HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:大学院入試3
考えれば4度目の大学院入試だった。前回3回は修士課程(→「大学院入試」、5月10日)、→「大学院入試2」、6月10日)、今回は博士課程である。修了前に三つ、次の年にも一つを受験して、また落ちることになった。大学入試6つ、修士2つと合わせて12回も不合格で、不合格通知も届かなかった気がする。高い受験料を払っているのだから、通知くらいは出してもいいのにと思うが、受験する側が弱いのが通例らしい。日本では、正確には当時の日本では、大学院入試は独特の慣例的な制度、と言えば聞こえがいいが、つまりはずっーと続いてきたなあなあの馴れ合いの制度があったようで、知らなかっただけの話である。今も基本的に変わっているようには思えないが。後に大学院を担当する立場に立ってその実態を知るとは、その時点で思いが及ぶはずもなかった。高校の教員を辞めたものの、博士課程も受け入れてもらえそうにない、あとは人との繋がりとその時に必要な教歴と業績を準備出来るか、のようだった。先輩には教歴を頼んだものの、この時点では先行きはまったくの不透明、まさに途方に暮れるという表現が相ぴったりだった。
人が多く集まるだけあって、関西は東京に次いで何ごとにつけても選択肢の幅が多い。博士課程の場合も、文学部系統なら旧帝大系も含めて4つ選択肢がある。その三つを受けた。一つは先輩から話のあった大学、あとの二つの学部もそれなりに入学が難しい部類で、博士課程を出れば、大学の口は世話してもらえそうな大学だ。先輩から話を聞いて、ある日その人が勤務する甲南女子大学(↑)を訪ねた。校門でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)因縁の大学だ。まさか違う形で校門をくぐるとは思わなかったが、閑静できれいなキャンパスだった。研究室で話を聞いた。また、あちゃーである。いやに高圧的だった。「博士課程に行きたかったら、十年は聴講に通うしかないな。私も働きながら十年かかったから」要約すると、そういうことだった。心が動かなかった。そうまでして、という気持ちが先に立った。その後、先輩が気を遣って新年会に夫婦同伴で誘ってくれたが、やっぱりその人に合わせる気になれなかった。外から博士課程を受験しても受け入れられるわけがない、ということのようで、受験料も払い、10枚の概要もつけた修士論文と併せて書類を提出し面接も受けたが、すべて意味のないことだったらしい。他の二つの大学も同様で、面接を受ける前後で、招かれざる客であると強く感じた。学内の顔見知りの学生と私のような外からの学生に向ける視線があからさまに違ったからである。私のゼミの担当者はそんな事情を知っていたのか、知らなかったのか。丁寧な推薦書を丁寧な字で4つも書いてくれたが、その英国紳士風を心でどう受け止めればいいのか。次の年も懲りずに、今回は、非常勤をしながら週に1、2度新幹線で通うつもりで、東京の自由な学風で知られる私学を受験した。たまたま、先輩が世話をして同じ英語科で当時講師をしていた同僚が、私の受験した私学の政治経済学部の教授になっていたので、先輩から非公式に試験結果を調べてもらうことが出来た。修士論文と英文購読は80、第2外国語は50が合否の基準で、私は修士論文が82、第2外国語が72、英文購読が20だったそうである。問い合わせがあっても準備万端というわけである。「外部からはそれなりの方法を講じない限り何度受験しても無駄ですのでご注意下さい。出来れば、受験自体をお控え下さい」と受験要綱に記載するわけにもいかないか。それでは受験料が入らないか。院の受験料も馬鹿にならない、筈である。
28年いた医学科は臨床医になる人が多く、基礎医学専攻の場合でも他大学への院進学は閉鎖的ではないので推薦書を書くくらいの関わりしかなかったが、退職後の再任用では名古屋大と広島大に進学する人に、予め直接担当者に会って話を聞いてもらうように強く勧めた。名古屋大と広島大なら、大学の空間を確保できる可能性は高い。博士課程の入試でも、嫌な思いをしなくて済む。時代や学部にもよるとは思うが、どうも入試との相性がよくなかった、らしい。
その後しばらくして、先輩から「4月からの工大(↓)での非常勤、決めといたで。一年目は取り敢えず夜間3コマやけど、それでええか。履歴書も書いといてや」という電話があった。
次は、大阪工大非常勤、か。
大阪工業大学(ホームページより)