つれづれに

担任

移転先の新校舎

 2年目に担任が解禁になった。校長と教務の人に、あいつ、そろそろ大丈夫ちゃうやろか、と思えてもらえたのか。最初から担任があるものと考えていたので当初は少しもやもやとしていたが、一年間じっくりと学校運営の要である教務の立場から全体を見るようになったのは、結果的には校長の思惑通りだったかも知れない。
担任を決めるのは名目上は校長と教頭の役目だが、実際に人を集めて学年団を作るのは校長が承認した学年主任の役割のようだった。3年生は英語の人、2年生は化学の人、1年生はもう一人の英語の人が学年主任だった。国語と英語と数学が主要教科なので、最初にその教科の人を取り合うらしい。あの人はそっちに譲るから、この人は是非こっちにくれ、という具合である。学生数に応じて教員数が決まるから、英数国は大体学年専用に二人は必要なようだった。一人15コマくらいだったので、その二人が10クラスを半々に持つのが普通だった。購読、英作文、英文法のどの科目を持つかは、最初に英語科全員が集まって決めていた。1年と3年は学年主任が英語だから、私の学年もあと一人が要るらしかった。3年の英語は中堅の人、2年は新任研修にいっしょに行った人が持ち上がりで、あとは私ということになったようである。2年の学年主任が私を途中からでも強引入れたかったと聞く。その人は野球に熱心で顧問もやり、県大会が決まった時は真っ先に嬉しそうに喜んでくれた。生徒からの声も聴いていたようだ。しかしすでにその学年には一人いたし、1年の学年主任の声が大きかったのだろう。その学年主任は一度職員室で大声で怒鳴り返したことがある人で、学年でも学科でも顔を合わせるはめになった。(→「懇親会」、5月19日)管理職や学年主任が担任を決める、考えたら当たり前のことだが、考えたこともなかったことの一つである。
生徒とは一人一人と向き合うようにするのだが、学年という一つの塊としての傾向があるようだ。しっくりくるかどうかなのだが、いっしょにいて楽しい、授業に楽しく行ける、廊下などで会った時に自然に笑顔が出るなど、どうもこちらの行動に対しての反応と大きく関係しているらしい。
非常勤3ヶ月の時の3年生、新任一年目の2年生と担任を持つ1年生と担当したわけだが、創立4年目なので、すでに卒業生も出し、4期生の担任だったということになる。何故か学年との相性というものがある。まるで学年が一つの人格を持っているかのようだ。担任を持った一つ上の学年とは相性がよかった気がする。英作文の時間に授業を早く済ませて和歌を詠んで発表してもらったことがある。私も楽しかったが、みんなも楽しんでいるようだった。作った歌を進んで次々に詠んでくれた。45年ほど経った今でも、覚えている歌があるくらいだ。

「学校の帰りを急ぐ足元になでしこ一輪ふと足を止め」

「小島けい2004年私製花カレンダー」9月

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

発表してもらったとき、ええなあと感心してしまった。細やかな感性が伝わって来て、嬉しくなった。
英作文とは関わりないのだが、いっしょに何かをするのは楽しかった。最初に先生とは呼ばんといてや、と言ったから、たまさんと呼ばれるようになっていた。四階の窓から「たまさ~~~ん」と何人かに大声で呼ばれたり、職員会議の時に帰りの自転車の上から投げキッスをされたこともある。立って、返すしかなかった。
今日はきれいに晴れて、地面も乾いてくれそうでありがたい。旧暦では昨日21日から小満の時期に入り、 6月6日の芒種 まで期間が続く。あらゆる生命が満ち満ちて、太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節らしい。夏野菜も勢いをまして来た。(↓)

初生りがまじかの胡瓜

 着物が主流の時は絹織物用に養蚕が盛んだったので、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)という言葉もこの時期を象徴する言葉として生きていたようである。てんとう虫や辣韮(らっきょう)、桜坊(さくらんぼう)潮干狩り(しおひがり)などもこの時期を指す言葉らしい。そう言えば、小学校の時に高砂の浜に潮干狩りに行ったかすかな記憶がある。その後、鐘化、鐘紡、三菱製紙など、工業化の流れのなかで浜がどろどろになって、潮干狩りどころではなくなってしまった。今はヘドロを浚渫して、少し海水がきれいになって海浜公園まで出来ているらしい。

高砂海浜公園

 次は、学年の方針、か。

つれづれに

教室で

移転先の新校舎

 教室で過ごす時間が中心の生活になった。生徒として座って授業を受けていた時も、教育実習で授業の見学を言われて見ていた時も、教室にいるのが嫌で堪らなかったが、教壇で授業をするのは結構楽しかった。誰からもあれこれ言われないのが一番だったが、どうも性(しょう)にあっていたようである。職員室を見ていると、どうも授業や生徒といっしょにやって行くのに向いていないと思われる人が多かった。一番欠けていたと思えるのは、横柄なのである。自分が人に何かを教えられると信じて疑わない人が多かった。人が人に何を教えられるのか、そんなことを意識したこともないような人もいた。そういうが、生徒を大人として見ていない場合が多かったように思う。生徒指導の人などは、特にひどかった。私が生徒の時に感じたのと同じ種類の違和感を教師になっても感じているように思えた。それまでそれほど何かをしたわけでもないが、何かをし始めるとやればやるほど自分の無力を知る。英語を少し齧っただけだが、それくらいで人に何かが教えられるとは思えない。しかし、教員になってみると勘違いでもしたように、大きな顔をして、教えてる気になっている人が多いように思えた。そんな人が教師だと、接する時間が多いだけに、生徒には災難である。この思いは自分が生徒の時も教師になってからも、その後数十年授業をした来ても、基本的にはかわっていないと思う。
 生徒に大人として接することが出来ない人は、相手は生徒の中の一人で、その人として見ていないのではないか。教室にいて教壇側から見るとよくわかる、自分と生徒全体という構図で考えがちになる。しかしこちらは一人でも、相手は人によって違う。反応もそれぞれである。もちろん一人一人に対応するのは時間的に難しいが、出来る限り一人一人と向き合う姿勢は持ち続けないといけない。一対多で接すれば、立場が元々教師の側の方が強いのだから、楽には決まっているが、その姿勢を忘れたら、一番大事なことを見落としてしまう。抽象的な羅列になっているが、一対多の中でも可能な限り一対一に持ち込む可能性を追い続けなければいけないと常に自分に言い聞かせ続けるしかない。一年目、二年目辺りに感じたかこの感覚は、その後もずっと心の真ん中あたりに居座り続けた。

 柿の小さな実がたくさん落ちている。150~200個近くありそうである。(↓)去年生ったのが7つ、干し柿に出来たのが6つと大違いだ。隔年の生り年に実際を、まざまざと見せつけられているようだ。樹にはまだ数百個も残っていて、台風や雨風でやられても、百個くらいは残りそうである。一時取り入れるのも洗うのも剥くのもきつく感じられて気持ちも重たかったが、今年は大丈夫そうである。干して少しは保存が可能とはいえ、妻はたくさん食べられないし、一人では食べきれないので、お裾分けするだけだが、好きな人もいるので、送る気持ちは保てそうである。
 次は、担任、か。

つれづれに

 

会議

移転先の新校舎

 新校舎に移転して3学年が揃い、新学期が始まった。各学年10クラス、1クラス45人、総数1350人の規模だった。1クラス55人だった私の高校の時に比べて、1クラス10人が減っていたわけである。3番目に作られた高校にも就職クラスはなかったから、ずいぶんと進学する人が増えていたわけである。ただ、理系の女子は数えるほどでほとんどが文系だった。就職する人も少しいたが、短大への進学が一番多かった。通える範囲内の神戸や西宮には短大がたくさんあった。新任研修から戻って職員室に入ったとたんに、この先長くなさそう、もって2年かなとは思ったが、授業が始まると毎日がバタバタで、なかなか辞める踏ん切りもつかないまま、月日が経っていった。非常勤の3ヶ月は授業と好きなバスケットの練習に付き合うだけでよかったが、授業、ホームルーム、課外活動の三つが中心の教諭の毎日が始まった、もっとも、いきなり担任を持たせると危険と判断されたようでホームルームはなかったが、代わりに教務の中で、校務の全体をながめることになった。

 新たに加わったのは会議である。と言っても月に一回水曜日にある定例職員会議と英語科の会議くらいだった。職員会議の前に議案を練る校務運営委員会があるのを知ったのはずいぶん後のことである。学校自体に余り関心がなかったからだろう。幸い、出来る教務の人のお陰で、毎月の会議は短くて済んだ。朝晩一便だが、近くの駅と学校を結ぶバスが毎日出ており、それを利用しているので、5時発のバスの時間に合わせて職員会議もそれまでに終わっていたからである。今から思えば、大抵は文書を回せば済むような内容が多かったから、年に数回、入試の合否判定、成績の承認、退学や停学の議決など、どうしても全員の承認が要る項目だけを審議して決を取ればよかったと思う。せいぜい年に数回で済む話である。英語科の会議は必要な時だけだったが、一度だけ大声で怒鳴り返した人が主任だったので、腹を立てることが多かった。退職したあと「あの頃、たまさん、会議が終わって部屋から出て来て、そこらじゅうを蹴りまくっていましたよねえ」と言われたことがあるから、血気盛んだったようである。

ラ・グーマ(小島けい画):

最初の科研費はこの人でもらった→「 科学研究費 1」(2020年)

 科学研究費の最終報告書を書いた。20日が締め切りで、ウェブで報告しないといけないので気が重かったが研究協力課の人の助けを借りて何とか完了した。定年退職後の科研費の申請は書類が面倒で渋っていたが、研究協力課の人任せで書類を出した。個人の場合は最高500万でその7掛け程度が交付される場合が多いのだが、申請額などを決めてもらって効果てきめん、4年で400万を超えたのは初めてである。応募枠は文学。人件費と旅費が大半で、運営交付金が削られて、削られて、今や研究費が雀の涙ほどだったので大いに助かった。ただ、最後の2年間はコロナ騒動で移動が出来ずに旅費を使えなかった。授業は去年の4月からやっていないが、この3月まで科研費が残っていたので、研究室にはときたま出かけていた。今は研究室がずいぶんと遠くなった。学術振興会から修正依頼が来なければ、一件落着のようである。名古屋の医療専門職大学に内定していたので、あと2回ほど、エイズの小説と奴隷体験記を軸に科研費が取れると思っていたが、忖度政治のあおりを受けて風向きが変わり、機会は来ないかも知れない。戦争の時ほどではないが、いつも国の決定に右往左往である。国家公務員とはそういうものだろう。書類を書くのも、ウェブで申請するのも、しなくて済むのが何より有難い。この先、売れると出版社が判断するかどうかだが、書き溜めておくモードに入っているので、授業も、科研費の申請も億劫になって来ている。こちらも、先行きが極めて不透明である。

修士論文はこの人(小島けい画)で書いた→
“Richard Wright and His World”

 次は、教室で、か。

つれづれに

懇親会

移転先の新校舎

 間借りの木造校舎からコンクリートの新校舎に移転して、新学期が始まった。前回の写真(↓)は新任研修を終わって初めて「出勤」した日に、職員全体で取ったものである。面倒臭いので、新任研修の続きでスーツを着て行ったが、写真を撮るとは思わなかった。大勢の人たちである。一番前に並んでいるのが年寄り組で、新設の場合、呼ばれたか、便乗して転勤して来たかのどちらかだった。呼ばれたのは、前回書いた教務の人と、生徒指導の人くらいなものである。校長と教頭とその二人が中心になって、最低限のメンバーを連れて来たという感じだった。私は校長が連れて来た一人、新任研修にいっしょに行った人は教頭が連れて来た一人というわけか。他は便乗組で、質(たち)が悪い。可能なら関わりたくない人たちだった。なるべく近くに来て欲しくなかった。英語科の人は、中堅の二人以外は便乗組で、この人、授業大丈夫なんやろかと心配になる人もいた。

 たぶんその週に、さっそく懇親会があった。元々酒を無理強いされるのも嫌だったし、有象無象の人たちに色々聞かれるのも鬱陶しかった。校長室で髭の話をしたとき、懇親会についても話が出ていた。

 「懇親会、鬱陶しいですね。人が集まるのがどうも苦手で」
 「そうか。あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」
 「そうですよねえ」

 だから、もちろん懇親会には行かなかった。関わりたくないと思える人が多そうだったし、懇親する必要性が感じられなかったからである、というより、なんで好き好んでいっしょに酒を飲んで話せなあかんねん、と思っただけである。
 懇親会の次の日、同じ列の一番南側に構えている教頭が「玉田クン、玉田くん、ちょっと」と大声を出して、手招きして呼んだ。私から話すことはないので行きたくなかったが、仕方なく席まで行った。

 「玉田クン、懇親会、どうしてたん?」
 「懇親会、行きませんけど」

 会話はそれだけだった。たぶん、懇親会になぜ来なかったのかを確かめて、次からは来るように促すのが自分の役目だと信じて疑わなかったんだろう。そんな態度が見え見えだった。次の言葉を言われていたら「あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」て言われてますけど、と言うつもりだったが、その時は言わずに済んだ。これで収まるわけがない。尾を引きそうな悪い予感がした。一度爆発してもろに感情をぶつけられ、職員室の端から端までにじり寄られながら怒鳴られ続けたことがある。ほとんどの教員が自分の席に座っていた。→「ロシア語」(4月5日)の授業の時と同じで、相手が怒鳴って来た時にぷいと黒板の方を見つめたからである。意思表示のつもりだったが、日頃溜まっていたものが一気に噴き出したんだろう。溜めるのは体によくはない。そんなこともあったが、全般には、校長と教務の人に守られていたお陰で、髭を剃れとも言われず、懇親会も強要されずに済んだ。
 教務の人は校長が直々に連れて来ただけのことはある、数学科は実力のある中堅どころを集めていた。全員が同窓生で、広島大の卒業生で作る「尚志会」の会員が大半だった。本人は、後に教頭試験を受けに行ったあと「ワシ、辞めるで。あんなんやっとれるか」と言って、早々に管理職のコースから降りてしまったが、他の「尚志会」の人たちは堪(こら)えてその後無事管理職になったようである。
 英語科は便乗組が多くて大いに問題ありだったが、こちらに火の粉が飛んで来ないかぎり、自分のことさえやっていれば気にならなかった。ただ、同窓の意識を持ち出し先輩風を吹かせる年寄りが、ときたま出しゃばって踏み込んで来るので、鬱陶しかった。出来るだけ避(よ)ける努力はしたが、一度だけ、みんなのいる職員室で怒鳴り返したことがある。言うことを聞かない「後輩」が癇にさわったに違いない。

 「お前、後輩のくせに生意気な」
 「あんた、先輩言うんやったら、ずるせんとちゃんとやらんかい」

 播州弁は果てしなく口穢い言葉である。出来れば使いたく、ない。

 新校舎の完成した年に出された「校舎竣工記念誌」(↑)で、全員書くよう教員にも原稿依頼があり、「生きゆけるかしら」を書いて出した。ホームページとブログに載せてある一番目の「(印刷物として)書いたもの」(→「書いたもの一覧」)である。
 次は、会議、か。