つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:分かれ目

 甲南女子大学(↑)で行われた教員再養成のための大学院大学の入学試験が、文字通り人生の大きな分かれ目になった。教員経験5年以上の条件も満たせそうだし、退職した「鉄ちゃん」の後任で来た校長にも会って受験の承諾も取れたし、あとは大学時代の教員の誰かに推薦書を書いて貰えば準備は終わる、その予定だった。「英作文」(4月2日)の授業で『坪田譲治童話集』をテキストに選んでくれた人に頼みたいと思ったが、胃癌で胃をすべて取ったらしく、入学試験の監督中に容体が急変して52歳の若さで急死していて頼めなかった。他には思いつかなかったが、推薦書は要る。なぜかその時、教育原理の授業でマルクスの『経済学・哲学草稿』の人間疎外の話をえろう元気にしゃべっていた人のことを思い出した。(→「教員免許」、5月3日)電話で連絡を取り、奈良の自宅まで出かけた。

「あのう、出身大学の教員の書いた推薦書が要るようですので、お願いに来ました。よろしくお願いします。」
「お前は何を考えとるか!ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃあ!馬鹿者!推薦書なんか書けるか!帰れ!」

何もこんな近くで大声で怒鳴らなくても聞こえますけど、と思ったが、中間管理職を増やして教師の分断を目論み、締め付け強化を図ろうとする文部省に日教組が強く反対するのは、反体制を意識し始めていたので、充分に理解できた。5年間教員をしながら、校長と教頭以外の中間管理職の必要性を感じたことはない。中間管理職が増えれば、教員間の軋轢や小欲が絡んで碌なことにならないのは目に見えている。その人は大学紛争の時に国と対峙する学生側についた7人の教官の一人だった(→「大学入学」、3月27日)らしいし、充分に説得力もあった。推薦書を頼みに行った私の方が、悪い。結局、違う人に連絡を取って書いてもらった。その人は、授業の時と同じように淡々と推薦書を書いてくれた。どちらも後に、学長になっている。国と対峙した学生を助け、国の政策とかつては闘った人が、学長になって文部省で辞令を受け取り国に忠誠を誓った、ということのようである。
推薦書の一件も落着し、入学試験の当日、会場の甲南女子大学(↑)に出かけた。校門の辺りがやけに騒がしい。遠くからはわからなかったが、近付いてみると、なんと『経済学・哲学草稿』の人がマイクを片手に「われわれ日教組は……」と大声でがなり立てている。あちゃー、である。今年はやめとこ。「お前は何を考えとるか。ワシはその大学院大学を潰ぶそうとしている筆頭じゃ!馬鹿者、帰れ!」とまた怒鳴られそうである。そう考えて、来た道を戻り始めた。しばらくとぼとぼ歩いていると、一台の車が横に止まり、窓が開いた。

「あのう、甲南女子大はどこでしょうか?」

渡りに船とはこのことである。乗るしかない。助手席に乗り込んだ。

「いっしょに案内しますよ」

ところが、である。車が止まったところは、群衆のど真ん中。そこに放り出されたのである。

「お前、その髭で教育が出来ると思ってるんか?」
「喧しい、放っとけや。髭は教育と関係ないやろ」

たくさんの人に囲まれて、怒鳴られて、もみくちゃにされて、何がなんだかわからなかった。気が付くと、校門の中にいた。「ほな、試験受けに行こ」
のちに「アフリカ系アメリカ人の歴史」という教養科目の授業で、毎年必ず、「アーカンソー物語」を見てもらった。1954年の公立学校での人種差別は違憲という最高裁の判決に従って、1957年に実際に黒人の生徒がアーカンソー州の州都リトル・ロックのセントラル・ハイ(高校)に入学した時に起こった実話を元に作られた映画である。そこでは、連絡漏れの黒人の女子学生が一人で登校してたくさんの白人の生徒から罵声を浴びせられていた。親たちも高校に押し掛け、事情を説明しようとする教員の話を無視して集団で、大声で騒ぎ立てていた。その映画のあとに「大勢に罵声を浴びせられて、もみくちゃにされた経験あるか?僕はあるで」と言いながら、この時の話をした。もみくちゃにされた本人にしかわからない感覚である。
大学院大学(↓)が出来て2年目、修士課程の2期生になった。兵庫県は地元なので、優先的に県枠で50人も取ってくれたそうである。マイクのがなり声を聞いた時は、また来年やなと観念したが、もみくちゃにされて校門内にはじき出された、文字通り人生の分かれ目になった。
次は、院生初日、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院入試2

2度目の大学院入試である。厳密に言えば、大学の6年目に一度(→「大学院入試」、5月10日)、卒業してから一度、卒業した大学の修士課程の入学試験を受けている。それから教職大学院の修士課程を修了する年に関西で三つ、その次の年に東京で一つ博士課程を受験したが、全敗だった。卒業してから2度目に受けた時は、書いた答案をすべて消して出て来ている。どうも入試とは相性がよくないようである。

高校の教師はおもしろくて充分に楽しかったが、そこが居場所だとはとても思えなかった。新任の一年目に初めて「職員室入って自分の席に歩いて行くときに、先は長くなさそう、もって2年くらいやろなあ」(→「新採用一年目」、5月18日)と思ったが、なかなか踏ん切りがつかなかった。初めての卒業生を送り出した頃に、このままずるずると行ってしまわないかと焦り始めた。書くための空間を確保するには大学が一番よさそうに思えて、大学はどうやろ?と妻に聞いてみたら、よさそうねと賛成してくれた。一年目の学年末に結婚してすぐにいっしょに住み始め、次の年には子供も出来ていた。ずいぶんと課外活動に時間も取られて、土日も含め、家事や育児があまり出来なかったのに、妻は合ってない姿を見るのも辛いので、早く高校を辞めて欲しいと言ってくれた。ぼんやりと30までかなと考えていた30の坂も、既に通り過ぎていた。大学の職を探すためには、最低限修士号は要るので準備が必要だが、授業(→「初めての授業」、5月15日))に、「ホームルーム」(5月24日)に、課外活動の「顧問」(5月30日)にと、毎日が一杯一杯だった。リチャード・ライトの分厚いBlack Power(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、→“Richard Wright and Black Power”)を開いて読もうとしたら、活字が躍って見えた。給料が同じで五分の一くらいの仕事量なら、教員になる前にやったように、併行して「大学院入試」(5月10日)の準備も出来たとは思うが、手を抜かない限り不可能だった。ちょうどその頃、兵庫の山の中に教員再養成のための大学院大学(↓)がスタートし、教員の経験が5年あれば受験可能で、教諭のままで修士号が取れることを知った。

あと一年で条件は満たせそうである。担任よりも顧問の方が生徒との距離も近くなるので、毎日接している生徒には少し後ろめたい気もしたが、どこかで断ち切らないと、と気持ちを整理した。試験は神戸の甲南女子大学(最初の写真)であり、出身大学の教師の推薦書も要るらしかった。準備を始めた。

次回は、分かれ目、か。

移転先の新校舎

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:雪合戦

生野峠周辺の山々

 雪合戦をした。前の晩から降り始めた雪が積もり、その日は朝から辺り一面が雪の原だった。その日の英語の授業は雪合戦になった。今なら雪合戦はなかったかも知れない。
兵庫県の瀬戸内側の地域に住んでいたので、暑くもなく寒くもなく、そう頻繁に台風も来ず、雪が降っても積もるのは年に数回である。心がいじけていたせいか、暑くもなく寒くもないから、この辺の人は意地が悪いんやろなと本気で信じていた。兵庫県は宮崎県と同じで縦に長く、日本海側に面した北側は普段の生活に入り込んで来ることもめったになかった。一度中国山脈の「生野峠」(5月12日)を越えて日本海側の海岸線を自転車で回ったことがあるが、日本海を見るのはそれが初めてだった。

生野峠

 学年旅行で浜坂に蟹を食いに行くことになり、毎日その話題で盛り上がっているのを見て、集団で旅行に行くのもその話が毎日続くのも摩訶不思議な世界だった。日本海で覚えているのはそれくらいである。

香住海岸

 大学の時に電車で宮崎に来て、30年ぶりの雪だと言っているのを聞いたが(→「阿蘇に自転車で」、5月11日)、こちらに来て30数年、雪を見たのは何回かしかない。ほとんどがみぞれ混じり、少し積もったのが1回か2回である。台風は毎年やって来るが、雪とはほぼ無縁だ。ただし北の五ケ瀬にはスキー場もある。子供は高校の旅行でスキーに出かけ、女子は一日目は見学するように言われて憤慨していた。まわりのみんなが当然のように従っているのがもっと嫌だったと哀しそうに言っていた。関西弁をしゃべるからと虐められて虐める相手をやっつけたら、その輪が大きくなったらしい。大変な日々だったが、最後まで関西弁を使い、今は東京への永住組である。
今なら、職場を放棄して何ごとか、授業の遅れをどうするのか、と言われそうである。条件が揃わないと雪合戦は成り立たない。先ず合戦が出来る雪が要る。宮崎ではしようにも雪がない。大学の教養の時間に雪が降ってるな、外に出て雪合戦しよう、という気にはならない。雪国では顰蹙(ひんしゅく)を買うのがおちだろう。新設でスカートの丈がどうのこうのと煩かった(→「新採用一年目」、5月18日)、校長も怖れられている、そんな中で、雪が積もってるから雪合戦は、普通は範疇外だろう。素足に下駄で教員の面接に出かけた(→「面接」、5月9日))と同じくらい、か。どう考えても「鉄ちゃん」の影の力である。だからこそ教頭は、髭?雪合戦?懇親会には来んし、言うこともきかんし返事もせん、そんな私への苛立ちが怒りとなって、ある日、止められなくなったんやろうなあ(→「懇親会」、5月19日)。
当の本人はどう考えていたか。「こんなに雪が積もってるんやから、鉄ちゃん、学内放送で、今日の1校時は全校で雪合戦、速やかに運動場に出るように、と言わへんやろか」一年目に教務で隣り合わせだった国語の女性と、2年目に左隣の席だった理科の教師も、私が雪合戦をしているのを見て、生徒を連れ出して雪合戦をしていたよ、と後から聞いた。たまさんのクラスは雪合戦してるで、と言う五月蠅(うるさ)い生徒の声に負けたらしい。生徒からも教員からも、雪合戦のことで直接何かを言われたことはない。
次は、大学院入試2、か。

移転先の新校舎

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:辞書を引け

移転先の新校舎

 「辞書を引け」といつも言っていた。「学年の方針」(5月23日)に押し切られて受験用の授業をしていたとき(→「受験英語」、6月5日)は、である。大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」とまるで正反対のことを言った。
「英語は元々知らない言葉やから、うーんと考えて何かを思いつくもんでもないし、わからん時は辞書を引くしかないやろ」ずいぶんとえらそうな物言いである。習うより慣れろ、を意識したことはないが、全員に基本構文の参考書をを持ってもらい構文を理解して例文を覚える、それを繰り返すのが一番効果的だと思ったからだった。受験英語は言葉とはまるで別物である。

使ったのはたぶん、この「旧」版

 言葉は使うものだから、知らない言葉があれば文脈や相手の様子を窺いながら、ああではないか、こうではないかと想像したり推測したり、間違っては直し、間違っては直しを繰り返しながら、気がつけば、大体わかるようになって使えるようになっているものである。間違わずに覚えられることは、先ずあり得ない。しかし受験英語は言葉や構文を先ず理解し、それを繰り返し覚える、わからない言葉があれば辞書を見て、或いは人に聞いて意味を理解する。基本はあくまで正確に、間違わない、である。言葉を覚えるのに使う自分の中の創造力や推察力をほとんど使うことはない。
辞書を見た時点で、その意味がなんだろうという想像力は停止するので、まるで逆の作業をしているわけである。だから、受験英語だけをやって入学して来る大学生の大半は、英語が実際には使えない。英語を話そうとするときに一番に障害になるのが、間違ってはいないか、間違うと恥ずかしいと思ってしまうことだが、それ以上に、6年間も英語をしながらしゃべれないという、ある種の劣等の意識の方が影響は大きいかも知れない。しゃべってないからしゃべれなくても当然、だから間違いを気にせずに先ずはしゃべってみよう、という風にはならない。しかし、しゃべるようになるには、しゃべってみるしかない、実に当たり前のことである。
読む場合も同じだ、わからない言葉が出て来た時に辞書を引いた時点で、想像して読む、前後を考えて推測しながら読むという作業は停止してしまう。だから、大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」と言っていたわけである。
「採用試験」(5月8日)の準備をし始めて最初に読んだのが1026ページもあるAn American Tragedyだが、読み終えるのに3ケ月もかかった。読んだあと、このやり方で辞書を引き続けても決して読めるようにはならないとしみじみと感じた。(→「購読」、5月5日)

その経験が身に染みていたのに、授業では「辞書を引け」と大声で言ったのである。

その後、教員の教職大学院に行き、資料探しにアメリカに行っているうちに、使う必要性も生まれ、英語を使うようになった。それはそれで大変だったが、受験英語の過程でついた劣等に意識は、英語を使えるようになった時、気にならなくなる。その意識を払拭するためにだけ英語を使うのもありかも知れない。受験英語は本来の言葉とは別物である。
次は、雪合戦、か。
昨日は遠出をして「つれづれに」を更新出来なかった。清武加納の歯医者さんに定期検診に行き、市内でお茶を、平和台で餃子を、最後にハンズマンで小葱の種と樋(とい)を買った。小葱は時季外れだが、強い陽射しを避けて夏の時期にも作ってみようかと考えた。暑くなると、虫にもやられるし葱自身も消えてしまうが、日陰と水で温度を下げればひょっとしたら出来るかも知れないと思ったからだ。樋は畑の溜枡に雨水を誘導するためのものだが、自転車なので長いのは持って帰れない。短いのを試しに買ってみたが、うまく行くかどうか。どうやら週末から梅雨に入る気配だし、南瓜も伸びてきたし、柵も作ってしまわないと。いろいろすることがある割には、一日に出来る作業量もそう多くないので、なかなか季節に追っつかない。一日の限界が20キロという自転車の距離といい、思い通りに行かないものである。

餃子屋さん