つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:余震

 億に近い数千万の「揺れ」(7月5日)が大きかった分、余震もなかなかだった。①第1抵当の返済、②在庫の処分、③母親の生活、の余震が長く続いた。親の借金を子供が支払う法的な義務はないなど、現実の前では空しいものである。逃げるのが一番だが、逃げる先が見えてしまう性(さが)はどうしようもない。弁護士の提案が一番いいとは理解したが、①第1抵当の返済、が前提である。つまり抵当権を行使されて競売で安く買い叩かれるのを防ぎ、何とか配当率を上げる、そういう提案だが、それも借りてもいない子供自身が返済するというのが大前提である。法的義務の話を切り出せる立場でも、雰囲気でもなかった。現実には母親が拵えた借金を子供が払う、にかわりはない。在庫処分の額を第1抵当の返済に充てても、月々の返済は相当な額である。到底一人では払い切れず、弟二人と分けることにした。もちろん分割返済である。五人兄弟だが、それぞれの形で家を出ている。生まれ落ちた先が元々おかしいのだから、正常な反応だったのかも知れない。借金騒ぎの前まで下の弟と妹は家出していたが、弟だけは戻って来ていて、母親と新築の家に住んでいた。知ってか知らずか、連帯保証人にもなっていた。結婚を期に私と上の弟夫婦は家を出た。とっくに姉は逃げるように結婚をして出て行っていたし、下二人は家出中だった。一人になる父親は、出ていくんか、とぽつりと呟いていた。
兄弟はそれぞれの形で苦しんで来ていたわけだ。女性3人はいつも自分の不幸をひとのせいにしていたが、人のせいにする気にもなれず、誰かを憾む気にもなれなかった。だから、可能な範囲で、母親の借金を分担すればいいと考えて、男三人で第1抵当の返済を分担したのだが、下の弟はまた逃げてしまった。上の弟と私の負担が、増えた。

 ②在庫を処分して第1抵当の返済に充てるという弁護士の提案も頭では理解できたが、並大抵ではなかった。私と弟夫婦で六百~八百万ほどの在庫を売ることにしたが、三人とも商売とは無縁だ。弟夫婦は車両造りの技師と看護師、私は口だけ動かす教師、弟のハイエース(↑)に毛糸など(↓)を積んで土日に行商である。土日の行商は、もちろんきつかった。弟の妻は今でも影響がある程の大病をして、私の娘は失語症になった。何とか百万くらいは現金化したような気もするが、代償の方が大きかった。

 ③結婚を期に私が上の弟と家を出たあと、家を売ったことも、父親が粗末なアパートに入ったことも知らなかった。出て行くときは衣類と段ボールひと箱しか持って出なかったので、部屋に置いていたものはすべて消えてしまった。住む家がなくなった母親の生活の面倒も、私が引き受けざるを得なかった。当初はサラ金の恐怖でしおらしかった気もするが、数年ほどおとなしくしたあと、いなくなった。その間、返済の他に母親用に家賃と決まった額を出した。私たち夫婦二人の給料がざるに水を入れるように消えていくのが、虚しかった。宮崎に来てから、どこかの役所や病院から何度か電話がかかって来たが、旧姓で届いた最後の手紙は開けなかった。離婚は考えたことがないと妻は言ってくれるし、私がした借金ではないが、この頃のことを思うと心が痛む。
人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?子供は親に孝行?親が子供に勉強しろ?
すべて絵空事で虚しい。自分がそんなところに生まれたことを憾むのも、先が見えて虚しい。生きて30くらいかと思いながら、思わず結婚して子供も出来た。心の中では過去をいまだに払拭出来ない部分もあるが、私と妻や子供との生活に、無意識に過去を引き摺らないという気持ちは働いているようだ。こどもが「人は生まれながらにして平等などとどの口が言えるのか?」と思わなくても済んでいたら、嬉しい限りである。
次は、ゼミ、か。修士論文を書いていた大学院(↓)のころの続きである。

つれづれに

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つれづれに:揺れ

 「百万円」(4月30日)の時より、揺れが大きかった。今回母親が持ち込んだ話は億に近い数千万の借金、前回私は人に金を借りてまで生きてはいけないと方向転換をしたが、またである。毎朝牛乳を配って五千円、週に一度の家庭教師で三千円、そんな時に百万円すぐに用意して、もないが、定収入のためだけになった地方公務員に億に近い数千万は別世界の話である。母親が結婚した相手に愛想をつかせて忌み嫌い、資金を搔き集めて好きな手芸店を開いて自立しようと藻掻いたが(→「戦後?①」、2021年11月24日)、力尽きたということらしい。
 破綻したのは①資金、②店の経営、③家の購入、④金貸し、が原因である。
 ①資金は夫の退職金と家の売却金と借金で、購入した店は集合市場の一画である。1階が店舗、2階が住宅だった。高度経済成長以前の公務員の給与水準は低く、早期退職の退職金が多いはずがない。家も元市営住宅の古家で資産価値はなく、狭い土地だけの価格も知れている。店舗の購入資金が足りたかどうか。
 ②店舗の購入資金も怪しかったのだから、運転資金は借金、店を閉めた時、姫路の問屋が素人を言いくるめて買わせた在庫が相当残っていた。手芸店の売り上げなど、たかだか知れている。あれだけ仕入れて、どう資金繰りするのか。最後は手形に追われて、無理をしたらしい。
 ③その状況で80坪ほどの土地を購入して家を新築、しかも造園と仏壇に各々百万以上もかけたらしい。2千万以上を3銀行がよく貸し付けしたものだ。私は手元がなくてローンを組んで今の家を購入したが、最初は元金が減らず、利子を払うだけという感じだった。金を借りるというのはそういうものだろう。少し考えれば、破綻しない方が不自然だとわかる。問屋と銀行にいいように食い物にされた、ということだろう。
 ④しかし、それだけで億に近い数千万にはならない。どうも、金貸しに手を出していたらしい。最初は頼母子講の小金を元に人の真似をして高利で金を貸し、味を占めて小欲が膨らんでいったようだ。サラ金と張り合うつもりだったのか。最後はサラ金と店の経営が絡まって、どうにもならなくなったらしい。
 電話をかけて来たとき、だいぶ怯えていた。サラ金に追いかけられでもしたのか。市場の人の相談に乗っていたのが、共産系の民生で、その弁護士と会って欲しいと言われた。明石の法律事務所の人で、事務所を訪ねて話を聞いた。
 「全体の借金が億に近い数千万だが、サラ金関係の金も多く、この際一挙に片づけときましょう。第3抵当まで入っているので、第1抵当の返済を継続し、店舗と家を処分した分を一律1割5分配当、出来れば在庫を換金して、第1抵当の返済に充てる、サラ金の窓口はあなたにお願いします。それでどうですか?」共産系は清廉潔白だけあって、凄い。第1抵当以外は1割5分配当というのは、金を借りて払えないから第1抵当以外は1割5分で勘弁してもらい、あとはチャラにということである。信用金庫などは抵当が流れたら一円も入って来そうにないので、8割5分を諦める方が得策と判断するのか。一番心が痛んだのは、造園業者である。仕上がったら支払う約束で請け負ったのに、いきなり1割5分配当の通知、心が痛む。それほど、自分の家が欲しかったのか。
 サラ金と会ったのは一度きりである。裁判所で弁護士と3人で会った。自分がした借金ではないし、支払いの義務はないというつもりだったが、現実の前では空しい。共産系の弁護士でなかったら、家族もサラ金の被害を受けていたかも知れない。所長が京大卒で党員、その人は京大を出たあとその事務所で経験を積んでいたらしい。その後、愛媛の松山に帰り開業、遣り取りは今も継続中である。人権派の弁護士で、原発の差し戻し請求などの弁護団もなかなかやめさせてくれないと手紙に書いていた。アパルトヘイト否!の講演会に招待してもらい、松山まで出かけた。何が縁になるかわからないものである。
 次は、余震、か。

松山城

つれづれに

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つれづれに:手入れ

 10月から通い始めたマッサージの治療が、2月からは二週間に一度のペースになった。少し落ち着いて来たというところだろう。いつだったか「治療の記録、コピーして来ましたで。わたし目悪いでっしゃろ。いつも通りの拡大コピーですけど」とA3の手書きの治療記録のコピーを渡してくれた。その時は気軽にありがとうございますとだけ言って受け取ったが、今となっては手書きのとても貴重な記録だ。記録には当時住んでいた「中朝霧丘」、6月17日)の家の電話番号が書いてあった。中朝霧丘からは明石駅(↑)まで自転車で、駅からはバスと神戸電鉄(↓)を使った。昭和58(1983)年から平成4(1992)年までの分である。初回58年10月/23日: 上15/下120→58/120、10/31: 48/108、11/8: 54/114→66/114、11/14: 50/108→66/110、11/21: 52/102→64/110、11/28: 38/104→60/110、12/5: 50/100→66/110、12/12: 74/110→70/106、12/19: 60/120→70/110、59年1/9: 56/110→66/108、1/24: 46/102→70/108、1/30: 58/104→72/112、が三か月余りの血圧の推移である。血圧がだいぶ落ち着いてきたと判断されたのだろう。そのあと、隔週の治療に切り替わった。

 陽気でよくしゃべる人でいろいろな話を聞いた。夫婦はどちらも眼に障害があるが、子供さん二人は障害もなく元気だと聞いた。開業する前は神戸の新開地の店で、20分のショートと言われる短い時間のマッサージをたくさんこなしていたらしい。しかし、一人にじっくり時間をかけて治療したいと思うようになり、三木市の住宅地(↓)に家を購入して開業、一日に6人程度、じっくり時間をかけてマッサージをすることになった。一度来た人は次の予約を入れて帰って行くので、三か月ほど先まで予定がびっしりと詰まっていた。痛いが、治療の効果がきっちりと出ていたということだろう。

 自分の体のことなのに、それまであまり意識をして考えたことがなかったので、なるほどなあと感心することが多かった。血の巡りやリンパの流れもよく話に出たが、毛細血管のこともよく話をしてくれた。「運動せんかったり冷やしたりしたら、毛細血管が少のうなって血の流れが悪うなりますやろ。運動が足りて毛細血管がようさん出来たら、血のめぐりもようなって調子よろしいですわな。相撲取り、あんだけ太ってるように見えてますけど、毛細血管の塊りでっせ。血色もよろしおます。」「車に乗るようになって運動せんようになり、調子を崩す人も多おまっせ。運動せんさかい、毛細血管が少のうなって血の巡りが悪うなりますもんね。おまけに冷房で体冷やして。そら、血の巡りも悪なりまっせ。」そう言えば、「採用試験」(5月8日)の準備のとき、冬の寒い時期に粋がって和服を着て暖房もなしに一晩中座ったまま本を読んだりしていたから(→「作州」、3月14日)、調子を崩したのも考えたら道理である。頭の方はそれまで使ってなかった分詰め込めたかも知れないが、体はそうはいかない。それまで鍛えるために川の堤防(↓)を30キロほどを走っても余り息も切れないくらいだったから(→「作州」、3月14日)、相当な運動量だったと思う。それが、運動をぴたりとやめて一日中座って本を読みだしたのだから、外からは見えないが作られる毛細血管が極端に少なくなっていたに違いない、当然血の流れにも異変が起きる。きついマッサージで細胞が破壊され再生され、運動も並行してやったので、毛細血管も以前ほどではないにしても、生活に支障がない程度には作られるようになったということだろう。

当初から、体を冷やさないように、カイロをつけるように言われた、腰とお腹と両足首と脹脛の間に2つ、計4つもである。感覚が麻痺しかけていたときは、カイロをつけていても寒い感じがするくらいだったが、よくなってくる熱く感じて着けていられなくなった。それだけ調子が戻って来たということだろう。ベンジンを入れて使う金属製のカイロは結構面倒臭かったが、背に腹は代えられず、長い間忠実に利用した。その後、使い捨てカイロを使うようになっている。使う個数も多くて二つ、つけている期間も短くなり、外す時間も長くなった。体を冷やさないように気を遣うことが多くなった。内臓の温度を下げないように、温かいものを取るようにもなっている。

 「血をめぐらすために、焼けた砂浜を歩いて海水で冷やす、それを繰り返すのもよろしいでっせ」と言われて、夏の暑い日に、近くの大蔵海岸(↓)に行き、砂浜を歩く→海水に浸ける、その作業を繰り返した時期もある。「明石」(6月16日)に住み始めて以来、大蔵海岸の砂浜に降りたのはその時が初めてだった。
 その後隔週に一度が、月に一度、最後はふた月に一度のペースになり、治療から体の手入れに変わった。西洋の対処療法に一番欠けている、予防の医学の経験則的実践である。
 次は、「揺れ」、か。

つれづれに

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つれづれに:体の悲鳴

 危うく死ぬところだった。ずっと体が重く、背中や最後辺りは頭の先まで痺れていた。背中を伸ばして寝られないことが多かった。黒髪も半分は白髪になっていた。大学(↑、→「夜間課程」、3月28日)でバスケットボール(→「運動クラブ」、3月29日)を始めてからは鍛えるためにずっと体を動かしていたのに、採用試験の準備を始めてからは(→「採用試験」、5月8日))、憑りつかれたようにほとんど座り詰めだった。一年間、ずいぶんと無理を続けた。一年が終わる頃から、その兆候はあった。

教員で学校に行き(→「新採用一年目」、5月18日)、結婚もして子供が出来(↑、→「明石」、→「中朝霧丘」、6月17日)、毎日が一杯一杯だった。ずっと、体が悲鳴をあげていた。若さで持ってはいたが、そろそろ限界に近かったらしい。わたしには弟が二人いる。上の弟の結婚相手は看護師で、結婚を機にしばらく同居したことがある。その弟夫婦が心配して、看護師仲間の話を聞いて「兄貴、かなりきついマッサージらしいけど、行ってみるか?」と勧めてくれた。そう期待していたわけではないが、体も辛かったし、思い切って訪ねてみることにした。明石市の北隣にある三木市の住宅街(↓)に治療院があった。住宅の一室が治療室で、縦長の治療台が二つ、間にドーム型のサウナが置いてあった。治療室の隣に待合室も兼ねた狭い事務所があった。座頭市の主人公のような小太りの中年の人だった。最初に血圧を測って、太い指で私の足の甲をぐっと押しながら「よかったでんな。あとにふた月ほどでクモ膜下でしたな。あぶないとこでしたで」が第一声だった。34歳の時である。血圧は上が120で、下が15だった。

 「すべて、血液とリンパの流れでんな。下が15て、血液がまともに流れてまへんがな。ほんま危なかったでっせ。最初は一週間ごとにきてくれまっか。少し落ち着いたひと月にいっぺん、ようなったらふた月に一回くらいでよろしいでっしゃろ。」先にサウナで体を温めるように言われた。一人用のドーム型のスチームサウナである。うつ伏せになり、肩の辺りまで中に入った状態で1時間ほど、だいぶ汗をかいた。次に電動式のローラーに乗るように言われた。胸と足首の辺りに重しを三つずつ置いて、30分ほどだったと思う。最初なので、背中が痛かったが、我慢できないほどではなかった。それからマッサージが始まった。両脚が最初だった。太い指が筋肉の中まで食い込んで来る。弟の言葉通りかなりきつい。サウナとローラーの時に別の治療台にいた人が「あたたたたーっ、あたたたたーっ・・・・」と大きな声を連発して痛がっていたので、少し意地になって、声を出さないと決めて我慢した。太腿と足の裏など何個所かは肘と全身を使ってぐりぐり、ぐりぐり、結構中まで食い込んで来る。肘と骨が接触するくらいの感じだった。「調子がようないと痛いでっしゃろ。ようなったら気持ちようなりまっせ。脹脛(ふくらはぎ)だけは、ようなっても痛(いと)うおますけどな。」太い指が筋肉の中に食い込んだ。終わったら、ふーっと気が遠くなるような感じだった。次に両腕、最後に肩から腰と尻、要所要所で肘を使っていた。ぐーっと奥まで肘が入ってくる尻の痛さも、また別格だった。逃げようがない。ようそんなに痛いとこ見つけるもんやなと思うほどの2時間だった。歯を食いしばって最後まで声は出さなかったが、気が遠くなるくらい痛かった。脹脛に指が食い込んだとき、その後一度だけ気を失ったことがある。ぐっと歯を食いしばって堪えてはいたが、ふーっと暗くなって意識が飛んだ。きっと痛さの限界を超えていたんだろう。「わたしの場合、ブルドーザーでがあーっと、という感じでんな。」ほんとうに、その言葉通りだった。
2時間悶え苦しんだ後の血圧は、上が120で、下が58だった。1983年の10月23日が初日で、大学院を修了した次の年のことである。毎週の治療は1月30日まで、三か月余り続いた。
次は、手入れか。

最寄りの神戸電鉄緑が丘駅