つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合2

 今日は金曜日、マッサージをしてもらいに白浜に出かけた。風のきつい日以外は、曽山寺浜から海岸線の歩行者・自転車専用道路に入る。3週間続けて雨にやられたが、そのあと3回続きで晴れてくれた。橋を少し登ってから見える海の景色(↑)はなかなかである。最近は週に一度手入れをしてもらうペースが出来ている。歳を取るといろいろな所で体が悲鳴を上げるようで、最近はとみに関節の節々が痛くなる。毎回ありがたいなあとしみじみ感じながら揉んでもらっている。
今回は、反体制ーグギさんの場合2である。
前回は『作家、その政治とのかかわり』の序の私の日本語訳を紹介したが(→「反体制ーグギさんの場合1」、6月2日)、今回は、母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳の紹介である。そう考えて書き始めてみたが、量がかなり多いので、また分けることにした。先ずケニアの日頃の文化状況についてである。序では、「毎日の生活を形成する階級の権力構造と文学が無縁ではいられ」ず、作家は「民衆の側なのか、民衆を抑圧し続けようとする社会権力や階級の側なのか」を選ぶしか選択の余地はないと強調している。ケニアの人はどんな文化状況の中で生活しているのか。少し長くなるが、いかに外国資本に食い物にされているかを書いた件(くだり)の日本語訳である。『作家、そのの政治とのかかわり』の第一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)第3章にケニアの文化状況が詳しく書かかれている。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 「ケニア人の文化―生きのびるための国民的な闘い」の中の以下の件(くだり)である。
「今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくり仰天すると思います。
そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう。配給映画は、インドシナのアメリカ帝国主義的冒険主義に少し批判的な『帰郷』などの穏やかな秀作から、最後の審判の日や人類の文明の終末という意味で言えば、変革や変革の可能性が見られる『オーメン』や『マジック』などの大量生産された知性のかけらもない駄作まで様々です。変革の手先は悪魔なのです。ヒーローたちは(もちろんすべてアメリカ人ですが)、アメリカドルと銃によって保障されている現在の安定を脅かす、黄泉の国あるいは宇宙からきた悪漢と闘う人たちです。
同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません。このように、ケニア人の読者に開かれたマスコミの二大手段は外国人帝国主義者の会社が所有しているのです。編集者はケニア人かも知れません。しかし、編集方針と外国人所有者の間で意見の食違いが合った時は、譲らなければならないのは、ケニア人側なのです。
訪れた人でもしケニアの出版社をみたいとしたら、ハイネマン、ロングマン、オクスフォード、ネルソン、マクミランなどの有名な外国の会社のケニア人の支局長が温かく歓迎してくれます。ただひとつの例外は、ケニア政府所有のケニア文学局です。そういった出版社はケニア人によって書かれた本を出版することもあります。しかし、本の出版は質量ともに外国人の思いのまま、手の内にあるということです。

ゴンドワナ創刊号(横浜:門土社、1984年9月)

ハイネマンアフリカ支社長ヘンリー・チャカバさんの祝辞

 さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉を換えて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なものを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです。この過程は子供たちが勉強するように仕向けられる文学によってその速度が加速されます。だから、シェイクスピア、ジェーン・オースティン、ワーズワースがケニアの学校の文学の分野でいまだに支配的なのです。ケニアの言語状況は、ケニア人(大半は農民)の九十パーセント以上が、書かれた言葉で行なわれている国民的な論争にまったくと言っていいほど関わりを持っていないということになります。」
文学も「毎日の生活を形成する階級の権力構造」と無縁ではいられず、「民衆の側」を選択した作家として、ナイロビ大学の教員として文学部の三大企画「ケニアの学校の教材として相応しい文学の検討、文学と社会に関する連続公開講座、無料移動劇場」にグギさんは取り組み、「リムルの農民や労働者の文化活動」に深くかかわる中で反体制の色が濃くなった。その手始めが母国語のギクユ語で書き始めることだった。農民が読めないと話は始まらないからである。その現状のなかで、ケニアの人たちは何をすべきか。

ナイロビ大学

 「ケニアの人々は歴史を振り返ればいいのです、そうすれば他のものをやみくもに真似てみたり他人と同じことを繰り返してみたりして栄えた文明があったためしがないことに気付くでしょうし、いかに意志があり、賢明で才能に恵まれていても、或いはいかに独創的であっても、外国人が私たちの文化や言葉を私たちのために発展させられはしないことも分かるでしょう。ケニアの文化と言葉を発展させられるのは、国を愛するケニア人だけなのです。私たち国民の産物であり、その歴史を正しく映しだしている文化だけが、ケニア人の共同体の最前線にケニアを押しやることが出来るのです。人々が働かないからではなく、富がアメリカや西ヨーロッパや日本の少数の怠惰な階級に食物や衣服を供給したり、その人たちを庇護するために使われているがゆえに、現在、人類の四分の三以上が物乞いと貧窮と死に追いやられているという社会的共食い状況から逃れて、現代の人間文明を打ち建てる手助けになれるのはそのような文化なのです。
帝国主義者と国民の利益の間の現在の文化闘争の中では、世界の農民や労働者から掠め取る儲けを独占出来るロンドンやニューヨークやその他の地位の立場にいる金融業者にたいして破れかけのズボンをはいた慈善家であるこれまでの立場を完全に拒絶した国民の力と自信を現代のケニアの国民文化が反映すべきだという見方を、大部分のケニア人が持ってほしいと私は思います。」

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 「民衆の側」を選択したグギさんは、自らの母国語で書き始めた。
次回は、反体制ーグギさんの場合3、か。ギクユ語と英語を含む言葉についてである。

つれづれに

つれづれに:反体制ーグギさんの場合1

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

 今回は、反体制ーグギさんの場合である。
新聞で韓国の詩人金芝河(きむじは)さんの訃報を読み、グギさんの評論の中に引用されていた詩を日本語訳した縁で、金芝河さんに関する「つれづれに」を5回書いた。(「金芝河さん」→「1」、→「2」、→「3」、→「4」、→「5」、5月26日~29日)学生運動の過激派の風貌にたまたま似ていたせいで警官にしつこく職務質問されているうちに(→「髭と下駄」、4月19日)、自分の中にある反体制の意識に気づいたのだが、この前の科学研究費のテーマ「アングロ・サクソンの侵略の系譜」(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」、2022年3月)はまさに反体制そのものだった。この五百年に渡って欧米中心の自称「先進国」がいかに好き勝手やって来たか、というテーマがよくもその「先進国」の一員である国の日本学術振興会に選ばれて予算が交付されたもんやと感心したほどである。修士論文(→“Richard Wright and His World”、1982)に選んだアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(↓、→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月)も、→「MLA」、2020年2月)で発表する作家に選んだ南アフリカのアレックス・ラ・グーマ(→「闘争家として、作家として」、→「拘禁されて」、→「祖国を離れて」、1987)も、出版社の社長さんから評論の日本語訳を頼まれたグギさんもすべて反体制の作家である。金芝河さんが1974年に死刑宣告を受けたのも、体制側朴正熙軍事政権にとって詩人としての影響力の強い金芝河さんが脅威だったからである。訃報を読んで金芝河さんについて書いた時に、この機に、反体制の題でグギさんとラ・グーマとライトについてまとめておこうと考えた。先ずは、『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳をしたグギさんからである。

リチャード・ライト(小島けい画)

 ロンドンを拠点にジェームズ・グギの名前で作品を書いてる限りは「ナイロビ大学教授、世界的に著名な作家」のままで居られたが、ある時点から体制の脅威となり、投獄され死を覚悟して、亡命の道を選んだ。何が体制の脅威になったのか。それは母国語のギクユ語で描き始めたことと、グギさんの感化を受けて大衆が自らの意思で動き始めたからである。『作家、その政治とのかかわり』の中に、その手掛かりがある。序で概要が書かれ、作品や文化活動を通して得た成果、特に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている。今回は序の私の日本語訳を紹介し、次回に母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳を紹介したい。作品は一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)で、1ー文学と社会、2ー学校での文学、3-ケニア人の文化―生きのびるための国民的な闘い、4ーある戯曲に架けられた「手錠」、5-原点に立ち戻って、あとがきー文化に関して、二部(作家、その政治とのかかわり)では、6-作家、その政治とのかかわり、7ーJ・M―ある作家への献辞、8-再生―マウマウ、解き放たれて、9-慈愛の花びらと項目分けしている。「序」の私の日本語訳である。

グギさん

 「本書に収められた評論は一九七◯年から一九八◯年の間に書かれたもので、七十年代の私の心を支配していた「人生にとっての文学の妥当性とは何か?」に要約されるいくつかの問題を示しています。文学の妥当性を求めていた私は、文化と教育の問題から言語や文学や政治に及ぶたくさんのイデオロギー論争に巻き込まれました。そのお蔭で、ナイロビ大学(↓)での文学部との深い関わりや文学部主催の多くの活発な討論や活動から、リムルの農民や労働者の文化活動まで、同じように深くかかわるようになりました。

 私にとっては、変化に富んだ恐るべき十年でした。最終的には、もはや私は一教師ではなく、ケニアの農民と労働者の足元で一人の生徒になっていました。その結果が、民衆に根ざし、国を思い、伝統を持つ文学や国民的文化に再び自分自身がかかわるための、アフリカ系サクソン文学からの私の新しい旅立ちとなりました。こういった変化が、この十年に書いた私の作品の中に反映されています。七十年代の初めに、すでに私は英語で『炎の花びら』を書き始めていましたが、七十年代の終わりにはギクユ語で『サイタアニ・ムサラバイニ(十字架の悪魔)』を書き終えていました。演劇の分野では、ミシェレ・ゲタエ・ムゴと英語で書いた『デダン・キマジの裁判』と、グギ・ワ・ミリイと一緒にギクユ語で書いた『ンガアヒカ・デーンダ(結婚?私の勝手よ)』の脚本をこの時期に生み出しました。また、ナイロビ大学の教員生活から奈落のカマタ最高治安刑務所の牢獄に放りこまれたのもこの時期です。

『炎の花びら』

 ケニアの学校の教材として相応しい文学の検討、文学と社会に関する連続公開講座、無料移動劇場の年次企画を通じての民衆主体の取り組み、という文学部の三大企画の妥当性を探っていた私の気持ちに刺激を与えてくれました。
従って、例えば文学と社会に関する論文は、ケニアの学校での文学教育に関して、一九七三年にナイロビ学校で行なわれた文学部主催の文学会議に出席した教師のために書きました。「作家、その政治とのかかわり」についての論文は、文学部企画の公開講座で読みました。そして、大半が言語と演劇の問題で占められているのは、帝国主義に組する文化と、国を大切に思うケニアの国民文化との間の大きなイデオロギーの闘いが、特に劇場で烈しく繰り広げられたという理由に過ぎません。
このイデオロギーの闘いは、J・M・カリユキが暗殺されたり、国会議員、労働者、作家、学生、国を思う知識人がそれぞれ拘禁されたり投獄されたりした七十年代のケニヤの高まる闘争を順に反映しています。J・Mとその著書『マウマウ、抑留された人々』に関する二つの評論は、台頭するケニアの右翼政治勢力の抱く不安を示しています。本書の評論が、これからも続く国を大切に思う国民文化の闘いに少しでも役に立てば、というのが私の願いです。その闘いは、帝国主義者の利益を反映する外国主体の文化の攻勢に抵抗するケニアの国益を映し出しています。

 しかしながら、アフリカやアジア、ラテン・アメリカなど、世界で起こっている事態と切り離してケニアの闘いを見てはなりません。経済や政治や文化の外国支配に反対するケニア人の闘いは、第三世界やその他の地域で争われている闘いと同種のものです。ですから、私たちを結ぶ絆を示すために、韓国とアメリカに関する評論を何編か収めています。
私たちの毎日の生活を形成する階級の権力構造と文学が無縁ではいられませんから、私はこの本に『作家、その政治とのかかわり』という題をつけました。そこでは、作家に選択の余地は残されていません。その作家が意識しているかいないかにかかわらず、多かれ少なかれその作品は、経済、政治、文化、イデオロギーの激しい闘争の局面を照らし出しています。作家に選べるのは、民衆(↓)の側なのか、民衆を抑圧し続けようとする社会権力や階級の側なのか、戦場ではどちらかの側かしかないのです。その作家が男性であれ、女性であれ、中立に留まることだけは出来ません。作家である限り、政治とのかかわりを持たずにはいられないのです。問題は、どんな政治なのか、誰の政治なのかということです。グギ・ワ・ジオンゴ ケニア リムル村ギトゴオジにて。」

農園では働く人々

 次回は、反体制ーグギさんの場合2、母国語で書く重要性と民衆とともに闘う必然性を説いている部分の日本語訳の紹介、か。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ホームルーム2

 修学旅行を予定していたが、その前に、ホームルーム2(→「ホームルーム」、5月24日)を挟み、2年目と3年目に担任したクラスについて書くことにした。二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。学年の方針で関学に10人を入れるために英語でクラス分けをして、上位の2クラスのうちの一つの担任になった。(→「学年の方針」、5月23日)文系と理系に分けるのは3年次からで、文系と理系が入り混じったクラスだった。入学時の英語の成績でクラス分けしたが、一年で半分くらいが入れ代わっていた。一年目に偶数クラスを持って英語の力は大体把握していたので、予想通りで納得のいく顔ぶれだった。最初の会議で「自分が受験勉強もしてないのに、英語でクラス分けしてがんがんと言われても」と反対したが、優等生の集団は受験勉強をしなかったこと自体を信じようともせずに、ことを進めてしまった。多勢に無勢、気付けば、きっちりと押し切られてしまっていた。しかし、現実には何が起きるかわからないものである。一年目のホームルームは可もなく不可もなくだったが、二年目はなんと、リーダーシップを取れる人がいるとこんなにも違うんやと教えてもらった。その男子生徒は出来れば人前を避けたいと思っている風だったが、渋々ながらリーダー役を引き受けて、ホームルームも仕切ってくれた。少し裏事情もある。1年の時にすでにワルで一目置かれていた生徒が、そのリーダー役となぜか気があってしまったうえ、リーダー役の仲良し5人組と、女子の仲良し5人組が仲良くなってしまったのである。編入生も私の判断でクラスに入れた。神戸から来た最初の編入生だったこともあり、編入試験の時は大丈夫やろかと心配していた人たちもいたが、最初の模擬試験では2番、学籍番号の近かった素直な生徒とすぐに仲良しになり、クラスにもすんなり溶け込んでしまった。3年でも担任をして卒業したあと、たままたま神戸のデパートで会った時は、久しぶりでよほど嬉しかったのか、たまさ~んと大声を出しながら抱きついて来た。母親もいっしょだったので、どうしたらいいものかと、困ってしまった。不安だった編入時もその後の2年間も、楽しく過ごせたようである。
ワルで一目置かれていた生徒は二つ年上で、訳ありのようだった。関西に静岡県の浜松からきたこともあり、年齢も言葉遣いも違うし、髪型がいかにもワル風で、剃り込みもあった。他の学校の生徒と暴力沙汰を起こして停学になっていた生徒も黙って従っていたようで、担任をはじめ、教師も当たらず触らずという感じだった。私は弟もワルのリーダーにさせられていたらしいし、やくざの子弟とも遊んだりしていたので、エネルギーの行き先さえ間違えなければ大丈夫という変な自信もあった。すんなり仲良くなった。廊下を歩いている時に、何人かで廊下の壁を背にいわゆる「便所座り」をしている中にその生徒がいたので「こう座ったら楽なんか?」と言いながら、横に「便所座り」で並んで、しばらく話し込んだことがある。普段はトレパン(当時出回っていた体操時間に使う白のトレーニングパンツ)にTシャツを着て、スリッパを履いていたので、廊下に座っても支障はなかった。何人もの生徒がもの珍しそうに眺めて通り過ぎていた。「ええ、まあ」と少し照れ笑いを浮かべていた。訳ありの中には、継母との軋轢や父親への反感、教師との揉め事も含まれているようだった。大人との摩擦で出来た心の傷が、すぐに和らぐはずもない。それに、30までそう時間もなかったし、本当は人より自分の方が心配なくらいだった。(文芸部員に頼まれて書いた→「露とくとく」、「黄昏」6号、1978年)

 教師とクラスを教師からみた「一対多」で捉えてしまうと気づかないままだが、一人一人を個別に見ると、実に多彩である。私は気づいてもらえなかったようだが、新しいクラスに男子で二人、女子で二人も集団に馴染み難そうな生徒がいた。私が気づいていることを本人が自覚していたかどうかはわからないが、最初から何となくぴんと来たが、じっくりと見るうちに、やっぱりそうやったと合点がいった。クラス全体にはあまり干渉したくなかったので、座席も自分たちで決めやと言っていたが、年休明けに来て見ると座席表が出来ていた。どうも学年付きの補佐の人が代わりにホームルームの時間に行って、決めてくれたようだった。聞いてみると、その人の意向で決めたらしい。自分たちで決めやと言っていたし、納得も行かなかったので、その人に断ってみんなに決め直してもらった。好きな所に座ってええんちゃうと言ったときは、集団に馴染めない男子二人が向き合って座っていた。一人は背中を向けていたが、授業中にしゃべるわけでもないので、お前らようやるなあ、と言ったきりでそのまま授業を続けた。しばらくして飽きたのか、いつの間にか元に戻っていた。その続きがあった。ある女子生徒が「政経の人、教室に入って来るなり、お前らこのごろ机がまっすぐに並んでないな、と言って、机を並べ直させんねんよ、たまさん」と立って文句を言っていた。机はまっすぐに並んでないと気が済まない人が、教師には多いようである。
何人かは本人に確かめて、3年でもクラスに入ってもらった。ただのお節介である。卒業の時の一言が「やまびこ」(↓)という文集の中にあって、今も手元にある。

 リーダー「嫌んなった。もぉーだめさぁー。だけど腐んのはやめとこおー。日の目を見るかもこの俺だって。もひとつ気張ってイイ娘を見つけに出かけよお。なんとかしてくれ。神様。仏様。どうも、どうも。」
ワル「もうすぐだ……。もうすぐだ……。見たまえ、はや僕らの頭の上を、春の燕が飛んで行く!!僕を卒業まで、めんどうみてくれた玉田吉行君に”アメリカン”とともに乾杯。どうも、どうも。」
集団に馴染めない男子生徒1「吹けよ風、呼べよ嵐」
集団に馴染めない男子生徒2「It’s up to you if you give it a try or not, but how come you don’t dream to make for through it and have it made? It’s you’re never scared or hurt or embarrassed, it means you’re never taking chances. – Heart of Hearts」
集団に馴染めない女子生徒1「くそったれ!うっとうしい!なんという無責任な教師だろう。やっと別れられてせいせいするわ うう……」
集団に馴染めない女子生徒2「やさしくすばらしい先生方と、思いやりのあるステキなお友達に囲まれて、ホントにもうバラ色の高校生活でありました。涙…涙の卒業です。あ~しょっぱい!」
デパートで会った女子生徒「三年間の思い出ベスト3……1転校を経験(初めは辛かったけど、いい経験になった)2楽しかった修学旅行(先生、消燈時間守らなくてゴメンナサイ)3彼ができた(現在は一人身、恋人募集中!)
冊子の日付が1980年だから、40年以上の歳月が流れたわけである。次回は、修学旅行、か。
<追伸>私の一言は「・・・ 美しさ 哀しさまでも 遠くなり   我鬼子 ・・・」(我鬼子は、芥川さんの我鬼を借用して当時使っていた雅号)

移転先の新校舎

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修学旅行

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫ときどき馬~」6月

 今日から6月(↑)である。6日の芒種まであとわずか、一年で一番過ごし易い小満の時期を大切にしたい。とまとの柵は二つ完了、いるだけでひりひりする陽射しの時期が間もなくやって来る前に、瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)用のジャングルジム風の柵が終わればいいのだが。 →「ホームルーム」(5月24日)を運営する、それ自体が教師の思いこみである。考えてみれば、自分がホームルームに参加したいと思ったこともないし、必要性を感じたこともないのに、教師になったとたんに「ホームルームを運営する」など、不自然である。それにするのは生徒である。「二年目にクラス替えがあった。新しいクラスになって、ホームルームが激変した。」と書いたが、その延長線上に、修学旅行があった。クラスは集団なので、何もしないと動くわけでもない。干渉はしたくなかったが「好きなようにやってや」と言うだけでうまく行くはずもない。人前に出るのは出来ればさけたいと望むリーダーといつもつるんでいる仲良し5人組、学校でも一目置かれている「ワル」(↓)、女子の仲良し五人組、そんな役者が揃い、自分たちの意思で動き始めてこそうまく行くものらしい。すべて、運次第というか。(→「ホームルーム2」、5月31日)

 修学旅行のスタンツをどうするか、放課後決めようや、と何日かかかって決めたらしい。修学旅行の初日の夕食後に各クラスの出し物をやるのがスタンツ、持ち時間は20分らしかった。「現代版”かぐや姫”」(↓)という寸劇をすることに決まったらしい。いろいろごちゃごちゃやって、最後にシンデレラ役が誰かに押されて倒れ、一人が覗き込んで「死んでれら」という落ちをつける、如何にも関西人が考えるパターンだった。それだけ決めるのに、何日もかかり、一応練習もやったらしい。文集を編集したときに初めてお目にかかったが、詳細な台本もあり、文集の中に綴じられて残っている。

 当日、旅館の大広間でスタンツが行われた。私も見物人の一人だったが、クラスのスタンツには担ぎ出された。なぜか聖徳太子役で、一万円札をと書いた紙きれを持たされて、晒しものになった。(↓)

 予め聞かされていた「現代版”かぐや姫”」が無事終わったところまでは予定通りだったが、なぜか乗り始めたリーダーがマイクを離さず(↓)、そのまま、バスの中で歌い続けた「夏のお嬢さん」という曲を手始めに、次から次へとヒットパレードが繰り広げられた。

 予定などそっちのけ、会場も乗りに乗って、2時間もそのロックコンサートは続いた。(↓)誰もが生き生きとしている。クラスだけでなく、学年全体を引っかき回したのである。いやあ、やるもんだ。

 その余韻は、部屋に戻っても続いていた。教員の部屋で寝るのも嫌なので、みんなの部屋に行って誰かのふとんに入れてもらった。楽しそうな時間は延々と続く。夜中に「こらー、はよ寝んか!」と見回りの体育教師の怒鳴り声が聞こえ、何人かが廊下に呼び出されていた。どうやら殴られていたらしい。「たまさん、ばれるとやばいんちゃう?」と誰かが言っていた。「そやな、隠れとこか」次の日、誰からも「どこ行ってたん?」とは聞かれなかったので、誰も気づかなかったのかもしれない。「みんなで飲んでて、気づかなかったんやろか?」
余波はその後も続いた。集団に馴染むのが難しそうな男子生徒の一人が川に入り、なんとみんなの手拍子に乗せられて、梓川を泳いで渡り始めたのである。(↓)夏でも雪渓が残っている地域、氷が解けた水が滔滔とながれている川である。また手拍子に乗せられて、向こう岸から戻って来た。ほんま、ようやるわ。その晩、その生徒はふとんに包まってぶるぶる震えていた。「大丈夫か?」誰かが聞いていた。「第4日 そして、ついに最後の夜をむかえる日 ー上高地 “音もなく流れる梓川”というイメージとは違っていたが、その、山をバックにした静寂さは予想以上のものだ。ちょっと見ただけでもその澄んだ水からその冷たさが伝わってくる。澄んでいて、浅く見えた川が実際にはいってみると腰あたりまであってずぶぬれになってしまった。そのしばれる冷たさはひときわだった。あとで足ががくがくふるえた。」と文集の中で書いていた。

 行った先は信州である。名古屋までは新幹線、あとはバスだった。「バスはただの運送機構でそのバスの中ですごす時間があまりに長いことはつまらないkとおだと考えていたのがくつがえされた。」と「梓川」が旅日記に書いていた通りだった。そして、その余韻は学校に戻ってからも続いた。学年で作る文集の原稿を集めて読んだとき、みんなにも読んでもらいたいと感じた。「クラスの文集を作らへんか?」と提案してみたら、作るかということになって「2-5 信州への旅 ’78」が出来た。B4わら半紙85枚、写真用B4白上質コピー紙5枚、合計180ページの大冊である。ガリ版刷の手書き、原稿集めも組み込んだ特集もすべて自主的に放課後に残って作ってくれ、写真や原稿の最後の編集などは私がやった。バスの車掌さん(↓)が生徒と同じ中学の何年か上で、その人にも原稿を依頼して寄稿してもらっていた。

 その学年が始まる前に結婚をしていたので、妻に47人分の似顔絵を頼んで描いてもらった。一人一人の特徴を捉えて、その人そのままの似顔絵である。バスの車掌さんと隣のクラスの担任の似顔絵まである。
「学級運営」は教師の思い上がり、ホームルームをするのは生徒、そのことをしみじみと教えられた修学旅行だった。次の年にみんなは卒業して、新たに一年生の担任をしたあと、大学院に行ったので、2度目の修学旅行がなかったのは幸いである。
次は、また暫く戻って、反体制ーグギさんの場合、か。