つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ラ・ガーディアで

 思わず本を買い過ぎてドルがほぼなくなり予定を変更せざるを得なかったこともあるが、そろそろ帰りたくなっていたので、ラ・ガーディア空港(↑)でフライトを変更して帰ることにした。アメリカに来て2週間近くなっていたので、だいぶ英語に耳が慣れていたような気もする。シカゴ(↓)のホテルでテレビをつけたら、当たり前だがすべて英語だ。聞き取れない悔しさか、枕をテレビに投げつけた。

 カウンターで予定を変更して帰国したいと伝えたかったが、係員にうまく伝わらないようで、大声を出してしまった。元々気が短かいので、役所や銀行でも時々大きな声を出すことがあった。大抵は係の人が横柄に見えるときが多いのだが、今回はこちらの英語の問題である。しかし、心のどこかで、大声を出せば大抵は係員の態度が急に丁寧になって、しばらくお待ちくださいと言ったあと、中から少し役職の高い人か扱う事項にくわしい人が出て来る、と考えていたと思う。案の定、大声を出された相手は、言葉のわかる人を呼んできますので、と言って中に入って行った。少し経ってから、新しい人が来て、ゆっくり英語をしゃべり始めた。ま、アメリカである。1980年の初めという時期の問題もある。円高効果で、今なら観光客対応で日本語のわかる人が出て来るかも知れない。

 帰りたくなった理由の一つは食べ物だったかも知れない。普段は肉も魚もほとんど食べないので、アメリカでは食べるものを見つけるのが難しかった。BLT (bacon, lettuce, tomato) のベーコン抜きか、トーストに珈琲と野菜サラダ、ビールにポテトフライ(↑Hash Brown)かお好み焼き風ジャガイモとポテト(↓Pasted potato and onion) を食べることが多かった。麺類なら日本食や中華料理の店を探せばよかったのかも知れないが、そんな気にもなれなかった。

 慣れてしまえば、それはそれで何とかなるものだが、ごはんに味噌汁、饂飩(うどん)かにゅう麺の方が口に合っているらしい。一人の時は、食べることが面倒くさくて、一日に一度、がさっと中華料理を食べたりすることが多かったが、結婚してからは3度の食事を当たり前のように食べていた。インスタントのものも食べなくなっていた。妻は母親から結婚したら料理するようになるから今はしなくていいよと言われて料理をしたことがなかったらしいが、充分に毎回おいしかった。毎回弁当も作ってくれた。

 初めてのアメリカだったが、ライトの雑誌をハーレム分館(↓)で見ただけでなく、マンハッタンの古本屋でライトの本(↑)やこれから必要になる関連の本をどっさりと買い込んだ。小さいときに摺り込まれたアメリカ化のイメージも、実際に行って確かめてみた。変な憧れや反感が少しは和らいだ気もする。ミシガン通りのパレードも普段は見ないと思うが、旅先でつい3時間も眺めてしまった。アメリカにはアメリカのよさがあると思えたのも大きな収穫だったかもしれない。修士論文の締め切りまで2年もない。資料もほとんど手に入ったので、帰ったらすぐに書き出せる、そんな気がした。フライトの変更も終えて、なぜかセントルイス経由で帰路に着いた。
 次は、珈琲、か。

つれづれに

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つれづれに:ハーレム

 ハーレムにも来たし、ションバーグで雑誌も確かめられたし、大満足だった。折角来たのだから、通りを歩いてみることにした。ライトのものを読んでいて、アメリカの歴史を知る必要性を感じていたし、何かいいものが見つかるかも知れない。Liberation Bookstore(↑)という本屋さんが目に入った。中に入ってみた。そう広くなかったが、ぎっしりと本が並んでいた。アフリカ系アメリカとアフリカの専門店らしい。ライトで修士論文を書く身には、まさに宝庫である。店先には音楽のカセットテープが置いてあった。

 後で知ったが、かつてのハーレムは公民権運動の舞台で黒人音楽のメッカだった。黒人教会ではマルコムXが講演していたし、通りでストリートミュージシャンのソウル音楽が流れ、ソウルフードが売られていた。ナイトクラブではルイ・アームストロング(↑)が渋いだみ声で歌い、トランペットを吹いていた、とこれも後で知った。まだカセットテープの時代だったのでルイ・アームストロングのテープを何本か買った。

 中でも最大の堀り出し物は、Malcolm X on Afro-American History(↑)とThe Struggle for Africa(↓)の2冊である。その時はわからなかったし、英語で本を書くとは夢にも思わなかったが、その後、大学で英語の授業をする時や英文書Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage 、1998)を書く時に、骨子となった稀有な図書である。

「当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた」(→「ハーレム分館」、6月23日)のには、もちろん訳がある。あとで知ることになるが、無茶苦茶な話である。1620年にメイフラワー号に乗ってやってきたイギリス人たちは、元住んでいた人たちを蹴散らし土地を奪って定住し始めた。アフリカから帆船で奴隷を運んで来て、大農園で扱き使った。奴隷貿易と奴隷制で貯め込んだ資本で機械を作り、産業化に腐心した。ヨーロッパでは労働力と原材料を求めてアフリカとアジアで植民地化が激化し、国内では産業資本家と大農園主の二つの利害が対立した。とうとう、奴隷制を巡って利害が対立し市民戦争が勃発、殺し合いを始めた。それが南北戦争である。共和党を創った資本家に担がれたリンカーンが大統領になったが、制度は揺るがず、実質的な奴隷制は1950年代の公民権運動まで続いた。1908年にミシシッピで生まれたライトが、1927年にメンフィスに、その後1937年にニューヨークに行ったのも珍しい話ではなかったわけである。南北戦争で法的には解放されたはずの元奴隷には住む家もなく、財産もなく、実際には現物支給の小作人として働くしか選択肢はなかった。北部に行こうとしても、元奴隷主に雇われた貧乏白人の監督やKKKの団員に厳重に監視され、暴力を振るわれ、リンチされて殺された。(↓)それがようやく動いたのが1890年代から1920年代、北部を約束の地、「ミシシッピで知事になるよりはむしろシカゴで街燈柱でいる方がいい」と信じて、たくさんの黒人が北部にどっと流れ込んだ。

 しかし、北部は冷たかった。押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、シカゴならサウスサイド、ニューヨークならハーレム、ロサンジェルスならワッツに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、当然スラムと化す。元白人街のぼろアパートで家主の白人に高い家賃を払わされて暮らさざるを得なかった。もちろん、仮に仕事にありつけても、奴隷と何ら変わらない社会の底辺で、安い賃金で扱き使われただけだった。(↓「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)そんなハーレムの図書館に行ったわけである。
次回は、ラ・ガーディアで、か。

つれづれに

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つれづれに:ハーレム分館

 ライトの中編作品が載った雑誌を古本屋で見つけてしまったので、図書館に行く最大の目的は消えてしまったが、ハーレム分館(↑)には行きたい理由が他にもあった。ションバーグコレクションが見たかったからである。ニューヨーク公共図書館(New York Public Library) は財団が経営する公共図書館で、マンハッタン地区以外にも市内に92の分館(Branch)と3つの研究図書館(Research Library)がある。ションバーグコレクションはハーレム分館にあり、正式にはションバーグ黒人文化研究センター( Schomburg Center for Research in Black Culture)と呼ばれる研究図書館のひとつらしかった。世界中のアフリカ系に関する情報の保存機関で、アフリカ系プエルトリコ人学者アーサー・アルフォンソ・ションバーグに因んで名づけられたと言う。
 当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた。Midtown(↓)のホテルから地下鉄に乗って出かけた。ハーレム分館は135th Streetにある。

 1985年のI Love New Yorkキャンペーン以前の話なので、地下鉄は噂通り穢かった。入って来た車両の落書きが凄い。ペンキで車輛ごとである。エディー・マーフィー主演の「王子様、ニューヨークへ行く」(↓)という映画の一場面で1985年以前の落書きだらけの地下鉄が映っていた。たまたま一番後ろの方の車輛に乗ったが、何だか少し暗かった。電気が一部消えていたのか。小便の臭いもした。つり革の取れているのも目に着いた。当時弟が働いていた川崎車両はニューヨーク市から注文を受けていたそうで、130キロでぶつかっても壊れない、取り付け部品が簡単に取れない、ペンキがつかない塗装、の三つが条件だったと言っていた。

 ハーレムは135th Street駅で降りればいいらしい。ハーレムに近づくに連れて黒人の数が増えて来た。穢いし、臭いし、暗いし、印象的な地下鉄だった。「ワンサーティファイヴ」と音声案内があってハーレムに着いた。階段を昇るとハーレムの通りである。意外と広かった。昼間から酒瓶を片手に歩いている若い人もいる。両脇に舗道があり、各戸の入り口まで短い階段がついており、その階段の途中に座っている人もいた。避(よ)けて通るのもなあ、と歩道を歩いて、ハーレム分館に着いた。
 図書館では折角来たのでマイクロフィッシュの雑誌を拡大して、何枚かコピーを取った。機械にはMita, Minoltaの表示があった。戦勝国は、技術も持ち帰ったと言うことか。そんな気がした。
 次は、ハーレム、か。通りの本屋(↓)で、貴重な本を2冊見つけた。そのとき目に止まらなかったら、お目にかかれずじまいだったかも知れない。

つれづれに

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つれづれに:古本屋

 ニューヨーク(↑)で古本屋を回るとは思ってもみなかった。発端はNative Son (1940) を出した出版社を訪ねたことにある。出版されてから40年ほど後の1981年に版元のハーパーアンドブラザーズ社(Harper & Brothers Publishers)に行って「Native Sonはありませんか?」と尋ねたわけである。1969年出版の立原正秋の『冬の旅』(→「伎藝天」、4月23日、→「栄山寺八角堂」、4月27日、→「山陰」、5月6日)について、2022年の今、版元の新潮社に行って「『冬の旅』はありますか?」と聞くようなものだ。今から思うと、よう訪ねて行ったもんやと感心するが、意外な返事が返って来た。丁寧なもの言いだった。「Native Sonの初版本はありませんが、ひょっとしたら42丁目の古本屋に行けばまだ残っているかも知れませんね。そこにはいつも大量に本を流していますので、是非行ってみて下さい。見つかるといいですね」
教えてもらった古本屋に行ったら初版本はなかったが、何と雑誌の現物を見つけてしまったのである。ライトの中編作品が載った雑誌を図書館でみたいと思ってニューヨークまで来たのだが、最大の目的があっさりと達成されてしまった。1944年の「クロスセクション」(2019年2月20日)で、今手元にある。

 薄っぺらい雑誌を想像していたが、ハードカバーの立派な分厚い本で、559ページもある。A NEW Collection of New American Writingと副題がつけてある。乱雑に積み重ねられていた本の山の中から見つけ出した。1945年版もある。そこにはライトの名前はない。少し小振りだが、それでも362ページもあるハードカバー本である。

 初版本はなかったが『アメリカの息子』(↑)、『ブラック・ボーイ』(↓、Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)などのライトの作品もあった。「購読」(5月5日)で読んだ『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やゼミで使った『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)もあった。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)嬉しくなって手当たり次第に買ってバッグに詰め込んだ。バックが肩に食い込んだ感触が残っていて、重たいバッグを持つといつもあの重さの感覚が蘇える。結局何箱か古本屋から船便で送ってもらった。カードの時代ではなくドルが少なくなってしまい、南部には行けなかった。フライトを変更して、セントルイス経由で帰るはめになった。

 日本でよく知られるマンハッタンは、ニューヨーク市のエリアの一つで、ニューヨーク州の西の端に位置している。西隣のニュージャージー州との境のハドソン川に浮かぶ半島で、東西に走る通り(Street)は数字で表記され、「数字+丁目」で日本語訳されている。有名なタイムズスクエアやグランドセントラル駅は42nd Street、地図(↓)のMidtownの文字の下の通りである。セントラルパークは59th Streetから110th Streetまでとかなり広い。ニューヨーク公共図書館ハーレム分館は135th Streetにあり、かなり上の方である。名所案内の上の地図には入っていない。

 タイムズスクエアーの近くの目抜き通りに古本屋があったというわけである。その辺りは1985年のI Love New Yorkキャンペーンで、ごちゃごちゃしたポルノショップなどが一層され、落書きの象徴が走っているような地下鉄もきれいになった。
次は、ハーレム分館、か。ホテルの最寄り駅から135th Street駅まで初めて地下鉄に乗った。I Love New Yorkキャンペーン以前の、落書きだらけの車輛だった。