つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:MLA

 初めての英語での発表だった(↑)。伯谷さん(↓、左側)が担当していたのはEnglish Literature Other Than British and Americanという小さなセッションだった。日本では英語による文学と言えば英語を母国語とする人たちのイギリス文学とアメリカ文学が主流だが、この500年以上のアングロ・サクソン系を中心にした西欧諸国に侵略された人たちのうち、英語を強要されて使うようになった人たちは数限りなくいる。最初は英語を強いられたその人たちやその子孫はやがては日常でも英語を使うようになり、英語で小説なども書くようになった。その人たちが英語で書いた文学がEnglish Literature Other Than British and Americanである。南アフリカのラ・グーマもその分類の中に入る。

 私はラ・グーマの初期の2作を中心にして“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”を読んだ。発表は大抵15~20分程度、そのあと質疑応答である。伯谷さんから誘われてから2年足らず、その間にエイブラハムズさんのAlex La Gumaをはじめいろいろ読んだし、エイブラハムズさんを訪ねてラ・グーマについてもいろいろ直接聞かせてもらい、質問にも答えてもらった。

 

一作目(ナイジェリア版、神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

しかし、今回の内容で書いたのは、ファーブルさん(Michel Fabre)が送ってくれた雑誌に載っていたサマンさん(Richard Samin)のラ・グーマへのインタビューの次の一節がきっかけだった。

– “What do you think of symbolism as a literary device?"
– “I have no objection as long as the reader knows how to interpret it correctly. In my novels there is a combination of realism and of transparent symbolism."1
– 文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。
– 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

二作目(東ドイツ版、神戸市外国語大学黒人文庫所蔵)

 「ライトシンポジウム」(7月22日)のあとファーブルさんからAFRICAN NEWS LETTER (仏文) が届くようになった。フランスのソルボンヌ大学が定期的に発行している研究誌で、1987年1月24号に学者サミンさんが1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在していたラ・グーマに行なったインタビューが載っていた。雑誌に日本語訳を紹介したくてファーブルさんに住所を聞きコートジボワールに手紙を書いて承諾をもらい、日本語訳をして雑誌に載せてもらった。ラ・グーマは1976年の1月から2月まで客員作家として滞在していたようで、日本から来ていた野間寛二郎さんに「日本のインテリはアパルトヘイト体制に何をしていますか?黙っているとしたら、加害者と同じです」と言われて何も言えず、戻ってから後の反アパルトヘイト委員会の人たちと活動を始めたと述懐していた。その中の「写実的表現と平明な象徴的表現」がエイブラハムズさんのAlex La Gumaの中の指摘と重なったので、初期の二つの作品の中の「写実的表現と平明な象徴的表現」に絞ってまとめたわけである。

 ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘いながら、作家は「歴史を記録する」、「南アフリカで起こっていることを伝える」必要があると感じていたので、ラ・グーマは「読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。」と言ったわけである。そのラ・グーマの思いが、初期の二つの作品でどう表現されているのかを発表用にまとめた。一つ目『夜の彷徨』の舞台はケープタウンのカラード居住地区(↑)で、アパルトヘイト下でごく普通の青年が職もなく簡単に犯罪に手を染めていく姿の「写実的表現」と、暗い夜という「平明な象徴的表現」を織り交ぜながら物語に仕上げている。二つ目「まして束ねし縄なれば』の舞台はケープタウン郊外のスラム(↓)、貧しい中で肩を寄せ合いながら生きる家族の「写実的表現」と、人々を悩ます雨という「平明な象徴的表現」を織り交ぜながらアパルトヘイト体制の中で南アフリカに何が起きているかを伝えようとしている。そんなラ・グーマの姿勢と文学技法について発表したわけである。

 発表は無事終わったが、質疑応答の時間に発言はなかった。エイブラハムズさんが言うMLAのアフリカ関係のレベルの低さと言ってしまえばそれまでだが、それだけではないような気がした。日本と同じようにアメリカ全般のアフリカへの関心の低さもあるが、MLAでアフリカ関係の発表をするのが業績のためという傾向が強い気がする。誘ってくれた伯谷さんもアメリカの競争社会を生き延びるために他の人がやっていないことに挑戦してみる必要性があったのではないか。元はセオドア・ドライサー(Theodore Dreiser, 1871-1945ドライサー、→「購読」、5月5日)を主にやっていたから、主流の路線だったわけである。日本人がアメリカ人と競ってアメリカ文学の分野で勝ち残るのは相当なものだろう。日本と違って、アメリカの場合定年はなく、結果を残せた人は年がいっても現役でいられる。伯谷さんも80を過ぎた今も現役で、この前44冊目の本を出したと聞く。シンポジウムに誘ってくれた人も同じ部屋の違うセッションで発表していたが、日本からはるばる来た理由も業績のためである。私はシンポジウムにファーブルさんと会うために参加したが、その人はゲストスピーカーの公募に選ばれなかったと言ってたから、MLAでも業績の比重が大きかったはずである。横浜国大から早稲田の博士課程を終え愛知の短大に行ったあと、理事長の独裁で揺れた東京の私学の工学部に異動、元々人間が苦手らしく、「授業では学生が洟もひっかけてくれない」と手紙に書いていたことがある。「ライトの本格的な論文が書けなくて」ともこぼしていたが、アメリカの学会は水があっていたようだ。人の評論を集めたり、ある作家の資料を集めたような書誌と言われる分野も業績として評価されるので、記憶力と忍耐力のあるその人には向いていたと思う。俳句もやっていたようで、ライトの俳句の分野でも評価され、ジャパン・タイムズに連載していたと聞く。

 その後ファーブルさんにソルボンヌで発表するように薦めてもらったのに行けなかったのは、研究に向いていなかったからのようである。それに元々文学の分野での研究そのものに懐疑的で、テーマや表現がどうのと言っても、書く側からすれば、書いている本人も気づかないで書いたかの知れないし、という多いがいつもある。その点、伯谷さんもシンポジウムに誘ってくれた人もファーブルさんも研究者だ。ある日、ニューヨークから古本が二冊届いた。ファーブルさんが古本屋で買って、わざわざ送ってくれたものだ。一冊は友人のバズル・デヴィッドスンのものだった。ファーブルさんにもずいぶんとお世話になった。
 次は、MLAのあと、か。

ラ・グーマ(小島けい画、「ゴンドワナ10号挿画)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:サンフランシスコ2

 初めてのアメリカが「サンフランシスコ」(6月19日)だった。1981年の夏で、同じ時期にエイズ患者が出た(↑)という歴史的な出来事があったことも全く知らなかった。アメリカも5回目、初めての英語による発表である。サンフランシスコまで5歳の息子にはきついからと、「ハワイ」(8月1日)を経由した。ワイキキの浜(↓)に出て、ホテルのテラスから夕陽を眺めた。真冬のクリスマスイブに日本を出て、真夏のクリスマスの朝にホノルルに着いた。サンフランシスに着いたのは夜で、夜霧のサンフランシスコではなかったが、細かい雨が降る晩秋の雰囲気だった。

 「MLA(Modern Language Association of America)」は文学や語学の全米でも大きな学会で、毎年会場を持ち回りするようで、その年はサンフランシスコ(↓)だったわけである。日本でもそうだが、会場の持ち回りに合わせて家族旅行を楽しむ人もいる。名目があれば、大学の研究費も使いやすいからである。私は学会自体が苦手なので余程のことがない限り行かなかったが、周りでも全国大会は必ず行く人が多かった。精勤に行けば実益も兼ねて全国を巡ることが出来るというわけである。アメリカの場合は日本と比べ物にならないほど広いし、長期休暇を取って旅行に出かける率が高いそうなので、その傾向はより強いのではないか。サインフランシスコは気候も極端な暑さや寒さとは無縁のようだし、行ってみたい場所も多い。

ゴールデンゲイトブリッジ

 夏にラ・グーマの話を聞きに行ったエイブラハムズさん(→「1」、→「2」、7月30日~31日)も夫婦(↓)でサンフランシスコに来ると言っていた。カナダはアメリカに近いから、アメリカの学会とも深い繋がりがあるようだ。次の年にエイブラハムズさんが主催した会議にはアメリカからの参加者も多かった。エイブラハムズさんやグギさんのように亡命して大学の職にいる人も多い。もっともサンフランシスコには二人でMLAには行くけど「ヨシの発表には行かないでおくよ。アメリカのアフリカに関する発表の程度はわかってるから、聞きに行くのも気の毒だしね」と、にやーっと笑いながら言っていた。南アフリカだけでなくアフリカや世界情勢についての基本的な素地が欠けているのを、3日間で見抜かれてしまっていたわけである。その後数十年間南アフリカを皮切りにガーナ、コンゴ、ケニアなどの歴史や情勢を詳しくみていくに連れて、全体像を把握するだけでも時間がかかるものだと嫌でも思い知らされた。

 学会がホテルを借り切って、会場として使用し、会員はホテルに宿泊、料金は大幅に割り引きされていた。普段泊まるホリデイインよりも更に豪華な(↓)だった。案内された部屋はかなり広い二部屋続きのスウィートルームだった。きっと手違いだと思うとフロントと交渉して、二部屋の少し小さい方の部屋を使うことになった。元々部屋を使う予定だった人が変更を知らされずに部屋をノックして一悶着あったが、なんとか一件落着である。部屋には大きなダブルベッドが二つ、子供たちは大はしゃぎだった。

 初めての英語の発表なので、少し準備もしたかったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。ようやく子供たちが寝た後、一人で廊下に出て、長椅子に座り、発表予定のペーパーを小さな声を出して読んだ。しばらくしてそっと部屋に戻り、翌朝まだ眠っている3人を起こさないようにそっと部屋を出て、会場に向かった。会場には2年前にシンポジウムに誘ってくれた人も伯谷さん(↓、左側)も、部屋の前の方に座っていた。私を見つけた伯谷さんが立ち上がり「よく来てくれましたね」と言いながら近づいてきた。いよいよ英語での発表である。
次は、MLA、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハワイ

 ハワイに行った。エンパイアステイトビルディング(↑)に登った時、エスカレーターで途中の階で降ろされ、展望台へのエレベーターを待つ人混みを見て以来(→「ニューヨーク」(6月21日)、名所と称される所には行かないと決めていたが、家族で有名なハワイに行き、ワイキキの浜にも行ってしまった。「ライトシンポジウム」(7月22日)で伯谷さん(↓)からの「MLA(Modern Language Association of America)」での誘いを引き受けたとき、「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」と言われた。

 帰ってそのことを話したら、妻も二人の子供も大はしゃぎだった。大学院に行き始めてから子供との時間も増えていた。「中朝霧丘」(6月17日)の家に3人で転がり込んだあと息子が生まれ、母親代わりをさせてもらって、更に子供との時間が増えていた。妻の父親も含めて5人でよく食べに出かけた。その日、妻は料理を作らなくてもよかったし、私も後片付けをする必要がなかった。明石駅前の商工会議所のビルの1階にあるレストランに行って、「明石城」(↓、7月1日)を眺めながら食事を楽しんだ。舞子海岸近くにある舞子ヴィラのレストランも食べやすかった。妻の父親は学校には行くべきだと考えていたが、私たちはそうは思っていなかったので、学校のある日に4人で出かけることもあった。サンフランシスコもその延長だったようである。妻は折角だからビジネスクラスにしようと言うし、子供二人も大はしゃぎで嬉しそうだった。下が5歳だったのでサンフランシスコまで一気に行くのはきついと思い「ハワイに寄るんもええかもな」と思い着きで言ってみたら、「ハワイに行ける!ワイキキで泳げるやん」とさらに大騒ぎになった。

 伊丹空港を発ったのはクリスマスの夜で雪でも降りそうな寒さだった。日本とハワイとの時差は19時間だそうで、ホノルルに着いたのはクリスマス当日の朝だった。北半球の真冬の夜に飛行機に乗って、南半球の真夏の朝に着いたというわけである。太陽がきらきらと輝き、目にまぶしかった。空港からタクシーに乗って、ワイキキ浜のそばのホテルに直行した。途中、窓から外を眺めていた息子が「サンタクロース(↓)や、真っ赤な服着て浜を走ってるで」と、大きな声で叫んた。真夏に赤い服を着て、暑いやろなあと思いながら、私もサンタクロースが走っている方を見た。

 いつも通りホリデイ・インクラスで予約したが、ホテルもすこぶる快適で、部屋のベランダで沈む夕日(↓)を堪能した。3人は浜の勝っちゃん店という日本食屋を気に入って、各自好き勝手に注文をしておいしそうに食べていた。3人は英語はしゃべれなかったが、支障はないようだった。ワイキキ浜の近辺には日本人も多かったように思う。妻が浜でスケッチしていたら、スケッチされた少女の母親が近づいてきて是非売ってくれと紙幣を出し始めた。妻は恥ずかしそうに、どうぞもらって下さいと言いながらスケッチを渡していた。担任した高校生が「修学旅行」(6月1日)の文集を自発的に作ったとき、職員何名かと47人全員の似顔絵を描いてもらったが、それぞれぞくっとするほど特徴を捉えていた。今は犬や猫や馬の絵を頼まれて描くことが多いが、肖像画の需要があれば喜ぶ人も確実に増えると思う。

 ワイキキのホテルと浜(↓)で充分に寛いだあと、1987年MLAの会場のサンフランシスコに出発した。
 次は、サンフランシスコ2、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:エイブラハムズさん1

 ニューヨークからトロントまで飛行機で1時間ほど、空港からはバスに乗って45分ほどでセントキャサリンズに着いた。玄関のドアをノックしたら、エイブラハムズさんが現れた。微妙な瞬間だった。手紙には来て下さいとは書いたが、日本からほんとに来たか、そんな表情だった。奥に女優のような金髪の女性(↓)が座っていて、こちらを向いていた。

 アメリカに来て1週間ほど、電話が繋がらないままだった。ニューヨーク(↓)のホテルで電話をしながら、このまま帰ることになるのかと諦めかけたとき、電話の向こうで声がした。長期の休暇に出ていたらしい。充分予測出来たのに、そんなことも考えずに飛行機に乗った。「北アメリカに来たら電話して下さい」という手紙の指示に従ったわけだが、それにしてもよく会えたものだと、今なら言える。

 ラ・グーマと同じように亡命したと言うことだった。二十歳の時にANCの車で国境を越え、タンザニアとインド経由でカナダに渡り、市民権を取って博士課程を修了したらしい。今はブロック大学文学部(Humanities)の学部長(Deans)、学生は4万人ほど、直前に寄ってきたUCLAの規模と似ている。「ミシシッピ」(7月22日)の本屋さんのリチャーズさんが届けてくれたAlex La Guma(↓)は博士論文を元にして本に仕上げたらしい。作家論と作品論が本格的だったので、やっぱり博士論文だったんだと納得した。

 来た時にドア越しに見えた白人女性は再婚相手で、その女性の子供もいっしょに住んでいた。エイブラハムズさんにも離婚した南アフリカの人との間に大学生の子供がいて、出入りしていると言っていた。女性の子供は中学生の女の子で、夕食のあとアブドラ・イブラヒムという南アフリカの歌手の曲に乗って、エイブラハムズさんと軽快に踊っていた。

 一日目の夜はエイブラハムズさんが料理(↓)を作ってくれた。インド風のカレーやナンはおいしかった。ズールーとインドの血が混じっているそうなので、アパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類されたと言う。3回刑務所に入れられたらしい。自分で英語をしゃべるようになると決めてからそう経っていないので、聞き取れる自信もなく、用意していた超小型のカセットレコーダーで録音させてもらった。ジョンに聞いてもらって、雑誌に使うつもりだった。録音した拘置所の部分である。
「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

 中学生の女の子ともだいぶ仲良しになった。(↓)お返しに餃子を作ったときも横でいろいろ手伝ってくれた。家ではよく強力粉で皮を作り、大きなボール一杯の具でたくさんの餃子を作って焼いていた。ただ、ミンチ肉も小葱もないカナダでは、日本のようには行かなかった。女の子は珍しいのか、これは何?あれは何?と質問攻め、楽しかったが、料理の英語は聞いたことがなかったので返事に困った。言葉がなかなか出て来なくて、苦戦した。エイブラハムズさんとはしっくり行ってないのか、ずっと近くにいていろいろ話しかけてきた。
次は、エイブラハムズさん2、か。