つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ほぼ初めての春の花

 春には一斉にたくさんの花が咲く。もちろんどこでも同じだが、「明石」や神戸と地面の締める割合が格段に違うので、咲く花も多彩だ。今まであまり見かけなかったきんぽうげについては「花を描く」で書いたが、薊もほぼ初めての春の花の一つである。川の堤防を行けば咲いていたと思うが、記憶に薄い。街中では見るのは難しい。大学に行く途中で渡っていた清武川の堤防や途中の田んぼやキャンパスの周りなどにかなり大きな薊が咲いていた。棘が刺さるので、摘むのに細心の注意が必要だが、摘んで来てよく花瓶に差した。よく摘むので、棘を取るのもずいぶんと手際よくなった。研究室にも大きな花瓶を置いて、投げ入れて飾っていた。昔もこの辺りには薊も多かったようで、山頭火(→「 なんで山頭火?」、→「山頭火の生涯」)の日記にも薊の句がよく登場する。「薊鮮やかに朝の雨上がり」は「あ」を最初に並べただけの遊びうただが、有名である。今の家に引っ越してきてからも、公園脇や池の周りや加江田川の堤防に薊を採りに出かけることも多い。

薊:「私の散歩道2009」5月(企業採用分)

 同じ頃に遠くの山の方を見ると、ぼんやりと藤色に見える個所が点在している。山藤(↓)である。よく見ると、近くの道端の樹や公園にも藤の蔓が絡んで、藤色のきれいな花が垂れ下がっている。初めてだった。きんぽうげや薊に比べると、枝や蔓も含めて大型で迫力もある。咲き初めの藤色の色合いがなんとも言えない。初めて県道わきの繁みで山藤を見つけたときは、絵に描いてもらおうと、思わず大きな枝ごと自転車に積んで家まで運んだが、すぐにぽろぽろと散ってしまった。モデルになるのがとても嫌らしい。

 少し違うが、絵に描くには藤棚から拝借するしかない。公園やキャンパスの藤棚から昼間に頂戴するのはさすがに気が引ける。夜中にこっそりと藤棚に忍び寄って、辛うじて絵になった。(↓)冷や汗の結晶である。山藤とは趣が違うが、藤棚に垂れ下がる藤の房も見事である。公園やキャンパスに藤棚を作りたくなる気持ちもよくわかる。昼下がりに藤棚の下のベンチで語らう光景は人の心を和ませる。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月(企業採用分)

 宮崎は柑橘類の宝庫である。明石にいるときは、近くの和歌山、四国の愛媛と関東の静岡がみかんの名産地と思いこんでいた。春になるとあちこちで柑橘類の甘酸っぱい香りが漂う。種類も豊富だ。みかん、夏みかん、甘夏、たんかん、ぽんかん、きんかん、だいだい、最近は鹿児島の晩白柚の大きな実を見ることもある。今のところ宮崎にしかないのは日向夏である。好きな人がいて毎年冬場か春先に送っている。毎食日向夏を半分ほど絞って野菜にかけて食べている。甘酸っぱい味がいい。今年は買わなかった。散歩をしている途中で拾えるからだ。樹から捥いだことはない。途中に何本かの樹があるが、たくさん実をつけても、毎年誰も採らない。残ったままの樹に花が咲いていることが多い。そんな樹から落ちた実を拾って帰る。落ちるときはたいてい食べごろである。5月辺りに一斉に片づけられて実がなくなる時があるが、それでも何個かは残っている。草の繁みに隠れて、まだ2個残っている。しかし、採らずに落ちるか枯れるかしそうである。少し前にすだちが送られてきたからだ。小粒だが、日向夏より酸味があって、小粒半分でも充分である。9月の半ばくらいまでもちそうである。最近はへべずとかかぼすとかも出ているので、日向夏が出始めるまでの心配は不要である。

 ねじばな(↓)も都会では見かけなかった花である。漢字では捩花と書き、ラン科の多年草らしい。右巻きと左巻きがあるらしく、中にはねじれないのや途中でねじれ方が変わるものもあるらしい。右巻きと左巻きが半々だそうだが、巻き方を意識して見たことはない。もじずり(綟摺)とも言うようで、百人一首の「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」はなぜか覚えていて、この花を見ると「しのぶもぢずり 誰ゆゑに」のところだけが思い浮かぶ。なぜだろう?
 次は、春の花、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:花を描く

 花を描くと最初から決めていたわけではない。土曜日の2時間を作り出すのに精いっぱいだった状態から、好きな時間に好きなだけ描けるようになるのだから、「宮崎に」来ると決まってから、何をどういう風に描こうかと悩んでいた。元々体が強くないので、それまで描いていた体力勝負の油絵が自分にあっていないと考えるようになっていた。上の絵(↑)の背景はすでに廃刊になっているある雑誌の最後のページにある写真を見て「これすてきね!」と拝借して描いたもので、明石市の市展に出品した。額縁に入った大きな油絵で、運ぶのも大変だった。宮崎に来てからは、研究室にその油絵を持ち込んで飾り、来てくれる人に見てもらっていた。今は持ち帰って、陽のあたる南向きの明るい居間にでんと座り、カレンダー(↓)にもなっている。

2019年12月(→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」

 当時神戸の絵画教室に通っていたが、その講師が市展の審査員をしていたらしく「あなたが出展しているのは知りませんでした」と特別審査賞に決まってから言われたそうである。公正に審査をしてもらったのは有難い。粗削りだが、魅力のある絵である。カレンダーにも入れたくなったわけである。絵画教室の講師はとても素敵な絵を描いていて、小磯良平さんとは同世代の画家で、うまく世に出ていればと思える垢ぬけた絵(↓)だった。最後は絵に手をいれないほど腎臓が悪化していたようで、お見舞いにいっしょに行ったことがある。気分がよかったのか、絵に手を入れてもらえたようでひとしきり喜んでいた。恐らく絵に手を入れてもらえた最後だったのではないか。

 どんな絵を描くかを決めるために京都に日本画を見に行った。子供が二人とも小さかったので、ずっと二人で出かける時間が取れないままだったが、久しぶりに西明石から新幹線に乗った。複々線で便利なところだったから普段は京都には新快速や快速を利用していたが、貴重な時間はお金には代えられない。京都に行くと、先ずは錦市場(↓)だった。特に何かの目当てがあるわけではないが、雰囲気が好きで、アーケードの下を歩くだけで十分だった。毎日のように利用していた「魚の棚」より、規模が大きい。いつくかの寺を訪ねて、日本画をたくさん観た。それまであまり気に留めて見たことはなかったが、思っていた以上に精巧なタッチである。「日本画も体力要りそう‥‥」と妻が呟いた。宮崎では水彩で描くことにしたようである。油絵のように上から何度も塗るのと違って、一発勝負だが、体には合っていると思えたんだろう。

 宮崎に来て見ると、神戸や→「明石」の都会に比べて地面が多く、目にする花の種類も格段に違っていた。三月末に来たので、先ず、きんぽうげ(↓)が目に入った。山頭火(→「 なんで山頭火?」、→「山頭火の生涯」)が日記にきんぽうげの句をさくさん詠んでいたので、余計に気になった。山頭火は2度宮崎に来ている。行乞記にある「歩けばきんぽうげ 座ればきんぽうげ」の句は宮崎で詠んだようである。群生しているところをときたま通ると、1930年代に山頭火が行乞しながら歩いた宮崎にはもっとさくさん花が咲いていただろうなと思いを馳せる。今まであまり見かけなかった花だ。もちろん市民の森の花菖蒲も、である。
次は、ほぼ初めての春の花、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:装画第1号

山田はる子『心の花を咲かせたい』(装画/花菖蒲、1989/1/25)

 ある日、妻が出版社の社長さんから本の装画(↑)を頼まれた。「明石」にいた頃は、仕事もあり、二人の子供の世話に食事に家事にと目一杯で、土曜日の午後に神戸の絵画教室に通う2時間を作り出すのがやっとだった。油絵を描いていて、その教室の人たちで開くグループ展には出品を続けていた。私はまったく絵が描けないので、ちょっと描いてとよく頼んでいた。「修学旅行」の冊子にはクラス全員の似顔絵(↓)も描いてもらった。体もきつかったのに、反省するばかりである。

 私は先輩から話があって「横浜」で社長さんと編集者の人に会ってから、出版社が不定期に出していた雑誌→「ゴンドワナ」(→「ゴンドワナ (3~11号)」、→「 ゴンドワナ (12~19号)」)に記事を書いていたが、その記事もだいぶたくさんになっていた。南アフリカとラ・グーマ(↓)の記事が大半だったが、大抵は記事に見合う挿画を妻に描いてもらって、記事といっしょに送っていた。当時妻は色々な花の絵を描いていたので、カードにしていっしょに送っていた。

 「ラ・グーマ記念大会」 でラ・グーマ夫人のブランシさんに会ったとき、この肖像画を載せた雑誌を渡したら、ことのほか喜んでくれた。妻にはエイブラハムズさん(「エイブラハムさん1」「エイブラハムさん2」)の本『アレックス・ラ・グーマ』の扉絵を見て描いてもらった。いっしょに小さなパーティでも夫人といっしょになり、翌日大会で毅然として話をしているのを聞いて、ラ・グーマがぐっと身近になった。とても優しい人だった。1992年に在外研究でジンバブエに家族で行ったとき、まだロンドンに亡命中のブランシさんに連絡をしたら、快く会ってくれた。一人暮らしの家におしかけたが、ほんとうに優しかった。妻も子供二人も英語が話せなかったが、終始楽しそうに微笑んでいた。もう一枚の似顔絵(↓)の載った雑誌も渡せたのは何よりだった。マンデラは釈放されていたが、まだアパルトヘイトの制度は廃止されていなかったので、ロンドンに亡命中だった。しばらくあと、ケープタウンに戻れたと手紙をもらった。空港で一番じゅう待たされたそうで「ブランシさんを待たせるなんて、ANCは何をしてるんですか?」と書いたら「改革には時間がかかるので、大目に見てやってね」と窘めてあった。寛容な人だった。

 「横浜から」社長さんと編集者の人が「中朝霧丘」の家に来てくれたとき、初めて先輩にも家に来てもらえた。妻は食事の用意に忙しかったが、直接会うことが出来た。このとき、編集者の人とかなり意気投合していた。「宮崎へ」来て「借家に」(2022年8月15日)住み始めた日に社長さんから分厚い「初めての郵便物」が届いていた。

妻は時間を気にせずに、毎日絵が描けるのが何よりだった。半パンにランニングの姿は如何にも季節を楽しんでいる感じだった。「自転車で」近くの市民の森(↑)にでかけて花菖蒲を描いた。装画第1号はその花菖蒲である。
次は、花を描く、か。

『校長記 心の花を咲かせたい』扉絵

裏表紙

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:歯医者さん

 宮崎に来て2年目の秋に、思わぬところから講演の依頼があった。「宮崎市とその周辺の歯医者さん有志が、毎日見ている小さな口の中ばかりでなく、他の世界のことも知ろう」と月一回集まって開いている勉強会に呼んでもらったのである。南九州大の「海外事情研究会」の依頼と同じように、宮崎ではあまりないことである。1987年にアメリカで大ヒットし、翌年の3月に大都市で封切りされた「遠い夜明け」(↑、→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」)は4月に宮崎で、その後、都城と延岡で上映されていたが、同時期に封切りされたイギリス映画「ワールド・アパート」は福岡までしかこなかった。南アフリカの白人ジャーナリストの自伝『南アフリカ117日獄中記』をもとに娘が脚本を書いた映画で、しみじみとした味わいのある映画である。(→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」、↓)アフリカ人の監督による自主映画「アモク!」は大都市だけでごく僅かな人が観ただけである。暗くてやり場のない映画なので、娯楽映画とは程遠く、日本で興行が成り立ったとは思えないが。1990年2月12日にマンデラが釈放されているから、その直前の話だった。釈放されたマンデラは西側諸国に経済制裁の継続を訴え、100万個の住宅建設を宣言した手前、各国を回って金集めに忙殺されていた。日本にも来て国会で話をしたが、日本政府は特定の政党に金は出せないと屁理屈をつけて一円も出さなかった。1987年にANCのタンボ議長が来日した時は、雀の涙ほどの4000万を出して、アフリカ人政権を支援しているのでアフリカ人政権が誕生した時にはよろしくとでも言うつもりだったのか。そんな状況を知ってか知らずか、宮崎にもアパルトヘイトに関心のある人がいたというわけである。

主人公役のバーバラ・ハーシー(小島けい挿画)

 生きても30くらいまでかと諦めていた後遺症はいろいろ自覚出来たが、中でも歯は悲惨だった。先行きを考えないので手入れをしなかったし、甘いものが好きな上に、最初に家の近くでかかった歯医者が酷かった。今ならウェブの書き込みを見て、ある程度診療程度を確かめられるが、歯が痛くなるとすぐ近くの歯医者に駆け込むのが当たり前だったから先のことまでは考えが及ばなかった。そういう時代だったと言えばそれまでだが、酷い歯医者もいるという前提でものを考えなかった。コロナ騒動が始まって義歯で助けてもらった歯医者には行けなくなったので、その歯医者さんの勧めもあって歯石取りと定期健診のために近くの歯科医院を探した。ウェブの評判を見て治療してもらったが、評判通りだった。

クリニックの近くの宮崎神宮

 宮崎に来たときに、まだ生きるなら歯の手入れも大切なのはわかっていたから、恐る恐る近くの歯医者を訪ねてみた。デンタルクリニックという看板は如何にも今風だった。講演を頼まれたのはその歯科医院の院長からだった。一通りの治療を終えた後、定期的に検診に通うように言われた。予防のための治療である。治療の段階でも納得したが、今以上に悪くならないために予防する定期検診は理に適っている。以降、かかさず検診を受けて、治療を始めた頃の状態をほぼ維持してもらえたのは院長のお陰である。治療の前後によく話をした。書いた記事や本を渡していたので、読んで集まりに講師として誘ってくれたようで、有難い話だった。

講演の内容は海外事情研究部のと併せて「自己意識と侵略の歴史」(1991年)にまとめた

 院長が六十代の半ばに「もう抜歯はしないので‥‥」と、他の歯医者を紹介された。2度ともあまりしっくり来なかった。院長が七十を過ぎて暫くしたころ「体力のあるうちに抜歯した方がいいですね」と言われ「そろそろ終活も‥‥」とも言われた。私はまだ定年退職まで少しあったので、すんなりと受け入れられずにいた時に、娘が「私が通っている歯医者さんなら抜かずに治療してくれるかもよ」と言ってくれた。吉祥寺で遠かったが、夏に何回か通った。最初、辛うじて残っている歯を見て「何とか残したいんだよね。歯は百年は持つように出来ているから。しかし、間に合うかなあ‥‥」と言った。レントゲン撮影をしたあと、写真を見ながら「残したいなあ‥‥」と言って治療を始めた。お蔭で義歯を入れてもらって、奥歯でものが噛めるようになっている。十年は違いそうである。コロナ騒動が始まる前の夏のことで、よく思い立って何回も通ったものだと感心する。その冬に定期健診に行く予定だったが、コロナ騒動が始まってしまった。行けないままだが、通える日が来るかどうか。
 次は、装画、か。

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