つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ニューヨーク

 シカゴからニューヨークまでの飛行時間は二時間余り。日本でよく言われるニューヨークはニューヨーク市(↑)のことで、ハドソン川に浮かぶマンハッタン半島上にある。ナイヤガラの滝(↓)はニューヨーク州の北端にあり、滝がカナダとの国境の役目を果たしているらしい。ニューヨーク市のラガーディア空港から最寄りのバッファロー・ナイアガラ国際空港まで一時間半足らずの距離である。先にナイヤガラの滝に行ったのか、図書館で資料を探してからナイヤガラに行ったのかは記憶に残っていないが、滝を見に行ったのは覚えている。ゴールデンゲイトブリッジのあとはナイアガラ、最後にエンパイアステイトビルディング、そんな感じだったので、先にナイアガラ行きを済ませた可能性が高い。

 南アメリカ大陸のアルゼンチンとブラジルにまたがるイグアスの滝、アフリカ大陸のジンバブエとザンビアにまたがるヴィクトリアの滝と合わせて、世界三大瀑布の一つと言われているらしいが、滝に興味があったわけではない。マリリンモンロー主演のハリウッド映画「ナイアガラ」で見たとき、ゴールデンゲイトブリッジやエンパイアステイトビルディングと同様、いつか訪ねてみようと思ったからである。滝は轟轟と流れていて、迫力があった。カナダ側からも眺められそうだったので、カナダ側から滝を見た。ビザなしで渡れたらしい。二つ目の外国がカナダだったわけである。滝を見た、それだけだったように思う。

 ジンバブエに行ったときにヴィクトリアの滝(↑)に行ける機会もあったが、子供二人夫婦二人が生活するだけで精一杯で観光までは手が回らなかった。帰国前にどこかに観光に行きたいと子供が言い出して、ジンバブエの遺跡(↓)かヴィクトリアの滝か、どちらかを選ぶことになったが、結局湿地帯でマラリアの危険性も高く、予防接種も受けてなかったので、結局はヴィクトリアの滝には行けなかった。奥地を「探検」していたヨーロッパ人が最初にこの滝を見た時の話を、滝を背景にイギリス人記者が紹介している映像を見たことがあるが、壮大な滝のようだった。

 宮崎では鹿児島に近い都城の関之尾の滝(↓)を車に乗せてもらって見に行ったことがある。ナイアガラのような規模はないが、こじんまりとしたきれいなところだった。

 大分の久住高原で個展をしたときに高速道路で都城を通ったが、地図を見たら道路がぐいーっと都城の方に曲がっていた。高速道路は所要時間を短縮するために可能な限りまっすぐ通すやろ、と思ったが、国土交通省に強い国会議員が都城にいて高速道路をぐーっと引っ張って来たから、誰かがそんなことを言っていた。そう言えば、宮崎でも代々の市長が自分の家のあるところに道を引っ張って来て、市長道路やと言われてたなあ、と合点がいった。やれやれである。

 予定していた最後のエンパイアステイトビルディング(↓)にものぼった。人混みは苦手なので場合によっては諦めるつもりでいたが、ビルの入り口に待ってる人も少なく、これなら大丈夫とエレベーターに乗ったら、展望台に行くかなり手前でエレベーターが停まり、外に出された。そこにはたくさんの人が列を作って待っていた。騙されたと思ったが、後の祭りである。テレビのアメリカ化の正体を見たい気持ちもあって、映画で見た名所を訪ねたが、よく考えてみれば名所は人が多い、今回で終わりにしよう、そう思いながらエレベーターを降りていた。
次回は、古本屋、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:シカゴ

 シカゴは全米第二の都市と言われていたので、日本で言えば大阪かとずっと勝手に思いこんでいた。小学3年生の時に一人で「大阪のおばあちゃん」の家に行ったとき、高いビルディングの立ち並ぶ大阪の街に圧倒されて、自分がちっぽけな存在でしかないと感じたのを幽かに覚えている。シカゴも高層ビルの立ち並ぶ大都会だった。そのあとマンハッタンのエンパイアステイトビルディングに登る予定だったが、その建物より高いビルがあると聞いて、登ってみることにした。今はワールドトレードセンターに次いで2番目に高いビル、買収されてウィリス・タワーというらしい。

ライトは1908年生まれで、1927年にメンフィスから移り住んで1937年にニューヨークに行くまで10年ほどシカゴに住んでいる。ベストセラーの小説『アメリカの息子』(Native Son, 1940) や自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の主な舞台はシカゴである。1890年代から1920年代にかけて北部に押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、サウスサイドに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、スラムと化した、と写真入りの『千二百万人の黒人の声』(↓12 Million Black Voices, 1941)の中で、詩のような文章を書いている。(「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)

 ミシガン通りでパレードに出くわし、歩道の縁に座って3時間ほどぼーっと眺めていたら、何だかそれまでのアメリカに対する反感が薄らいで行くようだった。アメリカにもアメリカのよさがあるんやろな、と柔らかい気持ちになった。ミシガン通りは目抜き通りらしい。ホテルから出かけたのか、空港からのバスから降りてホテルを探していたのか。パレードが終わってぶらぶら歩いていたら、橋の袂の欄干にもたれて白人青年が一人、トランペットを吹いていた。「共和国の戦いの賛歌」(Battle Hymn of the Republic)のようだった。日本では「ごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた」でお馴染みの曲である。演奏が終わったあと、何人かが置かれていた缶のような入れ物に、投げ銭をしていた。

 シカゴ美術館に行った。絵心はまるでないが、妻が絵を描くので結婚してからは時々美術館にも行くようになった。折角シカゴまで来たのだから、美術館にも行ってみないと、そんな軽い気持ちで出かけた。大きかった。中でも教科書にも載っているモネの睡蓮(Monet, Water Lilies)は圧巻だった。パリのモネ専用の美術館より大きいらしい。一人勝ちした第二次世界大戦のどさくさに買い入れたものらしい。アメリカ各地の美術館の展示品の一部は第二次世界大戦の戦利品?大英博物館の展示品の多くがジプトからの略奪品?なんだか構図が似ている。アングロ・サクソン系、の痕跡か。

 シカゴ公共図書館にも行った。見てみたい新聞記事があったからである。ファブルさんは本の中で、シカゴに移り住んだ時、生活保護を受けて案内された公共住宅の余りの酷さに母親が泣き崩れたとライトが伝記の中で紹介しているという風なことを書いていた。寝ている黒人の赤ん坊が猫くらいに太った鼠に齧られたという1920年代の新聞を紹介していた。その記事が見たかった。案内カウンターで申し込んだら、係員が新聞を持って現れた。なんと1920年代の新聞の現物だった。1988年にカリフォルニア州立大学ロサンジェルス校(UCLA)の図書館でも同じ体験をした。1950年代の南アフリカの反体制新聞の記事を照会したら、5年分の記事がどさっと目の前に現れたのである。白人のアパルトヘイト政権を支えていた筆頭であるアメリカの図書館に送られていた反体制の週刊新聞が全部保存されていた、歴史の一齣を見てるような感覚になったが、同時にアメリカと日本の図書館の違いを強く感じた。文化のレベルでは、到底及びそうにない。日本では本まで予算回らない、少なくとも図書に関しては、先進国と自称する貧国である。
 次は、ニューヨーク、か。

シカゴオヘア国際空港

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:サンフランシスコ

『アフリカとその末裔たち」小島けい挿画

 「修士論文」(6月18日) をライトで書くと決めてファーブル(Michel Fabre)さんの本(↓)を読んだとき、なぜか中心テーマが浮かんで来た。「購読」(5月5日)の授業のテキストで読んだ中編が、それまでの人種主義への抗議中心からより普遍的なテーマへの転換を意識して書かれた作品であるというファーブルさんの指摘が私の感じていたイメージと重なったからだ。たぶん伝記の最初の方で「この本を後の世の人のために贈る」というようなファーブルさんの息遣いを感じていたからだろう。普遍的なテーマへの転換を描き出すためには、主だった作品を読む必要がある。先ずはその作品が1944年に収められた→「クロスセクション」(2019年2月20日)という雑誌を見てみたい。作品自体は大学のテキストでも読んだし、Eight Men (1960)の中にも入っているが、実際に雑誌を見て、感じてみたい、それが最初だ、そんな気がした。現物がニューヨーク公共図書館のハーレム分館にあるのがわかったので、初めてのアメリカ行きとなった。

 ライトはミシシッピ(↓)に生まれ、メンフィス→シカゴ→ニューヨーク→パリと移り住んだらしい。今回パリまでは行けないが、ニューヨークで雑誌を見たあと、シカゴ、メンフィスに行って、最後は生まれたミシシッピまで行ってみるか、そんな旅程を思いついた。ただ、アメリカの西海岸に着いても東海岸まで行くに5時間ほどかかるらしいから、先ずは西海岸で2、3泊、それからシカゴ→ニューヨーク→メンフィス→ミシシッピと移動するか。2週間ほどの予定だと少しきつそうだが、行ってから変更も出来るように組んで、先ずは行ってみるか。そんなイメージで大阪の旅行会社を訪ねた。1981年の夏、円が280円台の頃である。

ライトの生まれたミシシッピのナチェズの空港

 最初の土地に選んだのはサンフランシスコである。私が戦後まもなく生まれたからか、アメリカには憧れと反発が入り混じったような複雑な感じがずっとして、英語への反感はかなり強い。受験で英語もしなかったし、大学でも英米学科で英語をやらなかった。教員と大学院の試験のために購読と英作文と英文法は少し齧ったが、聞くと話すは意図的にしなかった。小学校の頃に始まったアメリカ化は影響が強く、テレビから流れるアメリカの映像は意識の奥深くに焼き付いている。サンフランシスコならゴールデンゲイトブリッジ(↓)にケーブルカー、ニューヨーク州のナイアガラの滝、マンハッタンのエンパイアステイトビルディングなどである。ついでに、みんな回って来るか。

 サンフランシス空港(↓)からホテルに電話したが、電話を取ったとたんに誰かが何かを言っている。しゃべり方が早くて慌ててしまった。当時市外通話は交換手が繋いでいたようで、「交換手です(Operator)」と言ったあと、あと小銭をいくら入れて下さいと言っていたと思う。最初の洗礼である。

 もちろん最初にゴールデンゲイトブリッジに行った。折角なので橋を歩いて渡った。45分程かかった。向こう岸に着いて、反対側から街を眺め、また歩いて戻った。それだけである。ゴールデンゲイトブリッジは、ハリウッド映画「招かれざる客」の映像の影響である。妻を亡くしたエリート医師役のシドニー・ポワチエ(↓)が、白人の金持ちの若い娘さんと結婚する話である。高台にある白人の豪邸から見えるゴールデンゲイトブリッジ。白人歌手トニー・ベネットの歌「霧のサンフランシスコ」が背景に流れる夜景は美しい。(I Left My Heart In San Francisco)

後年のポワチエ

 ケーブルカーも坂を走っていた。チャイナタウン(↓)にお昼を食べに行った。周りのアメリカ人は"Sapporo”と大きな声でビールを注文していたので、"Budweizer”とわざと大きな声でビールを頼んだ。いつものように焼き飯と餃子とラーメンを頼んだが、あの人たちどんだけ食べるんや、と思えるほど量が多かった。体型の仕様が違うらしい。

 初めてのアメリカの印象は、みんな英語をしゃべってるやん、だった。普通に「しゃべってる」は当たり前だが、まったく聞き取れなかった。NHKの英会話、あれ何やったんやろ。まったく違うやん。英語を聞いてないし、しゃべってもいないんだから当然なのだが、なぜか中高大と英語をやってきたのに、間違ったら恥ずかしいという意識が働いていたらしい。誰ともしゃべらずじまいだった。それでも空港での再確認やホテルでのチェックインやチェックアウトもやり、バスやタクシーに乗って移動もしたようである。これから行く予定のシカゴは北部の真ん中辺りにあると思い込んでいたが、ニューヨークまでの飛行時間は二時間余りだから、東部寄りの大都市らしい。
 ちょうどサンフランシスコ(↓)の街をうろうろしている時期に、最初のエイズ患者が出ていたとは、その時は、夢にも思わなかった。
 次は、シカゴ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修士論文

 「明石」(6月16日)から2時間余り、山の中のキャンパス(↑、→「キャンパスライフ2」、6月15日)に通う日々が始まった。2年間は短かい。修士論文を書く目途は着いたが、肝心なのはそれから先である。博士課程の指導教官が就職先を世話をする場合が多いみたいだし、採用人事は高校(↓)とは違って実質的には公募制ではないようだし。修士課程が出来たばかりで博士課程はないので他に行くしかないが、途中から博士課程に入れるかはどうかもあやしい。応募には教歴と業績が要るらしい。わからないことだらけだが、どうやら①修士論文を書きながら、②学会に入って業績を溜め、③誰かに教歴の手助けを頼む、ということらしい。業績はどこかの学会に入り、それらしきものを書き溜める、すべて、運任せということか。

 先ずは修士論文のテーマである。好きなテーマで書けるに越したことはない。幸い指導教官は名目だけで好きにやってもいいらしい。(→「ゼミ選択」、6月14日)指示されるのは苦手だが、勝手にやれと言われると、あれやこれやと自然に心に浮かんで来る。大学の6年間は英語をしなかったが、それでも2年留年をした4年目かの購読の授業で読んだ作品がずっと気になっていた。教員は同じ夜間を出て大阪工大で教授をしていると言っていた。おおざっぱな人で「あのうtinyやなくてtinnyやと思いますけど」と言ったら「ほんやま、そやな、気ぃつかんかったわ」とさらりと言っていた。作者はアメリカの黒人作家で、別の購読のテキストが違う名前の黒人作家だった。そんなこともあって、次の年に専門科目の英文学特殊講義で「黒人文学入門」を受講した。講師は昼間の卒業生で、神戸商科大学の教授、非常勤講師として来ていたらしい。時々大学の掲示板で黒人研究の会の張り紙も見かけたような気もする。ゼミの担当だった人(→
「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)の「最近のジンバブエの動向」というタイトルを見た時は、笛まで吹きはるて、あの人(↓)趣味が広いんや、と感心した記憶がある。そのジンバブエに「在外研究」で行くようになるとは夢にも思わなかった。

 高校の「採用試験」(5月8日)を受けるついでに「大学院入試」(5月10日)も受けてみるかと思いついて、好きな人の研究室に相談に行ったとき、Hawthorne, The Scarlet Letter、Dreiser, Sister Carrie、An American Tragedy、Faulkner, Sanctuary、Light in August、Steinbeck, The Grapes of Wrathのリストをもらったと書いたが(→「購読」、5月5日)、もう1冊書いてくれた分をすっかり忘れていた。Richard Wright, Native Son 1940である。唯一の黒人作家(↓)だった。書かれた順に読み始めたが、最初の4冊に比べて、Native SonとThe Grapes of Wrathは面白かった。特にNative Sonも分厚くて数百ページもあったと思うが、三日ほどで読んだ。ぞくぞくした。文章との相性がよかったんだと思う。

 高校では「授業とホームルームと課外活動」(→「教室で」、5月21日、→「ホームルーム」、5月24日、→「ホームルーム2」、5月31日、→「顧問」、5月30日)で毎日が精一杯、読む時間もなかったが、ライトが書いたものを全部読んでみることにした。先ずは資料探しだろう。テキストで読んだ中編の作品は1944年の「クロス・セクション」という雑誌に載ったらしい。1940年にすでにNative Sonがベストセラーになって、次のベストセラーのBlack Boyが1945年の出版だから、その前の年の出版ということになる。雑誌がニューヨーク公立図書館のハーレム分館にあるらしい。初めてのアメリカ行きになりそうである。
次は、サンフランシスコ(↓)、か。