つれづれに

つれづれに:大学1 :無意識の「常識」1

来てくれる小鳥の数が増えて来た。猫のぴのこを抱いて庭を見ていた妻が「ひよやね。あれはめじろかな。別の種類の鳥も来てるけど、名前がわからんからしじゅうがらにしとこ」と言っている。めじろとひよ以外に、別の種類の鳥が来ているようである。ぴのこは元々食が細く、消化器の一部が細くなっているそうなので、ある程度以上食べると必ず戻す。たくさん水を飲んだ場合も同様である。それで食べたあと5分程抱いてやると、戻さなくなった。前屈みの姿勢で消化管を圧迫しなくて済むからだろう。(→「梅とぴのこ」(「私の絵画館」2010年2月21日)↓

前々回は「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書き、前回は「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いた。そして「しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。」とも書いた。今回は雁字搦めになっていた枷と無意識のうちに働いていた抑制因子について書こうと思う。

雁字搦めになっていた枷に気づき始めたのが大学に入ってからだから、入学した頃の大学について少し書いておく必要がありそうである。一年間浪人をしても受験勉強が出来ず、また英数国もしないまま国公立大を受けた。ただ、2年目は二期校を神戸市外国語大学Ⅱ部にして、願書を出した。夜間課程だが、英米学科でも文学は出来るわけだし、時間もあるし、と気持ちに区切りをつけ(自分を正当化し?!)、最後の砦のつもりだったかも知れない。

神戸市外国語大学は今は西区の学園都市に移転しているが、通ったキャンパスは神戸市の東端の東灘区にあった。標高931メートルの六甲山の山裾にあって、坂道も多かった。坂の上のキャンパスからは神戸の街の夜景が見えた。山頂からの百万ドルの夜景は有名だが、帰りの坂道で見た夜景もなかなかだった。昼間課程には英米学科、中国学科、ロシア学科、スペイン学科があり、夜間課程にはⅡ部英米学科があった。国公立大学の外国語学部は他に東京外国語大学と大阪外国語大学しかなく、英米学科の偏差値はそれなりに高かったようである。(外国語学部も昼間課程も考えたことがなかったので、当時の偏差値は全く知らない)入学したのはⅡ部英米学科語学文学コースだった。(他に法経商コースがあった)たぶん、偏差値を見て、行けるかもしれないと思ったのかも知れない。

授業料は年間12000円(昼間課程は18000円)で、月額1000円、入学金は28000円だった(ような気がする、40000円だったかも知れない)。事務局で支払う時に半期3000円の領収書を受け取っている学生を見た気がするので、値上げをしてその金額だったようである。毎朝一時間ほどやっていた牛乳配達が5000円、何年か後に頼まれた家庭教師が3000円だった。通学時間が1時間半余りの自宅からは国鉄と阪急を利用したが、国鉄の定期が月額にして980円、阪急が1580円(だったように思う、「3駅の距離やのに、国鉄に比べて阪急はえらい高いやん、私鉄やからやろな」と思った記憶がある)、合わせても2500円程度だったので、学費と交通費は牛乳配達の5000円でまかなえていたということになる。三宮まで1時間程度の距離で定期代の月額が1000円足らずだから、今から考えると、国鉄(JRの前身)の学割も国公立大学の授業料も別世界の話である。1年浪人、2年留年をして最終学年の4年生になったとき、「30くらいで死ぬとして、あと一つ大学に行って終わりやな。大学院やったら学生のままやから、大学院を受けてみる手もあったんや」と考えたのも、その学割の影響が強かった気がする。

入学式は「常識」の範囲では計り切れない突然の出来事だった。→「授業も一巡、本格的に。」(「つれづれに」、2019/4/15)

火炎瓶を脇に置き、ゲバ棒を持ちヘルメットを被った全共闘の学生たちの一人がマイクを片手に喚き散らす拡声器からの声、入学後すぐに始まり機動隊導入前まで毎晩続いた授業代わりのクラス討議、ある日出来ていた机と椅子の学舎バリケード封鎖、機動隊導入によるバリケード強制撤去と学生排除など、中央で国家権力にぺしゃんこに潰されていた学生運動の余波とは言え、あの年でないと経験出来なかったわけだから、ひょっとしたら歴史的出来事の生き証人の一人だったかも知れない、という気もする。個人的には、極めて新鮮で、「思わず遭遇した」貴重な体験だった

バリケード封鎖された木造2階建て校舎(大学のホームページから)

雁字搦めになっていた枷を意識し始めたのは、大学前の坂道を登る時だった。夜間の学生が坂道を登るときと、授業を終えた昼間の学生が坂道を降りて来る時間帯が重なるのだが、坂道を登っているときに、坂道の上からなんだか見下されているような気がしたのである。位置関係からすれば昼間の学生が夜間の学生を実際に下に見ていたのだから、当然と言えば当然なのだが、どうもそれが偏差値と少し重なっていたような気がするのである。入学後バスケットボール部に入って昼間の学生といっしょに練習を始めたので、その意識は薄れていったようにも思うが、「なんだか見下されているような気がした」のは確かである。

次回は大学2:無意識の「常識」1(続き)で、「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」の深層、か。

大学の全景(大学のホームページから)

つれづれに

つれづれに: 高等学校3

一週間ほど前からまた小鳥が来るようになった。生き物が来てくれるのは嬉しい。そろそろ山に食べるものが少なくなったということだろう。金木犀の枝に刺す二つ切りの柑橘類がお目当てである。幸い近くには柑橘類の樹が多く、大体は落ちた実を拾えば賄える。足りない場合は、お爺さんが育てている少し離れた所にある蜜柑農園の百円コーナーへ行けば調達出来る。三月の終わり頃に鳥が来なくなるまで柑橘類集めが続きそうである。最初は警戒して写真を撮るのが難しいので、二年前の写真である。→「つれづれに ひよとめじろが来ています」(2020年2月11日)

今回は高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」である。

前回「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書いたが、今回も同じである。丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。

まるで子供扱いや。自然に生えてくるのになんで無理やり刈らせるねん、なんで全員丸刈りやねん。安上がり?、衛生的?切っても切らんでもそんなん人の勝手やろ。構わんといてくれ。制服やってそやで。何着てもそんなん人の自由やろ。詰襟なんか首に食い込むし、気ぃ悪いわ。通学路?安全?どこ通ろうと人の勝手や。毎週朝礼でなんでまっすぐ並ばなあかんねん、体育教師が偉そうに、お前らなってない?何ごちゃごちゃ説教たれてんねん。頭が筋肉のあんたには言われとうないわ。そもそも周りを見てみぃ。生徒指導を受けなあかん奴なんかいるか?そら僕みたいに親の当たりの悪いのもいるやろけど、人に迷惑をかけるほどおかしいのはおらへんで。そんな生徒、入って来てへんやろ。入られへんで。大概は親に大事にされたええ子ちゃんやし、毎日黙ってしょーもない授業文句も言わんと受けてるやろ。生徒指導?誰を何処に導いて、指導するっちゅうねん。大体お前らが、人に説教?指導?何考えてんねん。教師?偏差値の高い人は殆んどならんそうやん、せんせせんせ言われて勘違いしてるんちゃうか。誰が誰に何を教えんねん?毎回毎回頭のなかはそんな罵詈雑言が渦巻いていたように思う。本当に「よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」

しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。教師が生徒に教えるもの、大人は子供を守るもの、学校では勉強が一番大事、成績がよければいい生徒、周りも自分自身も想像以上にそんな「常識」に縛られていた、と思う。

次回は、意識下の「常識」1、か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに: 高等学校2

種からのリーフレタスの植え替えが何とか終わり、ブロッコリーと葱の植え替えをしている最中である。去年レタスとブロッコリーの種は採れたが、葱は採り損なってしまった。葱坊主にはなったが、長雨が続いて腐り、崩れてしまったからである。去年の長雨は、予想以上に長く、執拗だった。低い地区には絶えず大雨警報が出ていた。南瓜の成長が止まり、実がすべて子ぶりのままだったほどである。

土を運んで一番陽当たりのいい場所に新たに拵えた畝に植え替えたサニーレタス

「諦観」の意識下の深層を探るために高等学校について書いているが、今回は高校そのものについてである。嫌だった理由の一つが「高校そのものに関心がなかった」ことだと書いたが、中学の半ばから始めた社会活動が生活の中心になっていたからである。一年生から二年の夏休みまでは一つ上のまとめ役の先輩といっしょに、それ以降は私自身がまとめ役として活動に夢中だった。何人かの同学年と一つ年下の人たち何人かとはよく集まったし、少しは社会に関われている気がして毎日が充実していた。それで高校に関心が向かなかったのだが、高校生活自体がおもしろくなかった面も大きい。国語や社会などはもともと嫌いではないが、授業はつまらなかった。理科系の科目は性に合わなかったし、世界史や日本史はほぼ教科書をなぞるだけだった。古典と英語の人は受験一辺倒で、「はい、これ重要単語」という古典の人の鼻に抜ける甲高い声と、「リスポンポンシビリテイのビのところにアクセント」と言いながら黒板を叩くコンコンコンという音の感覚が今も耳に残っている。3年次の現代文の人は受験用の参考書を毎回そのまま読むだけだった。文章の末尾の「。(まる)」まで読んでいた。あまりに退屈なので、生徒の一人が質問をして怒らせたら「お前は俺よりえらいと思っているのか!」と大声を上げていた。「せんせよりえらくないと思ってるんですか?」と言い返されて、しばらく黙りこくっていた。言い返した生徒は京大に行ったと聞くが、普段から偉そうにして鼻持ちならなかったので周りは冷ややかで、ほぼ無反応だった。私の場合は、どっちもどっちやな、勝手にやりやと思うくらいだった。

小中でも同じだったが、高校でもひたすら教師の言っているのを聞くだけだった。自分から進んで何かをするとか、グループで討論するとか、誰かが来て違う角度から話をしてくれるとかもなかったし、映像を見ることも一切なかった。時代的なこともあるし、大学でも基本的にはそう変わらなかったが、大学の場合、内容が濃い科目の場合はおもしろかったし、高学年になると少人数のゼミもあって、自分でテーマを決めて発表する機会もあった。その点、高校の内容は、教科書を読めばわかる程度のものが多く、とにかく退屈極まりなかった。一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。

もちろん、東大に行くとか京大に行くとかの身近な目標が持てるか、成績がよくて優越感を味わえたとかがあれば、授業も楽しくなっていたかも知れない。しかし、答えの分かった決められた内容をやらされるのは、苦痛だった。まずする気が起きなかった。一年生のほぼ同じ時期に二つの模擬試験を受けさせられて、一つは百番くらい、もう一方は四百番くらいだった。片方の国語が72で、もう一方が50くらいだったと思う。上位の百人ほどは実力がある程度あったのかも知れないが、それ以降は似たりよったりだったということだろう。入試用に本腰を入れる人が増える3年になれば、そういったこともなかったのかも知れないが。今でも覚えているのが3年の時の519という数字、高校の成績の最高記録である。

私学を受けるわけにもいかないし、そんな状態で国立大を受験したのだから、後から思えば、結果は見えている。それでも直前模試の数値50%を見ながらの担任との面接では、地方の国立大の合格率は「半々やな」と言われた。担任が東京教育大で、地方の国立大を受ける生徒もあまりいなかったこともあるが、無責任なものである。英語も数学も、他の教科もほぼ何もしないで国立大に行こうとする方が、元々無理な話なのだから。一番偏差値の低そうな、人の行きたがらない山陰の2期校の教育学部の小学校教員養成課程も、落ちた。

高校ホームページから

よくも卒業したものだが、3年の時は何やかや理由をつけて3分の1くらい学校を休んだ。規定を満たせば文句を言われる筋合いもないので、休むのに弁解がましい言い訳を考える必要もなかったと思うが、学校を休む=よくない、という意識が働いていたんだと思う。学校に行くか行かないかは本人の意思次第だし、嫌ならやめればよかったんだが、無意識の「常識」に縛られて、雁字搦めだったように思う。評定値は3.3、一番低かったのではないか。

高校の近くに寺があって、ときたま帰りにその寺に立ち寄った。当時は宝物殿とかに収容されていなかった観音像を見るためである。しばらく格子戸越しにぼんやりと観音像を眺めてから、家に帰った。その頃は、将来高校の教員になって、その寺の住職が同僚になるとは夢にも思わなかったが。その人も旧制中学を出たそうである。後輩とは言われず、わりとかわいがってもらった。生徒指導を担当して生徒に厳しかったが、指導を受けたことはない。

観音像があったと思われるお堂

次回は、高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」、か。

つれづれに

つれづれに: 高等学校1

辛うじて生き残った苗からのリーフレタスのほか、種からの冬野菜も順調に大きくなっている。作業の出来る時間が限られているので、植え替えが間に合わずに春になってしまうかも知れない。寒い中で体を冷やすと致命傷になり兼ねないし、回復力も年々しっかりと衰えているからである。

「諦観」の意識下の深層を探るために、嫌々通った高等学校について書いている。嫌だった理由は二つある。どうも、高校そのものに関心がなかった、大人が生徒を子供扱いした、辺りのようである。

進学したのは、旧制高校から終戦後に今の高校になった進学校である。当時は元旧制女学校の普通科の県立高校がもう一つあった。高校のホームページによれば、昭和23年4月に新制高校として開校した三か月後に、その高校と「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうである。今まで知らなかった。

しかし、入学した年の男女比は7対3、もう一つの高校は反対に3対7だったように思う。もう一つの高校に中学から美人タイプの女子生徒が多く行ったような気がしていたから男女比が記憶に残っているのだが、今から思えば、母数が二倍以上なのだから、美人タイプの数が多くても不思議はないわけである。話したこともないが、飛び切りの美人がその高校に行っていたせいかもしれない。私が生まれた頃に「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうだが、校内では「男女共学」ではなかった。男子クラス、女子クラスに分けられていて、3年間男ばかりだった。話したことはないが、一年生で同じクラスの二人が東大に行ったらしいから、進学校だったようだが、女子の一つは就職クラス、つまり三分の一は就職、男子も少なからず就職組がいたようである。

戦後の復興で国力がつき始めた1964年に東京オリンピックがあって、その頃から高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り始めたから、進学校でも就職組が存在していたということだろう。オリンピックの年が中学2年生で、オリンピックの混雑を避けるために変則的にと言われて、2年次に修学旅行で東京に連れて行かれた。1クラスが55人で10クラス、1学年550人の大規模校だった。団塊の世代を収容するための措置だったのだろう。中学校も同じように大規模校で、1クラスが55人、10クラス、1学年550人だったように思う。高校の近くにもう一つの大規模校があって、大規模校からは60~80人程度が進学していたようで、進学者が数人程度の中学校もあった。

中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学したように思う。毎朝家に寄ってくれていっしょに登校していた同級生が落ちて私学に行ったが、同じように落ちていたら方向も変わっていたかも知れない。母子家庭でおとなしい性格のいい人だったが、高校に行くようになってからは会っていない。小学3年生の時に出稼ぎから一時的に戻っていた祖父が急死して、元市営住宅の祖父の家に引っ越していた。生まれてから住んでいたスラムのような密集地帯からは抜け出していたが、同じく4畳半と6畳の2間の家は、5人家族には相変わらず狭かった。中学の頃には下の弟と妹が増えていたので、更に窮屈になっていた。結婚の日に初めて父親と顔を合わせた母親は、それまで継母に虐められていたこともあって結婚でしばらくは解放された気になっていたようだが、引っ越した時には、父親その人と、いびられ続けた「兄嫁」たちを心底毛嫌いするようになっていた。高校に入学した頃には、離婚を言い出した母親と全く自覚のない父親が家にいることはめったになく、親がいなくても子は育つ、そんな状態だった。高校2年の時に二人を呼びつけて、そんなに嫌やったら別れたらええやろ、弟や妹の面倒は僕が見るから、と言ったが、その時は離婚しなかった。言った手前、一時期家族の分の食事も作っていたので、今も料理自体が少し億劫である。しかし、その頃は自分のことだけで精一杯だったというのが本音で、弟や妹のことまで充分に気を遣えなかった気がして、少し悔いが残る。従って、親から勉強するように言われたことはない。塾や家庭教師とも縁がなかったし、参考書なども買わなかったように思う。元々理解力や記憶力が特別よかったわけでもなかったが、教科自体にそう抵抗はなかった。周りに大学に行った人もなく、家には本もなかったが、大学には行くものと自然に考えていたように思う。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

戦争から引き揚げて来て時間が経っていなかったせいか、父親は聞くに堪えない播州弁で騒いで遊ぶ子供相手によく喚き散らしていた。そのせいか怖い思いが先に立って、進学のことも含めて、父親とはほとんど会話をした記憶がない。直接聞いたわけではないが、旧制中学を出たらしい。155センチくらいしかなかったが、運動は万能で記憶力もよかったと聞く。父親と高校を結びつけて考えたことはないが、高校の教師をしたときに、同じ旧制高校出身の年配の英語教師から、後輩のくせに生意気なと怒鳴られたことがあった。その時に旧制中学の人は今の高校の人を後輩と思うんやと思ったが、一方的に後輩やと言われても、という気持ちの方が強く、先輩やいうんやったら手ぇ抜かんとちゃんとせんかぃ、と人からは聞きたくない播州弁で言い返したように思う。

結果的に、父親の通った旧制中学と同じ場所にある高校に「中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学した」ということのようである。

次回は高等学校2で、関心が持てなかった高校そのもの、あたりか。

高校のホームページから