つれづれに

 

阿蘇に自転車で

阿蘇山

 大学院の2回目の入試が終わった夜、神戸港から別府行きのフェリーに乗った。(→「大学院入試」、5月10日)もちろん、今回はひとりである。(→「関門海峡」、4月26日))阿蘇山を自転車で登るつもりだった。30くらいで死ぬまでの間の余生のつもりで何とか生き永らえていたのに、定収入を得るために職に就くことになろうとは。(→「百万円」、4月30日)それなりの激変で、大変な毎日だったから、一区切りつけたい気持ちもあったのかも知れない。山も自転車で登れると思ったのは、宮崎のユースホステルで同室になった人の、30年ぶりの雪の知らせを聞いて、阿蘇には自転車は押して行くしかないな、と言った一言がきかけだった。(→「臼杵」、4月25日)その時から、いつか自転車で阿蘇に行くと決めていた。

別府湾を望む

 阿蘇は二度目だった。高校の修学旅行で来ている。集団が苦手なのに、中学校でも東京まで行っている。東京オリンピックがあったので、一年早く行った記憶がある。よくも黙って参加したものである。ほとんど覚えてないが、火口から中を覗いたような気がする。

船に乗ったのは夜だったから、フェリーは朝早くに着いたはずである。夕方まで街中を回ったようで、夕方に、別府湾を見渡せる道の坂を登ってやまなみハイウェイに入った。かなりの傾斜だったが、一度も降りないで一気に坂を登った。夏に中国山脈の生野峠を通って山陰海岸を回って以来、急な坂をむきになって降りないでこぐ癖がついてしまった。地図ではわからないが、山陰海岸のでこぼこの坂は、きつかった。ここは坂を登ってしまえば、あとはそう起伏もなく進めそうである。しかし、実際には峠などもあり、それなりの坂もあった。10時か11時くらいだったような気がする。疲れが出始めたので、道端に自転車を止め、寝袋を出して寝ることにした。車が時折行き交う程度だったので、音はそれほど気にならなかった。しばらく眠ったように思う。人の気配がして目を開けてみると、目の前に覗き込む人の大きな顔があった。「どうしたんですか?大丈夫ですか?」

道端に自転車を停めて寝ている姿が気になって声をかけてくれたようである。津山駅と同じで(→「山陰」、5月6日)、人のよさそうな初老の男性だった。「あ、どうも、疲れたんで、寝てるだけですよ」何人かが同じように声をかけてくれた。少し奥まった所で寝袋を広げればよかった、とその時は思いもしなかった。寝ているわけにも行かず、また自転車をこぎ出した。標高1330メートル、牧ノ戸峠の標識があった。

宮崎に来てから車で連れて行ってもらった牧ノ戸峠

 暗くてわからなかったが、峠を降りて阿蘇町に入り、やまなみハイウェイを進んでいたようである。真っ暗な中を自転車をこいでいたら、なぜか右肩の上の方で、鳥の囀りが聞こえた。最初は空耳かとも思ったが、かなりのあいだその囀りが続いていた。ずーっと離れずについてきたようだった。鳥は鳥目で見えへんやろに、と思いながら、いっしょに進んだ。本当に鳥の囀りだったのか、今となっては検証のしようもない。

やまなみハイウェイ(「九州芸術の杜」での「個展」時に)

 回りが明るくなって、阿蘇が見え始めた。標識に従って、火口まで登り始めたとき、急に疲れを感じた。このまま進めるとは思ったが、中腹に自転車を止めて、草原の中で昼寝した。ぽかぽかとして気持ちよかった。どれくらい眠ったのか。起きてまた、火口まで自転車をこいだ。帰りの坂道を下るのは一瞬だった。熊本と宮崎の県境の高森峠から高千穂に入った。入学した年が日米安保の再改定の年で、この時が6年次、1976年である。高森峠の一部は砂利道だった。その後経済成長を続け、全国の隅々まで舗装されたようだから、砂利道の写真は貴重なもので、まさかブログにこの時のことを書くとは夢にも思わなかった。ウェブで探してみると、当時の写真があった。記憶にはないが、この時旧高森遂道を通ったようである。

今は高森峠遂道らしい

 高千穂では自転車を止めて、高千穂峡を見に行ったように思う。今なら近くの高千穂神社に行って、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句碑を探すところだが。

 高千穂からは延岡までなだらかな下り坂が続いていた。今は新道になって、トンネルもあって距離が短くなったようだ。おぼろげにしか覚えていないが、坂の途中で自転車がパンクした。雨でも降ってたのか、水溜まりを使ってパンクを貼った。

高千穂ー延岡間の旧道

 作業をしながら、何だか気が抜けてしまって、もういいや、帰ろ、と思ってしまった。このあと宮崎から鹿児島を経て、九州の南端佐多岬まで行こうとぼんやりと考えていたが、どうやら気持ちの区切りがついたらしかった。日向市の細島港から、神戸行きのフェリーに乗った。

細島港

 次回は、生野峠、か。

つれづれに

大学院入試

大学全景(同窓会HPより)

 2度目の大学院入試だった。30くらいで死ぬにしても人に金を借りてまで生きてはいけないと感じ(→「百万円」、4月30日)、定収入のために高校の教員採用試験を受けることにした。そのついでに、学生資格のための大学院もありかと考え、並行して準備した。院の入試では、採用試験用の購読(→「購読」、5月5日)と英作文(→「英作文2」、5月7日)の他に、言語学と文学史が必要だった。言語学と文学史はなかなかだった。ほとんど触れたこともなかったし興味がわかなったこともあるが、ノーム・チョムスキーの変形生成文法のところを読んだら、眩暈がした。言語学なのに、言葉としてこちらに伝わって来ないのである。ちんぷんかんぷんとはこのことだろう。アメリカ文学専攻の受験生に言語学が必要なのか。そう言っても仕方がないので、何とか毎日一年間は現代英語学辞典(成美堂)を読んだ。不定詞付き対格とか理解可能な範囲で何とか読んだが、一日一時間が限度だった、眠くなってしまうのである。どうしてチョムスキーの変形文法を楽しそうに語れる人がいるのか。特殊講義で黒人英語の大家と言われていた人の科目を聞きに行ったことがあるが、ゼミ生が数人、自分たちの時間だと言わんばかりに大きな顔をしていたので、一回きりで行けなくなった。アメリカ文学史もイギリス文学史も取らなかったので、初めて見る本や人物ばかりだった。もし間違って入学することになったらアメリカ文学は避けようがないだろうし、まあ、一通りするか。しかし、イギリス文学はやりたくなかった。幸い去年の問題はアメリカ文学で、イギリス文学と隔年の出題みたいだから、またイギリス文学の問題なら、諦めるしかないか。

事務局・研究棟(同窓会HPより)

 採用試験は8月で面接も終わり、あとは結果待ちだった。大学院の入試は11月の終わりにあった。ある程度準備をしていたので、26名中飛び抜けて26番ということはないだろう、そう思って試験問題を開けた。あちゃー、イギリス文学や。それでも、折角やったんやから、書くだけ書くか。時間をかけただけのことはある。英文和訳と英作文は書けたと思う。言語学もなんとか。しかし、結局、全部消して出て来てしまった。

木造校舎(同窓会HPより)

 後に教授になって大学院の教授会にも出るようになり、学生を採る側から考えられるようになってから、大学院を受ける学生のために助言を買って出るようになったが、もしその助言を聞く立場にいたら、また違った展開もあったかも知れない。

その夜、自転車に荷物を積んで神戸港から、今回はもちろん一人でフェリーに乗った。阿蘇を自転車で登ったあと、宮崎から九州の南端佐多岬まで行くつもりだった。

神戸港ポートタワー

 次回は、阿蘇に自転車で、か。

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面接

兵庫県庁

 1次の筆記試験には合格したものの(→「採用試験」、5月8日)、問題は2次の面接試験だった。心の問題で、髭をどうするかだった。

母親の借金で人に金を借り、30くらいで死ぬにしても人に金を借りてまで生きてはいけないと感じたのが受験の直接の動機だったから(→「百万円」(2022年4月30日))、そんなに悩まなくてもよかったのかも知れないが、あほなプライドみたいなもののせいである。当初、特に髭を生やすという意識はなく、生えてきてるものを無碍に剃るのもなあ、そんな軽い気持ちだったが、当時の過激な学生運動の闘士に、下駄履きに髭面の私の風体が似ていたらしく、毎度毎度警官に呼び止められるうちに、いつしか「反体制」の意識が密かに芽生えていたらしい。入学後6年目、採用試験を受けることになったときは、髭を剃る音も俗世間の音のように聞こえていたから、困ったものである。さて、どうしたものか。そうや、一年の時に非常勤で来てはった人も夜間やったみたいで、33歳で指導主事になったと言うてはったから、ひょっとしたら面接官の経験があるかも知れへんな、聞いてみるか。結局、連絡を取って会って話を聞いてみると、「髭か?そうやな、ワシやったら、4段階の一番低い1をつけるな」ということだった。出願時に、すでに髭面の写真を貼って送ってある。どうすべきか。(→「髭と下駄」(4月19日))

妻に描いてもらい授業で配っていた似顔絵

 当日、髭は剃っていた。ただ、それでは自分に後ろめたい感じがしたので、普段通り素足に桐下駄、よれよれのズボンで出かけた。桐下駄は雑巾で丁寧に拭き、ズボンは予め洗っていた。それまでもそうだったのか、その時だけそうだったのかはわからないが、案内されたのは県庁会館の板間の部屋で、3人の試験官が前に正座をして座っていた。面接を受ける側は、5人だったように思う。他の人はみな背広にネクタイ、緊張気味に正座をしていた。ええい、もういいや、あかん時はまた来年や。どうしても同じように正座は出来ずに、胡坐(あぐら)をかいて座った。面接が始まった。面接官の一人が受験票の写真を見ながらか、開口一番「この髭よろしいな。酒の肴がのうなったら、ちびりちびり舐めとったらよろしいやん」と言った。写真の口髭が相当伸びていんだろう。年配の飲み友だちから指名を受けて指導主事になって面接経験のある先輩でも言わなかった言葉である。「まあ、そう硬くならんと、足を崩してや」が次の言葉だった。僕へのあてつけという風でもなかったので、敬意を表して、座り直して正座した。そのあと、どう展開したのかまったく記憶に残っていない。

面接試験に落ちなかったのは、時代のせいだったと思う。一年遅れて入学した年に中央で国家権力にぺしゃんこにされた学生運動が地方でしぶとく生き延びていて、入学直後に学舎が封鎖され機動隊までが出動した。

学生がバリケード封鎖した木造校舎、機動隊に排除された(同窓会HP)

 その後、同和問題にからんで、高校紛争にまで発展した。このあと高校の教員になってわかったのだが、その高校にも紛争時に体を張ったという人が二人いた。体制と闘う日教組側だったのか、体制を守る管理職側だったのか。大学紛争と同じく、過激な突き上げで当時の管理職の中にはつるし上げを食った人もいたようだ。殴られた人は痛みと怖さを実感した筈である。そんな高校紛争の熱がさめない時期で、制服や校則の廃止などの動きもあり、現に神戸の進学校でも制服が廃止されている。宮崎に来て、子供の転校のこともあって学校とかかわるようになった。その時に、大学紛争や高校紛争の余波もなく私のいた30年前の体質と同じや、と強く思い知らされた。宮崎なら、最初から合格はあり得なかったと思う。時期が違えば、兵庫県でもきっと2次の合格通知は届かなかっただろう。(→「高等学校1」、1月17日)、→「高等学校2」、年1月19日、→「高等学校3」、1月21日))

高校ホームページから

 次回は、大学院入試、か。

つれづれに

 

採用試験

白浜海岸(去年の秋)

 一昨日は久しぶりに強い雨にやられた。基本的には毎週金曜日にマッサージをしてもらうために白浜に通っているが、この一年半ほど奇跡的に一日も往復時に雨が降らなかった。海岸線は特に風が強いので、普段は通る砂浜沿いの歩行者・自転車専用道路には入らなかった。

今年の立夏(りっか)の始まりは5月5日、旧暦ではすでに夏、21日の小満(しょうまん)まで続く。青空にこいのぼりが泳ぎ、一年で最も過ごしやすい季節だと言われる。庭の畑も夏模様に変わっている。

今回は2度目の高校の教員採用試験についてである。一度目は入学後6年目に、急遽受験を決めて(→「百万円」(4月30日))、取り敢えず受けてみることにした。「受けてみるものである。採用試験の方では、一般教養と英語の試験があるのがわかった。英語にリスニングがついていて、聞こえたのは、廃品回収のマイクから聞こえる業者の声だけだった。教養は準備なくても行けそうだし、購読と英作文で充分だろう、それが感想だった。」(→「教員採用試験」、5月2日)そして、一年間準備した。(→「購読」、5月5日、→「英作文2」、5月7日)英語をしたのは初めてである。

Theodore Dreiser, An American Tragedy

 8月に試験があった。1次の筆記試験は何故か西寄りの姫路西高であり、2次の面接試験は東よりの県庁近くの会館であった。一回目の試験でリスニングがあったと書いたが、準備をしなかったのは比率が極端に低かったからか。リスニングについてはほとんど言われていなかった時代だから、ひょっとしたら問題になかったかも知れない。一般教養は軽く過去の問題に目を通したように思う。大学院の第2外国語もそうだが、極端に悪くなければ大丈夫、そう考えていたようである。要は、授業に困らないくらいに英語が読めて、書ければいいんやろ、と信じ込んでいたんだろう。英文和訳も英作文も、書けたと思う。1次は予定通り合格、問題は2次の面接だった

姫路西高

 次回は、面接、か。