つれづれに

 

つれづれに:堀切峠下海岸道路ー春1

堀切峠下海岸道路(サンクマールから少し行った辺り)

 菜種梅雨のようなじめじめした日々が続いていて、鬱陶しい。きんぽうげはすっかり盛りがすぎ、薊も盛りを過ぎ加減である。

 畑では大根もブロッコリーも種の入った鞘がびっしりで、倒れかけている。来週は雨が少ないようだから、枯れて乾いて、来年用の種がたくさん採れそうである。

大根の種の入った鞘

 植え替えが間に合わなかったブロッコリーも、レタスも虫にやられて無惨である。わずか何日か前にお裾分けに娘にレタスを送ったのが最後だが、雨で速度が速まったようで、虫の天国である。

苦いレタスもこの惨状

 1週間ほど前までは樹に置いた柑橘類を啄ばみに来ていた小鳥も、もう来なくなり、すっかり夏野菜の季節になってしまった。季節の回転が、はや過ぎる。蚊に悩まされて、一気に夏になりそうである。

辛うじて葉っぱが残っているブロッコリー

 今朝は曇っていたが、白浜に行く昼過ぎにはきれいに晴れていたので、南風茶屋に出かけた。

 堀切峠下の海岸道路について書き始めたのが去年の10月の終わり、半年前である。それから「つれづれに」を8つも書いた。(→「①」、→②」、→「③」、→「④」、 →「?」、→「補足①」、→「補足②」)「海岸道路の続編は、風が穏やかになって南風茶屋に出かけられるようになる春先に、また。」(→「補足③」)と書いたように、続きを書くことにした。写真がたくさんになったので、2回になりそうである。

サンクマール

 白浜でマッサージが終わったのが3時前で、3時半のオーダーストップに間に合うように自転車をこいだ。サンクマールの横の道を入れば海岸道路である。(↑)前回は3時過ぎに終わったこともあり、かなり急いだが、今回は時間の目安も立ち、多少の余裕もあったので、3時20分には南風茶屋に着いた。

茶屋に行くようになってからずいぶんと経つので店の人とは顔馴染である。今日はレジのところで料理長の方も出て来て、しばらく話をした。腰を悪くして、同じ鍼灸院に通ったことがあるらしい。マッサージをしてくれている人は、大阪で開業して相当場数を踏んでいて、しっかりと筋肉の中まで指を入れてくれる。関西でそれまで世話になってた人が病気で亡くなったあと、宮崎でだいぶ探し回ったが結局見つからなかった。サンクマールで温泉に浸かったあとの帰り道で、鍼灸院の看板を見つけた。たまたま見つけた幸運である。

南風茶屋の中から撮ったもので、右端が一番上の写真の右前方の島である

 青島から内海まで、今は長いトンネルの道(堀切峠トンネル↑)が出来て大抵の車はその道を通るが、旧道もまだ生きている。今回は途中まで旧道を通って青島まで帰るコースである。もちろん車に便乗して何度も新道を通っているが、自転車で行くと、車の中からは気づかなかったことにも気づく。

 今回は旧道のトンネル(内海トンネル)を通った。300メートルほどでそう長くはないので、すぐにトンネルを抜けた。抜けた先の坂の上に、フェニックス道の駅が見える。思っていた以上に近くに見える。前回の帰り道で海岸道路に入る道を見つけ損ねて、内海港の方から内海トンネルの北の端のところまで来てしまったので、今回が2度目である。ゆるやかな坂道である。

道の駅の写真を撮った場所で振り返り、この写真を撮った

 次回はこの続き、堀切峠下海岸道路ー春2、か。

つれづれに

栄山寺八角堂

栄山寺八角堂(『心のふるさとをゆく』口絵)

 立原正秋の『心のふるさとをゆく』を読んで出かけたところが何個所かある。栄山寺の八角堂もその一つである。

「吉野川に沿って栄山寺はうしろに山をひかえて建っていた。なんと素朴な、ささやかな山門であったことか。塀もない。道よりいちだん高いところに、風が吹きぬける小さな山門が建っているのである。境内は夏草でおおわれ、本堂は典型的な平安時代の造りである。この本堂も小さい。左手に八角堂らしき建物があるが、どう見てもこれは四角堂である。おかしいな?と私は考えながらその堂の前に歩いて行った。やはり四角堂であった。堂のすぐちかくに国宝の銅鐘がおさめてある建物があるが、八角堂は見あたらない。あの年若い友人は、四角堂を八角堂とまちがえたのではないだろうか、と考えながら山門の方にひきかえしたとき、本堂の右手に、木の間にかくれた八角堂が見えた。あれだ!私はさけびながらそっちに走った。夏草でおおわれた境内で、しかも木の間にかくれた八角堂が、山門を入ったときには見えなかったのである。

それは紛れもない天平時代の八角堂であった。夢殿より遙かに小さい造りである。屋根瓦の列が夢殿二七にたいして、この八角堂は二一である。……」

「吉野川を目前にひかえ、八角堂は天平のむかしからいまにその姿を伝えている。誰もこの八角堂には気がついていない。風が吹き抜ける山門には拝観料をとる寺僧もいない。心のふるさととは、このような場所であろう。気がついたら私はいつしか涙ぐんでいた。美しいものに出逢ったよろこびが私の胸を充たしていたのである。」

この文章を読んだら八角堂を見に行かないわけにはいかない。栄山寺は奈良県の五條市にあって、家から四時間くらいかかるが、日帰りで行ける。普段は一人で出かけるのだが、この時は大学でコーチを引き受けた女子チームの人を誘った。何歳か年下で大学の帰りにたまたまいっしょになり、坂道の途中の店屋に寄って昼を食べて以来、時々いっしょに出かけるようになっていた。八角堂の傍に立たせてみたい気持ちもあった。岸和田市に住んでいたので、大阪駅で待ち合わせて、鉄道とバスを使って栄山寺に向かった。

『心のふるさとをゆく』は昭和41年(1966年)5月から43年12月までの間に雑誌「旅」(文藝春秋社)に収録された14篇を書籍化したもので、八角堂は「飛鳥・吉野」の中に紹介されている。本が出たのは昭和44年(1968年)定価650円である。手元にあるのは古本で、1500円の値札がついている。KEYAKI(TEL 03-3291-1479)とあるから、神田の古本屋街を歩いた時に買ったものらしい。栄山寺に行ったのはおそらく入学して4年目か5年目、第二次安保闘争が1970年だったから、1974年前後だったと思う。雑誌に紹介され、本にもなって人が押しかけていたら、と心配していたが、幸い誰もいなかった。まさか、「……訪ねる人が多くなり、寺僧が塀をめぐらして拝観料をとるようになったら、八角堂の美しさは半減してしまうかも知れない。これはおそろしいことである。もし訪ねるなら、独りで、多くとも三人を超えない人数で、それも、そうっと訪ね、そうっと寺を辞することを希望するものである。」と立原正秋が付け加えたからでもないだろう。塀もなく、拝観料もとられなかった。

質素な佇まいだったが、やはり目の前に立原正秋の世界は広がらなかった、と思う。しばらくして「あなたの免疫わけてほしい」というかわいい絵葉書が届いたが、返事も出せないままである。

『心のふるさとをゆく』外箱表紙

つれづれに

関門海峡

関門トンネル入り口

 生まれた地域は距離的には神戸・大阪と岡山のほぼ真ん中辺りにあったから、どちらに行ってもよさそうなのに、西の方にはあまり出かけなかった。行ってもせいぜい姫路どまりである。小学校低学年の見学旅行は姫路城で、当時修理中だった記憶がある。

姫路城

 ある日突然、大学で東京に行く前の息子さんといっしょに岡山の人が、はるばる宮崎まで会いに来てくれた。そのお返しに、神戸に出かけた時に、その人に会いに岡山まで足を延ばした。岡山には九州に自転車で行く途中に岡山城に寄っただけである。行ってみると、やっぱり姫路から岡山の交通の便が相変わらず悪い。それだけ人の行き来が少ないということだろう。結局行きは姫路から新幹線を使った。岡山ではVISAカードが使えなかった。今の時代に、世界の新幹線でもカードの使えない所があるとは知らなかった。

新幹線岡山駅

 岡山では市電に乗り、岡山城と後楽園に連れて行ってくれたあと、何とかの酒蔵が経営するレストランに行ったが、食事時ではなかったので、飲み物だけ注文をした。帰りは姫路まで各駅停車で出たが、本数は極めて少なかった。宮崎とは違って新幹線沿線なので飛行機を使わずに東京まで行けるが、普段は大都会のようには行かない。

岡山城

 大学の3年目か4年目にバスケットをいっしょにやっていた同級生を自転車で関門海峡を渡ってみぃひんか、と誘ったら、少し考えていたが、行こか、ということになった。二番手の高校かららしかったが、努力家で優等生タイプだった。4年で卒業して、大手の電機メーカーに就職して、何年目かに家族でニュージャージーの支社に派遣されていた。たまたまその年アメリカに行ったので、会社に電話したあと、家に押し掛けた。典型的な日本型のビジネスマンで、結婚した相手はジャパニーズコミュニティの中だけで生活していたようだった。研究室の近くの人は夫についてアメリカに行き、5年いたが英語は話せないと言っていた。そんな人が多いようである。

ニュージャージーへは滞在していたマンハッタンから出かけた

 初めてで心配だったのか、母親から十円玉が詰まった袋を渡されて、行く先々で電話をかけていた。無事を報告していたらしい。放りっぱなしで親とほぼ無関係に暮らしていたから、親子もいろいろなんや、と可笑しくなった。

関門海峡まで600キロほど、時速20キロで一日6時間やと5日くらいで着くんちゃう、そんな大雑把な日程で出かけた。細かいことは忘れてしまったようだが、広島と山口でテントを張って寝たのが印象深い。広島では市街地の川沿いのホテルの横辺りでテントを張ったのだが、蚊には悩まされなかった。おそらく、海水が遡っていたんちゃうかという結論だった。その点、山口県防府市の佐波川の川原でテントを張った時は散々だった。蚊取り線香を焚いてる間にも、これでもかこれでもかと蚊に刺された。テントを張る前に、女子のチームの姉妹の家に寄った時、泊って行きませんかとの誘いを断ったのが恨めしく思えるくらいだった。

テントを張って寝た佐波川

 途中、岡山城、倉敷、尾道、秋吉台に寄ったりしていたので、たぶん関門海峡に着いたのは5日目くらいだったような気がする。荷物を両サイドに振り分けて載せるとわかるが、結構重い。トンネルの中は絶えず予想以上の轟音が響く。今より自転車の道には条件が悪かったようだから、地獄みたいやなという感じだった。関門海峡を越えて、これが九州や、という感慨もなかった。帰りの記憶がないのは、ひょっとしたら小倉からフェリーにでも乗ったのかも知れない。

初めての自転車旅行の割には、関門海峡を自転車で越えた、それだけだったような気もする。

関門トンネル内

つれづれに

臼杵(うすき)

 大学が決まり宮崎に住むようになる前に、宮崎には2度来ている。一度目は大分から宮崎に列車で来た時で、2度目は自転車で阿蘇経由で高千穂に来た時である。1回目はなぜか全体の記憶がおぼろげだが、2度目はわりとはっきりとしている。宮崎に来てから、高千穂や阿蘇に何度か出かけたからかも知れない。

家庭教師で少し余裕が出てから古本を買って読むようになっていたが、思い立って泊りがけで出かけるようにもなっていた。立原正秋の『心のふるさとを行く』の悪影響もある。1回目は大分の国東半島を中心に東海岸をめぐるつもりで出て、最後に宮崎に来たようだ。実際には国東半島には行かなかった。ぼんやりと覚えているのは竹田城跡と臼杵の石仏だけである。城跡の案内板で、岡城跡(国指定史跡)が竹田市ゆかりの瀧廉太郎の「荒城の月」のモデルになったとされる、と読んだような気がする。臼杵の石仏も見に出かけたようで、宮崎に来てから妻と二人で訪ねて写真を撮り、絵に描いてもらっている。(↑)大分の日田と宮崎でユースホステルに泊まったようだ。県庁近くの婦人会館(↓)の前を自転車で通った時に、そうや、ここがユースホステルやったんや、と思い出し、今でもまだやってるんや、と変に得心した覚えがある。宮崎に来てすぐの、宮崎神宮の北辺りから清武の大学まで自転車で通い始めたばかりの頃だった。

 ユースホステルでは4人が同室だった。朝は30年ぶりの雪らしいね、という上段に寝ていた人の話から始まった。向かいのベッドで寝ていた人の人差し指が異常に曲がっているのを見て、どうしたんですかと聞いてみたら、パチプロでね、ということだった。座り直して「負けた時はこれを質屋に入れて、また稼ぎながら、転々としてるねえ」、と腕から時計を外して見せてくれた。強面ではなく、優しそうな顔の人だった。その上の段に寝ていた人が「僕の家、名古屋でパチンコ屋をしてますよ」、と話に加わって来た。そんな偶然があるもんなんやと感心した。「30年ぶりの雪らしいね」と言った人が「この分だと通行規制が出されるから、阿蘇は自転車を押して行くしかないな」と呟いた。へえー、山て自転車で登れるもんなんや、その時に発想転換をしてもらったおかげで、自転車で山も登るようになった。

2回目に宮崎に来た時は、神戸からフェリーに自転車を積み込み、別府からやまなみハイウェイ、阿蘇、高千穂経由で宮崎に入り、鹿児島から九州の南端佐多岬に行く予定だった。しかし、なぜか高千穂から延岡に下りる旧道でパンクしたとき、もう帰ろ、と思って、日向からフェリーに乗り込んでしまった。したがって、宮崎に来たと言っても、高千穂に寄り、途中でパンクを貼って、日向からフェリーに乗っただけである。

やまなみハイウェイ(→「九州芸術の杜」