HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:あのう……
テーマも決めてアメリカで資料も仕入れてきたので、あとは書くだけ、と言いたいところだったが、もっと先にすべきことがあった。教歴と業績である。博士課程もどうなるかわからないし、応募のためには教歴と業績が要るからである。(→「修士論文」、6月18日)業績は黒人研究の会と大学(↑)の言語表現学会に入ったので、書けばなんとかなりそうだが、問題は教歴である。先輩に頼むしかない。こっちは勝手に後輩のつもりでいるが、大学の購読の授業をたまたま受けただけで、その人も夜間だったと聞いたからだ。私と17歳違い、子供さんが二人いて、下の男の子とも17歳違い、ちょうど真ん中なんやと思ったことがある。一度神戸市塩屋(↓)のマンションにお邪魔したことがある。奥さんが笑顔で迎えて下さった。部屋に上に女の子が座っていて、小学生の5年生か6年生くらいだった。
今は神戸の北の方の住宅地に一軒家を買って引っ越したらしく、授業では大阪工大で教授をしていると言っていた。おおざっぱな人で、「地下にひそむ男」のテキストを読んでいる時に「あのうtinyやなくてtinnyやと思いますけど」と言ったら「ほんやま、そやな、気ぃつかんかったわ」とさらりと言っていた。学生も気軽に話しかけ、話も気さくに聞いてくれた。教員採用試験の時は、高校の教員と県教育員会の指導主事をしたことがあると聞いていたので、面接試験の前に電話で「面接」(5月9日)のことを聞いた。「髭か?そうやな、ワシやったら、4段階の一番低い1をつけるな」という返事だった。
兵庫県庁
アメリカから戻ったあと暫くして、会いに行くことにした。早く高校を辞めるように急かせてくれた妻もいっしょに来てくれた。すでに黒人研究の会では顔を合わせていたので、「あのう……」と少し言いづらかったが、要件を伝えた。話をじっくりと聞いてくれたあと、しばらく黙っていたが、意を決したように話し始めた。結論は「大きな決断やし、引き受けたらワシにも責任が出来るし、即答は出来んな。じっくり考えて、半年あとにもう一回来てくれへんか。その時まで気持ちが変わらんかったら、その時また考えるわ。」ということだった。いつもの気さくな雰囲気はなく、相当な決断なのが伝わって来た。
黒人研究の会の例会があった神戸外大研究棟(同窓会HPより)
もちろん、決めて訪ねたわけだし、結論が変わるはずもなく、半年後にもう一度二人で家を訪ねた。「よっしゃ、わかった」と言うことだった。先行きはわからないが、修士論文締め切りまで一年と半、業績も含めて自分に出来ることはやっておくしかない。
その後しばらくしてから、「同じ外大を出た後輩の中に親しくしてるのがいてるけど、あんた、会いに行ってみるか?京大の博士課程を出たあと、今甲南女子大(↓)の教授をしてるで。いろいろ話をしてくれると思うで。参考になるんとちゃうか。」と言われた。試験でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)甲南女子大か。何か縁でもあるんやろか。再び甲南女子大の校門を通るとは思ってもいなかった。
次は、黒人研究の会、か。