つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:横浜

 大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)に行き始めて3年目か4年目くらいだったか、ある日、先輩から「出版社の社長さんにあんたの話をしたら、一度会いたい言うてたで。会(お)うてみるか?」と聞かれた。先輩はすでにその出版社が出している雑誌(↓)に書いているらしかった。大学の口も決まっていないしと思ったが、会ってみることにした。

 西明石(↓)から新幹線で出版社のある横浜に行き、駅前の喫茶店で会った。編集者の女性もいっしょだった。よくわからなかったが、僕とは明らかに違う種類の人だと感じた。特に何かを聞かれたりとか依頼されたりとかはなく、いろいろ話するのを聴いてた時間が多かった。縄文時代の話と初めて聞くツングースという言葉が記憶に残っている。明らかに違う種類と感じたのは確かだが、その人が偉いのかどうかも判断出来なかった。とにかく、今までの基準でものを見ても捉え切れない、そんな気がした。

 初めに聞いたのは、たしか、豊かな縄文時代が一万年以上続いていたところに大陸からツングースが来て、侵略を開始し、縄文人を殺戮しまくって日本列島を覆いつくしてしまった。それが弥生人で、後に大和朝廷を作り、その末裔が今も関西に陣取り経済を支配し続けているのです、大雑把に言うと、そんな話だった。何万年に渡る壮大な話は聞いたこともなかったのでよくわからなかったが、特別おかしいとも思わなかった。詳しく考えたことはないが、戦争に負けて急激にアメリカ化されて、アメリカにもその人たちの母国語の英語にも反感を抱いていたので、何となく侵略についての話はわかるような気がした。後にぎっしりと書いた手紙を何通ももらったが、基本的にはその話の延長だった気がする。手紙の中でよく書いていた侵略遺伝子の話は得心したが、話が大きすぎて他の人に話をしても信じてもらえそうにない気がした。侵略抑制因子と、これまた初めて聞く言葉だったが、私が理解しくいと判断して分かり易く説明してくれている。

 「・・・生物の成長というのは 細胞が個数を増す 細胞分裂と分裂によって 小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさを とりもどす細胞成長とによって 達成されます 生物は本質的に成長するものなのですから 各細胞は 成長の第一条件たる 細胞分裂の傾向がきわめて強いのです しかし 無制限に 細胞の個数が増加して その結果 過成長すると こんどは 個体の生命が維持できなくなります そこで遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は 不必要なときには 抑制されています この抑制因子を モノーという人は オペロンと名づけました モノーのオペロン説です フランスというところは 困ったものでいまだにデカルトの曽孫のような顔をした人たちしかいません このモノーも デカルトの曽孫にちがいありません しかし 話を簡略にするためには このオペロン説は 便利です 化学変化を説明するのに 結合手なる 手を 原子または原子団がもつものとするのに似て こっけいですが御許しいただきたい さて このオペロンが はずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき 細胞は 遺伝子本来の 〝分裂欲求〟に忠実に従って 際限なく 分裂を繰りかえします ガンです そして ガンになりやすい体質は遺伝します これはオペロンが はずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです たしか 一九二◯年代に 有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています ヒトがすべて侵略者とならないのは この恐ろしい 〝遺伝子〟にも オペロンのおおいがかけられていて 容易には 形質を発現することがないためです ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは 窮迫によってはずされてしまったのです それも ほんの七千年か八千年ほど前のことです そして このオペロンのはずれやすい傾向は 連綿と受けつがれ いまなお 子や孫が風を切って 日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています 天孫降臨族の末裔たちです 手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい 四六時中 蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく 四方八方にくばる この侵略者たちは もちろん 効率百パーセントの水平思考を好み鉛直思考など 思いもよらぬことなのです 玉田先生が 鉛直下の原言語に乱されて 思考が中断するなら 私のほうは 鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します 中断と消滅 軽重の違いはあっても 二人とも やはり 頭が悪いのは 確かなようです」

 そう言えば、「僕は頭がよくないので。受験勉強もしなかったので、行くところがなくて・・・・」と言うような話をしたような気がする。あとで先輩から「あの人、東大の医学部やで」と聞かされたが、どこも行く大学がない私と比べられても、というのが正直な感想だった。
 よくはわからなかったし、数年前にその人が亡くなられた後も、よくわからないが、医学部(↓)に決まってからは、この人の言われることをこなすのに精一杯だった気がする。生きてるうちに、気持ちの中ですべてを理解するのは不可能だろう。その人と出逢ってよかったのかどうかはわからないが、出会ったのだから、そうなんだと理解するしかない。
 次は、ゴンドワナ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:二つの学院大学

 1983年に大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)で非常勤を始めて、工学部の学生相手に「LL教室」(7月12日)を使って補助員3人に助けてもらいながら教養科目の英語の授業をさせてもらった。次の年に桃山学院大学(↓)、その次の年に神戸学院大学、二つの学院大学から非常勤の依頼があって引き受けた。どちらも黒人研究の会の人の知り合いからだった気がする。一度教歴が出来ると、非常勤なら口がかかるようだった。英語の必修時間が今と比べてかなり多かったから、それだけ英語の非常勤の需要も高かったというわけである。大概は専任のある人がお互いに助け合って非常勤に行っているのが普通だったようだが、私のように教歴のために引き受ける人もいたわけである。大阪工大は1コマ16000円だったが、桃山学院大は24000円、神戸学院大は22000円だったと思う。国立大はこなしたコマ数の謝金が翌月に支払われるが、関西の場合は、総謝金を12ケ月で割った分が毎月支払われるのが慣例だったようだ。地方で大学も少なく非常勤の需要がない所は、1コマでも引き受けたりするが、一日3コマで頼まれることがほとんどだった。一年間30週の規定は今も同じだと思うが、実際は23週か24週だった。月額支給なので、何かの都合で休講にしても減額になることはなかった。慣例的に少しの幅を持たせて運用しているようだった。

 たぶん、運営交付金が削られて、国立大の非常勤の謝金の基準も下げられ、その影響で私学の基準も下がっているのではないか。それに予算削減で締め付けられて、英語の必修の数を大幅に削っているところもある。文部省(現文部科学省)は英語は演習科目と考えて単位数を普通の講義科目の半分に換算して来たが、それを悪用して名目は同じ単位数でも実質は半分という裏技を当然のように使って、英語の必修科目数を減らしているところも多い。つまり、英語の非常勤の需要も大幅に減っているというわけである。その意味では、非常勤でもまだめぐまれていた頃だったかも知れない。水曜日の夜と金曜日の昼は大阪工大だったので、月曜日に引き受けた。1コマ目からだったので、朝早くから満員電車の一日だった。

 桃山学院大学は大阪府和泉市にあって「明石」(6月16日)の自宅からは2時間ほどかかる。しかも、大阪で地下鉄に乗り換え、難波で南海電車に乗り換える。梅田や難波は相当な混みようである。大学は1959年創立のミッション系で、文科系の大学だった。そこの教養の英語を頼まれたわけである。大学のバスケットボールのチームメイトがその大学の付属高校だったので、名前は聞いたことがあるくらいで、中身は知らなかったが、可もなく不可もなくという印象が残っている。学生はまじめで、おとなしい人が多かった分、あまり印象にも残っていないようである。時々、図書館(↑)を使わせてもらった。ライトの日本語訳が載っている『新日本文学』を探してコピーさせてもらった記憶がある。

 3年目に引き受けた神戸学院大学(↑)は家から近かったので、満員電車の心配をせずにすんだが、きつい坂を登る必要があった。それでも自転車で半時間ほどで大学に着いた。土曜日も授業をしていた頃で、土曜日の3コマを引き受けた。1966年創設の新しい大学(↓)で経済学部の学生の英語を担当した。1972年に栄養学部と薬学部が出来てから徐々に大学の評価が上がったようである。隣の市にある私が出た進学校から当時進学した人はいなかったと思うが、最近は進学している人もいるようである。学生の印象は、桃山学院大と同じで、まじめでおとなしく、可もなく不可もなくといったところか。特に困ることはなかった。専任の話があったわけではなかったので、教歴の一つとして引き受けたというのが正直のところだ。どちらも学院大学で、学生の雰囲気や反応、事務員の対応、教室の施設など、よく似た感触が残っている。
 次は、横浜、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:紀要

 大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)に通い始めて一年目が過ぎたころ、先輩から「紀要に書くか?」と言われた。2年目からは昼の授業も加わり、出講日が2日になった。補助員3人ともずいぶんと仲良くなり、「LL教室」(7月12日)での授業時間も増えていた。気軽にカセットテープのダビングやビデオの編集も頼んだ。ダビングや編集には時間がかかるが、謝金が払われている時間内にやれるので頼みやすかった。予算を確保してくれていた先輩に感謝である。ESSの顧問になって、代々の部長と部員を毎年3名補助員に採用していた。お蔭で、大学にいる時はLL準備室で補助員の誰かといっしょだった。他の大学の非常勤ではこうはいかない。ロッカーを使うために部屋に入る時もあったが、大抵は授業をする教室か、キャンパスのベンチに座るかして時間を過ごした。元々たくさんの人は苦手なので、知らない人と話す機会を作らないようにしていたのかも知れない。

 紀要は大学専用の研究誌らしかった。大学に入る前も業績が必要だが、中に入ってからも業績が要るらしい。いわゆる研究成果である。後に医学部に行くことになって、文科系とはずいぶんと仕組みが違うと肌で感じた。黒船に脅されて開国したので、西洋に追い付け追い越せの富国強兵策を取るしかなかった。信長が堺商人に武器を集めさせて戦った長篠の戦いは当時の最大規模の銃撃戦だったらしいが、その時点では世界有数の武器保有国だったわけである。しかし、鎖国している間に、西洋諸国は奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こし、産業社会に突入していた。安価な原材料と労働力を求める植民地争奪戦は熾烈を極めたので、当然武器も格段に優れたものとなり、維新の頃には旧来の体制を破るほどの威力があったということである。植民地化されないためには産業と軍隊が必要で、国家予算も多く流れる。産業化で需要の高い工学部にも当然多くの金が流れ、優秀な人材が集まる。今でこそ医学部偏重が強くなっているが、明治初期には、工学部と医学部の大学での予算はほぼ同額だったと聞く。いまだ東大だけはその名残りをとどめているらしい。文科系のようにテーマがどうの、作家がどうのと証明のしようがない似非研究と違って、実験データに基づく研究論文はごまかしがきかない。極めて実利的で利益と直結している。大学では研究成果が求められ、研究促進のための紀要が不可欠である。しかし、それは正職員のためのもので、非常勤に声をかけてもらえるとは思っていなかった。「黒人研究」(↑、→「黒人研究の会」、6月29日)と「言語表現研究」(↓、→「言語表現学会」、6月30日))に加えて三つ目の活字にする場が確保出来たわけである。

 文科系の場合、1年か2年に1本書ければいい方と言われていたようだが、浪人中の身だったので、出来るだけ稼いでおく必要がある。その点、紀要はありがたく、書けば載せてもらえて活字になるようだった。いい機会だったので、今までの書いた分を英語訳して載せてもらうことにした。その時はそう深く考えなかったが、後にアメリカの学会に行ったり、医学部に決まってからは、英語で書いたものが大いに役に立った。医学科ではペーパーは、英語が当然で、日本語だと評価が低かった。大半が理科系の中では、理科系の流儀で評価されるので、それに合わせるしかない。教授会でも、業績の基本は英文で年に5本が普通だったので、ずいぶんと鍛えられた気もする。ただ、いっしょに研究したことにして名前を入れる分も含めての論文も換算されるんで、その点は、文科系とは基本的に違うようだ。

 日本語訳や英語訳を実際にやってみればしみじみ感じるが、日本語が如何にできるか、英語が如何に出来るかを嫌でも思い知らされる。単語や語句が再生産(アウトプット)出来るようになるまでに時間がかかり、どれくらいの蓄積があるかが問われる。「地下にひそむ男」や『アメリカの息子』の擬声語表現を英訳したが、言語学に関する英文を読んだ貯えのなさは隠しようもなく、ほんとに苦戦を強いられた。院の「同級生」(→「修了と退職」、7月9日)を頼りに日曜日まで押しかけたのは、その悪あがきの結果である。心配していた娘さんにも「同級生」にも申し訳ないことをしたと思う。人に迷惑かけてばかりの人生だったなあと少し哀しい気もする。院も受けてみるかと準備したときに(→「大学院入試」、5月10日)英作文や英語学も少し齧ったが、その時の乾亮一の「擬声語雑記」(↑、→「英作文2」、5月7日)やオットー・イェスペルセンの「サウンド・シンボリズム」などが役に立った。

 大阪工大学非常勤2年目の1984年に“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”(↑2年後の1986に、“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son"(↓)を載せてもらった。

 1988年の4月に宮崎に行くまでにあと2本を出してもらった。すべてたくさんの抜き刷り付きである。

 “Richard Wright and Black Power”(↑1986)と「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(↓1988)も出してもらっている。最後の論文の出来上がりは、宮崎医科大学に決まってから着任するまでの間だった。教歴に加えて、「黒人研究」と併せて業績まで、先輩のお陰である。
次は、二つの学院大学、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:「アーカンソー物語」

 1983年から5年間大阪工大(↑、→「大阪工大非常勤」、7月11日)のLL準備室(→「LL教室」、7月12日)を使い、補助員3人に助けを借りながら、英語の授業をさせてもらった。LL装置を駆使して編集した映像や音声をふんだんに使ったので、ただ読むだけの授業よりも楽しく過ごしてもらえたのではないかと思っている。英語が苦手な工学部の学生の英語へ抵抗感が少しでも和らいでくれていたら嬉しい限りである。ある日、補助員の一人が、近くのビデオショップで借りたベータのテープをダビングして渡してくれた。当時はビデオショップもたくさんあり、店でもベータとVHSのテープがまだ半々くらいだった。アフリカ系アメリカの歴史を辿る授業を手伝ってくれている中で、その映画が役に立つと考えて、借りて来てダビングしてくれていた訳である。それが「アーカンソー物語」(↓)だった。

 「アーカンソー物語」は1957年に実際に起きた事件を元に作られた2時間ほどの映画で、元大統領ビル・クリントンの地元アーカンソー州のセントラルハイ高校(↓)が舞台で、Crisis at Central Highが原題である。

 1619年に20人のアフリカ人奴隷が売買されて以来、南部では奴隷制で潤った大農園主が民主党を創り代弁者をワシントンに送って大統領にして長い間富を独占していたが、奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こした西洋は産業社会に変貌して、原材料と労働力を求めて植民地化が進んだ。アメリカでは北部に産業資本家が住み着き富を独占、共和党を結成して南部に対抗した。奴隷の労働力が欲しい北部の資本家と奴隷制を死守したい南部の寡頭勢力の力が拮抗し始めたとき、殺し合いを始めた。南北戦争である。一応北部の勝利に終わり、1863年に政治的折衝で奴隷解放宣言が出たが、実質的な奴隷解放宣言は1954年の公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決まで持ち越された。歴史的に見ても、大きな転機だった。その最高裁判決に従って、白人の高校に黒人が入学した1957年に起こった事件がリトルロック高校事件で、その映画が「アーカンソー物語」(↓)というわけである。

最高裁判決が動き出したのが1957年のようで、判決に従ってそれまで行けなかったアーカンソー州州都にあるセントラルハイ高校に黒人の生徒が入ろうとした時に、州が連邦政府の言うことを聞かなったので騒ぎが大きくなった。アメリカは日本より地方自治体である州の権限が強いようで、州が最高裁の判決に従わなかったわけである。このあと大学でも同じような入学騒ぎが起きているが、アラバマの知事が大学の入り口に立って入学を阻止しようとした事件は有名で、アラバマ州知事フォーバス(↓)は南部反動勢力の象徴になった。公民権運動時代に作られた映画「招かれざる客」で白人富豪の父親に黒人医師との結婚を反対されたとき、アラバマ州知事に反対されても結婚するわよ、と娘が言い返していたが、リベラルを気取っていた白人の間ではアラバマ州知事=反動勢力が浸透していたようである。最後は大統領が介入して、力ずくで最高裁の判決に従わせた。1963年のことである。

 映画では受け入れをスムーズにするために苦悩しながらも協力してことにあたる校長と副校長(↓)、州兵に校門で追い払われる黒人生徒、帰宅しようとしてバスを待つ生徒を口汚く罵る白人生徒の群れ、連邦政府軍に守られて登校する黒人生徒、校門近くに押し寄せ、群れて怒号を浴びせる父兄、怒号が渦巻く中で不安そうに授業を受ける白人と黒人の生徒、そんな高校のキャンパスでの出来事が描かれている。

 校門の近くで群れて怒号を浴びせる父兄の場面を見ると、校門でもみくちゃにされた大学院の入学試験の場面(→「大学院入試2」、→「分かれ目」、6月10日~11日)を思い出す。その場に居合わせた人にしか感じられな何かがあったように思うが、歴史的に見れば、それもほんの歴史の一コマなのだろう。中間管理職を利用して締め付けを強化したい国や文部省と、そうはさせまいと闘う日教組、憲法に従い、黒人の公民権実現に向けて最高裁判決を具現しようとする連邦政府と、それに対抗する南部の寡頭勢力と白人父兄(↓)、そんなところか。白人警官の黒人射殺事件をきっかけに始まったブラックライブズマター(Black Lives Matter)も根は想像以上に深く、「アーカンソー物語」の延長線上にある。
 次は、紀要、か。