つれづれに

山陰

津山城跡:『こころのふるさと行く』219頁

 The Scarlet Letterの文庫本を持って列車で出かけ、津山駅に降り立った。辞書を使い、3ケ月もかけて1026ページのAn American Tragedyを読み終えたが、先が見えなかったからだ。津山、松江、津和野に行くためでもあった。→「購読」(5月5日)

 津山に行ったのは立原正秋の『こころのふるさと行く』を読んだ時からいつか行ってみようと思っていたからである。

『心のふるさとをゆく』外箱表紙

 立原正秋の悪影響については奈良西大寺の秋篠寺(→「伎藝天」、4月23日)と奈良県五條市の栄山寺(→「栄山寺八角堂」(4月27日)の中で書いた。「旅」という雑誌に書いた14編を集めたものだが、他にも出かけた所もあるので書いてみようと思っている。

栄山寺八角堂(『心のふるさとをゆく』口絵)

 秋篠寺の伎藝天

 松江と津和野は少し距離があり、泊りがけでないとゆっくりしないが、津山は昼から出かけてもその日のうちには着く。新幹線の通らない地方は単線が多く、時間はかかるが、急ぐ理由もない。辞書なしに本が読めればそれでいいのだから。

複線の姫路までは快速電車、乗り換えて単線の姫新線で津山まで、途中で乗り換えて3時間ほどである。津山駅には夜の11時過ぎに着いた。The Scarlet Letterと下駄を枕に、駅のベンチに初めて寝袋を広げた。構内から誰もいなくなったようだったので、眠り始めた。人の気配がして目を開くと、初老の男性が横に立っていた。誰かを迎えに来たがいなくて帰ろうとしたが、寝袋で寝ている私が気になって声をかけてくれたらしい。子供さんと姿が重なったのかも知れない。しばらく話をしているうちに、今日はうちで泊まりませんか、息子も外に出て一人暮らしなので気兼ね要りませんから、どうぞとも言われた。初めての寝袋なんやけど、という気もしたが、無碍に断る理由もないので、結局ついて行った。一人暮らしで、と言いながら食事を用意してくれた。一緒に食べながら、少し話をした。「妻を亡くし、息子も家を出ている」ような話だった。予想しなかった一日目となった。

次の日は朝から『心のふるさとをゆく』の中に紹介されていた津山城跡(最初の写真)を訪ねた。山城らしかった。今は2005年に築城400年の記念事業で城(↓)が再現されているらしいが、その時は城跡だけで、あまり人も見かけなかった。初めての寝袋計画も頓挫したので、松江から津和野まで鈍行列車に乗ることにした。ずっと曇り空だった。これから雪になるようだから、山陰で暮らすのは大変そう、そんなことを考えながら、列車の中からどんよりした空をながめるだけで、ほかは何もしなかった。こうしてがたんことんと、曇り空が続く。同じ光景が延々と続きそうだな、と列車の窓から眺めていた。その日は、たぶん津和野のユースホテルに泊まり、次の日、津和野の街を歩いただけで帰ったような感じがする。結局、寝袋も使わず、The Scarlet Letterも読まなかった。帰り途は記憶に残っていないので、おそらく山陽本線か新幹線を使って戻ったんだと思う。それから、憑きものが取れたように、わからないまま辞書なしで残りの本を一気に読み終えた。

次回は、英作文、か。

2005年に改築された津山城(津山市観光案内から)

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購読

 採用試験と大学院を受けて、修士の準備に購読と英作文をやれば採用試験の方も充分行けると思えたので、先ずは一年生の英作文の時間に『坪田譲治』をテキストに使ってくれた人の研究室を訪ねた。→「英作文」(4月2日)、→「教員採用試験」(5月2日)

事務局・研究棟(同窓会ホームページから)

 初めてではなかったので名前は憶えてくれてたようで「玉田くん、あなた、26人中飛び抜けて一番でしたねえ」とにやにやしながらその人が話し始めた。へえー、そうなんやと思っていたら、「あなたは元気があるから、定時制の高校の教員は出来るんですがね」と付け加えた。要は、あまりにも英語の力がないのを同情していたわけである。好きな人に同情されるのは、人に金を借りて生きるくらい、よくない。

六甲山系を背にした講義棟(同窓会HPから)

 研究室を訪ねる前に「試験の準備はしよう」と決めていたので、何からやればいいかを聞いた。本を読んでみますか、と何冊かを紙切れに書いてくれた。教員採用試験、院の試験を受けるとして、先ずは読むことですね、と言うことだろう。今回は『坪田譲治』ではなく、何冊かのアメリカ文学の書名が並んでいた。

Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter

Theodore Dreiser, Sister Carrie

An American Tragedy

William Faulkner, Sanctuary

Light in August

John Steinbeck, Grapes of Wrath

名前は聞いたことはあったが、もちろん読んだことはなかった。そもそも英文書を読んだのは、ゼミの発表で取り上げたTo Kill a Mockingbird(『アラバマ物語』)だけである。それもほんの少しだ。

今回は図書館を利用することにした。どれも分厚い本だった。特にAn American Tragedyは辞書並みで、1026ページもあった。一番分厚いAn American Tragedyから読み始めた。一応研究社の英和大辞典はあったので、辞書も引いた。しかし、知らない言葉が多すぎて、毎日毎日かなりの時間を使ったのに、3ケ月もかかった。大きな辞書がぼろぼろになっていた。しかし、と考えた。こんな調子なら、一生に何冊読める?試験には間に合わんやろ。

下駄履きで、寝袋とThe Scarlet Letterの文庫本を持って、津山、松江、津和野に列車で出かけた。立原正秋の『こころのふるさと行く』を読んだとき、行ってみようと思っていたこともあるが、今回はThe Scarlet Letterを辞書なしで読んでみるか、と思いながら、姫路経由の列車に乗り、夜の11時過ぎに津山駅に着いた。それが最終列車のようで、構内から誰もいなくなった頃にベンチに寝袋を広げて眠り始めた。初めての寝袋である。

 次回は、津山から津和野へ、か。

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ナサニエル・ホーソーン、1804年生まれ、『緋文字』(1850)

セオドア・ドライサー、1871年生まれ、『シスター・キャリー』(1900)、『アメリカの悲劇』(1925)

ウィリアム フォークナー、1897年生まれ、『サンクチュアリ』(1931)、『八月の光』(1932)、ノーベル文学賞(1949)を受賞。

ジョン・スタインベック、1902年生まれ、『怒りの葡萄』(1939)、ピューリッツァー賞(1940)・ノーベル文学賞(1962)を受賞。

映画『怒りの葡萄』

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つれづれに:教育実習

 雨が長く続く前に写真を撮ったときは、みかんの花に勢いがあったが(↑)、昨日出かけて写真を撮った時はすでに盛りが過ぎていた。(↓)この時期柑橘類の甘酸っぱいかほりがあちらこちらに漂うが、今年は長雨の影響で、そのかほりを味わい損ねてしまったようである。

 避けられないとは言え、高校に実習を頼みに行くのは億劫だった。まだ心の傷が癒えていなかったらしい。2週間のあいだ、ずっと気持ちが沈んだままだった。生徒でいた時と同じように、終始何かに腹が立った。3年生の時の担任が実習生の担当だった。英語のリーダーの時間に「リスポンポンシビリテイのビのところにアクセント」と言いながら黒板を叩くコンコンコンという音の感覚を耳の奥に植え付けてくれた張本人である。(→「高等学校2」、1月19日)東京教育大の先輩は順調に指導主事になって今はいないようだった。いずれは先輩の手招きで同じ道を歩みそうだった。少し北の田舎の進学校の優等生らしかった。初日に一週間授業を見とけと言われた。実習に来たんやで、何が授業を見とけや、と思ったが、言える筋合いでもなかった。授業のあとに、久しぶりの授業どうやったと聞かれたが、久しぶりの授業、よかったですとでも言うと思ったか。どうも戦闘的になってくる。まだ引き摺っているようだ。その次は、教案を作れだった。もちろん実習生の手引きに従った手筈通りだったのだろうが、すべてが忌まわしかった。

大学全景(同窓会HPから)

 極め付きは、最終日、教頭なる人の説教だった。前身の旧制中学から広島大を出たばりばりの尚志会(広島大学兵庫県の同窓会らしい)の会員のようだった。元々説教の類と優等生は大の苦手だ。それに、実習に行った先で、説教される謂われもない。自分の心がすべてわかっているわけでもないので何も言えなかったが、何とか気持ちを伝える方法はないか。しゃーない。一番前に座って、下からじっと睨みつけるか。しかし、2時間とは恐れ入った。予想外である。途中気になったと見えて、左手をぞんざいに振って、そんな近くで見上げるな、じっと見るな、と目で合図を送っていたが、意地になって最後までに睨みつけた。疲れた。「ほんの気持ちを伝えるだけ」も、大層なものである。2週間の教育実習は終わったが、引き摺ったままの自分を再確認しただけだった。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校3」(1月21日)、→「家庭教師1」(4月10日)
次回は、購読、か。

高校のホームページから

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つれづれに:教員免許

 少し前には柿の花が満開だったが、すでにほとんど散ってしまっている。(↓)黄色がかったベージュ色の小さな花である。枝にはびっしりと小さな実がなっている。(↑)一昨年は時間の余裕もなくて生り過ぎた柿を取り入れるのも剥くのも億劫で少なからず腐らせてしまったが、今年は何とか面倒な作業もこなして、またお裾分けしたいと思っている。

 教員免許は簡単に取れた。夜間課程の場合、一日に2コマしか授業がなく、落とさず目一杯単位を取っても、4年次で僅かに5コマの空きが出るくらいで、教職課程を取ればきつきつである。しかし、2年間留年をしたので、その点は心配いらなかった。道徳教育を取れば中学校の分も取れたようだが、敢えて取らなかった。高校の方が教員の質がいくらかましやろと思ったこともあるが、通りやすいとう理由で受験しないようにという気持ちが働いたのかも知れない。

大学全景(同窓会HPから)

 全部は覚えていないが、教育原理などの所定の教職科目を取り、自分の出た高校に頼んで2週間の教育実習をすればよかったと思う。教科の英語は4年間のカリキュラムで定められた科目を取れば教科担当は可能ということのようだった。英語は全くしなかったので、実際に授業をする時に困らない程度には準備する必要があったわけである。

高校のホームページから

 教育原理の授業は担当教員の威勢がよかった。大学紛争の時に学生側に着いた7人のうちの一人で、共産系らしくマルクスの『経済学・哲学草稿』の話を熱っぽく話していた。『経済学・哲学草稿』は1800年代の半ばに30歳のドイツ人カール・マルクスが書いたもので、問題を孕む資本主義に代わるもの(アンティテーゼ)として共産主義を提案したらしい。このまま資本主義が進んで行けば、労働、労働過程、労働生産物から疎外されるようになり、やがてはその大量消費の社会もマスメディアに完全に制御されて、必ず人間疎外の問題が起きると書いているようだ。その教員は企業優先の工業化社会の実態を指摘し、資本主義の持つ矛盾と、生産した富を平等に分配する必要性を説いてたように思う。

『経済学・哲学草稿』

 あの熱意は、1930年代、40年代に西洋の多くの知識人が共産党に入党したことにイメージが重なる。そして、多くの人たちが脱党した。虐げられる人たちを一つの大きな塊(かたまり)として捉えても、個人としては決して見ることがない共産主義の矛盾に気づいたからである。リチャード・ライトや『コンゴ紀行』のアンドレイ・ジイドなどの転向記を集めてThe God That Failedが出ていたので、シカゴの本屋で買って読んだ。『神は跪く』の翻訳を注文して新本で買った覚えもある。

The Got That Failed

『神は跪く』

 ベルリンの壁の崩壊や北朝鮮、今回のロシアのウクライナ侵攻を見れば、共産主義が資本主義の矛盾をただす解決策にはならなかったと思う。当の教員だが、日教組の闘士として政府と勇ましく「闘っていた」ようだが、後に学長になり、霞が関で辞令を拝命し、2期も学長を務めたらしい。いっしょに「黒人研究」の編集をしていた同僚が、「あの人、学長選の時は色んな人に頼みまくってたなあ、どうしてもなりたかったんかな」と言っていた。70年の第二次安保闘争に関わって東大の学生が卒業時に踏み絵を踏まされて転身、のちに警察庁長官や自民党の有力議員になって国家の中枢にいた構図とよう似てるなと思ったことがある。その人に、推薦書を頼みに奈良の家まで行った時、大声で一喝された。

「黒人研究」

次回は、教育実習、か。