つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:言語表現学会

 中間管理職を利用して体制強化を目論んで創られた(↑、→「大学院大学」、6月13日)とは言え、院に通う「学生」が日常で文部省の目論見を感じることはなかった。多少年嵩は行っているが、誰もが授業に出て講義を受け、学期末には試験を受け、昼は学生食堂に行き、空き時間や放課後を利用して図書館(↓)に通うという「普通の」学生生活を送っていた。出来る限り大学に行かず、授業に出る回数を如何に減らすかに腐心し、図書館や学生食堂があることにも気づかなかった学生は、大半が教育系出身の現職教員の中では、今も昔も天然記念物だろう。

 国語と英語の壁を取り払う「言語表現」が目玉だっただけあって、入学した時点で自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。経緯はどうであれ、業績が必要だった私には「黒人研究の会」とは別の発表の場があるのは有難かった。修士課程が終わるまでに、「言語表現」(↓)で1本、「黒人研究」で2本が活字になった。口頭発表も合わせて5回ほどさせてもらった。何の準備もなかった2年間のわりには、最低限はやれたようだ。それが精一杯だった。どちらも業績欄に項目がある。

 今更授業でもなかったが、教養科目も含めある一定の単位は必修で選択の余地はなく、仕方なく授業(↓)を受けた。教養科目は教員がついでにやっている感じのものが多かったようだが、たしか2つか3つで済んだのは何よりだった。(→「キャンパスライフ2」、6月15日)専門でも出来るだけ嫌なものは避けたかったが、英語教育の枠で英語教育法と英語評価論、言語学の枠で理論言語学というのが厄介だった。ただ、現職教員を再教育して元の学校に戻すという暗黙の諒解の下に、あり得ない答案でも、優はつかないまでも可くらいはくれる仕組みのようだ、と勝手に決めつけていたから、何気に気持ちは軽かった。しかし、英語評価論と理論言語学は、箸にも棒にも掛からなかった。担当の3人とも異動組ではなく呼ばれた口のようだった。ごくまともな感じがしたので、少し後ろめたさは感じたが、仕方がない。

 私より若い学生は二人だけで、四十代も何人かいた。いっしょに英語評価論の授業を受けた人で一人、この人大丈夫かいな、これで人に授業出来るんやろかと心配した人がいたが、小学校の教員だったと聞いて少しほっとした。卒業間際に神戸のデパート前(↓)で遠くから見かけたとき、東北に帰る前に目一杯買い込んだようで、土産の神戸風月堂の袋を両手に一杯にぶら下げていた。家族で歩いていた光景は何だか微笑ましかった。児童には優しくて、いいせんせなんだろう。まったく問題なしである。

 言語系英語の14人は大学(↓)の寮か近くに住んで、上の何人かの人柄がよかったのか、仲もよかったようで、いっしょに飲んだり勉強会もしていたようだ。私は別枠で考えてもらえていたようで、教育系にありがちな押し付けもなかったし、毎回誘ってもらうのも悪いので、勉強会に一度だけ行ったことがある。運用力がうるさく言われていない時代にしては、英語の運用力のある人も多かった。一番年上の52歳の人は温厚で、言葉遣いも丁寧、おまけに英語の実力もありそうだった。東京の公立中学校で全部英語で授業をしているらしく、教生(Student Teacher)がその人の学校に実習に来た時の話はおもしろかった。教室の後ろに立っていた教生に、その人は教壇から"Why don’t you sit down?"と話しかけたら、教生はもじもじしながら"Because….”と口ごもったとたん、生徒がどっと笑い出したということだった。毎回英語で授業を受けている生徒の自然の反応だろう。その話を「黒人研究の会」の例会でしたら、外大の院を出た後、非常勤をしていた人が「Because….ではいけないんですか?」とぼそっと呟いていた。ことさら英会話、英会話と言い過ぎるのも考えものだが、"Why don’t you~?"の話を聞いて、想像力を働かせるくらいはしたいものである。英語が使える学生は、口でこそ言わないが、英語の授業では相手にもしてくれない。

 3学期制のおかげでアメリカに行く前に取れる単位はすべて終わり、9月からは週に一度、ゼミの時間に行けばよかった。「ゼミ選択」、6月14日)
次回は、明石城、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会

「アレックスとのうぜん葛」

 陽射しが焼けるほど熱く、真昼に出かけるが億劫になる。なんとか散歩に出たら、あちこちでのうぜん葛の鮮やかな朱色の花が樹に登っているのが見える。家でも北側の樹の下に植えて、花が樹に登って咲いた時期もある。この前紹介したねじばなと同じ暑い頃に咲く花だと、また改めて実感した。カレンダー(↑、→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」)や本(↓、→『劇作百花2』、装画、1998)の装画にもなっている。(→「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」)宮崎に来てから、よく見かけるようになった花の一つである。

 修士論文のテーマを決め、アメリカで資料も手に入れ、教歴のお願いもしたので、あとは修士論文も含め業績である。6年間も大学にいて全く知らなかったが、その6年の間も「黒人研究の会」の人たちは、学生運動で学舎が封鎖されて使えない時以外は、研究棟(↓)の一室で毎月例会をやって、研究発表を続けていたらしい。

 ひょっとしたら、学舎が封鎖されたときも、他の場所でやったかも知れない。会を作った一人が学生側に立って最後まで学生を支援していたらしいので、ひょっとしたら学舎が封鎖された(↓)時期の例会はなかったかも知れない。

 アフリカ系アメリカの作家(↓)で修士論文のテーマを決めた、業績も必要である、そう考えたら、黒人研究の会は私にはこれまた宝庫だった。人がたくさん集まる大きな学会は苦手だが、幸いこじんまりした研究会だと聞いた。ゼミの担当者だった貫名義隆さん(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)が1954年に同僚、卒業生、院生とともに「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表」を目的として研究会を始めたらしい。1950年代、60年代のアメリカの公民権運動(the Civil Rights Movements)や1960年前後の変革に嵐(the Wind of Change)の吹いた独立の時期とそのあと暫くが研究会として最も勢いがあった時期だったと思うが、私の入った1980年代の初めころは、活気があったとは言えない。会誌を何とか発行し、例会も辛うじて続けている、そんな風に見えた。

 会誌「黒人研究」(↓)は50号ほど出ていたが、原稿も集まらず、資金も底をついていたと聞く。例会には、会誌の編集を担当していた先輩と、外大のアメリカ文学担当の教授と神戸商大の教授と私立高校の教員の4人は毎回ほぼ参加していたが、参加者は10人前後で一人か二人の発表を聞いたあと、打ち合わせと少し話をする程度だった。地味だがアフリカ系もアフリカもどちらも知らないことだらけだったので、私にはそれなりに毎回面白かった。会誌の編集は先輩、会場の手配と例会案内はアメリカ文学担当の教授、例会発表の担当は神戸商大の教授、会計と書記は私立高校の女性教員が細々と担当していた。4人とも私より20歳ほど上の人たちで、見ていると気の毒になり、そのうち会誌、会報の編集と例会案内をつい引き受けてやるようになっていた。今のようにメールが使えるわけではないし、パソコンから印刷できるわけでもないので、せいぜい当時流行っていたプリントごっこで印刷か、一枚一枚手書きで例会案内を作って切手を貼り、中朝霧丘の家の近くの郵便局から発送した。会誌と会報の編集は面倒くさいことも多かったが、雑誌の出来は如何にいい原稿を集められるかに依るということを思い知った。原稿依頼の遣り取りに一番時間と労力を使ったと思う。授業をするのに向いていると授業をして始めて気づいたが、編集もやってみて同じような感じがした。もちろん、避けることが出来るなら、それが一番である。

「黒人研究」52号

 例会では半年に一度くらい発表させてもらい、会誌には1982年の52号から1988年の58号まで5回書かせてもらった。宮崎に来てからも続けるつもりでいたが、1985年辺りからわりと厚かましい女性たちが業績目当てに入会し始め、その数がかなり増えた頃に億劫になって退会した。世話になっていた出版社から研究会編で出版したが、出版が当然のような顔をして自分は金を出さない人たちが多く、出版社との板挟みが最終的な退会の原因となった。出版社か研究会かを迫られた格好になってしまい、先輩にも言えず、いつも会っていた人たちにも挨拶も出来ずに、黙って退会した。地味な研究に裏付けられた例会と、編集も手伝うことになった会誌、会報(↓)にはずいぶんと世話になった気がする。今は大学が神戸市の西側に移転し、関係者がほとんどいなくなって、事務局ごと東京に移っている、と久々に東京で会った知り合いに聞いたが、詳しいことは知らない。

会報「黒人研究」第1巻第1号

 次は、言語表現学会、か。言語表現が目玉で開学した(→「大学院大学」、6月13日)ようで、自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。院(↓)で受けた授業やゼミなどについても書くつもりである。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:あのう……

 テーマも決めてアメリカで資料も仕入れてきたので、あとは書くだけ、と言いたいところだったが、もっと先にすべきことがあった。教歴と業績である。博士課程もどうなるかわからないし、応募のためには教歴と業績が要るからである。(→「修士論文」、6月18日)業績は黒人研究の会と大学(↑)の言語表現学会に入ったので、書けばなんとかなりそうだが、問題は教歴である。先輩に頼むしかない。こっちは勝手に後輩のつもりでいるが、大学の購読の授業をたまたま受けただけで、その人も夜間だったと聞いたからだ。私と17歳違い、子供さんが二人いて、下の男の子とも17歳違い、ちょうど真ん中なんやと思ったことがある。一度神戸市塩屋(↓)のマンションにお邪魔したことがある。奥さんが笑顔で迎えて下さった。部屋に上に女の子が座っていて、小学生の5年生か6年生くらいだった。

 今は神戸の北の方の住宅地に一軒家を買って引っ越したらしく、授業では大阪工大で教授をしていると言っていた。おおざっぱな人で、「地下にひそむ男」のテキストを読んでいる時に「あのうtinyやなくてtinnyやと思いますけど」と言ったら「ほんやま、そやな、気ぃつかんかったわ」とさらりと言っていた。学生も気軽に話しかけ、話も気さくに聞いてくれた。教員採用試験の時は、高校の教員と県教育員会の指導主事をしたことがあると聞いていたので、面接試験の前に電話で「面接」(5月9日)のことを聞いた。「髭か?そうやな、ワシやったら、4段階の一番低い1をつけるな」という返事だった。

兵庫県庁

 アメリカから戻ったあと暫くして、会いに行くことにした。早く高校を辞めるように急かせてくれた妻もいっしょに来てくれた。すでに黒人研究の会では顔を合わせていたので、「あのう……」と少し言いづらかったが、要件を伝えた。話をじっくりと聞いてくれたあと、しばらく黙っていたが、意を決したように話し始めた。結論は「大きな決断やし、引き受けたらワシにも責任が出来るし、即答は出来んな。じっくり考えて、半年あとにもう一回来てくれへんか。その時まで気持ちが変わらんかったら、その時また考えるわ。」ということだった。いつもの気さくな雰囲気はなく、相当な決断なのが伝わって来た。

黒人研究の会の例会があった神戸外大研究棟(同窓会HPより)

 もちろん、決めて訪ねたわけだし、結論が変わるはずもなく、半年後にもう一度二人で家を訪ねた。「よっしゃ、わかった」と言うことだった。先行きはわからないが、修士論文締め切りまで一年と半、業績も含めて自分に出来ることはやっておくしかない。
 その後しばらくしてから、「同じ外大を出た後輩の中に親しくしてるのがいてるけど、あんた、会いに行ってみるか?京大の博士課程を出たあと、今甲南女子大(↓)の教授をしてるで。いろいろ話をしてくれると思うで。参考になるんとちゃうか。」と言われた。試験でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)甲南女子大か。何か縁でもあるんやろか。再び甲南女子大の校門を通るとは思ってもいなかった。
 次は、黒人研究の会、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:米麹

 「中朝霧丘」(6月17日)の家に転がり込んでから暫くは時間が取れないままだったが、大学院に通うようになってからは(→「キャンパスライフ2」、6月15日)、買い物や子供との時間もずいぶんと増えた。買い物はまだ小売店が存続できる時代だったので近くの店屋で済ませることもあったが、大抵は明石駅の南側にある魚の棚に出かけた。行く途中にもその近辺にも結構立ち寄れる店屋があって、大体はそれでこと足りた。明石駅デパートにも店屋が入っていて、持ち帰りの出来る何個所かは定期的に利用した。自転車なら行動範囲も広がるので、あちこちに寄りながら買い物が出来るのは有難かった。魚の棚(↓)は京都の錦市場ほど大規模ではないが、魚や海産物の他にも野菜の店屋もある。店は東西の通路沿いの両脇に並んでいて、夕方などは買い物客も多い。年末はお正月用の鯛などが目当ての客が大勢押し寄せて盛況だ。この2年間はコロナの影響もあったはずだが、大丈夫だったのか心配である。突き当りの出口を南に折れれば、明石港の方角で、港へ行く途中にも店屋がある。

 ある日、その通りの右側にある麹屋(最初の写真)の店先に真っ白な麹が並べられているのが目に入ってきた。洗濯板くらいの長さの板枠で出来た専用のケース(↓)に米麹が均等に引き延ばされて、そのケースが立てかけられていたのである。陽に干して、乾燥させていたようである。あまりの白さに誘われて店に入ってみた。聞いてみると、江戸創業で赤松藩の時代から代々続いている麹屋だった。

 その日は、味噌を買って帰った。その味噌が絶妙な味だった。それ以来、その店の味噌がかかせなくなった。よく行くので、店屋の同年代のご夫妻とも懇意にしてもらい、たまに甘酒もご馳走になった。室町あたりから続く味だと思うと、感慨深かった。京都では先の大戦と言ったら応仁の乱どっせ、とは聞いたことがあるが、身近に室町、江戸創業の店屋があるとは知らなかった。大発見である。今は娘さん夫婦が店を切り盛りしているようで、注文するときに電話で元気な声を聞く。明石より宮崎の方が長くなってしまったが、その間味噌はずっと取り寄せて、切らせたことがない。娘も愛用してる。先日は味噌を切らせて、初めて味噌の味がわかったと電話で言っていた。体調を崩しそうになった時、生活習慣を見直す必要性を思い知って、食生活も見直した。肉も野菜も苦手な私には、発酵食品の味噌や豆腐や納豆は命綱、味噌汁が毎食飲めるのも、この味噌のお陰である。

 近くなら米麹も買いに行くのだが、甘酒は毎食欠かせないので、地元産の米麹(↓)を使っている。
 次は、あのう……、か。先輩に頼むしかない教歴の問題である。