つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:英語科

講義棟

 同僚に初めて会った時、在外研究と非常勤の話のあと、授業をどう持つかについて「あなたが1年生、私が2年生を担当、それでどうですか?」と言われた。開学当初は5年生まで英語があって隣の大学の非常勤の助けを借りていたそうだが、赴任した時は、外国人教師と2人で1、2年生を担当していた。授業は1、2年次に週2コマずつ、1年生は英語と英会話、2年生は医療英語と英会話の授業があり、通年100分が30コマだった。私が決まって1年生の英語を私が、2年生の医療英語を日本人の同僚が、1、2年生の英会話を外国人教師が担当することになったわけである。外国人教師はアメリカ人だった。同僚はアメリカ人にずっと難儀させられていたようで「あの人とは関わらない方がいいですね。私が間に入りますから、直接接しないようにしたらどうですか?」と言ってくれた。元々英語もアメリカ人も苦手だったし、日本の職場で当然のような顔をして英語を使う神経にはついて行けなかったので、有難く同僚の気持ちに従うことにした。その後、案の定、学生から何度も苦情を聞いた。一人は親も呼んで面談したようだが、学生は話のあと私の研究室に来て「毛唐は嫌い、と言ってしまいました」と哀しそうに言っていた。アメリカ人は折れずに、その学生は単位を落としていた。隣の事務室で、オランダから帰ったその人から話しかけられたことがある。もちろん日本語でだが。「オランダ人、押しが強い。勝てませんでした」ということだった。南アフリカのことをやり始めたところだったので、なるほどと変に感心した。南アフリカは先に来たオランダ人とあとから来たイギリス人がアフリカ人から土地を奪って白人連合の政府を作った国である。今はそこにアメリカも加わっているので、得心するしかなかった。日本政府も白人政府と手を握って甘い汁を吸い続けているので、何とも微妙ではあるが。

 元々英語科は教授1、助教授か講師1、外国人教師1の枠だったようで、初代の教授が移動した後は長い間教授のポストは空きのままだった。当然、教授会での投票権はない。私は教授の代わりに、講師で採用されたことになる。力関係は予算にも反映される。語学はなぜか他の講座の半分だった。社会学と数学はどちらも私と同じ時期に講師が採用されていたが、教授枠の予算がついていた。研究活動をやっている人は人件費や旅費を有効に使うが、二人は研究成果も芳しくなく予算を使いこなせていないように見えた。人事には教授の推薦が要る規定なので、実際に担当している人の声が反映されないのも構造的におかしい。不補充の教授枠を埋めるのが執行部次第というのも正常とは言えない。

最初の年に隣の部屋の事務の人が「撮りましょか?」と言って撮ってくれた

 医学生の場合、その時は医学生と接したこともなかったのでよくはわからなかったが、1年生と2年生では少し条件が違うらしかった。それも考慮したうえで、私を1年生の担当にしてくれてたようだ。当時、解剖が1年次からあったが、入学当初は受験モードが消えないうえ、受験を終えてほっとしている傾向が強い。医学部に入学したのに、1年次では専門が一つもなくて拍子抜けしたという声が大きかった点が考慮されたようだが、実際には筋骨や臓器の予備知識なしにいきなり解剖と言っても問題がある。インパクトの点では十分だろうが、しっかりと理解するには準備不足は否めない。2年になると、急に基礎医学が増える。生化学が2つと生理学が2つに組織学、それぞれ十分すぎるくらいの内容で、化学が苦手な人には結構ハードだし「1年生がなんだったんだろう?」と言えるだけの分量である。そうなると、教養の枠組みの英語は自然におろそかになる、という傾向があった。1学年100人を4つのクラスに分けるので、1クラス25人、非常勤で行っていた旧宮崎大学(↓)に比べればかなり少人数である。基本的に出席は取らなかったので、大抵は20人前後で授業が出来た。在外研究の期間だけ2年生も私が持つことになった。その人が在外研究に行かなかったら、一1目に2年生とは会えなかったわけである。
 次は、秋桜(こすもす)、か。

つれづれに

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つれづれに:同僚

 3月の末に引っ越しをして大学に顔を出し、推薦してもらった人に英語科の人を紹介してもらった。7歳年上で、県北の高校から東京の大学を出たあと、また宮崎に戻ったという話だった。地方の一番手は東京に出る人が多いので、優等生である。性格も温厚で、話し方も穏やかだった。空港からのタクシーの中で「田植えをみたんですけど‥‥」と話をしたら「超早場米ですね。台風が来る前に稲刈りをするんです。お百姓さんの知恵ですな」と解説してくれた。まともな人のようだから、一般教養のあり方には馴染んでいない筈である。特に私を推薦してくれた人は信用していないだろう。教授会に出す人事には教授の推薦書が要るらしかった。私の推薦者も教授だが、普通に人間関係がうまく行っていれば、専門分野をよく知る英語科の同僚に先ず相談する。実際にいっしょに英語の授業を担当するのは英語科の同僚で、学生に何が必要かなども含めて他の誰よりも事情を知っているからである。教授の推薦が必要なら、その人が推薦する人の書類に署名するという方が自然である。そうしなかったのは私を推薦してくれた人と英語科の同僚の関係がよくないということだろう。つまり、同僚にとって私は招かれざる客だったわけである。

最初の年に隣の部屋の事務の人が「撮りましょか?」と言って撮ってくれた

 最初に会った時に、同僚から「後期から在外研究に行く間、授業と非常勤で協力してほしい」と言われた。在外研究は初めて聞く言葉だった。大学の教員は一度だけ公費で外国に行くことが出来た。それが在外研究で、時期にもよるが赴任した頃は9か月の短期と3か月の長期を選べた。研究室があるうえに、研究費も出て、校費で在外研究にも行けるわけである。非常勤の時には考えもしなかった展開である。期間が長い時期もあったと聞くが、徐々に短くなって、だいぶ前に制度自体がなくなっている。おそらく明治維新の頃に考えられた外国視察などが制度化されたものだろう。黒船の武力で無理やり開国を迫られて産業化を選び、欧米に追い付けで突っ走ることになった中の政策の一つだろう。外国人教師の制度も同じだ。明治維新の影響の濃い制度が生き残っていたわけである。その人はアメリカに6か月とイギリスに3か月の予定で申請していたと聞く。「何人も人事がうまくいかなくてなかなか在外研究に行けなかったので、あなたに来てもらえてやっと行けそうです」とも言われたので、その意味では待たれていたわけか。

講義棟

 会ったすぐあとに、移転する前の教育学部に連れて行ったもらった。旧宮崎大学は農学部と工学部と教育学部があって、3学部の英語を教育学部が運営管理してた。後に統合してその大学の人たちと同僚になるとはこの時夢にも思わなかったが、最初の年から非常勤に行ってたので、統合の時に中の事情はよくわかった。1年生と2年生で各8コマの英語の授業があった。相当な数である。一般教養の枠組みで火曜日と木曜日に一斉に授業があった。各学部の学生を出席順に45名ずつ均等にクラス分けしていた。従って他の学生と同じクラスというわけではなかった。高校とは違って結構な数の学生が単位を落とすので、落とした学生は元のクラスで再履修させていたので、留年者が多い場合は1クラスの数が50を越える場合もあった。教育学部の英語科の教員が10名近くいたと思うが、とてもそれでは持ち切れずにかなりの数の非常勤の予算を組んでいた。農学部と工学部の非常勤率は極めて高かったと思う。同僚から頼まれた非常勤はその中の農学部の2クラスだったわけである。旧教育学部は今の公立大の場所にあって、前身は宮崎女子師範学校らしい。当時の建築仕様で2階建ての木造校舎(↓)だった。卒業した大学も同じような木造校舎だったので、違和感はなかった。古びた研究室で、主任の人に紹介された。教歴のために行ってた非常勤と違って、今回は専任の相互援助の形で頼まれたわけだが、国家公務員の給料が多くなかったので、非常勤講師料は有難かった。後期から授業が始まった。
次は、英語科、か。

つれづれに

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つれづれに:一般教養と授業

 宮崎医科大学(↑)での授業が始まった。募集があったのは一般教養の英語学科目の教員だった。公募だが、実際は旧来のなあなあの人事で、思わず拾ってもらって赴任した、という感じである。医科大学は講座制を取っており、各講座に最低教授の枠が1で、それ以外は講座によってまちまちである。一番規模が大きいのは臨床系の内科や外科で、教授1、助教授1、講師1、助教数名と事務官の枠がある。臨床系の大きな講座は他からも予算が来るようで、事務官の数が十名に近い講座もある。一番枠が少なかったのは、心理学、社会学、数学で教授1だった。事務官は一般教養で1だった。ただし、化学、物理、生物の理科系講座は教授以外に助教授1、講師1、事務官1のようだった。ようだったと言うのは、実際には定員が欠けていたり、講師の枠に助手を採用している講座もあった。通常は枠が空くと補充の人事が行われるが、事情によって不補充や別枠での採用などが多かった。私が赴任した時、化学は教授1、助教授1、助手1、事務官1、物理は教授1、助手1、事務官1、生物は助教授1、事務官1、心理学は教授1、社会学は講師1、数学は講師1、英語は助教授1、講師1、外国人教師1、ドイツ語は講師1だった。かなりいびつで、元々教授会での投票権は8のはずだが、実際には3だった。赴任した当初は知らかったが、一般教養の票で人事が動くのを嫌う臨床や基礎の教授と一般教養の教授数人が意図的に一般教養の票を減らしたようである。私は一般教養の教授に推薦された講師として、教授会で過半数を得て、4月に赴任してきた。

 受験勉強をしなかった私が、受験勉強をこなして入学して来た医学生の一般教養の英語の授業をすることになった。最初の年は2年生と1年生の授業だった。場所は2年生が福利厚生棟にある研究室の一番近い教室、講義棟(↑)の3階、1年生は4階だった。ずっと、中高での試験のための英語が嫌だったから、一般教養の英語は私には都合がよかった。自分で何をするかを決められたからである。英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては他の人の教科書を使い、一時間ほどで成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽だが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の研究者や医者が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていた。

 映像を使う人があまりいなかったからだろう。プロジェクターの画質が今ほどよくなかったので、分厚い暗幕が必要だった。きっちり黒いカーテンを引いて、真っ暗な中で映像を観てもらった。普段は長い映画などを見る時以外は、大きな画面のテレビを台車に載せて、毎回教室に運んだ。100人を4つに分けた25人授業だったので、学生との距離も近くて学生の顔も見やすかった。テレビを録画したテープやビデオショップで借りて来たテープを編集した。当時は台数が多くなかったので、編集用のビデオデッキは二十万円以上もした。まだベータ(↑)があった時代で、私はVHS(↓)と半々で使っていたので、どちらのビデオデッキも必要だった。大学の豊かな時間の中で教養科目の英語の時間が、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観を再認識するための機会になればと願っていた。2年間非常勤で行った大阪の私大では授業そのものが成り立たなかったので「授業が出来る!」だけで十分あった。もちろん、授業を始めた時は、である。
次は、同僚、か。

つれづれに

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つれづれに:ラ・グーマ記念大会

 1985年の「ライトシンポジウム」で2年後の「MLA」に誘われてラ・グーマで発表すると決めたが、芳しい資料もなくて初期の作品を読んでいた。その時にミシシッピの本屋さんに頼んでいたラ・グーマ関連の本が届いて、カナダに住む著者を訪ねていろいろ聞いた。丸三日間も付き合ってくれてだいぶ親しくなった。その時、次の年の会議でしゃべらないかと誘われた。それが1988年のアレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会だった。著者は亡命中のセスゥル・エイブラハムズさん(↑)で、当時ブロック大学という大きな大学の人文学部の学部長だった。その年の終わりにサンフランシスコのMLAで再会したが、次の四月から宮崎医科大学に講師として赴任するとは思ってもいなかった。6月の「黒人研究の会シンポジウム」(↓)に次いで2番目の出張となった。

 着任したばかりで予算の都合はつかなかったが、落ち着いた頃に誘われていたら、研究費で行けたのにと思っても後の祭りである。もちろん業績の一つになった。帰国後、研究会の会誌に報告記事(→「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」)を書き、大阪工大の紀要(↓、→「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」)にも載せてもらっている。嘱託講師を辞める直前に原稿を提出し、紀要と抜き刷りは赴任した先に届けてもらった。辞めたあとも世話になったわけである。

 参加者が50人程度で、北米に亡命中の南アフリカの人が大半だった。大体、大学関連の仕事に就いている人が多かった。もちろん特別ゲストはブランシ夫人で、初めて会えたのは何よりの光栄だった。1985年に会議を予定していたらしいが、夫のラ・グーマがキューバで急死して、とても会議どころではなくて延期になっていた。夫人も少し落ち着いたので、仕切り直しで、南アフリカの別の亡命作家のベシィ・ヘッドと二人の記念大会となったようだ。

ソ連でのラ・グーマ(ブランシさんから)

 夫人とは会議の前日の夜にエイブラハムズさんの自宅で開かれたパーティー(↓)で初めて会った。伝記でエイブラハムズさんがブランシさんについても書いていたし、インタビューでも話をしてくれていたので、ある程度は知っていた。清楚で、優しい人だった。会議ではラ・グーマとともに亡命して闘い続けていた人に相応しい雰囲気が漂っていた。特別講演でラ・グーマのことや南アフリカのことをいろいろしゃべってくれた。ソ連での話もおもしろかった。東側諸国では南アフリカの黒人を正式な外交官として迎え入れていたので、ラ・グーマはソ連では大の人気作家だったようである。

 8月3日と4日に会議があり、夫人が特別ゲスト、ソ連やナイジェリアからの参加者もあった。エイブラハムズさんの話や、ラ・グーマのケープタウン時代の親友ジョ一ジ・ルーマンさんの話も面白かった。ルーマンさんはカナダに住んでいるらしかった。日本でも知られているコズモ・ピーターサさんたちが、二人の作家の作品朗読や短い劇も披露した。

 二日目には、プログラムにはなかったが、特別ビザを得て南アフリカから直接駆けつけたアハマト・ダンゴルさんの現状報告もあった。ブランシさんとダンゴルさんの談話が翌日の地元新聞に写真入りで報じられていた。私は日本の現伏に少し触れたあと、ANC東京事務所のマツィーラさんからのメッセージと第二作『まして束ねし縄なれば』(↓)の作品論を読んだ。日本は南アフリカを苦しめている筆頭国の一つだが、その国からの参加者に対する温かい視線はうれしかったが、経済大国日本に寄せられる期待の大ききも痛感した。しかし、発表の時の視線は今までで一番厳しかった気もする。

 エイブラハムズさんはアフリカ人政権が誕生した直後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学(↓)の学長になった。「管理職になって役に立ちたい」という願いが叶ったわけである。学長を二期務めた後、ミズーリ大学セントルイス校で招聘教授をしていた時に一度メールの遣り取りをしたきりである。
次は、一般教養と授業、か。