つれづれに

関門海峡

関門トンネル入り口

 生まれた地域は距離的には神戸・大阪と岡山のほぼ真ん中辺りにあったから、どちらに行ってもよさそうなのに、西の方にはあまり出かけなかった。行ってもせいぜい姫路どまりである。小学校低学年の見学旅行は姫路城で、当時修理中だった記憶がある。

姫路城

 ある日突然、大学で東京に行く前の息子さんといっしょに岡山の人が、はるばる宮崎まで会いに来てくれた。そのお返しに、神戸に出かけた時に、その人に会いに岡山まで足を延ばした。岡山には九州に自転車で行く途中に岡山城に寄っただけである。行ってみると、やっぱり姫路から岡山の交通の便が相変わらず悪い。それだけ人の行き来が少ないということだろう。結局行きは姫路から新幹線を使った。岡山ではVISAカードが使えなかった。今の時代に、世界の新幹線でもカードの使えない所があるとは知らなかった。

新幹線岡山駅

 岡山では市電に乗り、岡山城と後楽園に連れて行ってくれたあと、何とかの酒蔵が経営するレストランに行ったが、食事時ではなかったので、飲み物だけ注文をした。帰りは姫路まで各駅停車で出たが、本数は極めて少なかった。宮崎とは違って新幹線沿線なので飛行機を使わずに東京まで行けるが、普段は大都会のようには行かない。

岡山城

 大学の3年目か4年目にバスケットをいっしょにやっていた同級生を自転車で関門海峡を渡ってみぃひんか、と誘ったら、少し考えていたが、行こか、ということになった。二番手の高校かららしかったが、努力家で優等生タイプだった。4年で卒業して、大手の電機メーカーに就職して、何年目かに家族でニュージャージーの支社に派遣されていた。たまたまその年アメリカに行ったので、会社に電話したあと、家に押し掛けた。典型的な日本型のビジネスマンで、結婚した相手はジャパニーズコミュニティの中だけで生活していたようだった。研究室の近くの人は夫についてアメリカに行き、5年いたが英語は話せないと言っていた。そんな人が多いようである。

ニュージャージーへは滞在していたマンハッタンから出かけた

 初めてで心配だったのか、母親から十円玉が詰まった袋を渡されて、行く先々で電話をかけていた。無事を報告していたらしい。放りっぱなしで親とほぼ無関係に暮らしていたから、親子もいろいろなんや、と可笑しくなった。

関門海峡まで600キロほど、時速20キロで一日6時間やと5日くらいで着くんちゃう、そんな大雑把な日程で出かけた。細かいことは忘れてしまったようだが、広島と山口でテントを張って寝たのが印象深い。広島では市街地の川沿いのホテルの横辺りでテントを張ったのだが、蚊には悩まされなかった。おそらく、海水が遡っていたんちゃうかという結論だった。その点、山口県防府市の佐波川の川原でテントを張った時は散々だった。蚊取り線香を焚いてる間にも、これでもかこれでもかと蚊に刺された。テントを張る前に、女子のチームの姉妹の家に寄った時、泊って行きませんかとの誘いを断ったのが恨めしく思えるくらいだった。

テントを張って寝た佐波川

 途中、岡山城、倉敷、尾道、秋吉台に寄ったりしていたので、たぶん関門海峡に着いたのは5日目くらいだったような気がする。荷物を両サイドに振り分けて載せるとわかるが、結構重い。トンネルの中は絶えず予想以上の轟音が響く。今より自転車の道には条件が悪かったようだから、地獄みたいやなという感じだった。関門海峡を越えて、これが九州や、という感慨もなかった。帰りの記憶がないのは、ひょっとしたら小倉からフェリーにでも乗ったのかも知れない。

初めての自転車旅行の割には、関門海峡を自転車で越えた、それだけだったような気もする。

関門トンネル内

つれづれに

臼杵(うすき)

 大学が決まり宮崎に住むようになる前に、宮崎には2度来ている。一度目は大分から宮崎に列車で来た時で、2度目は自転車で阿蘇経由で高千穂に来た時である。1回目はなぜか全体の記憶がおぼろげだが、2度目はわりとはっきりとしている。宮崎に来てから、高千穂や阿蘇に何度か出かけたからかも知れない。

家庭教師で少し余裕が出てから古本を買って読むようになっていたが、思い立って泊りがけで出かけるようにもなっていた。立原正秋の『心のふるさとを行く』の悪影響もある。1回目は大分の国東半島を中心に東海岸をめぐるつもりで出て、最後に宮崎に来たようだ。実際には国東半島には行かなかった。ぼんやりと覚えているのは竹田城跡と臼杵の石仏だけである。城跡の案内板で、岡城跡(国指定史跡)が竹田市ゆかりの瀧廉太郎の「荒城の月」のモデルになったとされる、と読んだような気がする。臼杵の石仏も見に出かけたようで、宮崎に来てから妻と二人で訪ねて写真を撮り、絵に描いてもらっている。(↑)大分の日田と宮崎でユースホステルに泊まったようだ。県庁近くの婦人会館(↓)の前を自転車で通った時に、そうや、ここがユースホステルやったんや、と思い出し、今でもまだやってるんや、と変に得心した覚えがある。宮崎に来てすぐの、宮崎神宮の北辺りから清武の大学まで自転車で通い始めたばかりの頃だった。

 ユースホステルでは4人が同室だった。朝は30年ぶりの雪らしいね、という上段に寝ていた人の話から始まった。向かいのベッドで寝ていた人の人差し指が異常に曲がっているのを見て、どうしたんですかと聞いてみたら、パチプロでね、ということだった。座り直して「負けた時はこれを質屋に入れて、また稼ぎながら、転々としてるねえ」、と腕から時計を外して見せてくれた。強面ではなく、優しそうな顔の人だった。その上の段に寝ていた人が「僕の家、名古屋でパチンコ屋をしてますよ」、と話に加わって来た。そんな偶然があるもんなんやと感心した。「30年ぶりの雪らしいね」と言った人が「この分だと通行規制が出されるから、阿蘇は自転車を押して行くしかないな」と呟いた。へえー、山て自転車で登れるもんなんや、その時に発想転換をしてもらったおかげで、自転車で山も登るようになった。

2回目に宮崎に来た時は、神戸からフェリーに自転車を積み込み、別府からやまなみハイウェイ、阿蘇、高千穂経由で宮崎に入り、鹿児島から九州の南端佐多岬に行く予定だった。しかし、なぜか高千穂から延岡に下りる旧道でパンクしたとき、もう帰ろ、と思って、日向からフェリーに乗り込んでしまった。したがって、宮崎に来たと言っても、高千穂に寄り、途中でパンクを貼って、日向からフェリーに乗っただけである。

やまなみハイウェイ(→「九州芸術の杜」

つれづれに

つれづれに:薊(あざみ)

薊も宮崎に来てよく摘んで来るようになった花の一つだ。結婚するまで住んでいた家の近くの堤防にもよく生えていたが、明石に越してからは目にしなくなった。神戸に近い都会で舗装されたところが多かったからだろう。

どこにでも咲いているわけではないが、木花に来てからは散歩の途中にもよく見かけるようになった。高台にある公園の土手や、近くの池の周りでは特にたくさん花が咲いていて、今からが盛りだ。土の成分や状態などにもよると思うが、加江田川と清武川の堤防の土手にはたくさん咲いている。大振りなので、わざわざ採りに出かけることもある。

茎が空洞になっていて水をよく吸うので、花瓶の水がすぐになくなってしまう。棘がすごいので、何度も痛い目に遭って摘み取る時の要領を文字通り身をもって覚えた。摘んできた薊は妻の絵にもなり、カレンダーにもなっている。→「薊」

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

薊:「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬」5月

薊:「私の散歩道2009」5月(カレンダーに誘ってくれた長崎のオムロプリントのお陰で地元企業に採用された分→「クリカレ」))

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

検索エンジンを探してもらって、2月の半ばからサイトへのアクセス情報を見るようになった。あれから二ヶ月ほどが経つ。最初に検索情報を見て驚いたのが、予想以上にアクセスが多かったことと、ロシアの攻撃を受けていた最中にウクライナの首都キーウからも見てくれていたことである。訪問者や訪問数にIPアドレスもわかるようになっていて、ウクライナの訪問者(69)は今日現在で、アメリカ(373)、ロシア(328)、日本(148)、ドイツ(135)、中国(91)、スウェーデン(89)に次いで7番目の多さである。ベトナム(53)、オランダ(47)、イギリス(35)と続く。世界のあちこちで絵のブログ(→「Forget Me Not」)を見てくれているようなので、英語しか出来ないが、せめてと思う気持ちで少しずつ英語を併記するようになった。妻の書いたエセイも英訳を始めた。

薊の英語がthistleなのは、ずいぶんと前に調べたので知っていた。医学科の授業で種田山頭火を取り上げて俳句を英訳した時に必要だったからである。学生にはスキャナで取り込んで印刷したMountain Tasting – Zen Haiku by Santoka Tanedaを配った。(今も手元にあるので、連絡をもらえれば、送付可である。)

アメリカ人John Stevensは「あざみあざやかなあさのあめあがり」を

The thistles –

bright and fresh,

Just after the morning rain.

と英訳していた。不定型の俳人が、文頭に「あ」を並べたリズムだけの句を戯れで作ったようだが、「あ」を並べたリズムを英語訳で表現するのは、不可能か、至難の業だろう。

首都キエフの表記がキーウに代わったのは知っていたが、表記を確かめるために検索したら首都キーウにある国立大学の日本語学科の教員のインタビュー記事「学生20人ほど日本の大学を希望 支援を」(2022年4月22日 22時54分 ウクライナ情勢)があった。日本語学科があったことも知らなかったし、「およそ300人の学生が日本語や日本文化」を学んでいることも知らなかった。現地に住んでいる人がブログを覗きに来てくれてるんやろかと思っていたが、日本語を学んでいる外国の人がブログを見てくれているのかも知れない。

教育文化学部の大学院を兼任で持ったことがあるが、台湾の学生もきれいな日本語をしゃべっていたし、提携校のインドネシアのブライジャワ大学では3000人も日本語を学んでいると聞いた。どちらも過去に日本が侵略をした痛ましい過去があるが、今も日本企業が多いと聞く。院の「翻訳論特論」や「アフリカ文化論特論」の授業に来てくれていた院生は卒業後台湾の日系企業に就職して、大学の提携で教員が台湾に行った際には案内役をしてくれたと聞く。

共通教育科目や学士力発展科目にはインドネシアやマレーシアの留学生が必ず何人か受講してくれていたし、工学部の英語のクラスにも何人かいた。コロナ騒動の前は、後期に教育学部に短期留学する予定の学生4人から、地域資源創成学部2年生のビジネス英語を受講してもいいかと別々に問い合わせがあった。英語での発表を中心に授業をするというシラバスを見たらしかった。ビジネス英語の受講生の2人を除いて日本語がよく出来ていた。聞けばやり始めて2年くらいという人もいたが、充分に対応できていていた。特に国費留学生は英語もよく出来たし、飛び抜けていたように思う。ブログを見にきてくれている人たちと、いつか繋がるかも知れない。

次は臼杵と宮崎、か。

臼杵の石仏

つれづれに

伎藝天

 秋篠寺に行った。伎藝天を観るためだった。家庭教師で経済的に少し余裕が出来て古本屋で立原正秋の本をたくさん買った悪影響である。すぐにその気になる性質は、どうにもならないものらしい。高校時代にはいつも何かに腹を立てていたが、学校帰りに時より近くの寺に寄って、仏像を眺めて気を鎮めていたようだから、木彫を観る素養は元々あったようである。→「高等学校2」

高校の時に立ち寄ったお堂、聖観音像(↓)があったと思われる

鶴林寺公式ホームページから

 立原正秋の作品の舞台は、鎌倉や湘南辺りが多いのだが、『花のいのち』の肝心の舞台は奈良の秋篠寺である。その寺に伎藝天がいる。

伎藝天像(国宝らしい)

 『花のいのち』は立原正秋の典型的な男と女の物語である。男は奈良の寺をめぐって分厚い写真集を出している。高価だが、売れる。焼き物にも詳しく、目利きが確かで、鑑定も頼まれる。妻をなくしている。女は才色兼備で見合い結婚はしたものの、相手に結婚前から女性と子供がいるのがわかり、離婚して自宅を出版社の保養所にして暮らし始める。その保養所に兄が男を連れて来て、女と出逢う。知と美の出会いである。男は自分の恋心を中唐の詩人耿湋(こうい)の五言絶句に込め、女はそれを理解して秋篠寺を訪ねて行く。そんな立原正秋の世界である。

返照入閭巷 憂来誰共語 古道少人行 秋風動禾黍

「返照閭巷(りょこう)に入る、憂うるも誰と共にか語らん、古道人行少(まれ)に、秋風禾黍(かしょ)を動かす」と読み「夕日の照り返しが村里にさしこんで、あたりをやわらかく包んでいる。わたしの心には憂いがいっぱい湧いてくるが、それを慰めあう相手もいない。古い道には人の往来もまれで、ただ秋風が稲やきびの穂を動かしているだけである」という意味らしい。美しい女は、伎藝天に準えて恋心を贈った男に会いに行く。

 鎌倉や湘南と違って、私には奈良は日常の世界である。一年生の時だけいっしょにプレイをした同級生の家の最寄り駅が秋篠寺に行くときに利用した大和西大寺である。近鉄沿線の石切駅近くには、いっしょに合宿をした私立の外国語大学生の豪邸もある。勉強が苦手な人たちで、宿舎ではオンナとパチンコの話ばかりだった。その人は金持ちの息子らしく、外車を乗り回していた。大阪、神戸、京都、関西の四外大定期戦で知り合った女子チームの同級生をデートに誘っていたようだが、優等生の同級生と合うようには思えなかった。少し付き合ったと聞くが、案の定結ばれなかったようだ。どちらもすらりと背が高く、経済的にも恵まれた美男美女だったが。その時はわからなかったが、理系に行く人が少なかった時代、昼間の英米学科には、才媛が集まっていたようだ。一人の同級生は親と兄が東大卒で、卒業後半年アメリカに留学して、高校の教員にはならないでJALの地上職に就いていた。今なら医学科に行って、医者になる人も少なからずいたような気がする。

近鉄大和西大寺駅

 秋篠寺には国鉄と近鉄を使って出かけた。近鉄の大和西大寺駅で降りて、駅からは歩いた。郊外の寺とは違って、生活の場を通って秋篠寺に着いた。伎藝天と長い時間さしで向き合っていたが、眼前に立原正秋の世界が広がることはなかった。

立原正秋(立原光代『追想 夫・立原正秋』より)