つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:初めての郵便物

明石城

 引っ越しの日を待ち構えて、郵便が投函されていた。引っ越し前に編集者の人と「横浜から」明石(↑)の家を訪ねてくれた「横浜」の出版社の社長さんからだった。分厚い手紙だった。やっぱり話が壮大でよくはわからなかったが、意識下通信制御と侵略遺伝子と医学生についてだった。医学部を出た人からのエールだったようである。

 すでに「ゴンドワナ」にだいぶ記事も書かせてもらっていた。それまで原稿用紙に手書きで書いて原稿を送っていたが、この辺りからワープロ原稿に変わった。使っていたのはNECの文豪ミニ(↑)というワープロで、フロッピーディスク(↓)を使って原稿を送るようになった。映像や画像をふんだんに使うようになっているギガの世界に比べたら、キロバイトの世界、今は昔である。

 どういう経緯で買ったのかは忘れてしまったが、出入りの業者に薦められて大学の備品で購入したような気がする。自分で英語をしゃべるようになろうとテレビとビデオデッキを買って映画やニュースも英語で見るようにしていた。ビデオテープの時代で、まだベータのテープがあり、全般にはVHSのテープが多くなっていたが、私自身は半々くらいで使っていた。授業で使うビデオを編集するために、研究室にもVHSのデッキとベータのデッキを2台ずつ買う必要があった。デッキは25万円ほどしたので、最初の年に一気には買えなかった。校費の内訳はよく知らなかったが、語学は普通の講座の半分で、教授枠が欠員で予算も助教授1、講師1の予算配分とかで、初年度は40万円余りだった気がする。初年度に科学研究費を申請して次の年に100万円が来たので、たぶんその年にデッキは全部買えたのではないか。医学部では教授の権限が強く、大学は組合も作らせず文部省のいいなりの大学になったらしく、そのお陰で予算は隣の3学部ある旧宮崎大学より多かったらしい。だから、今から思えば、もう少し研究費があってもよかった気もする。統合前は旧宮崎医科大学(↓)の研究費が教授180万、准教授120万で、統合したとたん旧宮崎大学に併せて40万余りに減額された。当時は予算が潤沢だったようである。もっとも私としては「研究室があるだけで有難く、予算まで貰えるなんて‥‥」、それが正直な感想だった。

 授業がある日は大学に出かけた。出ない日も多かったので、電気がついているのを確かめて学生が訪ねて来てくれた。定期的に何人か来ていたので、大学に行く日は、授業の前も後も学生と話をする時間が長かった。8時間くらいの日もあったし、夜遅くなる場合も多かった。授業の時間より、研究室で学生と話をしていた時間の方が多かったのではないか。
 研究室は東西にのびる福利厚生棟の3階にあった。授業は福利厚生棟の続きにある南北にのびる講義棟の3階で2年生の授業、4階で1年生の授業があった。福利厚生棟の1階に学生食堂があったので、私の研究室は講義棟から学生食堂に行く通り道にあった。退職後に病院との間の研究棟の奥の方に研究室が移動したが、距離以上に学生との距離が離れた気になった。学生は珈琲が目当ての人もいたが、大抵はふらっと来て、1時間か2時間、3時間か4時間ほど部屋でしゃべって行った。特に何を話したというわけではなかったが、高校のことや大学の他の授業のことや、家族や友人のことや授業で感じたことなど、とりとめもなく続いた。非常勤が長かったので、研究室(↓)は有難かった。それもあって、家でワープロに向かうことが多かった。最初は雑誌の記事だけだったが、編註書や翻訳本など、次から次に勧められるまま原稿を送った。小説をかくつもりが、それどころではなくなってしまったのである。

この頃に隣の事務の人が撮ってくれた研究室での写真で、白髪なしである

 引っ越しの前まではほんとに慌ただしかった。「ライトシンポジウム」「ミシシッピ」に、エイブラハムズさんのインタビューでカナダに(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)、「MLA」の発表で「サンフランシスコ」(↓)に行き、その間に4つ大学の口がだめになって(「女子短大」「二つ目の大学」「工大教授会」「広島から」)、諦めかけていたところに「再び広島から」連絡があってようやく大学が決まった。5年の就職浪人だった。浪人1年、留年2年、学部卒業後の就職浪人1年を入れると、9年である。
 次は、自転車で、か。

 分厚い手紙については、その後、部屋にきてくれる学生にも話をしたし、授業で話をしたこともある。理解できたかどうかはいまだに心許ない。

意識下通信制御について

「闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります」

侵略遺伝子について

「・・・生物の成長というのは 細胞が個数を増す 細胞分裂と分裂によって 小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさを とりもどす細胞成長とによって 達成されます 生物は本質的に成長するものなのですから 各細胞は 成長の第一条件たる 細胞分裂の傾向がきわめて強いのです しかし 無制限に 細胞の個数が増加して その結果 過成長すると こんどは 個体の生命が維持できなくなります そこで遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は 不必要なときには 抑制されています この抑制因子を モノーという人は オペロンと名づけました モノーのオペロン説です フランスというところは 困ったものでいまだにデカルトの曽孫のような顔をした人たちしかいません このモノーも デカルトの曽孫にちがいありません しかし 話を簡略にするためには このオペロン説は 便利です 化学変化を説明するのに 結合手なる 手を 原子または原子団がもつものとするのに似て こっけいですが御許しいただきたい さて このオペロンが はずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき 細胞は 遺伝子本来の 〝分裂欲求〟に忠実に従って 際限なく 分裂を繰りかえします ガンです そして ガンになりやすい体質は遺伝します これはオペロンが はずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです たしか 一九二◯年代に 有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています ヒトがすべて侵略者とならないのは この恐ろしい 〝遺伝子〟にも オペロンのおおいがかけられていて 容易には 形質を発現することがないためです ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは 窮迫によってはずされてしまったのです それも ほんの七千年か八千年ほど前のことです そして このオペロンのはずれやすい傾向は 連綿と受けつがれ いまなお 子や孫が風を切って 日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています 天孫降臨族の末裔たちです 」

医学部の学生について

「最近の学生は とくに 医学生は 頭の良い子ばかりだそうです なにしろ なんかの方法で 受験勉強をしなかった子は いないというのですから 〝学問〟に対する その真摯な態度と勤勉に 驚かずにはいられません これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に 己れの行く末を見つめ かっちりと計画がたてられる 頭の良い子であることを意味しています 鉛直方向によそみをすることなど 思いもよらぬ 天才少年です・・・しかし〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生 この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます 学生たちの 眠っている 意識以前に 無言で語りかけてください・・・意識下通信制御です 百億年の因縁なんぞ信じないぞ 数百万の祖霊 そんなものは ミイラに食わせてやる などと仰言ってはいけません そうすれば 玉田先生の学生のなかから 医者や医学者ではなく 医家が 必ず 生まれることを かたく 信じてください そして もちろん 学生に 好かれるように行動するのではなく いつも 御自分からすすんで 学生のひとりひとりが 好きになるようにつとめてください 〝良い頭の〟学生は 医学生の責任だとはいえません 親はもちろん あらゆるものがよってたかって腕によりかけ 作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば ある日 ぱっちり眼を開き 心臓が鼓動をはじめ 体のすみずみに しだいに ぬくもりがひろがっていくことが 必ずあることを忘れないでください それと 医学部の学生は 最優秀と考えられていますが実際は 外国語も自然科学も数学もなにもかも まったくだめだということを 信じてください 子どもだから仕方のないことですが 世評がいかに 無責任ででたらめなものであるかを 玉田先生も 四月になれば いやというほど思いしらされるはずです たとえば 英語は 百分講義で英文科三ページがやっとのところを 医学部は十ページをかるがるとこなすのですが その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると こいつ ほんまに 入試をくぐってきたんかいな と思う奴ばかりです それでもうんざりして見捨てたりせず この愚劣なガキどもの ひとりひとりからけっして眼をはなすことなく しっかりと 見守ってやっていただきたい なにしろ まだ人類とはならぬこども なのですから・・・」

つれづれに

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つれづれに:借家に

 最悪の宮崎初日は宿泊所を移動して朝を迎えた。二日目も雨で、やはり肌寒かった。入る予定の借家に向かった。タクシーに乗り、中心街の橘通や宮崎駅を越えて、宮崎神宮駅(↑)より少し北の地域にある借家に15分ほどで着いた。紹介してくれた人の持ち家で、百坪余りあるようだった。10年余り住んでいた中朝霧の家と同じくらい位の敷地なので、狭い思いはしなくて済みそうである。話では、旧宮崎大学はこのあとすぐの4月1日から家から20キロメートルほど南にある学園木花台に移転する予定だった。宮崎神宮辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々旧宮崎大学農学部におられた方で、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入されていたようだが、これから行く宮崎医科大学に異動したので、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入したと聞く。宮崎駅から大淀川を越えて駅一つ南の駅付近である。今は宮崎駅近辺に中心が移っているが、昔は南宮崎駅辺りが中心だったらしい。宮崎交通の経営する宮交シティというショッピングセンター(↓)があり、今はなきダイエーも入っていた。その人が異動で新しい家に移ったあと、そのままにしていた家を借りたというわけである。

 大学の英語科には同僚となる助教授の人がいるらしく、私が着任するのでその人が秋から在外研究に行けるらしく、現在持っている農学部の英語の非常勤を任せたいらしかった。全学の英語は教育学部の英語科が世話しているようなので、まだ旧校舎にいる英語科の人に会いに連れて行ってもらえるらしい。新学期の始まる前に二人で会いに行ったら、私が通った神戸の大学と同じように木造の2階建ての建物だった。建てられた時期が同じで、仕様が似ていたんだろう。教育学部の前身が旧宮崎女子師範学校で、このあと文科系の大学が用地を活用すると言っていたが、作るかどうかも含めて話し合いはこれからだそうである。人口が30万人ほどの地方都市に大学?と思ったのは、百万都市の神戸市でさえ、市立大学を維持するのは財政的に難しいというような話を聞いたことがあったからである。前身が農業専門学校と工業専門学校だった農学部(↓)と工学部も近くにあったらしい。同僚に紹介されたのは教育学部英語科の主任の人だったようで、上智大出身でイギリス文学が専攻、言葉遣いも丁寧な英国紳士風、だった。

 家は1階は6畳3部屋に台所兼食堂、2階は6畳2部屋で、東側の玄関先と南側に庭、西側に広い畑があった。子供が2階、私は西の6畳、妻は6畳二間続き、テレビを6畳二間続きに置いたので居間を兼ねそうである。南北の風通しはよさそうである。南が2軒、東が1件、西が1件と隣り合わせだが、西は畑が間にあるので直接接しないでもよさそうである。北側がわりと近いので、今のところ家がないのは有難い。妻の父親が滞在するときは、子供部屋にどちらかに泊ってもらい、子供に移動してもらうことになりそうだ。
 妻は引っ越し作業が落ち着けば、毎日でも描きたいとうずうずしている。娘は近くの小学校に、息子は幼稚園に行くことになりそうである。幼稚園はすぐ近く、小学校もそう遠いなさそうで、どちらも近いうちに挨拶を済ませておこう。少し東に県道があり、そこから東に少し行けば日向灘である。自転車も運んで来ているので、いろいろ探ってみよう。この日、郵便受けに最初の郵便物が届いた。予め引っ越し日を知らせていたので、この日に着くように出されたものらしい。出版社の社長さんからの分厚い手紙だった。
 次は、初めての郵便物、か。

すぐ近くにあった宮崎神宮

つれづれに

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つれづれに:お別れ

 その時はそうも思わなかったが、私たちが宮崎に行ってしまったら会うのはこれが最後になると知って「中朝霧丘」の家に来て下さった人がいた。妻からその人の話はよく聞いていたが、お会いしたのはその時が初めてである。妻が異動して通った高校で同僚だった人である。中朝霧の家の最寄り駅はJR朝霧駅(↑)で、一駅西が明石駅(↓)、次が西明石駅でその駅までは複々線である。その区間も含めて海側には神戸と繋がっている山陽電鉄が走っている。公共の交通の便はいい。市立商業高校はその私鉄沿線にあったので、妻は明石駅から山陽電鉄を使っていた。その人の家は海岸近くの高校と私鉄の駅のすぐ近くにあったようである。

 私よりだいぶ年上の人で、戦前に旧京都帝国大學の法学部に入ったらしい。妻の父親が九州の国立大工学部を出て、私たちが転がり込んだ家に定住するまで大手の紡績会社の技術職として工場を転々としていたが、工場長の待遇はかなりのもので、スラム同然の地域に住んでいた私と比べると、同じ時代に生きていたとはとても思えなかった。多くの人が大学に行ける今とは違って国立大学に行く人の割合は極めて少なく、その中での旧帝大系の東大は別格、それに次ぐ大学である。卒業して順調に行っていれば、相応のポジションにいて、相応の生活をしていたはずである。その人がどういう経緯で市立商業高校(↓)の英語教師をしていたのかはわからないが、二人目の息子が生まれた直後で妻が一番大変な時期にお世話になった。家事に育児に私の母親の借金にとほんとうにぎりぎりの毎日だったし、一年目から担任していたクラスでは「わたしせんせの言うことわからへん」と言われることも多く精神的にもきつかったから、学校での理解と助けは特別だった。産休明けに妻が担任を持たずに済んだのも、図書部所属で長に配慮してもらったお陰である。授業時間以外は図書室の一室であまり気を遣わずに過ごせたので、大部屋の職員室にいなくても済んだ。同じ時期に産休明けで出て来た同僚が、どうしてあの人だけ担任を持たなくていいの?と漏らしたと聞く。

 その後、妻は神戸市の普通科の新設校に異動し、最後は家の近くの自分の通った高校(↓)に異動した(→「再び広島から」)が、ずっとその人との遣り取りは続いていたようだ。いつの頃からか、年末に弟の家とその人の家のおせち料理も作るようになっていた。高校の職と子供二人の世話に食事や家事だけでもかなりの負担だったのに、共働きの弟夫妻も母親の借金返済のために大変な思いをしていたので、せめておせちでもと毎年渡すようになっていた。ちょうどお世話になっている時期だったので、その人にも日頃のお礼にとおせちを持って行くようになった。その人は妻を33歳で亡くして以来、障害のある幼い娘さんを一人で育てていた。年末には二人で「魚の棚」に出かけ、昼網の鯛や生きた海老を買い込んで、妻が料理した。煮物には時間もかかる。妻の母親からは結婚したら料理をするから、今は料理せんでもいいよと言われて育ったようなので、料理の経験はなかったが、結婚した最初から家で料理もしてくれたし、弁当も作ってくれた。妻の父親も子供ももちろん私も、毎回おいしく食べさせてもらっていた。運んだおせちも、いつもなかなかの味だった。昼網で仕込んだ魚介類は、酒好きのその人には格別だった気がする。

 その日はお昼前に家に来られた。妻がおせちの支度をしている間、お昼と夜の二食の相手は私の役目だった。お酒が大好きな人で、日本酒の熱燗をちびりちびりやりながら、ほんとうにおいしそうに食べていた。私は今はまったく飲まないが、その頃はビールを少しは飲んでいた。元々アルコールは体に合わないようだし、無理やり飲まされる場所を極力避けていたこともあって、酔い潰れたことはない。酔う前に、戻してしまうことが多かったのは、無意識に体の防御作用が働いていたのかも知れない。その日は、ビールを少しずつ飲んで、もっぱら聞き役に回った。素敵な人の話は長時間聞いていても、飽きることはない。楽しいひと時だった。十時くらいだったか、そろそろお暇をと立たれて玄関で挨拶をしたとき、人目を憚らずにはらはらと涙をこぼしておられたが、その人の生き方の結晶のような涙に思えた。おせちを抱えて、暗闇の中を帰っていった。私たちはいつでも会えると考えていたが、会ったのはその時が最後だった。年賀状は毎年届いて歌が添えられていたが、ある年から年賀状も来なくなった。妹さんから、少しぼけが入り出しまして、というはがきをもらったのが最後である。
 次は、横浜から、か。

山陽電鉄