つれづれに

懇親会

移転先の新校舎

 間借りの木造校舎からコンクリートの新校舎に移転して、新学期が始まった。前回の写真(↓)は新任研修を終わって初めて「出勤」した日に、職員全体で取ったものである。面倒臭いので、新任研修の続きでスーツを着て行ったが、写真を撮るとは思わなかった。大勢の人たちである。一番前に並んでいるのが年寄り組で、新設の場合、呼ばれたか、便乗して転勤して来たかのどちらかだった。呼ばれたのは、前回書いた教務の人と、生徒指導の人くらいなものである。校長と教頭とその二人が中心になって、最低限のメンバーを連れて来たという感じだった。私は校長が連れて来た一人、新任研修にいっしょに行った人は教頭が連れて来た一人というわけか。他は便乗組で、質(たち)が悪い。可能なら関わりたくない人たちだった。なるべく近くに来て欲しくなかった。英語科の人は、中堅の二人以外は便乗組で、この人、授業大丈夫なんやろかと心配になる人もいた。

 たぶんその週に、さっそく懇親会があった。元々酒を無理強いされるのも嫌だったし、有象無象の人たちに色々聞かれるのも鬱陶しかった。校長室で髭の話をしたとき、懇親会についても話が出ていた。

 「懇親会、鬱陶しいですね。人が集まるのがどうも苦手で」
 「そうか。あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」
 「そうですよねえ」

 だから、もちろん懇親会には行かなかった。関わりたくないと思える人が多そうだったし、懇親する必要性が感じられなかったからである、というより、なんで好き好んでいっしょに酒を飲んで話せなあかんねん、と思っただけである。
 懇親会の次の日、同じ列の一番南側に構えている教頭が「玉田クン、玉田くん、ちょっと」と大声を出して、手招きして呼んだ。私から話すことはないので行きたくなかったが、仕方なく席まで行った。

 「玉田クン、懇親会、どうしてたん?」
 「懇親会、行きませんけど」

 会話はそれだけだった。たぶん、懇親会になぜ来なかったのかを確かめて、次からは来るように促すのが自分の役目だと信じて疑わなかったんだろう。そんな態度が見え見えだった。次の言葉を言われていたら「あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」て言われてますけど、と言うつもりだったが、その時は言わずに済んだ。これで収まるわけがない。尾を引きそうな悪い予感がした。一度爆発してもろに感情をぶつけられ、職員室の端から端までにじり寄られながら怒鳴られ続けたことがある。ほとんどの教員が自分の席に座っていた。→「ロシア語」(4月5日)の授業の時と同じで、相手が怒鳴って来た時にぷいと黒板の方を見つめたからである。意思表示のつもりだったが、日頃溜まっていたものが一気に噴き出したんだろう。溜めるのは体によくはない。そんなこともあったが、全般には、校長と教務の人に守られていたお陰で、髭を剃れとも言われず、懇親会も強要されずに済んだ。
 教務の人は校長が直々に連れて来ただけのことはある、数学科は実力のある中堅どころを集めていた。全員が同窓生で、広島大の卒業生で作る「尚志会」の会員が大半だった。本人は、後に教頭試験を受けに行ったあと「ワシ、辞めるで。あんなんやっとれるか」と言って、早々に管理職のコースから降りてしまったが、他の「尚志会」の人たちは堪(こら)えてその後無事管理職になったようである。
 英語科は便乗組が多くて大いに問題ありだったが、こちらに火の粉が飛んで来ないかぎり、自分のことさえやっていれば気にならなかった。ただ、同窓の意識を持ち出し先輩風を吹かせる年寄りが、ときたま出しゃばって踏み込んで来るので、鬱陶しかった。出来るだけ避(よ)ける努力はしたが、一度だけ、みんなのいる職員室で怒鳴り返したことがある。言うことを聞かない「後輩」が癇にさわったに違いない。

 「お前、後輩のくせに生意気な」
 「あんた、先輩言うんやったら、ずるせんとちゃんとやらんかい」

 播州弁は果てしなく口穢い言葉である。出来れば使いたく、ない。

 新校舎の完成した年に出された「校舎竣工記念誌」(↑)で、全員書くよう教員にも原稿依頼があり、「生きゆけるかしら」を書いて出した。ホームページとブログに載せてある一番目の「(印刷物として)書いたもの」(→「書いたもの一覧」)である。
 次は、会議、か。

つれづれに

 

新任研修

姫路西高

 慌ただしい冬だった。秋に→「教育実習」(5月4日)の時の教頭と→「街でばったり」(5月13日)と出逢い、校長をしていた新設高校に誘われた。年末にはその人から産休の人の代わりをするように頼まれて→「3ケ月早めに」(5月14日)高校の教員になり、→「初めての授業」(5月15日)も終え、課外活動で、バスケットボールの女子チームの県大会にも参加した。定期試験も2度あったし、初めて入学試験の採点もやった。丸々1学期を経験したわけである。
 そのあと新任研修があり、4月1日に採用試験のあった姫路西高に出かけた。行きたくなかったが、新採用の教師の仕事の一部だったようで、嫌々参加した。なぜか前日に買った安物のスーツを着て、ついでに散髪もして行った。ただ、一枚刈りのつるつる頭だったので、少し目立ったかも知れない。

 新任研修には同じ夜間課程で知り合いになり、同じ新設校に行くことになった人と駅前で(↓)待ち合わせをした。180センチほどあって、スーツを着ていた。前の日にも会って別れたばかりだったが、先に待っていたその人の近くに行き、胸元まで近づいたが最初は全く反応しなかった。それから、一瞬、ぎゃと声を上げて、大声で笑い始めた、しばらく興奮冷めやらぬ様子で、笑い続けていた。その人とは電車が同じなので否応なしに駅で顔を合わせていたが、挨拶を交わす程度だった。当たり障りのない対応をする人で、本人が訪ねて来ていなかったら、話もしてなかったと思う。ある日家に来て、採用試験を受けたいが何をしたらいいでしょうかと聞かれた。その年に4年間で卒業予定で、浪人と留年4年の私より4歳下だった。母子家庭で独身の兄と三人暮らし、高校は隣の県立高校の商業科で、卒業後財務関係の県の出先機関に勤めていると言っていた。似非夜間学生の私とは大違いで、正規の公務員だったようである。その人にとっては私はその地区で一番の進学校の卒業生で、まさか受験勉強をせずに大学に入り英語もしないで英米学科を卒業したとは思わなかっただろう。採用試験の準備の真っ最中だったし、教えるように頼まれて断る理由もないので、やっていることについて話はした。役に立ったのかどうかは知らないが、採用試験には合格したらしい。それでもいっしょの高校になるとは思ってもいなかった。当時担任だった人が新設校の教頭になり、その人の勧めで採用が決まったと教えてくれた。

 大学に入ってしばらくしてから髭が伸び始め、剃らないでそのままにしていたのだが、散髪屋に行くのが嫌だったので、一年に一度、髪と髭が伸びた頃に自分でバリカンで刈るようになっていた。一枚刈りである。普段の→「髭と下駄」の風体がたまたま全共闘の人たちと似ていたために警官に目の敵にされているうちに、自分の中に潜む「反体制」の自己意識に気づいてしまっていたらしい。→「面接」(5月9日)では髭を剃るかどうかを迷ったが、丸刈りの時期と合っていれば、変に悩まずに済んでいたかも知れない。つるつる頭は好まれそうとは思いもしなかった。4月1日はたまたま丸刈りにする時期だったのである。

「県大会」(5月16日)の時の集合写真→(直後に)つるつる頭(↑)

 何日かの新任研修のあと、新校舎での新採用一年目の日々が始まった。新任研修で着たスーツは、その後、何回かしか着ていない。普段は、学生の時のように髭に下駄履きの風体に戻っていた。
 次回は、新採用一年目、か。

つれづれに

 

新採用一年目

 新任研修のあと、新校舎での一年目が始まった。30くらいまでだとしても人に金を借りてまで生きてはいけないというのが採用試験を受けた動機だから、教育に燃える、理想に燃えるなどはあるはずもなく、初日を迎えた。木造2階建ての校舎はこじんまりして温かみもある気がしたし、職員室の人数も多くなかったのでそれほど感じないで済んでいたような気もするが、新校舎の職員室は最初から馴染めなかった。入って自分の席に歩いて行くときに、先は長くなさそう、もって2年くらいやろなあ、とぼんやりと考えていた。
てっきり担任を持たされると思いこんでいたが、ど真ん中、教頭がこちらに机を向けている列に、教務と生徒指導用の机が並べられ、私は通路脇の3番目の席に座らされた。教務と生徒指導が学校運営の要だったようである。いっしょに新任研修に行った人は一年生の担任らしかった。ま、無難なんやろな。親から「勉強するように言って下さいよ」と言われて、「そんなあ、勉強した人は子供に勉強するようには言いませんよ、僕には言えませんね」、と親に言いそうなのがわかったんやろか、担任のないことを一応そう思うことにして、気持ちに区切りをつけた。
時間割などを扱う部署に校長が引っ張って来た人で、カリキュラムを実質的に動かす一番の実力者らしい。嫌で嫌でたまらなかった高校生の時に、1年と2年次で担任だった人である。数学の担当で淡々としていた。ほとんどしゃべったこともない。その人の部署とは、と思ったが、たぶん校長の思惑だろう。あいつ元気はあるけど、一年目から担任やらせるのも危険やし、一年は手元に置いてちゃんと見とってや、そう頼んだに違いない。その魂胆が透けて見えた。ま、しゃーないか。実際、毎日気の休まらない部署だった。休んだ人の授業の手配は、毎日緊急を要する職務だ。朝に連絡を受けて、その授業を誰が持つかを黒板の持ち駒票を見ながら手配するわけだが、滞ると生徒が右往左往する。この立場にいると、うかつに休むのが難しくなる。春休みには大きな授業の駒版を前にして全職員がどの時間に授業をするかをあれこれ考えて持ち駒を当てはめて行く。たっぷり何日かかかる。ここがしっかりしていなければ、職員は右往左往させられる。その点、筋金入りで、混乱した事態を見なくて済んだのは、その人の実力だろう。寡黙な人だったが、誰からも一目置かれているのは肌で感じた。
そや、校長に挨拶に行ってなかったな、行ってみるか。校長室に挨拶に行った。

「どや、毎日おもろいか」
「そうですね」
「玉田クン、その髭伸ばしてるんか?」
「はあ、剃ってないだけですけど。生えてくるもん、むやみに剃るのもなんなんで」
「そうかぁ。たしか、男の和服は着たらあかんと職務規定にあるみたいやけど、髭を伸ばしたらあかんとは書いてないみたいやしな。その髭、伸ばせ、伸ばせ」
「そうですね」

へえ、校長と、学内で一番の実力者が好きにやったらええ、と言ってくれてるんか。何とかやれそう。3ケ月の非常勤で慣れたところで新校舎に移転、新採用一年目がこんな感じで始まったようである。
写真を焼いて以来(→「諦めの形」、3月26日)撮影を避け気味なのであまり写真が残ってないのだが、嫌々参加した集合写真は何枚か残っている。最初の写真は、新任研修のあとに撮った集合写真である。

 (↑)切り取った写真と、その少し前に→「県大会」(5月16日)に参加したときに取った集合写真から切り取ったもの。(↓)

 次は、懇親会、か。

つれづれに

県大会

洲本城の近くの公園でみんなといっしょに

 産休の人の代わりに3ケ月早く高校の教員になり、授業も始まって間もなく、またバスケットボールと関わることになった。しばらく運動らしきものと無縁だったので、大学に入ってまたバスケットボールをやり出した。幸い昼間の人といっしょにプレイが楽しめた。(→「運動クラブ」、3月29日)もう少しやりたいと考えて近くの中学校に出かけて思わずコーチの真似事もした。(→「コーチ」、4月15日)
 間借り校舎で体育館はなく外の地面のコートだったが、授業が始まった何日か後の放課後に、外のコートに顔を出してみた。男子のチームはいなかったが、女子のチームが熱心に練習をしているようだった。中学校に顔を出した時と違って、すでに授業で顔を合わせていた生徒もいたので、教師として見られたようである。生徒にとっては非常勤も常勤もない。ただ4月からの新任教員だということは伝わっているらしかった。
 男子チームがいなかったのは今年の試合はすべて終わりオフに入っていたからで、女子チームはまだ試合が残っているらしかった。聞いてみると、新設校は一番下部の4部リーグからで、今年は4部で一位になり、3部と2部と1部の最下位にすべて勝てば県大会に出場できる可能性があるとのことだった。これは、お役に立つしかない、そんな感じで始まった。
 部員は2年生が7人と1年生が5人で、2年生の二人は来ない日もあった。練習をいっしょにしてチーム全体の力は把握したが、試合でメンバーを選ぶのは難しい。勝敗を度外視すれば、練習で努力している生徒を出すのがいいかも知れないが、勝敗を決めるスポーツだし、勝つと嬉しいから、余計に難しい。バスケットは身長がある方が有利だが、150~155センチくらいの人が多く、160以上は3人だけで、それも162センチ、小型のチームだった。いつも試合に出てたのは2年生が3人、1年生が2人だった。うまく止まれない、パスがうまく受けられない、シュートが入らないなど基本的に試合に出るのが難しい人もいたから、このチームでよく勝ち残っていたと感心したくらいである。しかし、勢いとは恐ろしいもので、3部の最下位に勝ち、2部の最下位にも勝ち、最後には1部の最下位まで破ってしまったのである。まさに、青春ドラマという感じだった。当然、3部の最下位との試合が入れ替え戦で、次の年から3部に昇格することも決まった。
 と記憶していたのだが、事実は少し違っていたようである。奇跡的に当時のスコアブックがあり、その中に入れ替え戦と代表決定戦に関するプリントがあった。(↓)

 それによると、C2(3部2位)とB1(新、2部1位)に勝って出場権を得たようだ。前の日に入れ替え戦がありすでに3部昇格を決め、上部の入れ替え戦の結果でC2とB1が決まったらしい。この年、2部2位だけが昇格して、1部から落ちたのがB1だった。B1は一部から落ちて来たチームだから、いずれにしても、4部で1位になり、上位の2チームに勝って出場権を得たことになる。プリントの日付が昭和50年10月とある。1975年で47年も前のことだから、まだよく覚えていた方だというべきか。そのスコアブック、旧校舎の部室の前で誰かから「たまさんが持っといて」と渡されたような気もするが。小説の材料になればと取って置いた手紙の下書きや受け取った手紙や学生が提出した課題など45年分の中に、高校教員の時のものも紛れ込んでいて、いまだに整理中である。
 職員室では初めての県大会だとお祭り騒ぎだった。生物の教員が顧問をしていたが、あまり練習には出てなかったようで、最初試合ではサブコーチの扱いだったが、最後辺りはメンバー表にも顧問と書いてくれていた。対外的には、非常勤でも大丈夫だったようである。その点は中学生のコーチの真似事とは少し違っていた。兵庫県は広いので毎年の県大会の会場は持ち回りで、遠い場合は泊まることもあるらしかった。この年は淡路地区の洲本市が会場だった。今なら瀬戸大橋があって宿泊不可のところだろうが、お祭り騒ぎもあって、全員で宿泊出来ることになった。

洲本市は地図の国道のマークの近く、学校は「兵庫県」の「庫」の南にあった

 県大会では1回戦で簡単に負けてしまった。その当時は夙川や甲子園などの私学は人を集めて強いチームを作っていた。170以上もあって中学校の経験者を集めたチームに勝ちようがない。妻が行ってた高校で2度甲子園に行ったが、どちらも公立校ながら中学で力のあった生徒が集まっていたし、何よりずば抜けた投手が二人ずつ混じっていた。バスケットの場合、ある程度学力の要る公立高校に背も高くて実績もある人が集まる可能性はほとんどない。普通は、県大会以上の大会に出る機会はまずないと言ってよい。県大会に参加した正直な感想である。
 1泊しかできなかったが、みんなで楽しめたと思う。帰る前に洲本城のある公園に行って、みんなで集合写真(最初の写真↑)を撮った。ただ、試合に出たのはいつも出る生徒だけだったので、同じように練習をして来たのにずっとベンチにいた人たちも楽しめたかどうか。顧問の人も、突然現れた非常勤に顧問を譲った形になっても、果たして楽しめたかどうか。いろんなことを味わった出だしだった。

瀬戸大橋がない頃の淡路島への明石ー岩屋フェリー

洲本市

 次回は、新任研修、か。