つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜3

意識下になかった「遠い」木崎浜に行ったのは、越して来て住み始めた家から真東に行けばどこに行くんだろう、という好奇心からだ。そして、行ってみたら、木崎浜だった。元々名所や人の集まる場所を避ける傾向があるようで「キムタクが来て近くのジョイフルに入ってたらしいよ」と聞いた時点で、木崎浜は意識から除外されていたように思う。しかし、行ってみたら、きれいな砂浜だった。無理が祟って血圧の上が120、下が15という状態で頭の上まで痺れていたときに救ってもらった按摩さんが「焼けた砂浜を歩いて足を海に浸ける、また砂浜を歩いて海に浸ける、ちょっと間やってみなはれ、血が巡りまっせ、下駄履きがよろしいな」と勧めてくれた忠言に素直に従って、砂浜をしばらく歩いた時期がある。34の頃で、高校を辞めて大学の職を探しながら、あちこちで非常勤をやっていた時期である。明石市の中朝霧丘という優雅な地名の家のすぐ南が大倉海岸で、その砂浜を歩いた。

西の方角、明石の街が見える

南向き、対岸は淡路島である

それから木崎浜に行くようになって、たまに砂浜を歩くことがある。下駄ばきで行って、熱い砂浜を歩いて海に足を浸けることもある。按摩で救ってもらって、二年ほどで上が110、下が60の今の血圧に落ち着いた。「すべて血液とリンパの流れでんな、私の場合、ブルドーザーでがーっとと言う感じでっしゃろか」という按摩、とにかく痛かった。「体に異常がある場合」は特に痛かった。「脹脛の後ろはようなってもいつも痛いでんな」と言いながら、お構いなしに太い指を深くまで入れてくれた。一度卒倒したような気がする。しかし、血流が戻ると、半分ほどの白髪頭が黒髪に戻った。この前の研究室の写真(↓)は指を入れてもらい始めてから4~5年後のものである。宮崎に来てからも3ケ月に一度は、揉んでもらうために夜行列車か飛行機で行き来した。毎回2~3時間、痛さとの闘いだったが、そのうち脹脛以外はそう痛く感じなくなっていた。

その按摩さんを薦めてくれたのは、一時同居していた上の弟の奥さんで、看護師をしている時に人から噂を聞いたらしく、兄さんに薦めてみたらと弟に言ってくれたらしい。行ったとき、最初に足の甲を押さえて感触を確かめたあと血圧を測ってくれて「もう2か月ほどで、くも膜下でしたな、危なかったでっせ」と一言。神戸新開地の繁華街で30分程度の短いマッサージ(ショート)で数をこなしていたらしいが、一日にせいぜい6組くらいをじっくりとやりたいと神戸市の西隣の新興住宅に開業したと聞く。いつも予約は固定客で詰まっていた。その人も70にならずに、死んだ。通っていた人の体に指を入れて血やリンパの流れをよくは出来たが、自分の体は揉めなかったということだろう。宮崎で指を入れてくれる人を探してみたが見つからず諦めかけた頃にたまたま入った鍼灸院で、指を入れて揉んでくれませんかと言ったら、指を入れて揉んでくれた。大阪の繁華街でマッサージのショートで数をこなしていた人で、サーフィンをするために移住して来て開業したらしい。その人からいろいろサーフィンの話を教えてもらっている。木崎浜は上級者用、青島は初心者用の波が来るらしい。呑気に砂浜を歩いているときに見かけるサーファーは、上級者の人たちのようである。

2日の木崎浜

初心者向けの青島の砂浜、去年の11月頃?に撮影

次回は歩くコース4木崎浜4である。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜2

浜から北向き、尾鈴山系を背景にシーガイヤが見える

歩くコース4の木崎浜の2回目である。前回「木崎浜1」(12月26日)でも書いたが、医科大学のある清武が中心だったので、木花の旧宮崎大学に非常勤で通っていても、そこから足を延ばして木崎浜に行ったことはない。木崎浜は有名だし、話にも聞いていたが、遠いというイメージがあったように思う。キムタクが来て近くの店に入ったよと聞くジョイフルも、コロナ騒動の前に閉店している。今は大学が統合したので、学生や職員の行き来は頻繁になっているし、車の数も多くなっている。しかし、今でも旧宮崎医科大学の学生は清武に、旧宮崎大学の学生は木花に住むのが普通で、不動産屋もきちんと住み分けているようである。木花の学生で清武に住んでいるのは、3月末か4月初めに追加合格した人たちと看護師の元宿舎の留学生、清武の学生で木花に住んでいるのは学生寮、国際寮の人たちのようだ。これからもそう変わらないだろう。こちらに越して来なかったら、木崎浜に自転車で散歩に出かけることもなかった気がする。

2日にブログ用の写真を撮って来た。年末年始に毎年一度は出かけるので、人出が比較できる。今年も、湘南、横浜、名古屋、岐阜、和泉、大阪など遠くから来た車もあったし、鹿児島、大分、熊本などの九州内の車もあった。後ろのドアを開けてボディスーツを乾かしているワゴン車のプレートを見てないので大雑把だが、おそらく県外からは3~4割くらいか。全体に、コロナ騒動の前ほど人は多くなかった気がする。

今年も湘南ナンバーの車を2台見かけた。近くに有名な湘南海岸があるのに、と気になっていたので声をかけてみたら、コロナで仕事も減って長期休暇が取れたので、元々福岡出身なのでいつか宮崎に越して来たいが、仕事がねえ、ということだった。そこへ相方らしき人がボディスーツで現われた。「海がきれい、暖かい」

2キロほどの浜への入り口は清武川と加江田川の堤防からの二か所しかない。どちらも道幅が狭く、対向車を待つ光景もよく見かける。行くときは清武川の堤防側からである。住んでいる所は高台にあるので、家から高台を降りて県道を左折する。

加江田渓谷、椿山方面からの道を東に進むと、途中右側にお世話になっている亀山クリニックがある。宮崎でコロナの患者第一号を診て、消毒後休診を余儀なくされていた。コロナ患者を診て、風評被害にもあって、大変でした、と人のいい院長が嘆いていたそうで、まさに災難だった。左手には改築されたエーコプがある。サービスコーナーが出来て宅配便を出すのが便利になった。そして空港から青島方面に行く県道の交差点を右折し、バイパス手前で左折してバイパス沿いにしばらく進む。

途中、球場への道と交差するがその交差点をそのままま進んで清武川の堤防まで行く。右に曲がってバイパス下のトンネル(①)を抜け、坂を登る(②)と、堤防から日向灘が一望できる(③)。最初に、坂を登ってわっと日向灘が見えた時は、感動した。すぐ向こうに淡路島が見え、たくさん船が行き交う瀬戸内海に慣れていたせいもあるだろう。突き当りを右に曲がれば、防波堤とコンクリートの道路(④)に沿って木崎浜が続く。(①~④↓)

帰り道にトンネルを通ってそのまま堤防に上り、砂利道の土手を通ることがある。突き当りの県道を右折して橋を渡り、地元の農産物の店で野菜を買うためである。夏場になると、三食たべる生野菜が高騰する。今年は長雨が続いて、レタス、トマト、胡瓜が特に高くなった時期があった。その時も、他より安くて新鮮だった。家でも作ってはいるが、冬野菜のレタスはせいぜい4月の初めまでだし、胡瓜もせいぜい7,8月までである。胡瓜とオクラの二期作を試してみたが、効果は薄かった。

トンネルをくぐってから撮った加江田の山

加江田の山を望む土手の砂利道

増水した清武川の映像ニュースで流れてたよ、と東京にいる誰か(子供だったか、他の人だったか)からメールが来たので、映像の場所を聞いてわざわざ写真を撮りに出かけた。台風の時期ではなかったような気がするが、どうしてそのニュースが流れたのか。実際に行ってみたが、ニュースにするほどやろか、が正直な感想だった。今回同じ場所からと思って撮ってみたが、かなりずれていて、比較にならないようだ。

2日はせっかく出かけたので砂浜に下りて少し歩き、波打ち際で北方向の写真(トップの写真)を撮った。天気予報では晴れになっていたが、昼過ぎまで曇り空(↓)で、砂浜に下りた時は北側は青空で、南の方はまだ曇り空だった。冬は空気が澄んで、かなり向こうの方まで見える。尾鈴山系を背景にシー予約で一杯らしい。妻が乗馬に通っている牧場が出しているウマイル(観光者向けの乗馬)も連日大盛況で、牧場のスタッフも駆り出されているそうである。いつも助っ人を頼まれる人が、まだ怖いから今回は断りましたと、家に寄ってくれたときに言っていた。大半のひとは、コロナもどこ吹く風らしい。

次回は歩くコース4木崎浜3である。

つれづれに

アフリカ史再考④:大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人

アフリカ史再考の4回目で、アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたか、である。

バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人の牧畜生活を取り上げてヨーロッパ人が到来する前に、長い間アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかについて書いていきたい。

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようである。

デヴィッドスンは、コンゴの森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説している。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていたので、固定した社会を持たなかった。

集団で川に橋を架けるピグミー

デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介している。

狩猟の準備をするサン人

その後、村を作り定住生活をするようになるが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要だった。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことである。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行くようになった。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいた。ケニア北部に住むポコト人もその子孫だと思われる。

ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂げる。

狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なもので、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれる。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけである。

デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。

ポコト人を紹介するデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住む。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければならなくなるので、村の人口は次第に減っていくが、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来る。毎年それが繰り返される。

ポコト人の主食はミルクである。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べるが、肉を食べるのは儀礼の時だけに限られる。ミルクと血だけで暮らすためにはたくさんの牛が必要になる。それに干魃などの天災にも備えなければいけないので、牛の他に、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになった。

女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っている。男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけである。

遙か北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われ始めた。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。断熱と防水の効果があるので、牛の糞は壁や屋根に塗りつける。そうして作った小屋は子牛や子山羊を昼間の暑さから守ってくれる。乳離れをさせる時にもその小屋が使われる。

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしている。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働だが、それをこなすのが女性の誇りになっている。

ポコト人女性

厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要である。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫で、カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませる。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニ退治に使う。

こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来ている。食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、そんな基本的な人の営みが営々と続いて来たわけである。

1992年にジンバブエに行った時、家族で住んだ借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなり、インタビューをさせてもらった。

ジンバブエ大学英語科教員のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながらインタビューに応じて、子供時代のことをしゃべってくれた。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれている。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそらしい。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたらしい。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれる。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だったようで、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたと言う。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたそうである。

ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたガリカーイ・モヨさんもインタビューに応じてくれた。

「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」

ガリカーイ・モヨさん(小島けい画)

ジンバブエ大学の学生のアレックス・ムチャデイ・ニョタさんもインビューに応じてくれた。普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、1日じゅう家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったらしい。「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスが言っていた。

3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話が中心、ポコト人と同じというわけにはいかないが、今も田舎では、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らすという牧畜が占める割り合いの多い暮らしをしている人たちが多いようである。ジンバブエの首都ハラレは1200メートルの高原地帯にあり、ケニアの首都ナイロビも標高1600メートルの高地にある。

「ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」(2013年3月)、→「ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」(2012年11月)、→「アレックスの生い立ち」「モンド通信」(2012年6月)

次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」である。

つれづれに

2021年1月Zoomシンポジウム報告書

「アングロ・サクソン侵略の系譜」―系譜の中のHIV感染症とエイズ

2021年11月27日(土)/2021年12月30日作成

目次  はじめに/ 発表/ 参加者の感想/ 資料

目次

 はじめに

シンポジウム「『アングロ・サクソン侵略の系譜』―系譜の中のHIV感染症とエイズ」の報告書(54ページ)である・・・・(続く)→「はじめに」

 発表1 赤木秀男→「HIV/AIDSから社会問題を炙り出す」

発表2 玉田吉行→「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科研費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容は1:「ケニアの歴史」、2:「エイズとアフリカ」、3:「『ナイス・ピープル』と『最後の疫病』」で、その詳細をまとめてゆきたい。

1:「ケニアの歴史」・・・(1)「植民地化以前」→(2)「ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」→(3)「イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代」→(4)「モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」

2:→「アフリカとエイズ」

3:→「『ナイスピープル』と『最後の疫病』」

ナイロビ市街

 参加者の感想

1 赤木秀男(発表):「まず、今回のシンポジウムで報告の機会をいただいたことに感謝いたします。私も昨年までに学んでいた内容を復習しながら、なるべく自分が教わったようにお伝えできればいいなと思いながら準備をしました。当日は様々な学部や国籍のバックグラウンドがある参加者の皆さんから、質問や感想をいただき、いつもとは違った視点に刺激を受けました。玉田先生の報告では、文系の学生時代に戻ったような、知識ではなく自分の頭を使って考えながら議論を拝聴させていただきました。今回、このような機会をいただき、ありがとうございました!」

2 川越慧:「本日はzoomミーティングにご招待いただき誠にありがとうございました。休憩時間の都合で名残惜しい退出となりましたが、大変よい勉強をさせていただきました。私の現在の研究テーマは日本語教育なのですが、アフリカの欧州支配の構造と日本における外国人労働者の搾取には構造的な共通性があるような気がします。今日のお話をきいて、その地域や社会がかかえる構造を外からではなく内側からみつめることが重要なのではないかという示唆を得ました。大学院入試の都合でまだ暫くは忙しい日が続きそうですが、またこのような機会があれば是非参加したいと思います。」

3 キム・ミル:「土曜日はありがとうございました!エイズについてあまりわかっていなかった自分としては、少し難しい面もありましたが、見聞が広がったのでよかったです。シンポジウムの報告を読みながら復習したいので、blogに書けたらぜひ連絡お願いします!!!」

4 黒木真菜:「事前に資料を送っていただけたことは、事前に内容をイメージできて良かったです。また、参加者一人ずつの声が聞けたことも、リラックスした雰囲気で会が進められたと思いました。てっきり医療関係の方が多いのかと思っていましたが、逆に様々な専門分野の学生がいたことは、質問の幅も広く、刺激を受けました。今回くらいの少人数であれば、最初に、今回のシンポジウムで期待していることなどもシェアしていると、発表者がそれを意識して説明してくださったり、後半の質疑応答もさらに濃くなってくるのかな、とも思いました。色々まとまりがなく申し訳ありませんが、以上のようなことを思いました。」

5 杉井秀彰:「医学的な視点からHIVのことが知れたのがよかったです。加えて、アフリカで活動するNGOやODAに潜む欧州などの先進各国とアフリカ諸国政府の結びつきによって起こる問題について触れることが出来、新鮮な議論ができたと感じます。」

6 玉田吉行(発表):「科研費の報告書が要るからとは言え、つき合ってもらえて感謝しています。去年は急遽オンラインの必要性に迫られ、初めてZoomを使いました。いい面も悪い面も含めて、遠隔授業をするしかなかったとは思いますが、副産物でシンポジウムにも利用させてもらいました。最初は地域資源創成学部の英語の時間内に、試験前にやったトーイックの問題が終わらなかったので、土曜日に時間外でやろか、一度画面を消すから希望者はもう一回入って来てや、がきっかけでした。たぶん、オンラインは誰もが初めてで、一年生だったこともあったと思いますが、7割ほどの希望者がありました。実際にやってみて、シンポジウムの場合はよかったと思います。色んな場所にいても参加できるからです。キムくんは韓国から、他の人も色んなところから参加してくれました。前回発表してくれた寺尾さんと杉村さんには今回参加が叶いませんでしたが、また機会があればと思っています。このシンポジウム、将来研究者を考えている人のために、このまま続けられたらと、今は考えていますが、どうなりますか。改めて、ありがとうございました。」

7 得能万里奈:「先日のアフリカに関する講義に誘ってくださり、本当にありがとうございます。様々な学部の方と、アフリカに関する知識や疑問を深めることができて、とても充実した時間を過ごすことができました。加えて、小説などの文学という視点からアフリカのことを知りたいという気持ちが強くなりました。今後もアフリカのことに関する興味関心のアンテナを立てていたいと感じました。貴重な機会を本当にありがとうございました。」

8 中原愛(司会):「最初に赤木さんが素人でもわかりやすい病気自体の説明をしてくださりHIV、エイズについてスムーズに理解が深まった事、その後のたまさんの説明で歴史や社会情勢を通して病気と差別的な社会構想の形成などより多角的に理解することができました。また、多種多様な参加者の質問で、新たな観点に気づきより充実した時間になっていたと感じました。」

9 ルトフィア・ファジリン:「AIDSについて、理系ではない私でも分かりやすく理解できましたが知らない漢字がたくさんありました。中学校と高校の時警察庁からセミナー?公聴会?みたいことがあって、やはりドラックとの関係が強かったから、マフィアが未成年を狙うことが多いらしい。その時に一緒に教えてくれたのは、AIDSにかかった人を差別・隔離?しないようにと言われた。多分かかった人は悪い印象を持っているでしょうね。いくつかの小説とストーリーライフでもAIDSにかかった人の話を読んだことがあったりして、一時期インドネシアで社会問題になったと思う。ただ、差別されていることがよくないことがわかったから色々な報道で彼らの目線でAIDSについて語られたりされたけど、まだ少ない。たまさんの話では、やはりアメリカのconspiration theoryとかアフリカの様々な問題につながられるんだなって感じました。一時期conspiration theoryについてハマったことがあったけど、自分が「本当かな?」って思ってて、でも知識として入れても良かったので間に受けるじゃなくて読書の楽しみにしてた。後、話を聞いている間にインドネシア陸軍は結構アフリカに送られたことがあって、たまにSNSでその様子を投稿する人もいて、メディアに見せないことを案外その投稿で気づくことあるんだな。」

 (事前に送付した)資料

1 →「ポジウム案内」

2 →「シンポジウム概要」