つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ライトシンポジウム

 ある日、「黒人研究の会」(6月29日)の会員から電話があった。秋にライトのシンポジウムがあるからいっしょに行きませんかという誘いだった。ファーブルさんも来るらしかった。ファーブルさんと会うことを考えたことはなかったので、会えるんやと思ったら急に会いたくなった。その場で「行きましょう」と返事をした。ファーブルさんには「修士論文」(6月18日)で『リチャード・ライトの未完の探求』(↓、The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んだ時に変に感動して、自分の書いたもののレベルも知りたくて、英訳(→「修論あれこれ」、7月8日、→「紀要」、7月18日)といっしょに手紙を書いてパリの自宅に送っていた。実際に会えるとは考えてもみなかった。(→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月20日)

 その人は早稲田の博士課程を修了したあと愛知にある私学の専任をしていて、会の案内やら総会やらで面識もあった。ライトに関心があるらしく、会誌に私が書いているのを読んでいたようだ。11月の終わりにミシシッピ州立大学であるという。ホリデイインに泊ると言ったら「私もそこに泊りますから、前日にホテルでお会いしましょう」と言うことだった。事情を知らなくてメンフィス(↓)まで行ってバスに乗ろうとしたが、当日便はもうないらしく、タクシーを使う羽目になった。2時間ほどかかった。ドルと円の換算機能が働かずに、きっと3~4万円は払った気がする。オックスフォードという州の北側にある閑静な大学街で、約束通りその人が先に来てホテルで待っていた。

 当日の朝、会場に行ったらファーブルさんと他の何人かが写真を撮ってもらうところだった。「よく来ましたね、こっちにいらっしゃい。一緒に写真を撮りましょう」と手招きしてくれた。最初の写真はその時のものである。ライトの死後25周年の記念シンポジウムだったらしく、雑誌が特集を組んで、その中にもこの写真が紹介された。翌日の地元の新聞にもこの写真が使われたらしく、参加者にコピーが配られた。受付では資料(↓)もたくさん配られた。

 普段本でしかお目にかかれない人たちがたくさん集まっていた。ゲストスピーカーも大抵は本で読んだことがある人たちだった。普段の会話なら難儀したと思うが、いつも読んでいる語彙と重なることが多かったからか、大体内容は理解できた。しかし、学会でじっと座ったままで聞いてばかりは、基本的には苦手だ。ファーブルさんが来ている、それだけで来たようなものだったから、何とか最後まで座っていた。その夜、ファーブルさんが泊っていた寮の一室に呼んでもらった。日本からの留学生や出張で来ていた学者に伯谷さん(↓)というゲストスピーカーも同席していた。ライトに関する論文集で名前を見かけたことはあったが、よくは知らなかった。→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)

 ファーブルさんは「手紙をくれてましたね。今日の発表でもあなたと同じ擬声語について話をしてる人がいましたねえ。私をMr. Fabreと呼ぶけど、私はヨシ(yoshi)と呼んでるので、ミシェール(michel)と呼んで下さい。その方が公平だから」と言っていた。偉い人は偉そうにする必要ないもんなあ、と感心しながら聞いていた。ただ、英語をしゃべるのを拒んで来たせいで、思うように言葉が出て来なかった。いっしょに来ていた人が「玉田さん、英米学科でしょ。私が通訳しましょか?」と見兼ねて言っていた。英訳を渡したんやから、今度は自分で英語をしゃべればいいか、とぼんやりと考えていた。最後の辺りで、伯谷さんが話しかけて来た。あなたの近くの淡路島出身、広島大4年の時にアメリカに来て、今はオハイオ州ケント州立大学で英語教授、そんな話だった。最後に「玉田さん、再来年のサンフランシスコのMLAで発表しませんか?」と誘ってくれた。シンポジウムに参加するとも思ったことがないのに、アメリカの学会で発表である。しかし、気持ちとは裏腹に、「そうですね」と返事をしていた。日本語で聞かれたせいもあったかも知れない。「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」「そうですね」そういうことになってしまった、らしい。
次は、黒人研究の会総会、か。

会場の人たち

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:アメリカ文学会

 博士課程は望めないので教歴と業績の準備を開始、教歴は大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)と「二つの学院大学」(7月19日)、業績も「黒人研究」(→「黒人研究の会」、6月29日)と「言語表現研究」(→「言語表現学会」、6月30日)と大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)の「紀要」(7月18日)で活字になっていた。しかし、書いたものを毎回出せるわけでもないので、アメリカ文学とアフリカ関係でもどこかを探すことにした。ライトがアフリカ系アメリカ人作家なので、先ずは日本アメリカ文学会、ちょうど黒人研究の会の女性で関西アメリカ文学会の理事をしている人がいたので、聞いて入会手続きをした。日本アメリカ文学会は大きな組織らしかった。神戸にある女子大の助教授らしく、アリス・ウォーカーなどのアフリカ系アメリカ人女性作家の発表を例会で聞いたことがあった。夫が近くの国立大学の教授だと誰かが言っているのを聞いた。大きな学会は苦手なので、結局会議にも出ず、会誌にも投稿しなかったが、「英米文学手帖」というのに紀行を二つ送った。(「ミシシッピ、ナチェズから、1986年、「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」、1987年)

ナチェズ空港

 アフリカ関係の大きな学会はアフリカ学会だと聞いていたが、黒人研究の会ではあまり評判がよくなかった。当時「族」と言う言葉をめぐっていろいろ議論があったからだ。五百年以上続くアングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国が自分たちの侵略行為を正当化するために白人優位、黒人蔑視を徹底して来たが、「族」もその一つで「族(tribe)」には相手を蔑む含意があるので、例えばギクユ族を使わずにギクユあるいはギクユ人を使う方がいい、と言った内容である。公民権運動の指導者の一人マルコム・リトル(↓)が指摘したニグロ(Negro)も話に出ていた。ニグロは黒というスペイン語だが、奴隷主が奴隷を動物扱いしてニグロと蔑んで使っていたので、誇りを持ってブラックを使おうと演説でも言っていた、というような話である。それもあって、研究会の当初の英語訳Negor Studies AssociationもBlack Studies Associationに変更されていた。アフリカ学会は体制寄りの色彩の強い人が多く、アフリカやアフリカ人を研究対象としか見ていないような傾向があった。黒人研究の会の人は体制に虐げられている人や国を対象にしていたので、どちらかというと反体制の傾向が強く、白人優位・黒人蔑視に鈍感な人に抵抗を見せていた。NHKの講師で有名になっていた東京女子大の猿谷要さんの本の評判が悪かった(→「本田さん」、7月14日)のも、その理由からである。私も反体制の傾向が強い。教養の科目でアフリカ系アメリカやアフリカ関連の授業を担当していた時、農学部の学生が「講義名にアフリカがついてたので授業を取ったら、アフリカ人を研究の対象にしか見てませんでしたね。聞く気になれず、初回で授業もやめました」と言っていた。私の授業を受けた直後だったので、違いを肌で感じたんだと思う。その担当者に廊下で話しかけられたことがあるが、アフリカ学会の会員だと言っていた。元同僚、である。

小島けい画(『アフリカとその末裔たち』挿画)

 すべて、国策と深い関りがある。黒船に脅されて開国したあと、西洋に追い付け追い越せの富国強兵策を取り、産業化を図ったので、工学部に予算が多く流れたが(→「紀要」、7月18日)、同じ理由でアフリカには予算が流れなかった。その中で、白人優位・黒人蔑視はしっかりと浸透して行ったのである。アメリカ文学、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学の学部学科数の多さを見れば、欧米志向の異様な偏重ぶりが一目瞭然だろう。アフリカに関しては、取ってつけたような僅かな予算を、京都大学(言語学)と東京外国語大学(文化人類学)と名古屋大(地誌学)に出したようである。実際、産業と結びついているアフリカの国の情報収集やインフラ整備は必要なので、僅かでも予算を出す必要はある。名古屋大は今はほとんど痕跡もないが、京都大(アジア・アフリカ研究)と東京外大(アジア・アフリカ言語文化研究)では大学院にも痕跡があり、東京外大のAA研(アジア・アフリカ言語文化研究所↓)は健在である。そこを出れば、数は多くないが、両大学や国立民族博物館に研究者用の職がある。ポルトガルに廃墟にされたキルワ島についての博士論文を書いた人がいたので、誰が書いたんやろと不思議になって調べてみたら、やっぱり国立民族学博物館の人だった。枠に入らなければ、自力で大学の職を探すしかない。何かの枠でどこかの大学に潜り込んで、アフリカ研究を続けるのである。廊下であった元同僚もその口だろう。大学に入ってしまえば、研究枠の制限はない。
次は、ライトシンポジウム、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:横浜

 大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)に行き始めて3年目か4年目くらいだったか、ある日、先輩から「出版社の社長さんにあんたの話をしたら、一度会いたい言うてたで。会(お)うてみるか?」と聞かれた。先輩はすでにその出版社が出している雑誌(↓)に書いているらしかった。大学の口も決まっていないしと思ったが、会ってみることにした。

 西明石(↓)から新幹線で出版社のある横浜に行き、駅前の喫茶店で会った。編集者の女性もいっしょだった。よくわからなかったが、僕とは明らかに違う種類の人だと感じた。特に何かを聞かれたりとか依頼されたりとかはなく、いろいろ話するのを聴いてた時間が多かった。縄文時代の話と初めて聞くツングースという言葉が記憶に残っている。明らかに違う種類と感じたのは確かだが、その人が偉いのかどうかも判断出来なかった。とにかく、今までの基準でものを見ても捉え切れない、そんな気がした。

 初めに聞いたのは、たしか、豊かな縄文時代が一万年以上続いていたところに大陸からツングースが来て、侵略を開始し、縄文人を殺戮しまくって日本列島を覆いつくしてしまった。それが弥生人で、後に大和朝廷を作り、その末裔が今も関西に陣取り経済を支配し続けているのです、大雑把に言うと、そんな話だった。何万年に渡る壮大な話は聞いたこともなかったのでよくわからなかったが、特別おかしいとも思わなかった。詳しく考えたことはないが、戦争に負けて急激にアメリカ化されて、アメリカにもその人たちの母国語の英語にも反感を抱いていたので、何となく侵略についての話はわかるような気がした。後にぎっしりと書いた手紙を何通ももらったが、基本的にはその話の延長だった気がする。手紙の中でよく書いていた侵略遺伝子の話は得心したが、話が大きすぎて他の人に話をしても信じてもらえそうにない気がした。侵略抑制因子と、これまた初めて聞く言葉だったが、私が理解しくいと判断して分かり易く説明してくれている。

 「・・・生物の成長というのは 細胞が個数を増す 細胞分裂と分裂によって 小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさを とりもどす細胞成長とによって 達成されます 生物は本質的に成長するものなのですから 各細胞は 成長の第一条件たる 細胞分裂の傾向がきわめて強いのです しかし 無制限に 細胞の個数が増加して その結果 過成長すると こんどは 個体の生命が維持できなくなります そこで遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は 不必要なときには 抑制されています この抑制因子を モノーという人は オペロンと名づけました モノーのオペロン説です フランスというところは 困ったものでいまだにデカルトの曽孫のような顔をした人たちしかいません このモノーも デカルトの曽孫にちがいありません しかし 話を簡略にするためには このオペロン説は 便利です 化学変化を説明するのに 結合手なる 手を 原子または原子団がもつものとするのに似て こっけいですが御許しいただきたい さて このオペロンが はずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき 細胞は 遺伝子本来の 〝分裂欲求〟に忠実に従って 際限なく 分裂を繰りかえします ガンです そして ガンになりやすい体質は遺伝します これはオペロンが はずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです たしか 一九二◯年代に 有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています ヒトがすべて侵略者とならないのは この恐ろしい 〝遺伝子〟にも オペロンのおおいがかけられていて 容易には 形質を発現することがないためです ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは 窮迫によってはずされてしまったのです それも ほんの七千年か八千年ほど前のことです そして このオペロンのはずれやすい傾向は 連綿と受けつがれ いまなお 子や孫が風を切って 日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています 天孫降臨族の末裔たちです 手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい 四六時中 蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく 四方八方にくばる この侵略者たちは もちろん 効率百パーセントの水平思考を好み鉛直思考など 思いもよらぬことなのです 玉田先生が 鉛直下の原言語に乱されて 思考が中断するなら 私のほうは 鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します 中断と消滅 軽重の違いはあっても 二人とも やはり 頭が悪いのは 確かなようです」

 そう言えば、「僕は頭がよくないので。受験勉強もしなかったので、行くところがなくて・・・・」と言うような話をしたような気がする。あとで先輩から「あの人、東大の医学部やで」と聞かされたが、どこも行く大学がない私と比べられても、というのが正直な感想だった。
 よくはわからなかったし、数年前にその人が亡くなられた後も、よくわからないが、医学部(↓)に決まってからは、この人の言われることをこなすのに精一杯だった気がする。生きてるうちに、気持ちの中ですべてを理解するのは不可能だろう。その人と出逢ってよかったのかどうかはわからないが、出会ったのだから、そうなんだと理解するしかない。
 次は、ゴンドワナ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:二つの学院大学

 1983年に大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)で非常勤を始めて、工学部の学生相手に「LL教室」(7月12日)を使って補助員3人に助けてもらいながら教養科目の英語の授業をさせてもらった。次の年に桃山学院大学(↓)、その次の年に神戸学院大学、二つの学院大学から非常勤の依頼があって引き受けた。どちらも黒人研究の会の人の知り合いからだった気がする。一度教歴が出来ると、非常勤なら口がかかるようだった。英語の必修時間が今と比べてかなり多かったから、それだけ英語の非常勤の需要も高かったというわけである。大概は専任のある人がお互いに助け合って非常勤に行っているのが普通だったようだが、私のように教歴のために引き受ける人もいたわけである。大阪工大は1コマ16000円だったが、桃山学院大は24000円、神戸学院大は22000円だったと思う。国立大はこなしたコマ数の謝金が翌月に支払われるが、関西の場合は、総謝金を12ケ月で割った分が毎月支払われるのが慣例だったようだ。地方で大学も少なく非常勤の需要がない所は、1コマでも引き受けたりするが、一日3コマで頼まれることがほとんどだった。一年間30週の規定は今も同じだと思うが、実際は23週か24週だった。月額支給なので、何かの都合で休講にしても減額になることはなかった。慣例的に少しの幅を持たせて運用しているようだった。

 たぶん、運営交付金が削られて、国立大の非常勤の謝金の基準も下げられ、その影響で私学の基準も下がっているのではないか。それに予算削減で締め付けられて、英語の必修の数を大幅に削っているところもある。文部省(現文部科学省)は英語は演習科目と考えて単位数を普通の講義科目の半分に換算して来たが、それを悪用して名目は同じ単位数でも実質は半分という裏技を当然のように使って、英語の必修科目数を減らしているところも多い。つまり、英語の非常勤の需要も大幅に減っているというわけである。その意味では、非常勤でもまだめぐまれていた頃だったかも知れない。水曜日の夜と金曜日の昼は大阪工大だったので、月曜日に引き受けた。1コマ目からだったので、朝早くから満員電車の一日だった。

 桃山学院大学は大阪府和泉市にあって「明石」(6月16日)の自宅からは2時間ほどかかる。しかも、大阪で地下鉄に乗り換え、難波で南海電車に乗り換える。梅田や難波は相当な混みようである。大学は1959年創立のミッション系で、文科系の大学だった。そこの教養の英語を頼まれたわけである。大学のバスケットボールのチームメイトがその大学の付属高校だったので、名前は聞いたことがあるくらいで、中身は知らなかったが、可もなく不可もなくという印象が残っている。学生はまじめで、おとなしい人が多かった分、あまり印象にも残っていないようである。時々、図書館(↑)を使わせてもらった。ライトの日本語訳が載っている『新日本文学』を探してコピーさせてもらった記憶がある。

 3年目に引き受けた神戸学院大学(↑)は家から近かったので、満員電車の心配をせずにすんだが、きつい坂を登る必要があった。それでも自転車で半時間ほどで大学に着いた。土曜日も授業をしていた頃で、土曜日の3コマを引き受けた。1966年創設の新しい大学(↓)で経済学部の学生の英語を担当した。1972年に栄養学部と薬学部が出来てから徐々に大学の評価が上がったようである。隣の市にある私が出た進学校から当時進学した人はいなかったと思うが、最近は進学している人もいるようである。学生の印象は、桃山学院大と同じで、まじめでおとなしく、可もなく不可もなくといったところか。特に困ることはなかった。専任の話があったわけではなかったので、教歴の一つとして引き受けたというのが正直のところだ。どちらも学院大学で、学生の雰囲気や反応、事務員の対応、教室の施設など、よく似た感触が残っている。
 次は、横浜、か。