県立高校があったので、3番目の普通高校が出来たわけである。人口増に合わせて作られたようで、今はもう1校が加わって、隣の市にある県立高と合わせて普通科5校から選ぶことが出来る。山陽本線の複々線が切れる西明石より西は神戸や大阪に通勤が可能な地域で、ずいぶんと家が建った。小学校の時に引っ越しした時には、裏は堤防まで空き地だったが、結婚して家を出る頃には家が建って、空き地がほとんど消えていた。(→「牛乳配達」、3月30日、→「引っ越しのあと」、4月1日)

近くの川の河川敷

 2学年各6クラスと木造校舎、こじんまりとしてなななかの出だしだった。最初の日に、菓子折りを持って、用務員さんの部屋を訪ねた。
 次回は、初めての授業、か。

つれづれに

街でばったり

 阿蘇から戻ってしばらく経ったころ、街でばったりある人に会った。教育実習の時の教頭である。2週間の教育実習では、担当の元担任からは一週間授業を見ておくように言われ、その後教案も含めて散散嫌な思いをさせられたあと、最後に教頭の強烈な2時間の説教があった。締め括りに少しでも意思表示はしておかないと気が済まなかったし、元々説教されるのは大嫌いで、その時説教をされる謂れもなかったので、一番前に座り顔の真下から、2時間のあいだじっと睨みつけた。(→「教育実習」、5月4日)もう会うこともない、と思っていたが、ある日、ばったりと出逢ってしまったのである。列車から降りて駅前通り(↑)を歩いている時だった。高校は歩いて15分ほどの位置にあり、相手は駅に向かって歩いて来ていたようだ。普段は、知っている人を遠くで見かけると必ず避(よ)ける工夫をするのだが、その時は、まさに真正面からばったりで、避(よ)ける暇がなかった。

「あんた、いまどうしてるねん?」

「今ですか?歩いてますけど。」

「そやないやろ、これからどうすんねん?」

「大学院と高校の採用試験を受けて、採用試験は通ってますけど」

「わし今、校長してんねん。出来たばかりの新設やけど、うち、来(き)ぃ。ええか?ほな、また」

「はあ」

そんな会話だった。顔は覚えてくれていたらしい。咄嗟のことで、「?」と思ったが、どうやら面接だったようである。ちょうど来年度の新採用の教員を探しているところに、たまたま私が視界に飛び込んで来たということだろう。実習で「面倒見た学生」やし、同じ「同窓会」やし、というところだったのか。

12月に入ったある日、その人から電話がかかってきた。

「ひとり英語で産休に入る人がいるんで、あんた、代わりに来てくれるか?」

「産休の代わり、ですか?」

「そや、大丈夫?頼めるか?」

「大丈夫、ですけど」

「頼んだで。ほな」

その人の頭の中では、すでに新年度に採用する教員の一人だったようである。履歴書を見たら既卒になっていたから、産休の代用が可能、そう判断して電話がかかって来たということだろう。一月から産休の人の代わりに、三か月早く高校に行くことになった。

高校のホームページから

 長雨の前に、苦戦して組み立てていたとまとの柵に屋根の部分に透明のビニールシートかぶせ、周りは色付きのシートで囲み、虫よけの網を何とかかぶせた。台風が来ると丸ごと吹き飛ばされてしまう可能性が高いので、杭で補強しとこうと思う。買って来た十本ほどの苗と種からの苗がどれくらい実をつけるか。去年間に合わせの覆いを被せて十数個の実がなったが、温室栽培ではない味がするねと妻が言っていた。今年は、露地の実がどれくらい生るんだろうか。

とまとの柵のつもりが雨よけのミニ温室になってしまった

 次回は、3ケ月早めに、か。

つれづれに

 

生野峠

生野峠

 →「阿蘇に自転車で」(5月11日)行く前の夏に、自転車で生野峠を越えた。→「関門海峡」(4月26日)まで行って以来、長距離は2度目だった。八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えようと思いつき、寝袋を積んで、自転車で出かけた。ついでなので、鳥取砂丘に行き、北部の海岸線を回って来るか、そんな感じだった。他にも、二月初めの一番寒い時期に宇高フェリーで四国に渡り、室戸岬を回って足摺岬まで、どの時期でもいいが日本海側を北上して北海道まで、と考えていたが、どちらにも行けなかった。片道一時間余りが限界の今の体力では、実現の可能性はない。

生野峠周辺の山々

 朝早く家を出て姫路の手前辺りで北に向かい、福崎町を過ぎて生野峠まで一度も降りないで、一気に自転車をこいだ。その時点で、八月初めの一番暑い時期に生野峠を越えるという今回の目的は達成された。

辛夷と播但線

 中国山脈のど真ん中、周囲はもちろん山々である。辛夷(こぶし)の花(↑)が咲いていた。姫路からは播但線(↑)が走っていて、福崎、和田山(↓)の地名は何度か見かけたことがあった。

 生野は銀山でも有名である。平安時代初期に開坑、16世紀半ばに石見銀山からの技術導入で本格的な採掘が始まったらしい。信長、秀吉、家康は直轄地にして、佐渡の金山、石見の銀山とともに重要な財源としたようだ。江戸時代中期に銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。明治に入ってから政府が直轄して近代化が進められたが、資源の減少と採掘コストが増加して1973年に閉山、今は史跡になっている。以前南アフリカ関連で金鉱が見たくなって、鹿児島県の串木野ゴールドパークに行ったことがあるが、生野でも観光用に坑道を見せてくれるようだ。閉山後は三菱鉱業(現・三菱マテリアル)が銀山周辺で事業を展開しているらしい。その時、銀山の跡地(↓)を見たのか、標示だけを見たのかははっきりしないが、自転車の上で銀山を意識していたのは覚えている。

 生野峠を越えたあと、すぐ北の和田山から北西の方角に進んで、鳥取県に入り、砂丘に着いた。夕方近くになっていたと思う。砂丘に入って、寝袋を広げて寝た。海の近くなので蚊はいないと思っていたが、夜中じゅう蚊の音に悩まされた。もっと海の近くで寝ればよかったが、入り口からそう遠くない場所で寝たように思う。砂丘なのでずーっと向こうまで砂の海、を想像していたが、周辺には草も生えていたし、人の出入りも結構あるようで、勝手に想像していたイメージとはずいぶんと違っていた。

 翌日は海岸線を行きながら、途中の諸寄、浜坂、香住では港に立ち寄り、海岸線では時折自転車を停めて、お茶を飲んだ。

香住海岸

 その後、竹野海岸から城崎に入った。兵庫県は南北に結構広い土地なので、南部に住んでいると普段は日本海側のことを考えることはない。香住や浜坂くらいしか名前も知らなかった。北部のこの辺りの海岸沿いの道も、思いのほか起伏が激しかった。地図ではわからないが、想像以上に急な坂が続いていた。体力があったのだろう。今回はぐっと踏ん張れるように下駄を履いていたので、意地でも降りるものかと、大声を出しながら立ってこぎ続けた。今から思うと、どうしてそんなに向きになってこぎ続けたのか。そのあと城崎に入ったが、温泉街だったのに好きな温泉にも浸からないまま通り過ぎたように思う。

城崎温泉街

 そこからは豊岡、そばで有名な出石城下、和田山経由で戻って来た、ようである。今回、行ったと思われる所を辿りながら、あれこれウェブで画像や地図を探してみた。ずいぶんと前のことなので記憶は極めて曖昧だが、一番暑い時期に生野峠を越えた、砂丘で蚊に悩まされた、海岸線の坂がきつかった、という感覚だけは今も残っている。

出石城下

 次回は、街でばったり、か。

つれづれに

 

阿蘇に自転車で

阿蘇山

 大学院の2回目の入試が終わった夜、神戸港から別府行きのフェリーに乗った。(→「大学院入試」、5月10日)もちろん、今回はひとりである。(→「関門海峡」、4月26日))阿蘇山を自転車で登るつもりだった。30くらいで死ぬまでの間の余生のつもりで何とか生き永らえていたのに、定収入を得るために職に就くことになろうとは。(→「百万円」、4月30日)それなりの激変で、大変な毎日だったから、一区切りつけたい気持ちもあったのかも知れない。山も自転車で登れると思ったのは、宮崎のユースホステルで同室になった人の、30年ぶりの雪の知らせを聞いて、阿蘇には自転車は押して行くしかないな、と言った一言がきかけだった。(→「臼杵」、4月25日)その時から、いつか自転車で阿蘇に行くと決めていた。

別府湾を望む

 阿蘇は二度目だった。高校の修学旅行で来ている。集団が苦手なのに、中学校でも東京まで行っている。東京オリンピックがあったので、一年早く行った記憶がある。よくも黙って参加したものである。ほとんど覚えてないが、火口から中を覗いたような気がする。

船に乗ったのは夜だったから、フェリーは朝早くに着いたはずである。夕方まで街中を回ったようで、夕方に、別府湾を見渡せる道の坂を登ってやまなみハイウェイに入った。かなりの傾斜だったが、一度も降りないで一気に坂を登った。夏に中国山脈の生野峠を通って山陰海岸を回って以来、急な坂をむきになって降りないでこぐ癖がついてしまった。地図ではわからないが、山陰海岸のでこぼこの坂は、きつかった。ここは坂を登ってしまえば、あとはそう起伏もなく進めそうである。しかし、実際には峠などもあり、それなりの坂もあった。10時か11時くらいだったような気がする。疲れが出始めたので、道端に自転車を止め、寝袋を出して寝ることにした。車が時折行き交う程度だったので、音はそれほど気にならなかった。しばらく眠ったように思う。人の気配がして目を開けてみると、目の前に覗き込む人の大きな顔があった。「どうしたんですか?大丈夫ですか?」

道端に自転車を停めて寝ている姿が気になって声をかけてくれたようである。津山駅と同じで(→「山陰」、5月6日)、人のよさそうな初老の男性だった。「あ、どうも、疲れたんで、寝てるだけですよ」何人かが同じように声をかけてくれた。少し奥まった所で寝袋を広げればよかった、とその時は思いもしなかった。寝ているわけにも行かず、また自転車をこぎ出した。標高1330メートル、牧ノ戸峠の標識があった。

宮崎に来てから車で連れて行ってもらった牧ノ戸峠

 暗くてわからなかったが、峠を降りて阿蘇町に入り、やまなみハイウェイを進んでいたようである。真っ暗な中を自転車をこいでいたら、なぜか右肩の上の方で、鳥の囀りが聞こえた。最初は空耳かとも思ったが、かなりのあいだその囀りが続いていた。ずーっと離れずについてきたようだった。鳥は鳥目で見えへんやろに、と思いながら、いっしょに進んだ。本当に鳥の囀りだったのか、今となっては検証のしようもない。

やまなみハイウェイ(「九州芸術の杜」での「個展」時に)

 回りが明るくなって、阿蘇が見え始めた。標識に従って、火口まで登り始めたとき、急に疲れを感じた。このまま進めるとは思ったが、中腹に自転車を止めて、草原の中で昼寝した。ぽかぽかとして気持ちよかった。どれくらい眠ったのか。起きてまた、火口まで自転車をこいだ。帰りの坂道を下るのは一瞬だった。熊本と宮崎の県境の高森峠から高千穂に入った。入学した年が日米安保の再改定の年で、この時が6年次、1976年である。高森峠の一部は砂利道だった。その後経済成長を続け、全国の隅々まで舗装されたようだから、砂利道の写真は貴重なもので、まさかブログにこの時のことを書くとは夢にも思わなかった。ウェブで探してみると、当時の写真があった。記憶にはないが、この時旧高森遂道を通ったようである。

今は高森峠遂道らしい

 高千穂では自転車を止めて、高千穂峡を見に行ったように思う。今なら近くの高千穂神社に行って、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句碑を探すところだが。

 高千穂からは延岡までなだらかな下り坂が続いていた。今は新道になって、トンネルもあって距離が短くなったようだ。おぼろげにしか覚えていないが、坂の途中で自転車がパンクした。雨でも降ってたのか、水溜まりを使ってパンクを貼った。

高千穂ー延岡間の旧道

 作業をしながら、何だか気が抜けてしまって、もういいや、帰ろ、と思ってしまった。このあと宮崎から鹿児島を経て、九州の南端佐多岬まで行こうとぼんやりと考えていたが、どうやら気持ちの区切りがついたらしかった。日向市の細島港から、神戸行きのフェリーに乗った。

細島港

 次回は、生野峠、か。