つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハーレム分館

 ライトの中編作品が載った雑誌を古本屋で見つけてしまったので、図書館に行く最大の目的は消えてしまったが、ハーレム分館(↑)には行きたい理由が他にもあった。ションバーグコレクションが見たかったからである。ニューヨーク公共図書館(New York Public Library) は財団が経営する公共図書館で、マンハッタン地区以外にも市内に92の分館(Branch)と3つの研究図書館(Research Library)がある。ションバーグコレクションはハーレム分館にあり、正式にはションバーグ黒人文化研究センター( Schomburg Center for Research in Black Culture)と呼ばれる研究図書館のひとつらしかった。世界中のアフリカ系に関する情報の保存機関で、アフリカ系プエルトリコ人学者アーサー・アルフォンソ・ションバーグに因んで名づけられたと言う。
 当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた。Midtown(↓)のホテルから地下鉄に乗って出かけた。ハーレム分館は135th Streetにある。

 1985年のI Love New Yorkキャンペーン以前の話なので、地下鉄は噂通り穢かった。入って来た車両の落書きが凄い。ペンキで車輛ごとである。エディー・マーフィー主演の「王子様、ニューヨークへ行く」(↓)という映画の一場面で1985年以前の落書きだらけの地下鉄が映っていた。たまたま一番後ろの方の車輛に乗ったが、何だか少し暗かった。電気が一部消えていたのか。小便の臭いもした。つり革の取れているのも目に着いた。当時弟が働いていた川崎車両はニューヨーク市から注文を受けていたそうで、130キロでぶつかっても壊れない、取り付け部品が簡単に取れない、ペンキがつかない塗装、の三つが条件だったと言っていた。

 ハーレムは135th Street駅で降りればいいらしい。ハーレムに近づくに連れて黒人の数が増えて来た。穢いし、臭いし、暗いし、印象的な地下鉄だった。「ワンサーティファイヴ」と音声案内があってハーレムに着いた。階段を昇るとハーレムの通りである。意外と広かった。昼間から酒瓶を片手に歩いている若い人もいる。両脇に舗道があり、各戸の入り口まで短い階段がついており、その階段の途中に座っている人もいた。避(よ)けて通るのもなあ、と歩道を歩いて、ハーレム分館に着いた。
 図書館では折角来たのでマイクロフィッシュの雑誌を拡大して、何枚かコピーを取った。機械にはMita, Minoltaの表示があった。戦勝国は、技術も持ち帰ったと言うことか。そんな気がした。
 次は、ハーレム、か。通りの本屋(↓)で、貴重な本を2冊見つけた。そのとき目に止まらなかったら、お目にかかれずじまいだったかも知れない。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:古本屋

 ニューヨーク(↑)で古本屋を回るとは思ってもみなかった。発端はNative Son (1940) を出した出版社を訪ねたことにある。出版されてから40年ほど後の1981年に版元のハーパーアンドブラザーズ社(Harper & Brothers Publishers)に行って「Native Sonはありませんか?」と尋ねたわけである。1969年出版の立原正秋の『冬の旅』(→「伎藝天」、4月23日、→「栄山寺八角堂」、4月27日、→「山陰」、5月6日)について、2022年の今、版元の新潮社に行って「『冬の旅』はありますか?」と聞くようなものだ。今から思うと、よう訪ねて行ったもんやと感心するが、意外な返事が返って来た。丁寧なもの言いだった。「Native Sonの初版本はありませんが、ひょっとしたら42丁目の古本屋に行けばまだ残っているかも知れませんね。そこにはいつも大量に本を流していますので、是非行ってみて下さい。見つかるといいですね」
教えてもらった古本屋に行ったら初版本はなかったが、何と雑誌の現物を見つけてしまったのである。ライトの中編作品が載った雑誌を図書館でみたいと思ってニューヨークまで来たのだが、最大の目的があっさりと達成されてしまった。1944年の「クロスセクション」(2019年2月20日)で、今手元にある。

 薄っぺらい雑誌を想像していたが、ハードカバーの立派な分厚い本で、559ページもある。A NEW Collection of New American Writingと副題がつけてある。乱雑に積み重ねられていた本の山の中から見つけ出した。1945年版もある。そこにはライトの名前はない。少し小振りだが、それでも362ページもあるハードカバー本である。

 初版本はなかったが『アメリカの息子』(↑)、『ブラック・ボーイ』(↓、Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)などのライトの作品もあった。「購読」(5月5日)で読んだ『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やゼミで使った『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)もあった。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)嬉しくなって手当たり次第に買ってバッグに詰め込んだ。バックが肩に食い込んだ感触が残っていて、重たいバッグを持つといつもあの重さの感覚が蘇える。結局何箱か古本屋から船便で送ってもらった。カードの時代ではなくドルが少なくなってしまい、南部には行けなかった。フライトを変更して、セントルイス経由で帰るはめになった。

 日本でよく知られるマンハッタンは、ニューヨーク市のエリアの一つで、ニューヨーク州の西の端に位置している。西隣のニュージャージー州との境のハドソン川に浮かぶ半島で、東西に走る通り(Street)は数字で表記され、「数字+丁目」で日本語訳されている。有名なタイムズスクエアやグランドセントラル駅は42nd Street、地図(↓)のMidtownの文字の下の通りである。セントラルパークは59th Streetから110th Streetまでとかなり広い。ニューヨーク公共図書館ハーレム分館は135th Streetにあり、かなり上の方である。名所案内の上の地図には入っていない。

 タイムズスクエアーの近くの目抜き通りに古本屋があったというわけである。その辺りは1985年のI Love New Yorkキャンペーンで、ごちゃごちゃしたポルノショップなどが一層され、落書きの象徴が走っているような地下鉄もきれいになった。
次は、ハーレム分館、か。ホテルの最寄り駅から135th Street駅まで初めて地下鉄に乗った。I Love New Yorkキャンペーン以前の、落書きだらけの車輛だった。

つれづれに

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つれづれに:ニューヨーク

 シカゴからニューヨークまでの飛行時間は二時間余り。日本でよく言われるニューヨークはニューヨーク市(↑)のことで、ハドソン川に浮かぶマンハッタン半島上にある。ナイヤガラの滝(↓)はニューヨーク州の北端にあり、滝がカナダとの国境の役目を果たしているらしい。ニューヨーク市のラガーディア空港から最寄りのバッファロー・ナイアガラ国際空港まで一時間半足らずの距離である。先にナイヤガラの滝に行ったのか、図書館で資料を探してからナイヤガラに行ったのかは記憶に残っていないが、滝を見に行ったのは覚えている。ゴールデンゲイトブリッジのあとはナイアガラ、最後にエンパイアステイトビルディング、そんな感じだったので、先にナイアガラ行きを済ませた可能性が高い。

 南アメリカ大陸のアルゼンチンとブラジルにまたがるイグアスの滝、アフリカ大陸のジンバブエとザンビアにまたがるヴィクトリアの滝と合わせて、世界三大瀑布の一つと言われているらしいが、滝に興味があったわけではない。マリリンモンロー主演のハリウッド映画「ナイアガラ」で見たとき、ゴールデンゲイトブリッジやエンパイアステイトビルディングと同様、いつか訪ねてみようと思ったからである。滝は轟轟と流れていて、迫力があった。カナダ側からも眺められそうだったので、カナダ側から滝を見た。ビザなしで渡れたらしい。二つ目の外国がカナダだったわけである。滝を見た、それだけだったように思う。

 ジンバブエに行ったときにヴィクトリアの滝(↑)に行ける機会もあったが、子供二人夫婦二人が生活するだけで精一杯で観光までは手が回らなかった。帰国前にどこかに観光に行きたいと子供が言い出して、ジンバブエの遺跡(↓)かヴィクトリアの滝か、どちらかを選ぶことになったが、結局湿地帯でマラリアの危険性も高く、予防接種も受けてなかったので、結局はヴィクトリアの滝には行けなかった。奥地を「探検」していたヨーロッパ人が最初にこの滝を見た時の話を、滝を背景にイギリス人記者が紹介している映像を見たことがあるが、壮大な滝のようだった。

 宮崎では鹿児島に近い都城の関之尾の滝(↓)を車に乗せてもらって見に行ったことがある。ナイアガラのような規模はないが、こじんまりとしたきれいなところだった。

 大分の久住高原で個展をしたときに高速道路で都城を通ったが、地図を見たら道路がぐいーっと都城の方に曲がっていた。高速道路は所要時間を短縮するために可能な限りまっすぐ通すやろ、と思ったが、国土交通省に強い国会議員が都城にいて高速道路をぐーっと引っ張って来たから、誰かがそんなことを言っていた。そう言えば、宮崎でも代々の市長が自分の家のあるところに道を引っ張って来て、市長道路やと言われてたなあ、と合点がいった。やれやれである。

 予定していた最後のエンパイアステイトビルディング(↓)にものぼった。人混みは苦手なので場合によっては諦めるつもりでいたが、ビルの入り口に待ってる人も少なく、これなら大丈夫とエレベーターに乗ったら、展望台に行くかなり手前でエレベーターが停まり、外に出された。そこにはたくさんの人が列を作って待っていた。騙されたと思ったが、後の祭りである。テレビのアメリカ化の正体を見たい気持ちもあって、映画で見た名所を訪ねたが、よく考えてみれば名所は人が多い、今回で終わりにしよう、そう思いながらエレベーターを降りていた。
次回は、古本屋、か。

つれづれに

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つれづれに:シカゴ

 シカゴは全米第二の都市と言われていたので、日本で言えば大阪かとずっと勝手に思いこんでいた。小学3年生の時に一人で「大阪のおばあちゃん」の家に行ったとき、高いビルディングの立ち並ぶ大阪の街に圧倒されて、自分がちっぽけな存在でしかないと感じたのを幽かに覚えている。シカゴも高層ビルの立ち並ぶ大都会だった。そのあとマンハッタンのエンパイアステイトビルディングに登る予定だったが、その建物より高いビルがあると聞いて、登ってみることにした。今はワールドトレードセンターに次いで2番目に高いビル、買収されてウィリス・タワーというらしい。

ライトは1908年生まれで、1927年にメンフィスから移り住んで1937年にニューヨークに行くまで10年ほどシカゴに住んでいる。ベストセラーの小説『アメリカの息子』(Native Son, 1940) や自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の主な舞台はシカゴである。1890年代から1920年代にかけて北部に押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、サウスサイドに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、スラムと化した、と写真入りの『千二百万人の黒人の声』(↓12 Million Black Voices, 1941)の中で、詩のような文章を書いている。(「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)

 ミシガン通りでパレードに出くわし、歩道の縁に座って3時間ほどぼーっと眺めていたら、何だかそれまでのアメリカに対する反感が薄らいで行くようだった。アメリカにもアメリカのよさがあるんやろな、と柔らかい気持ちになった。ミシガン通りは目抜き通りらしい。ホテルから出かけたのか、空港からのバスから降りてホテルを探していたのか。パレードが終わってぶらぶら歩いていたら、橋の袂の欄干にもたれて白人青年が一人、トランペットを吹いていた。「共和国の戦いの賛歌」(Battle Hymn of the Republic)のようだった。日本では「ごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた」でお馴染みの曲である。演奏が終わったあと、何人かが置かれていた缶のような入れ物に、投げ銭をしていた。

 シカゴ美術館に行った。絵心はまるでないが、妻が絵を描くので結婚してからは時々美術館にも行くようになった。折角シカゴまで来たのだから、美術館にも行ってみないと、そんな軽い気持ちで出かけた。大きかった。中でも教科書にも載っているモネの睡蓮(Monet, Water Lilies)は圧巻だった。パリのモネ専用の美術館より大きいらしい。一人勝ちした第二次世界大戦のどさくさに買い入れたものらしい。アメリカ各地の美術館の展示品の一部は第二次世界大戦の戦利品?大英博物館の展示品の多くがジプトからの略奪品?なんだか構図が似ている。アングロ・サクソン系、の痕跡か。

 シカゴ公共図書館にも行った。見てみたい新聞記事があったからである。ファブルさんは本の中で、シカゴに移り住んだ時、生活保護を受けて案内された公共住宅の余りの酷さに母親が泣き崩れたとライトが伝記の中で紹介しているという風なことを書いていた。寝ている黒人の赤ん坊が猫くらいに太った鼠に齧られたという1920年代の新聞を紹介していた。その記事が見たかった。案内カウンターで申し込んだら、係員が新聞を持って現れた。なんと1920年代の新聞の現物だった。1988年にカリフォルニア州立大学ロサンジェルス校(UCLA)の図書館でも同じ体験をした。1950年代の南アフリカの反体制新聞の記事を照会したら、5年分の記事がどさっと目の前に現れたのである。白人のアパルトヘイト政権を支えていた筆頭であるアメリカの図書館に送られていた反体制の週刊新聞が全部保存されていた、歴史の一齣を見てるような感覚になったが、同時にアメリカと日本の図書館の違いを強く感じた。文化のレベルでは、到底及びそうにない。日本では本まで予算回らない、少なくとも図書に関しては、先進国と自称する貧国である。
 次は、ニューヨーク、か。

シカゴオヘア国際空港