つれづれに

 

金芝河さん2

『不帰』の扉写真

 金芝河(きむじは)さんの2回目である。
出版社の社長さんからグギさんの『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳を頼まれたのは1990年代の終わりか2000年に入った頃だったと思う。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(1992年、→「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」、2021年6月)の次にグギさんの分の日本語訳を頼まれた。どちらも反体制の作家で、投獄されたという共通点もある。二人とも国内に滞在できる政治情勢ではなかったので、グギさんはイギリスからアメリカに、ラ・グーマはイギリスからソ連、キューバに亡命をしていた。日本も含め西側諸国は南アフリカの白人政府を「正式に」認め国交もあったが、東側諸国はアフリカ人を「正式な」外交官として迎え入れていた。ラ・グーマはソ連ではたくさんの読者がいた人気作家だったと聞く。

『まして束ねし縄なれば』(表紙絵:小島けい画)

 南アフリカやケニアや韓国に限らず、「正常」とは思えない政治情勢が日常茶飯事の国は驚くほど多い。ネルソン・マンデラは1964年に終身刑を言い渡された同じ法律で1990年に無条件で釈放され、大統領になっている。ガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)のクワメ・エンクルマも牢獄から出て選挙で選ばれ、一足飛びに初代首相になった。ケニアも恐ろしい国である。最も住み心地のよかったホワイトハイランド、後の首都ナイロビを南アフリカからの英国人入植者が奪いに来た時、たくさんの民族集団が一丸となって闘い、何とか勝利したが、そのあと、民族集団の中では多数派ギクユ人の指導者ジョモ・ケニヤッタが、権力や富に目敏い金持ちの取り巻きと悪知恵を働かせて、西側諸国、特にアメリカや日本と手を組んでしまった。(→「ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」、2021年11月)それまでナイロビ大学の教授でロンドンを拠点に世界的な作家でもあったグギさん(↓)は、その集団から弾かれてしまった。体制を批判し始めたために、国内にいられなくなって亡命せざるを得なかったわけである。ケニヤッタに「ケニアは民主主義の国だから帰国は自由です、赤い絨毯を敷いてお待ちしています、もちろん命の保証はありませんが」とまで言われたらしい。(→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”、「言語表現研究」2003年)日本もおかげで、自民党は鼻高々に大手を振ってODAの予算をつけて海外協力隊を派遣できるし、大企業や商社のために日本人学校を設立、運営できる。他の国も事情は似たり寄ったりである。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 韓国も死刑宣告を受けて獄中にいた金大中(キム・デジュン)が、選挙で選ばれて大統領になった。金芝河さんも金大中と同じ時期に死刑宣告を受けている。ソウル大を出たインテリが書いた詩は反体制の象徴で、影響力も強く、体制側には極めて不都合だったわけである。
金大中や金芝河さんの死刑に反対して日本で世界中から人が集まって会議が開かれたのを私が知ったのは1980年代の半ば頃で、大学の職を探していた時期である。1982年にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトで修士論文(→“Richard Wright and His World”)を書いた後、ライトのイギリス領ゴールド・コースト訪問記『ブラック・パワー』(↓)を読んでいるときに、アフリカの歴史を知る必要性を感じ始めていた。(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、「黒人研究」、1983年)

 日本でも大都会では南アフリカのアパルトヘイト政策と政界や財界の結びつきを非難して、反アパルトヘイト委員会が中心になってイトウヨーカドウやダイエイなどを相手に不買運動が展開されていた。二階堂進や石原慎太郎が政財界を結ぶ役目を演じて悪名を振りまいていた。不買運動の余波を受けて、南アフリカの安いワインや缶詰は地方の量販店にごっそりと流れていた。ちょうど宮崎に来た1988年は不買運動の激しかったころで、自転車で通う途中で見つけた量販店に入って南アフリカ産のフルーツ缶が山積みされているのをみて、さすが陸の孤島やと感心したことがある。(→「アフリカ・アメリカ・日本」、「ゴンドワナ」7号、1987年)
 グギさんは『作家、その政治とのかかわり』のなかで「東京で開催された韓国問題緊急国際会議」と紹介しているが、会議は1981年に神奈川の川崎市で行われている。会議に出席した先輩から、「その時来てたラ・グーマの写真(↓)があるけど、要るか?」と言われ、一枚もらったことがある。アフリカの作家での発表を薦められて(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月)、1987年のサンフランシスコでの→「MLA」(2月20日)の相談をした時に他の資料といっしょに渡してくれた。会議があった時期、私は高校から教諭のまま教職大学院に行っていたが、金芝河さんの死刑宣告も緊急国際会議も、知らなかった。

会議でのラ・グーマ

 次回は、金芝河さん3、か。その川崎での会議からである。
 今日は朝から雨である。あらゆる生命が満ち満ちて、太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節、さすがに小満(しょうまん)の時期だけはある。長雨が続くと地面が乾かなくて難儀をするが、この程度の雨は有難い。明日はマッサージで白浜に出かけるが、金曜日は3週続きの雨だったので、久しぶりに晴れた海がみたい。

先々週の雨の曽山寺浜、青島が霞んで見える

つれづれに

 

つれづれに:金芝河さん1

『不帰』の扉写真

 最近新聞で、韓国の詩人金芝河(きむじは)さんの訃報を読んだ。出版社の社長さんからグギさんの評論『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳を頼まれた時、その中にその人の詩が含まれていたので、いっしょに日本語訳をした。韓国についても金芝河さんについてもよく知らなかったので、妻の書棚にあった『金芝河(キム・ジハ) 民衆の声』(サイマル出版会)と知り合いから借りた『現代文学読本 金芝河』(清山社)、金芝河著『不帰』(中央公論社)、姜舜訳『金芝河詩集』と、韓国の歴史の本を何冊か読んだ。初めて知ることも多かった。妻の書棚の本には、ひらがなの旧姓と1975.1が記されてあった。結婚前に買って読んだようだ。山之口獏で修士論文を書いたそうで、本棚には、誌と絵画の本と絵本が多かった。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 出版社の社長さんはグギさんとケニアでも日本でも会い、日本語訳も何冊か出していて、翻訳出版も続けていた。いつか同時通訳の役が回って来そうで、その準備もしてはいた。出来れば避(よ)けたかったが、案の定、『作家、その政治とのかかわり』の話がさりげなく舞い込んで来たのである。身に余る光栄と言いたかったが、そんな力量もないし、グギさんもケニアもほとんど知らない。ケニアの事情や歴史も知る必要があるし、先ずはグギさんの本を読まないといけない。考えるだけで、気の遠くなるような話で、予測される大変さの方が大きかった。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 グギさんは多作で、果てしなく分厚い本もあり、読むだけでも大変である。ギクユ語なら最初から諦めるが、運悪く英語版が揃っている。作中に使われているギクユ語については同郷のムアンギさんに聞くしかない。大阪工大で一時期いっしょに非常勤をして、明石の家に来たこともある。結局、日本語訳に丸々2年ほどかかった。グギさんがギクユ語で書き始めた経緯や新植民地支配下にあるケニアの政治情勢に加えて、韓国軍事政権下の金芝河に、アフリカ系アメリカ文学と思想まで含まれていた。一つでも大変なのに、手に余る、そんな感じの2年間だった。日本人一般のアフリカへの関心や常識を考えても、間違ってもアフリカの本が売れるわけがない。出版に二百万か、三百万か要ると言われた。払う人もいたようだが、出せずに未出版のままである。

ムアンギさん、先輩(左側二人)と、1988年大阪工大で

 時事コムの訃報である。(↓)

金芝河氏(キム・ジハ、本名金英一=キム・ヨンイル=韓国の詩人)韓国メディアによると、8日午後4時(日本時間同)ごろ、江原道原州の自宅で死去、81歳。1年余り闘病生活を送っていた。全羅南道木浦出身。ソウル大美学科卒。朴正熙政権下の1974年、民主化運動関係者が次々逮捕された「民青学連事件」で死刑判決を受けたが、後に無期に減刑、釈放された。代表作は「長い暗闇の彼方に」。他にも邦訳が多数ある。

『金芝河(キム・ジハ) 民衆の声』より

 次回は、続きの金芝河さん2、か。

つれづれに

ホームルーム

散歩の途中で摘んで来た紫陽花

 ホームルーム、学級運営は授業と課外活動と合わせて教師の役割で大事なことだそうだ。担任もなく、実質的に課外活動に関係しなければ、授業が中心になるわけである。2年目に担任が解禁になって、ホームルームが人ごとではなくなった。自分が生徒の時は、鬱陶しいと思っても、何もしないでいさえすればよかったので、何もしなかった。元々集団で何かをするのは苦手だ。教務の人が1年次と2年次とも担任だったので、その点ではわりと楽だった。理想とか希望に燃えるタイプではなかったので、干渉もしなかったし、理強いもしなかったからだ。3年の時も、後に指導主事になったらしいので上昇志向はあったみたいだが、踏み込んで来るタイプではなかったので助かった。男女共学なのに男女ともクラスは別々で、普段は話す機会もないので女子クラスと合同で何かしようという時間があった。普段話もしないのですぐに打ち解けるわけもなく、何だかきごちない時間だった。話をした相手が、校長と出逢った辺りのうどん屋さんの娘さんだった。(→「街でばったり」、5月13日)時たま大学の帰りに寄ったりしていたので見かけていたかも知れない。卒業後もときたま店で顔を合わせることがあった。

駅前通り、商店街の右側にうどん屋があった

管理職や学年から学級運営に関して何か言われたことはない。その関連の研修も受けたことはない。週に一度のホームルームは100パーセント担任まかせだった。ホームルームには2種類あった。毎朝始業前に十分ほど出席の確認と連絡事項の伝達などをやるショートホームルームと週に一度のホームルームである。ほとんどの担任は律儀に毎日ショートホームルームのために教室に出かけていたようだが、私は最初だけしか行かず、余程のことがない限り行かなかった。教務の人が担任の時もほとんど朝は顔を出さなかったので、その点は気が楽だった。

週に一度のホームルームは、一年目可もなく不可もなくで終わった。無理強いしたわけではないが、リーダー格の生徒がいなかったので、盛り上がりにかけていたように思う。何かについての話し合いもあったが、あまり意見を言う生徒もいなかった。ただ、自分がホームルーム自体に懐疑的で、無理に時間を取らなくてもいいと思っていたので、私の方から積極的には動くことはなかった。2年生と3年生でクラスが変わり、リーダー格が率先して仕切ってくれたので、ホームルームがあってもええなと思えたのは幸いである。詳細はホームルームの続編で、か。

家の庭の南東に咲き始めている紫陽花

 次は、金芝河(きむじは)さん、か。最近、新聞で訃報を読んだ。グギさんが評論『作家、その政治とのかかわり』で英語訳しているその人の詩を日本語訳したことがあるくらいで、詳しくはないが、詩を理解出来ればと歴史の本も読んだりしたので、書いてみたい。時間がかかって、明日に間に合わないかも知れない。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』の表紙絵

つれづれに

 

学年の方針

移転先の新校舎

 主任、担任10名、学年補佐の12人で、学年の方針を決めた。学年補佐は担任が休暇などでいない時にホームルームに行ったり、会議で議事録を取ったりする役目で、私もよくお世話になった。国語科の女性で、新任か2、3年目だった気がする。当たり前にあることだと思うが、最初に学年の方針を決めるとは考えたこともなかった。学年主任以外は20代か30代の前半で、かなり若い人たちの集団である。若い分、圧倒されるほどの熱気があった。自分からは聞くことはないので本人からか、聞こえて来た範囲内でしかわからないが、ほとんど地元では一番の進学校を出て、それなりの大学に進学しているようだった。さすがに東大、京大はいなかったが、阪大の院が二人、広島が二人、そこまでは本人から聞いた。どうして阪大の院を出て高校の教師なんやろと思ったが、担当の教授と折り合いが悪くて、と言っていたような気がする。他の学年には名大もいた。組合に入って精力的な人で、生徒にも評判がよく、丁寧な言葉遣いだった。管理職には煙たがられて、工業高校に飛ばされたと聞く。工業高校は組合に熱心な人、出来ない人、逆らう人の吹き溜まりです、と同じように飛ばされて「同僚」だった人からのたよりに書いてあった。高校に長くいたら、管理職に従わない私は真っ先に飛ばされていたのは確実である。短い間ながら飛ばされずに済んだのは、校長「てっちゃん」のおかげである。後に共産党から神戸市長選に出ているのをウェブで見かけた。当選しなかったが、公用車やコロナ騒動で不評を買った知事に比べたら、月とすっぽん、県民のためになったと思うが、雁字搦めの地盤を崩すのは難しいらしい。一人国語の人が山梨だと言っていた。ほっそりとしてひょろひょろで、風貌が太宰に似ていて、斜に構えていた。一番わかり合えそうな気がしたが、なぜか深く話したことはない。学年の方針を決めるときも、多数派の優等生の流れに沿って動いていたように思う。受験勉強もしなかった、大学で英語もせずに卒業した、母親の借金が採用試験の直接の動機、そんな私とは大違いである。
高校は地元で3番目に出来た進学校、すでに卒業生の進学先、就職先の結果も出ている。詳しくは知らなかったが、会議ではこの学校は地方の国立大学に一人、関学に一人くらいのレベルだから、と誰かが言っていた。それが出発点、ほとんどが地元の進学校出身、会議の行き着いた先は「関学に10人、どう?」だった。私には私学は範疇外だったが、まわりがたくさん行っていたので、配点くらいは聞いていた。文系で英語200、国語150、社会一教科100だったらしい。「英語で決まりそうやから、英語に力を入れたらどうやろ」、そんな流れになった。「普通にやったら、関学に一人しか入れないんやから、英語の出来るのを集めてがんがんやれば、10人くらいは関学に行けるんちゃうやろか。学校にも生徒にも悪い話やないんやない?」そんな発言が続く。若いだけのことはある、体力も熱意もあって、会議は延々と続いた。疲れ知らずである。学年主任に疲れの色が滲んでいたが、水を差せる立場でもない。最後に、私の方に矛先が回ってきた。「入学試験の英語の点数でクラス分けをして、成績のいいクラスをたまさんが持ってがんがんやる、それでどうやろ?」どうやろと言われても、大体、受験勉強してへんしなあ。関学は私学やろ、大体考えたこともあらへんし。しかし、そのかすかな声は、進学校の優等生の集団には届かなかったようである。多勢に無勢、押し切られてしまった。「関学に10人」、という希望の星になってしまったのである。どないすんねん。
小満の時期を象徴する言葉として、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)、てんとう虫や辣韮(らっきょう)、桜坊(さくらんぼう)潮干狩り(しおひがり)などがあるらしいが、野菜を作るようになって、てんとう虫の見方が変わってしまった。茄子の天敵だった。かわいらしいてんとう虫がつくと、数日で茄子の葉っぱが筋だけになって、枯れたような茶色に変わり果ててしまう。希釈した酢を撒いても、いなくなってくれない。茄子かてんとう虫かの選択を迫られるとは思ってもみなかった。

すでにてんとう虫は食われた形跡がある茄子

 次は、ホームルーム、か。