つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:女子短大

大阪工大(HPより)

 大学の話が来た。初めてのことである。思わぬ人からで、住んでいた「明石」(6月16日)から西へ電車で1時間足らずの町にあるクリスチャン系の女子短大だった。電話でだったか、直接だったかは覚えていないが、「黒人研究の会」(6月29日)の会員だった女性の推薦だった。夫が近くの国立大学の教授で、旧帝大系の大学の先輩に当たる人がその短大の学長をしているらしかった。(→「黒人研究の会総会」、7月23日)典型的なその当時の人事で、誰かの推薦で教歴と業績が見合うだけあれば人事成立というパターンである。
推薦をしてもらえたわけである。その女性は例会で見かけるくらいで、話をしたのはその時が初めてである。研究会でやっていたことを評価してくれたのかも知れない。例会に参加し始めた時はその女性をあまり見かけなかったが、それから暫くして同じ女子大の女性と毎月参加するようになり、アフリカ系女性作家でのシンポジウムの話も出ていた。アメリカ文学会で理事もやり、地道な研究も続けているようだった。ライトのシンポジウムに行った直後に話が来たので、職もないのにシンポジウムのためだけにミシシッピまで行ったり、2年後に「MLA(Modern Language Association of America)」、2月20日)で発表(↓)する予定を聞いて、世話を焼く気になってくれたのかも知れない。

 当日、妻と二人で出かけた。学長室で会ったとき「来年から来てください。新学期の始まる前に、またお会いしましょう」と言われた。既に履歴書も見て、採用を決めていたようだった。12月か1月かだったように思う。寒い時期だった。3月に再度学長室を訪ねたとき、「その話はなかったことに」と言われた。推薦してくれた人も学長も言えない事情があるんだと感じて、理由は聞かなかった。たぶん、気の毒で言えなかったんだろう。借金をして夜逃げした母親である。短大には附属中学も高校もあって、隣には同じ系列の男子校もあった。私の住んでいたところから通う人はほとんどいなかったが、小学校のときに遊んでいた人が中学からそこに通っていた。親が薬剤師で、インテリの雰囲気が漂い、兄も同じ学校に通っていた。おそらく身上調査である。標準以上の子弟の通うクリスチャン系の短大に、地元近くで、親が借金をして夜逃げをした教員をわざわざ雇う理由がない。「自分がした借金ではないし、支払いの義務はないというつもりだったが、現実の前では空しい」(→「揺れ」、7月5日)である。
次は、二つ目の大学、か。推薦してくれた人も思わぬ事態を気の毒に思ったのか、二つ目の大学を紹介してくれた。その話である。

ミシシッピ州ナチェズ空港

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会総会

 「黒人研究の会」(6月29日)の例会でさっそく「ライトシンポジウム↑」(7月22日)の報告をした。ヒューズ(Langston Hughes、1902-1967、→「大阪工大非常勤」、7月11日)、ライト(Richard Wright、1908-1960)、ボードウィン(James Baldwin、1924-1987)、エリスン(Ralph Ellison、1914-1994)は例会でもよく発表されて来たみたいだったし、関心も高かったと思う。例会のあと、何通か問い合わせの手紙をもらった。今ならその日にメールが何通かというところか。シンポジウム(↓)でライト自身が主演したアルゼンチン映画『アメリカの息子』が上映されたとき、小型のカセットレコーダーで録音していたが、そのテープの複製依頼もあった。(→「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(1985, 英語訳: “Richard Wright Symposium”

 入会してから半年に一度ほど口頭発表をやり、そのうちの一つをまとめて会誌「黒人研究」に出した。「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」↓、第52号(1982)、「リチャード・ライトと『残酷な休日』」、第53号(1983)、「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」、第54号(1984)、「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」第55号(1985)と毎年順調に書いた。「修士論文」(6月18日)にまとめる前に口頭発表させてもらい、まとめたあとも活字に出来るように続けて口頭発表もさせてもらった。

 毎月の例会の案内のほかに、入会案内や会誌や会報も編集して、発送もやった。こまめに手紙も入れて送ったので、ずいぶんと個人的な繋がりも増えていたような気がする。
例会に参加するのは神戸や大阪の人が多かったが、6月の総会には全国の会員が集まった。会員も減り、会誌の発行だけで手一杯だったようなので、少しずつ原稿を依頼して会報も発行した。出はじめめの頃のワープロを使って作成したようだ。普段手紙の遣り取りをしていると、原稿を依頼しても書いて貰える確率は高くなった。当然書く内容も、気持ちのこもったものになって、読む方も興味深く読める。創設者の貫名さんが亡くなられた時は、追悼号(↓)を出した。奥様に原稿を依頼したら、丁寧な原稿が届いた。その年の総会には出席されて、会員の方へ生前の貫名さんの逸話を紹介したり、弔問のお礼などを述べられていた。戦争のときの話になり、「毛布の中で声を出さないように咽び泣いていたのを覚えています。よほど悔しかったんでしょう」としんみりと話しておられた。共産党の神戸市会議員で、かくしゃくとした姿が印象的だった。娘さんも共産党から神戸の市長選に立候補されたと聞く。ずいぶんと歳月が流れた。

 総会には東京や愛知や小倉や福井などからも会員が集まった。ある年は、間宮林蔵さんのお孫さんにあたるローレンス・マミヤさん夫妻が出席された。どんな経緯で来られたかは知らなかったが、会場の世話もあり、話をする機会もあった。「ニューヨークに来られたら、家にも来てください」と名刺を渡された。ニューヨーク(↓)から列車で北に一時間ほどのプーキープシィにあるヴァサー・カレッジで歴史か何かの教授をされているとのことだった。日本語は話せないようだったので、拙い英語で話をした。

例会や案内や会誌、会報の編集・出版は地道で大変な作業だったが、業績のために入会して発表もさせてもらっていたので、気負いなく続けられたと思う。アフリカに関してはほとんど知らなかったので、入門的な時間になった。たまに「本田さん」(7月14日)のような大物の話も聞けるし、有難い空間だった気がする。
次は、女子短大、か。

本田さんの『アメリカ黒人の歴史』

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ライトシンポジウム

 ある日、「黒人研究の会」(6月29日)の会員から電話があった。秋にライトのシンポジウムがあるからいっしょに行きませんかという誘いだった。ファーブルさんも来るらしかった。ファーブルさんと会うことを考えたことはなかったので、会えるんやと思ったら急に会いたくなった。その場で「行きましょう」と返事をした。ファーブルさんには「修士論文」(6月18日)で『リチャード・ライトの未完の探求』(↓、The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んだ時に変に感動して、自分の書いたもののレベルも知りたくて、英訳(→「修論あれこれ」、7月8日、→「紀要」、7月18日)といっしょに手紙を書いてパリの自宅に送っていた。実際に会えるとは考えてもみなかった。(→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月20日)

 その人は早稲田の博士課程を修了したあと愛知にある私学の専任をしていて、会の案内やら総会やらで面識もあった。ライトに関心があるらしく、会誌に私が書いているのを読んでいたようだ。11月の終わりにミシシッピ州立大学であるという。ホリデイインに泊ると言ったら「私もそこに泊りますから、前日にホテルでお会いしましょう」と言うことだった。事情を知らなくてメンフィス(↓)まで行ってバスに乗ろうとしたが、当日便はもうないらしく、タクシーを使う羽目になった。2時間ほどかかった。ドルと円の換算機能が働かずに、きっと3~4万円は払った気がする。オックスフォードという州の北側にある閑静な大学街で、約束通りその人が先に来てホテルで待っていた。

 当日の朝、会場に行ったらファーブルさんと他の何人かが写真を撮ってもらうところだった。「よく来ましたね、こっちにいらっしゃい。一緒に写真を撮りましょう」と手招きしてくれた。最初の写真はその時のものである。ライトの死後25周年の記念シンポジウムだったらしく、雑誌が特集を組んで、その中にもこの写真が紹介された。翌日の地元の新聞にもこの写真が使われたらしく、参加者にコピーが配られた。受付では資料(↓)もたくさん配られた。

 普段本でしかお目にかかれない人たちがたくさん集まっていた。ゲストスピーカーも大抵は本で読んだことがある人たちだった。普段の会話なら難儀したと思うが、いつも読んでいる語彙と重なることが多かったからか、大体内容は理解できた。しかし、学会でじっと座ったままで聞いてばかりは、基本的には苦手だ。ファーブルさんが来ている、それだけで来たようなものだったから、何とか最後まで座っていた。その夜、ファーブルさんが泊っていた寮の一室に呼んでもらった。日本からの留学生や出張で来ていた学者に伯谷さん(↓)というゲストスピーカーも同席していた。ライトに関する論文集で名前を見かけたことはあったが、よくは知らなかった。→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)

 ファーブルさんは「手紙をくれてましたね。今日の発表でもあなたと同じ擬声語について話をしてる人がいましたねえ。私をMr. Fabreと呼ぶけど、私はヨシ(yoshi)と呼んでるので、ミシェール(michel)と呼んで下さい。その方が公平だから」と言っていた。偉い人は偉そうにする必要ないもんなあ、と感心しながら聞いていた。ただ、英語をしゃべるのを拒んで来たせいで、思うように言葉が出て来なかった。いっしょに来ていた人が「玉田さん、英米学科でしょ。私が通訳しましょか?」と見兼ねて言っていた。英訳を渡したんやから、今度は自分で英語をしゃべればいいか、とぼんやりと考えていた。最後の辺りで、伯谷さんが話しかけて来た。あなたの近くの淡路島出身、広島大4年の時にアメリカに来て、今はオハイオ州ケント州立大学で英語教授、そんな話だった。最後に「玉田さん、再来年のサンフランシスコのMLAで発表しませんか?」と誘ってくれた。シンポジウムに参加するとも思ったことがないのに、アメリカの学会で発表である。しかし、気持ちとは裏腹に、「そうですね」と返事をしていた。日本語で聞かれたせいもあったかも知れない。「サンフランシスコは日本から一番近いですから、家族も連れていらっしゃいよ」「そうですね」そういうことになってしまった、らしい。
次は、黒人研究の会総会、か。

会場の人たち

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:アメリカ文学会

 博士課程は望めないので教歴と業績の準備を開始、教歴は大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)と「二つの学院大学」(7月19日)、業績も「黒人研究」(→「黒人研究の会」、6月29日)と「言語表現研究」(→「言語表現学会」、6月30日)と大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)の「紀要」(7月18日)で活字になっていた。しかし、書いたものを毎回出せるわけでもないので、アメリカ文学とアフリカ関係でもどこかを探すことにした。ライトがアフリカ系アメリカ人作家なので、先ずは日本アメリカ文学会、ちょうど黒人研究の会の女性で関西アメリカ文学会の理事をしている人がいたので、聞いて入会手続きをした。日本アメリカ文学会は大きな組織らしかった。神戸にある女子大の助教授らしく、アリス・ウォーカーなどのアフリカ系アメリカ人女性作家の発表を例会で聞いたことがあった。夫が近くの国立大学の教授だと誰かが言っているのを聞いた。大きな学会は苦手なので、結局会議にも出ず、会誌にも投稿しなかったが、「英米文学手帖」というのに紀行を二つ送った。(「ミシシッピ、ナチェズから、1986年、「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」、1987年)

ナチェズ空港

 アフリカ関係の大きな学会はアフリカ学会だと聞いていたが、黒人研究の会ではあまり評判がよくなかった。当時「族」と言う言葉をめぐっていろいろ議論があったからだ。五百年以上続くアングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国が自分たちの侵略行為を正当化するために白人優位、黒人蔑視を徹底して来たが、「族」もその一つで「族(tribe)」には相手を蔑む含意があるので、例えばギクユ族を使わずにギクユあるいはギクユ人を使う方がいい、と言った内容である。公民権運動の指導者の一人マルコム・リトル(↓)が指摘したニグロ(Negro)も話に出ていた。ニグロは黒というスペイン語だが、奴隷主が奴隷を動物扱いしてニグロと蔑んで使っていたので、誇りを持ってブラックを使おうと演説でも言っていた、というような話である。それもあって、研究会の当初の英語訳Negor Studies AssociationもBlack Studies Associationに変更されていた。アフリカ学会は体制寄りの色彩の強い人が多く、アフリカやアフリカ人を研究対象としか見ていないような傾向があった。黒人研究の会の人は体制に虐げられている人や国を対象にしていたので、どちらかというと反体制の傾向が強く、白人優位・黒人蔑視に鈍感な人に抵抗を見せていた。NHKの講師で有名になっていた東京女子大の猿谷要さんの本の評判が悪かった(→「本田さん」、7月14日)のも、その理由からである。私も反体制の傾向が強い。教養の科目でアフリカ系アメリカやアフリカ関連の授業を担当していた時、農学部の学生が「講義名にアフリカがついてたので授業を取ったら、アフリカ人を研究の対象にしか見てませんでしたね。聞く気になれず、初回で授業もやめました」と言っていた。私の授業を受けた直後だったので、違いを肌で感じたんだと思う。その担当者に廊下で話しかけられたことがあるが、アフリカ学会の会員だと言っていた。元同僚、である。

小島けい画(『アフリカとその末裔たち』挿画)

 すべて、国策と深い関りがある。黒船に脅されて開国したあと、西洋に追い付け追い越せの富国強兵策を取り、産業化を図ったので、工学部に予算が多く流れたが(→「紀要」、7月18日)、同じ理由でアフリカには予算が流れなかった。その中で、白人優位・黒人蔑視はしっかりと浸透して行ったのである。アメリカ文学、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学の学部学科数の多さを見れば、欧米志向の異様な偏重ぶりが一目瞭然だろう。アフリカに関しては、取ってつけたような僅かな予算を、京都大学(言語学)と東京外国語大学(文化人類学)と名古屋大(地誌学)に出したようである。実際、産業と結びついているアフリカの国の情報収集やインフラ整備は必要なので、僅かでも予算を出す必要はある。名古屋大は今はほとんど痕跡もないが、京都大(アジア・アフリカ研究)と東京外大(アジア・アフリカ言語文化研究)では大学院にも痕跡があり、東京外大のAA研(アジア・アフリカ言語文化研究所↓)は健在である。そこを出れば、数は多くないが、両大学や国立民族博物館に研究者用の職がある。ポルトガルに廃墟にされたキルワ島についての博士論文を書いた人がいたので、誰が書いたんやろと不思議になって調べてみたら、やっぱり国立民族学博物館の人だった。枠に入らなければ、自力で大学の職を探すしかない。何かの枠でどこかの大学に潜り込んで、アフリカ研究を続けるのである。廊下であった元同僚もその口だろう。大学に入ってしまえば、研究枠の制限はない。
次は、ライトシンポジウム、か。