つれづれに

伎藝天

 秋篠寺に行った。伎藝天を観るためだった。家庭教師で経済的に少し余裕が出来て古本屋で立原正秋の本をたくさん買った悪影響である。すぐにその気になる性質は、どうにもならないものらしい。高校時代にはいつも何かに腹を立てていたが、学校帰りに時より近くの寺に寄って、仏像を眺めて気を鎮めていたようだから、木彫を観る素養は元々あったようである。→「高等学校2」

高校の時に立ち寄ったお堂、聖観音像(↓)があったと思われる

鶴林寺公式ホームページから

 立原正秋の作品の舞台は、鎌倉や湘南辺りが多いのだが、『花のいのち』の肝心の舞台は奈良の秋篠寺である。その寺に伎藝天がいる。

伎藝天像(国宝らしい)

 『花のいのち』は立原正秋の典型的な男と女の物語である。男は奈良の寺をめぐって分厚い写真集を出している。高価だが、売れる。焼き物にも詳しく、目利きが確かで、鑑定も頼まれる。妻をなくしている。女は才色兼備で見合い結婚はしたものの、相手に結婚前から女性と子供がいるのがわかり、離婚して自宅を出版社の保養所にして暮らし始める。その保養所に兄が男を連れて来て、女と出逢う。知と美の出会いである。男は自分の恋心を中唐の詩人耿湋(こうい)の五言絶句に込め、女はそれを理解して秋篠寺を訪ねて行く。そんな立原正秋の世界である。

返照入閭巷 憂来誰共語 古道少人行 秋風動禾黍

「返照閭巷(りょこう)に入る、憂うるも誰と共にか語らん、古道人行少(まれ)に、秋風禾黍(かしょ)を動かす」と読み「夕日の照り返しが村里にさしこんで、あたりをやわらかく包んでいる。わたしの心には憂いがいっぱい湧いてくるが、それを慰めあう相手もいない。古い道には人の往来もまれで、ただ秋風が稲やきびの穂を動かしているだけである」という意味らしい。美しい女は、伎藝天に準えて恋心を贈った男に会いに行く。

 鎌倉や湘南と違って、私には奈良は日常の世界である。一年生の時だけいっしょにプレイをした同級生の家の最寄り駅が秋篠寺に行くときに利用した大和西大寺である。近鉄沿線の石切駅近くには、いっしょに合宿をした私立の外国語大学生の豪邸もある。勉強が苦手な人たちで、宿舎ではオンナとパチンコの話ばかりだった。その人は金持ちの息子らしく、外車を乗り回していた。大阪、神戸、京都、関西の四外大定期戦で知り合った女子チームの同級生をデートに誘っていたようだが、優等生の同級生と合うようには思えなかった。少し付き合ったと聞くが、案の定結ばれなかったようだ。どちらもすらりと背が高く、経済的にも恵まれた美男美女だったが。その時はわからなかったが、理系に行く人が少なかった時代、昼間の英米学科には、才媛が集まっていたようだ。一人の同級生は親と兄が東大卒で、卒業後半年アメリカに留学して、高校の教員にはならないでJALの地上職に就いていた。今なら医学科に行って、医者になる人も少なからずいたような気がする。

近鉄大和西大寺駅

 秋篠寺には国鉄と近鉄を使って出かけた。近鉄の大和西大寺駅で降りて、駅からは歩いた。郊外の寺とは違って、生活の場を通って秋篠寺に着いた。伎藝天と長い時間さしで向き合っていたが、眼前に立原正秋の世界が広がることはなかった。

立原正秋(立原光代『追想 夫・立原正秋』より)

つれづれに

家庭教師4

木崎浜から北側に尾鈴山系をのぞむ

 今日は朝からきれいに晴れている。昨日も雨だったし、この先1週間ほどぐずぐずした天気が続くらしい。短い時間でも、布団を干しておこう。昼からは白浜だから、晴れている分、きれいな海を見ながら行けそうである。

青島海岸

100点の中学生を毎朝にしてもらうように頼んだのは、夜間課程の時間帯では捌けない数の家庭教師を頼まれていたからである。(→「家庭教師1」)11歳下の妹の元同級生の母親から頼まれた。妹とは小学校の3年生か4年生の時に同じクラスだったようで、かなり離れた川の上流の田舎の祖父母の家に引っ越しをしていたらしい。妹が家庭教師の話をしたのかも知れない。母親が声をかけた近所の同級生と、高校生の姉も合わせて4人でやって欲しいということだった。自転車で行くのも時間的にきつそうだったので、バイクを乗っていた弟に相談したら、YAMAHAの50CCのバイクを用意してくれた。中学校の時に「殴られて血を見たらかーっとなって遣り返したら、いつの間にかグループの頭になってしもうて。わい、血ぃみたらあかんねん。」と言っていたが、そこから抜けるために、中卒で大手の車輛会社の養成所に入って家を出ていた。期間が過ぎたあと家に戻り、家から神戸の会社に通勤しながら夜間高校に通っていた。元々機械やバイクに関心が強かったようで、出入りしていた整備会社の人を兄貴分と慕うようになっていた。その人に都合をつけてもらったらしい。バイクや車に関心がなかったので運転免許は考えたことはなかったが、運転免許を取って足を確保することにした。原付は筆記試験だけでよかったので、免許はすぐに取れた。当時のバイクは50CCでもエンジンがかなり強力だったようだ。夜中に川の堤防の道路を南に下ったが、100キロは軽く超えていたと思う。バイクて、速いもんやなあと思いながら、誰もいない真っ暗な道でエンジンを噴かした。

バイクを飛ばしたのはこの川の堤防である(→「作州」、3月14日)

引き受けたのは、元同級生と二人の男子中学生と高校生の姉の4人だった。やりながら、今までの人たちとどうも勝手が違うようやな、と感じ始めた。姉妹と男子中学生の一人は、元々勉強に向いてないようだった。親から言われて何となく、そんな感じだった。もう一人は頭もよく、する気もあったようだ。その3人をいっしょに、というのはなかなか難しい。幼馴染でもあるし、一人だけ、よう出来るなあと褒めるわけにもいかなし。親に別にやった方が本人のためになりますよ、とも言えないし。姉の方は、別の意味で大変だった。二番手の県立高校には行っていたが、商業科で教科書は中学校用に毛が生えた程度なのだが、進学する気もないようなのに、どうして英語の家庭教師?という程度なのである。同時並行という時間の制約もあって、一週間たまっていた話を話したくて仕様がないようだった。ここまではやっときや、と言ってもなかなかやって来ない。半ばお手上げである。ある時、父親が二人で話している所に、あんな成績で、一体何をやってるんですかと怒鳴り込んで来た。何も言わなかったが、やめなかったのはなぜだろう。高校生の話を聞いてやりたい気持ちもあったのかも知れない。この家庭教師は、なんだかもやもやが残っている。思わずたくさんの家庭教師をやらせてもらったが、やっぱり勉強は自分でするもんやろな、という思いは変わらなかったものの、暫くのあいだ、経済的にも気持ちの上でも余裕をもたせてもらったのは確かである。その後、高校の教師になり、長いこと大学で授業を持つとは夢にも思わなかった。

次は奈良西大寺、か。

折生迫のきんぽうげ、もう盛りを過ぎている

つれづれに

家庭教師3

とまとの柵(工事中?!)

 夜半過ぎから雨になり、今も雨が降っている。夕方過ぎまで続きそうである。雨を嫌うとまとの柵を作るのに思いのほか苦心している。竹を編んで拵えればいいのだが、腐らず長持ちするように工夫しようと考えたのがそもそもの始まりである。小さな温室のようなものを作ろうと考えて量販店で探している時に、屋根の部分の円形の支えと側面の支えを組み合わせる鉄製の部品を見つけて、これにしようと2回に分けて持ち帰った。結構長いので、自転車で運ぶのも大変である。さっそく組み立て、屋根になる部分の骨組みを他の支え棒で固定したが、これがどうもうまく行かない。土の部分が平行でないから捻じれるのかとも思いながら色々やってみたが、屋根の部分に固定した細い支えの棒がねじ曲がってしまった。ねじれ方が尋常でないので、初めて気が付いた。支え棒の長さが違うのではないか。調べてみたら、最初に買って来た4本と2回目の4本の長さが10センチほど違っていた。道理でうまくいかないわけだ。あした雨の降る前に買って来るか、そう思っていたら、夜半から雨が降り出した。あしたは白浜だから自転車に乗ると運動し過ぎてしまうし、仕方がない、土曜日か。雨に当たらないように、植えたとまとの苗にバケツを4つ被せとくか。思い付きの応急処置、やれやれである。

左側の買って来た苗と種からの苗

 100点の中学生、頭のいい二人の中学生、茶と琴を習いに行った先の高校生、それにコーチまがいの毎日、文字通り大学に行っている暇もないくらい忙しくて、2年留年をした。しばらく後でまた二人、今度はそれぞれ高校生の母親から頼まれた。慣れとは恐ろしいもので、「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが」(→「家庭教師1」、4月10日)と後ろめたい気持ちを持っていたわりには、さも受験勉強でもしたかのような不遜な振る舞いだった。
一人は私立高校の一年生で、すでに高校生になっていた「頭のいい二人の中学生」のうちの一人がテニス部の「先輩」だと言っていたから話を聞いたのかも知れない。子供の前で母親が少しおどおどしていた。子供は母親を少し鬱陶しく思っているようで、何となく不合格が尾を引いている感じだった。私といっしょに同じ高校を受けて不合格となり私立高校に行くことになった時に同級生が見せた物悲し気な表情が思い浮かんだ。通り道だったので毎朝迎えに来てくれていた同級生が行ったのも同じ私立高校だった。その時期(多感な時期、田舎でもあり今ほど進学する人が多くなかった時期)に地元の進学校に行けなくて、諦めて私立高校に通う本当の気持ちは、当事者でないときっとわからないだろう。後に大学院のゼミでいっしょになった人も同じ私立高校だったが、そんな感じは微塵もなかった。高校時代は野球でも有名だったチームでエースだったらしく、現役で同志社に行き、教員再養成向けの大学院に現役入学。担当教授の感化を受けてイギリス文学、それもキーツに関心を持ち、いたく教授に気に入られて楽しそうで、「物悲し気な表情」とは無縁のようだった。県立高校が二つしかなく、三番手は隣の市の県立高校を選んでいた田舎町とは違って、神戸に近い明石市の中学校だったので進学先の選択肢の幅が格段に広かったという進学事情が背後にあったかも知れない。

2列目左端がキーツくん、黒髭だが周りは教官並みに老けた「大学生」だった

 2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか。親子関係はうまく行ってるんやろか。私が教員になって中途半端のまま終わってしまったが、高校受験の傷が大学入試で少しでも恢復していればと願うばかりである。

河川敷近くに家があった(→「作州」、3月14日)

 もう一人はコーチまがいのことをしていた2年目のチームのキャプテンだった男子生徒の姉で、地元のもう一つの県立高校の2年生だった。弟は背は高くなかったが負けん気が強く、スポーツ向きだった。当然のような顔をしてキャプテンをしていたが、あまり勉強向きではなかったらしく、隣の市の三番手の高校に行っていた。語学にも向いてなさそうだったが、なぜか私立の外国語大学に行ったと聞く。私とコンビを組んでいた背の高いチームメイトも勉強は苦手だったらしく、その弟と同じ高校だった。市を跨いで通えるようにしていたのは単なる制度上の問題である。どういう政治的な経緯があったかは知らないが、こちらから行けるのだから、当然、成績のいい人が向こうからも入学して来る。数は多くなかったが、隣の市から通っていたクラスメイトもいたと思う。社会活動で仲の良かった一つ年上の人は成績がよくて地元に残った口である。高校の時は社会活動で忙しく浪人をしてしまったが、一浪して神戸の法に行って判事となり、最後は大阪高裁の判事だったらしい。高裁の判事になる時に「東大、京大以外で、と驚かれたで」と得意そうに言っていた。世評とは無関係に、優秀な人もいたわけである。
本人は弟とは違って体が元々強くなかったようで、控え目でおとなしい性格だった。大きな紡績会社で働いている父親も含めて家族四人で職員用の社宅(↓)に住んでいた。私立高校に通っていた生徒と同じように、2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか、そんな思いが残っている。卒業してから何年か後に、たぶん高校の教員をしている頃に家まで訪ねて来てくれたことがある。少し先に結婚することになったと話をしてくれていたが、少しも嬉しそうではなかった。私が何かを言うのを待っていると感じたが、敢えて何も言わなかった。生きてせいぜい30くらいだろうという思いが先に立ったからだと思う。それが二人が会った最後である。

紡績会社の社宅(→「引っ越しのあと」4月1日)

次は、家庭教師4、か。

つれづれに

花菖蒲(はなしょうぶ)

散歩の途中に通る道路脇の花壇に花菖蒲(↑)が咲いている。枯れかけているのもあるが、まだ蕾のものもある。何年か前から花壇の端の躑躅が枯れた場所にだ誰かが花菖蒲を植えたらしい。飛んで来た種から咲いたポピー(↓)も咲いてはいるが、盛りを過ぎたようである。上の公園の花壇にも植わっていて、最近ずいぶんと数が増えて来た。→「ポピー」(小島けい絵のブログ)

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」3月

 花菖蒲は宮崎で妻が最初に描いた花である。借りた家が宮崎神宮より北側で市民の森の菖蒲園に近かったのが大きな要因だろう。三月末に引っ越して来て、少し落ち着いた頃に、北側の自転車で半時間以内に市民の森があって、そこに花菖蒲がたくさん咲いていると聞いた。それで妻が通い始めたわけである。三十代の後半で若かったし、十四年間の仕事を辞めた解放感もあったようである。手のかかった子供二人も幼稚園と小学校に通い始めていたし、生き生きとして自転車で市民の森に通い始めた。

宮崎市民の森花菖蒲園

 毎日描いていたので相当絵もたまっていたので、本の装画の話が来た時、何枚かを出版社に送って表紙絵や扉絵になっている。原画を一括して送ってもらったことがあって、最近スキャナで取り込んだ。原画が3枚である。ぎっしり描いて、勢いもある。描いているときは、先行きのことは考えずに、描けなかった時間を取り戻すように、楽しそうに描いていた。→「花菖蒲」(小島けい絵のブログ)

花菖蒲

山田はる子『心の花を咲かせたい』(1989/1/25)

裏表紙

扉絵

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」 もどうぞ。

 季節も移り変わり、畑も冬野菜は終わりかけで、夏野菜に移行している。一昨年から作り始めた瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵と、今年は新たにとまとの柵を拵えている。茎や実の重さに耐えるように台風時の強風に負けないしっかりとしたものでないと、ごそっと倒れてしまう。過去の教訓である。台風の通り道であることを忘れてはいけない。とまとは雨を嫌うので、雨が当たらないようにビニールシートを被せる必要もある。毎日家にいるからか、まだレタスが虫にやられずに済んでいる。

北側の玄関先に植えている柿もたくさん実をつけて若葉が瑞々しい。一昨年は250個以上も生ったのに、去年はたったの7個、一つが干している間に落ちてしまったので、結局干し柿になったのは6個だけだった。今年は生り年のようである。→「昨日やっと柿を干しました」(2017/10/30)

何本もの枝にたくさんの実が生って、200個は越えそうである