つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会シンポジウム

 宮崎医科大学で授業が始まったあとの6月に大阪工大(↓)で(「大阪工大非常勤」 )「黒人研究の会」の総会があり、シンポジウム(↑)を開催した。

 研究会では毎年6月は例会をせずに総会を開いて特別な企画を続けていた。普段の例会には神戸や大阪、京都や三重などの人が細々と参加していたが、総会には全国から会員が集まった。当時の会員は100名くらいだったと思う。入会したすぐあとから月例会の案内や入会案内、会誌(↓)や会報の編集もするようになって、だいぶ個人的な繋がりも広がっていた。研究会は1954年に創られ、1950年代、60年代のアメリカの公民権運動(the Civil Rights Movements)や1960年前後のアフリカの独立の頃が一番活動に活気があったようだが、その後は会誌の発行と例会を何とか続けているという状態だった。

 その年はアフリカとアメリカを繋ぐものという企画だった。司会をアフリカ専門の先輩がして、ケニアのムアンギさんがケニアの政治事情、三重の北島さんがアフリカと宗教、私がアフリカとアメリカを繋ぐリチャード・ライトについて話をするシンポジウムだった。研究会に入って6年目で、だいぶ例会での顔馴染も増えていた。最初はアフリカ系アメリカの作家で初めて会誌にも毎年作品論を載せてもらっていた。会誌でも毎年ライトの作品論を継続連載していたし、1985年には「ライトシンポジウム」(↓)に参加して、例会でも報告していた。その後南アフリカの作家で「MLA」の発表をやり、ラ・グーマの伝記家を訪問したことも報告していたので、アフリカ系アメリカからアフリカに移行している感じだった。

 ライト(↓)は1947年にアメリカに見切りをつけてパリに住んでいたが、そのころからアフリカでは独立に向けての動きが激しくなっていった。もちろんヨーロッパで殺し合いをして、戦場になったヨーロッパの総体的な力が一時急激に弱まったので、アフリカ諸国が自立に向けて動き出せたという側面もある。この頃から、ヨーロッパに物資や武器を送って大儲けし、戦場とは無縁で無傷のアメリカは、国内の復興に目が離せないヨーロッパ諸国を尻目に、世界のあらゆる場面で傍若無人に振る舞い始めた。ニューヨークからパリに移り住んだライトは、当時のそんな事情の反映している象徴的な人物にも思えたので、その辺りを中心に話をした。実際には事前に打ち合わせをしなかったので、各自が同じ方向で各自の話をするだけのシンポジウムだったが。先輩がそれぞれをうまく繋いでくれた。

 司会の先輩がシンポジウム(↓)の初めに「ムアンギさんともども3月までここで授業もしていたので、知っている学生もいるでしょう」と紹介してくれた。教歴の最初の非常勤から嘱託講師まで世話になり、紀要にも載せてもらった。LL教室を使わせてもらって、映像や音声をふんだんに使って授業をやらせてもらった。普通非常勤は居場所がないが、LL教室の3人の補助員の学生にはずいぶんと助けてもらった。世話になりっぱなしだった。4月から正職員の口が決まり、そこから出張で参加出来たわけである。大学(↓)ではシンポジウムも研究業績になる。このあと前回の総会で企画したアフリカ系アメリカ人の女性作家のテーマと併せて本になる予定だった。それも業績になる。小説を書ければそれでよかったが、表向きは大学では研究と教育と社会貢献が教員に求められるので、研究をしている振りもしなければ居心地が悪い。これらの業績は、いい隠れ蓑になってくれる。

 最初飛行機が落ちないかと心配した妻から列車で行くように強く言われてそれを忠実に実行していたので、行き帰りはなかなかの苦行だった。夜の11時の寝台急行に乗り翌朝到着、帰りも同じで、四人分の寝台のある小さな空間は、息苦しかった。特に小倉からの5時間は苦行だった。小倉から新幹線を使う場合も、小倉と宮崎間の特急車(↓)の中の5時間は、長かった。宮崎では飛行機を使うにしろ、列車を使うにしろ、神戸や大阪に行くのもお金がかかる。それが積もり積もれば、陸の孤島になるのも自然の成り行きである。行き来すると、二つの世界の違いがよくわかる。台風を永年経験すると、台風が来ている時には余程のことがない限り外出しない。身を守る術だから、当然と言えば当然である。しかし、この前の大きな台風の時にテレビに映っていた人は、暴風雨の中に外にいた。先ずあり得ない感覚である。その映像を観た時に、宮崎も長くなったんだと再確認した。髭に下駄の風貌が学生運動の過激派と結びついたようで警官に呼び止められて職務質問を受けていたが、こちらに来てからは経験がない。学生運動や同和に絡む高校紛争も全くの無縁で、制服なしも別世界の話である。同じ国に住んでいるとは思えなかった。まあ、それも時とともに感覚が鈍って行くが、それもそれで仕方ないか、なんかそんな風に思えてくるのも困ったものである。このシンポジウムが、赴任後最初の出張になった。
 次は、ラ・グーマ記念大会、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:自転車で

 引っ越してきて「借家に」入ったのは、大学を推薦してくれた人の家を借りたからである。国家公務員なので大学の近くに職員宿舎も二つあったようだが、家探しはしなかった。最初から一軒家を借りて住むつもりだったので、何かの話から「住むところどうしますか?」と聞かれたとき、そのことを伝えた。そのとき「ちょうど、前に住んでいた家が空いてますので、住んでもらっていいですよ」と言われた。場所を聞いて大学から遠い気もしたが、大学の人と会わなくて済むし、人目を気にしなくていいのでかえっていいかも知れない、と考え直した。妻にその話をしたら賛成してくれたので、その家を借りることにした。敷金や礼金なども要らずに、不動産屋さんを通さずに相場の家賃で貸してもらえることなった。宮崎神宮駅(↑)の少し西側辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に旧宮崎大学教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々農学部にいたので、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入したわけである。宮崎医科大学(↓)に異動した時に、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入して、まだ処分せずに空き家にしたままだった。

 昔は街の中心部が南宮崎駅辺りだったようだが、その時は宮崎駅や市役所のある橘通が中心になっていたようだった。橘通の近くにデパートが3つあり、近辺の商店街もまだに人通りがあった。宮崎神宮の大祭の神武さまは宮崎神宮(↓)から橘通をパレードする。医科大は郊外の清武町に創られた。政治的な思惑もあったのだろう。地方は政治家と建設業者の持ちつ持たれつが多いので、大学の建設は政治家の一大行事でもある。組合の強かった旧宮崎大学は文部省からは敬遠されて、予算も国立大学の中では最も少ない大学の一つだった。だから新設の医科大学には地元選出の3人の国会議員の介入が強かったようで、組合もない文部省のいいなりの大学になった。当然大学の建設にも口を挟んだだろう。国からの大型予算を地元に振り分けて、次の選挙での地盤を固める、大事な戦略である。

 家からの交通手段は自転車なので、行動範囲は概ね自転車で行ける範囲が多かった。少し北の海側に市民の森があり、西側には宮崎神宮と平和台があった。家族でよく出かけた。市民の森まで行けば、少し足を延ばせば一ッ葉海岸があり、時々砂浜にまで行った。買い物は私の役目でデパートや大学の途中の量販店や、宮崎神宮と江平の八百屋さんなどに自転車で通った。最初は驚くほどメロンが安く八百屋さんにあったので、いろいろ世話になった人に送り届けた。今なら宮崎観光ホテルのバイキングに家族ででかけることが多かったと思うが、まだバイキング形式のレストランはなく、デパートや一番街の中華料理店や大淀川にかかる橋を渡った先の中華料理店、それに大淀河畔(↓)のレストランに四人で出かけた。平和台にもレストランがあったようだが、みんなで行ったことはない。

 市民の森は案内板には阿波岐原森林公園と書いてある広い公園である。自転車で20分くらいで行けた。引っ越して来てからしばらく経った頃に、花菖蒲園に花が咲き出し、妻は麦わら帽子とランニングと短パンの恰好で、毎日自転車に乗って花菖蒲(↓)を描きに行っていた。後に装画を頼まれて、この頃の絵が本(↓)に残っている。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 1月の終わりから2月にかけては梅(↓)だった。暁方に梅の実を拾いに行ったこともある。ウェブで調べると「阿波岐原森林公園の中にあり、約210本の紅梅、白梅」の樹が植わっていたようである。梅の絵が手製カレンダーに残っている。(↓)

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」2月

 明石は坂道も多く、地面そのものが少なかった。昔は山や畑ばかりだったようだが、神戸や大阪のベッドタウンになってからは須磨、垂水、舞子、朝霧、明石、西明石と西へ、西へと開発先が延びて行った。非常勤を頼まれた神戸学院大学(↓)も1966年に創られた時は周りは畑だったようである。自転車で急な坂を登って土曜日に3コマの授業に通った。最初はレベルも高くなかったが、薬学部が出来てから評価も上がったようである。専任の話は一切なかったが、学生はおとなしく、可もなく不可もなくという印象が残っている。他の非常勤のように満員電車や大阪梅田の地下街の混雑で疲れなくて済んだのは何よりだった。もちろん、宮崎には満員電車も地下街の混雑も存在しない。電車も1時間か2時間に一本で、別世界である。

 こちらに来て長いのでずいぶんと慣れてしまったが、先日鹿児島から来た人が「今頃稲刈りですか?」とびっくりしていた。「台風の前に刈り入れをする超早場米ですよ」と言ったら「鹿児島にはありませんね」と言っていた。「台風銀座は同じなのに、対処の仕方がずいぶんと違うが、どうしてなんだろう?」と一瞬考えた。「なんでやろ?」
 次は、黒人研究の会シンポジウム、か。


つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:初めての郵便物

明石城

 引っ越しの日を待ち構えて、郵便が投函されていた。引っ越し前に編集者の人と「横浜から」明石(↑)の家を訪ねてくれた「横浜」の出版社の社長さんからだった。分厚い手紙だった。やっぱり話が壮大でよくはわからなかったが、意識下通信制御と侵略遺伝子と医学生についてだった。医学部を出た人からのエールだったようである。

 すでに「ゴンドワナ」にだいぶ記事も書かせてもらっていた。それまで原稿用紙に手書きで書いて原稿を送っていたが、この辺りからワープロ原稿に変わった。使っていたのはNECの文豪ミニ(↑)というワープロで、フロッピーディスク(↓)を使って原稿を送るようになった。映像や画像をふんだんに使うようになっているギガの世界に比べたら、キロバイトの世界、今は昔である。

 どういう経緯で買ったのかは忘れてしまったが、出入りの業者に薦められて大学の備品で購入したような気がする。自分で英語をしゃべるようになろうとテレビとビデオデッキを買って映画やニュースも英語で見るようにしていた。ビデオテープの時代で、まだベータのテープがあり、全般にはVHSのテープが多くなっていたが、私自身は半々くらいで使っていた。授業で使うビデオを編集するために、研究室にもVHSのデッキとベータのデッキを2台ずつ買う必要があった。デッキは25万円ほどしたので、最初の年に一気には買えなかった。校費の内訳はよく知らなかったが、語学は普通の講座の半分で、教授枠が欠員で予算も助教授1、講師1の予算配分とかで、初年度は40万円余りだった気がする。初年度に科学研究費を申請して次の年に100万円が来たので、たぶんその年にデッキは全部買えたのではないか。医学部では教授の権限が強く、大学は組合も作らせず文部省のいいなりの大学になったらしく、そのお陰で予算は隣の3学部ある旧宮崎大学より多かったらしい。だから、今から思えば、もう少し研究費があってもよかった気もする。統合前は旧宮崎医科大学(↓)の研究費が教授180万、准教授120万で、統合したとたん旧宮崎大学に併せて40万余りに減額された。当時は予算が潤沢だったようである。もっとも私としては「研究室があるだけで有難く、予算まで貰えるなんて‥‥」、それが正直な感想だった。

 授業がある日は大学に出かけた。出ない日も多かったので、電気がついているのを確かめて学生が訪ねて来てくれた。定期的に何人か来ていたので、大学に行く日は、授業の前も後も学生と話をする時間が長かった。8時間くらいの日もあったし、夜遅くなる場合も多かった。授業の時間より、研究室で学生と話をしていた時間の方が多かったのではないか。
 研究室は東西にのびる福利厚生棟の3階にあった。授業は福利厚生棟の続きにある南北にのびる講義棟の3階で2年生の授業、4階で1年生の授業があった。福利厚生棟の1階に学生食堂があったので、私の研究室は講義棟から学生食堂に行く通り道にあった。退職後に病院との間の研究棟の奥の方に研究室が移動したが、距離以上に学生との距離が離れた気になった。学生は珈琲が目当ての人もいたが、大抵はふらっと来て、1時間か2時間、3時間か4時間ほど部屋でしゃべって行った。特に何を話したというわけではなかったが、高校のことや大学の他の授業のことや、家族や友人のことや授業で感じたことなど、とりとめもなく続いた。非常勤が長かったので、研究室(↓)は有難かった。それもあって、家でワープロに向かうことが多かった。最初は雑誌の記事だけだったが、編註書や翻訳本など、次から次に勧められるまま原稿を送った。小説をかくつもりが、それどころではなくなってしまったのである。

この頃に隣の事務の人が撮ってくれた研究室での写真で、白髪なしである

 引っ越しの前まではほんとに慌ただしかった。「ライトシンポジウム」「ミシシッピ」に、エイブラハムズさんのインタビューでカナダに(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)、「MLA」の発表で「サンフランシスコ」(↓)に行き、その間に4つ大学の口がだめになって(「女子短大」「二つ目の大学」「工大教授会」「広島から」)、諦めかけていたところに「再び広島から」連絡があってようやく大学が決まった。5年の就職浪人だった。浪人1年、留年2年、学部卒業後の就職浪人1年を入れると、9年である。
 次は、自転車で、か。

 分厚い手紙については、その後、部屋にきてくれる学生にも話をしたし、授業で話をしたこともある。理解できたかどうかはいまだに心許ない。

意識下通信制御について

「闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません 計測制御なる テクニカル・タームをまねて 『意識下通信制御』なるモデルを設定するのは またまた 科学的で困ったものですが 一瞬にして千里萬里を飛ぶ 不可視の原言語のことゆえ ここは西洋風 実体論的モデルを 御許しいただきたい 意識下通信制御を 意識下の感応装置が 自分または他者の意識下から得た情報を 意識下の中央情報処理装置で処理し その結果を利用して 自分または 他者の行動を 制御することと定義するとき 人の行動のほとんどすべては 意識下通信制御によるものだと考えられます 少なくとも東洋人とアフリカ人には あてはまるはずです 私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです その些末を得意になって話しているのが ほかならぬ 学者文化人であって もう ほんまに ええかげんにせえ と 言いたくなります」

侵略遺伝子について

「・・・生物の成長というのは 細胞が個数を増す 細胞分裂と分裂によって 小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさを とりもどす細胞成長とによって 達成されます 生物は本質的に成長するものなのですから 各細胞は 成長の第一条件たる 細胞分裂の傾向がきわめて強いのです しかし 無制限に 細胞の個数が増加して その結果 過成長すると こんどは 個体の生命が維持できなくなります そこで遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は 不必要なときには 抑制されています この抑制因子を モノーという人は オペロンと名づけました モノーのオペロン説です フランスというところは 困ったものでいまだにデカルトの曽孫のような顔をした人たちしかいません このモノーも デカルトの曽孫にちがいありません しかし 話を簡略にするためには このオペロン説は 便利です 化学変化を説明するのに 結合手なる 手を 原子または原子団がもつものとするのに似て こっけいですが御許しいただきたい さて このオペロンが はずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき 細胞は 遺伝子本来の 〝分裂欲求〟に忠実に従って 際限なく 分裂を繰りかえします ガンです そして ガンになりやすい体質は遺伝します これはオペロンが はずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです たしか 一九二◯年代に 有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています ヒトがすべて侵略者とならないのは この恐ろしい 〝遺伝子〟にも オペロンのおおいがかけられていて 容易には 形質を発現することがないためです ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは 窮迫によってはずされてしまったのです それも ほんの七千年か八千年ほど前のことです そして このオペロンのはずれやすい傾向は 連綿と受けつがれ いまなお 子や孫が風を切って 日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています 天孫降臨族の末裔たちです 」

医学部の学生について

「最近の学生は とくに 医学生は 頭の良い子ばかりだそうです なにしろ なんかの方法で 受験勉強をしなかった子は いないというのですから 〝学問〟に対する その真摯な態度と勤勉に 驚かずにはいられません これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に 己れの行く末を見つめ かっちりと計画がたてられる 頭の良い子であることを意味しています 鉛直方向によそみをすることなど 思いもよらぬ 天才少年です・・・しかし〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生 この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます 学生たちの 眠っている 意識以前に 無言で語りかけてください・・・意識下通信制御です 百億年の因縁なんぞ信じないぞ 数百万の祖霊 そんなものは ミイラに食わせてやる などと仰言ってはいけません そうすれば 玉田先生の学生のなかから 医者や医学者ではなく 医家が 必ず 生まれることを かたく 信じてください そして もちろん 学生に 好かれるように行動するのではなく いつも 御自分からすすんで 学生のひとりひとりが 好きになるようにつとめてください 〝良い頭の〟学生は 医学生の責任だとはいえません 親はもちろん あらゆるものがよってたかって腕によりかけ 作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば ある日 ぱっちり眼を開き 心臓が鼓動をはじめ 体のすみずみに しだいに ぬくもりがひろがっていくことが 必ずあることを忘れないでください それと 医学部の学生は 最優秀と考えられていますが実際は 外国語も自然科学も数学もなにもかも まったくだめだということを 信じてください 子どもだから仕方のないことですが 世評がいかに 無責任ででたらめなものであるかを 玉田先生も 四月になれば いやというほど思いしらされるはずです たとえば 英語は 百分講義で英文科三ページがやっとのところを 医学部は十ページをかるがるとこなすのですが その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると こいつ ほんまに 入試をくぐってきたんかいな と思う奴ばかりです それでもうんざりして見捨てたりせず この愚劣なガキどもの ひとりひとりからけっして眼をはなすことなく しっかりと 見守ってやっていただきたい なにしろ まだ人類とはならぬこども なのですから・・・」